パンチの独り言

(2006年2月27日〜3月5日)
(専守、説破、利器、上目、変革、本分、夢)



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3月5日(日)−夢

 若い世代が夢を持たないことを憂えている人々がいる。調査をすると、必ずと言っていいほど、意欲の感じられない結果が出るからだ。何かしたいことがあるか、どんな地位に上り詰めたいか、社会の役に立ちたいか、等々、それぞれに目的やら結果やらが微妙に違っているようだが、多くの答えはどんな理由があるにせよ、消極的なものになるらしい。
 大人たちはそんな若者の姿に驚き、将来を悲観するようだが、これが何度も繰り返されてきたのに気づく人はどれくらいいるだろう。自分たちが若い世代の時に、頑張るぞとか、絶対のし上がってやると主張する人がどれくらいいたというのだろうか。時間の経過とともに、そういった人間が目立つようになり、それがいつの間にか定着すると、同じ世代の人々が彼らと同じような積極性を以前から持っていたように思い込む。実際にはほんの一握りの人がそんな考え方を持っていたわけで、その中のまたほんの一部が成功を手に入れたわけだ。しかし、心理的には印象が強いものほど大きな影響を及ぼすわけだから、そんな様子を見ているうちに自分の世代はそういう大志を抱いてきた、と思えるようになるのではないだろうか。よく思い出してみれば、今の世代と同じように、大した気持ちもなく、進学し、就職して、今の生活を手に入れただけなのに、まるで違った考えを持っていたと勘違いをする。ただ、心の奥底で、頑張ってみようとか、上を目指そうとか、社会の役に立てるようにとか、そんな思いがあったのは間違いなく、それを表に出すことを躊躇っただけなのだろう。それは今も同じことで、多くの若者が同じように躊躇し、戸惑っているわけだ。それが表に現れず、出てきた結果から将来を悲観するのは、いかにも考えが浅すぎはしないか。そんなことを書くと、何処かからそれこそそんな楽観論の方が甘いという声が上がりそうだ。今の人々は、自分たちの時代に比べたら、全くいい加減な気持ちで過ごしているわけだし、将来に対する展望の必要性も意識していないのだから、という意見が絶対に間違っているというわけでもないが、しかし、本当にそこまで人間の考えが低いものに成り下がったのかとは思いたくはない。期待されるべき人々が目の前に現れてこないというのであれば、もうどうにもならないことなのだが、さすがにそこまで酷いことにはなっていないだろう。また、そうだと信じたい気持ちがある。そんなこんなで、さて、もう一度はじめの問いに戻ったとき、果たして本当のところはどうだろう。夢なんか持たなくてもいい時代なんだから、それでいいという答えが返ってくるのだろうか、それとも、将来は悲惨な方向に向かっていくことが明らかなのだから、こんな答えが返ってくるのは当たり前、ということなのだろうか。

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3月4日(土)−本分

 毎日、毎日、仕事をしていると、はて何のためにそんなことをしているのかと考える事があるのではないか。大層なことを言わずに、ちょっとした思いつき程度で済ませることがある一方、悩みが少し増えてくると、色々と理屈をこねたくなることがある。どちらにしても、そんなに大きな変化は起きないから、どうでもいいことなのかもしれないが。
 最近、仕事の目的はと問われたときに、金のためと答える人が増えていると言う。昔からそんな人はいたが、その数が目立つようになったらしい。そんな考えでやり続けられるなんて、凄いと思うのは何処かずれているためか、首を傾げることが多いのだが、本人達は大真面目に収入のことを説く。確かに、金が無けりゃあ生活は成り立たないのだろうが、だからといってその為だけにやることなのか、不思議な感覚なのだ。では何のためかと逆に問われることになりそうだが、何かの役に立ちたいと思うからという答えは期待外れかもしれない。しかし、そんな思いを抱きながら働く人はいるはずで、金絡みのこととどちらが大きいかという違いなのではないかと思う。ただ、役に立つというのも無理難題のようで、全てがそう繋がらず苦しむ人も多い。そうなると無理矢理連結させたものを引っ張り出して説明することになり、何とも変梃な話になる。社会にどう役立っているか、何を作り出しているか、何でもいいのだが、そう簡単に思いつかないことも多いし、一方で当たり前すぎて、いざ考えるとなると苦しくなるものも多い。中にはそんな無理矢理の方が当たり前となり、何とも変な論理が通用しているように見えるものもある。たとえば、人にものを教える職業の人々にとって、何を教えるかが役に立つかどうかの指標となるらしい。誰でもそれぞれに合った形で教われば、同程度の到達点に行き着けるという話もその一つだし、教える項目が徐々に増えてきているのもその一つだろう。教科書にあることだけを教えておけばそれで役目が果たせた時代は遠い昔になってしまったようで、混迷する時代を生き残るための術を教えなければならないなどと言われたり、社会生活を送るために必要な事柄を教えるべきと言われたり、教科書という形には纏まりそうにもないことを要求されているようだ。ところが、社会からそういう押し付けがあったというより、現場での危機感からそんな方向へ向かわざるを得なかったという事情があるようで、ある種自業自得のようにも見える。ただ、こういう要請に応えようとした結果が、実は全く別の方に悪影響を及ぼしていることに気づく人はどれくらいいるだろう。学校教育に対する要望で増えたものの一部は明らかに家庭で教わるべきものであり、その役目を学校に移した気になった人々が家で肝心なことを教えないという事態が起きているように見える。こんな流れが今現在も進んでいるように見え、責任の擦り合いが横行し、結果として次の世代が破壊されてしまうとしたら、大きな間違いとしか言い様がない。ほんの一部にしか起きていないことなのだろうが、それにしても増えて続けることは確実で、そろそろそれぞれの役割を考えるべき時期に来ているのではないか。何事も受け身でしか動けない人々にとって、外からの力が一番大きな影響を及ぼすのだから。

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3月3日(金)−変革

 この国の場合、ほとんどのことが年度という制度で動いており、それもまた、4月から3月までという形をとっている。世界に目を向けてみると、そういう区切りで動いているところは少なく、どちらかといえば、夏休みを挟む形で動かしているところが多いようだ。この食い違いをどうにかしようという働きかけも一時話題になったが、何処かへ消えてしまった。
 嫌いな言葉の一つなのだが、グローバル化という観点からすると、こういう食い違いは様々な弊害を産むものらしい。確かに、海外に職を求める人々がいたとしても、これらのずれが壁として立ちはだかると考えてしまうかもしれない。また、留学制度を利用しようとしても、やはり数ヶ月のずれは無駄としか映らないだろう。だから、皆に合わせるようにという動きが一時期急になっていたようなのだが、いつの間にか下火になってしまった。どんな理由が挙げられるのかわからないが、単純に面倒になってしまったのかもしれず、いずれにしても導入が見送られたということなのだろう。国全体でこんなことをしようとすれば、かなりの力技となり、法律を変えればいいのだと気軽に言ったとしても、おそらく無知と思われるだけである。グローバル化という言葉に躍らされている自分に気づかず、とにかく他人に合わせることばかりに注力する人々には、自分たちの文化を守り続けようとする気持ちはないのだろうし、何が自分を作っているのかということに気づく心も持ちあわせていないだろう。こんな中で、グローバルという言葉を乱用する人々の見識の無さだけが目立っていたのだが、ついにどうにもならないと納得したのだろう。次の機会があるかどうかは知らないが、たとえば夏時間の導入一つとってみても、強制的な手法でないかぎり見向きもされないし、実際に試すことさえなかった。そんな話が昔あったようだが、と言いながら、また省エネの観点からと言いつつ、導入の機会をうかがっている人々がいるという。実際に経験したことがあるのならまだしも、そんなことは全く無いうえに、現実にどんな利点と欠点があるのかを知らずにこういう話をする人がいること自体、何処かに矛盾を感じる。何でもかんでも、隣の芝生といった調子で、輸入品を珍重する人々は以前に比べたら減ってきたとはいえ、社会全体としてはまだまだそんな気持ちが何処かにあるのかもしれない。自分たちの仕組みを大切にするためにはそれ自体の良さと悪さを知らねばならないのだが、それをすることなく、他の仕組みの導入に全力を尽くすなどというやり方が、上の方で行われているわけだから、社会全体としてもそう簡単にこの病から回復することも難しいのだろう。個人ベースでいえば、結局のところ、他人がどう振り回されようが、自分は自分の道を進むと思っていればいいわけなのだが、たったそれだけのことができない人の数の多さを見ると、やはり無理なんだろうなという諦めだけが残る。

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3月2日(木)−上目

 上目線、初めて見たときは何かの間違いかと思った。そんなことを思うこと自体、今更言うのも何だが、若くない証拠らしい。いつものことながら、若い人々の編み出す言葉には意味不明のものが多い。これもその一つで、説明を読むまで何のことだかわからず、読んでも首を傾げるばかりとなる。誰が中心に据えられているかを考えれば納得できるが。
 上目遣いという言葉は若い世代を除けば誰でも知っていると思う。ただ、辞書によれば、上目使いとあるだけでなく、顔は動かさないで、目だけを上に向けて相手を見ることとある。おやと思う人がいるのではないだろうか。そこに何らかの意味が込められているはずなのに、様子を示しているだけなのは何故だろうかと。検索にかけても同じような記述が多いが、相手の様子を窺うときの様子といった表現もあり、少し雰囲気が感じられてホッとする。それとは別に異性からそんなことをされたときの心境を表す話も出てきて、ちょっと面白いと思うのだが、そんなことばかりしているわけにもいかない。話を元に戻して、上目線とは何のことか。記事によれば、目上の人に向けられる冷たい視線の一つのようだ。仕事の帰りに部下を飲みに行かないかと誘ったときに、断りの返事とともに向ける視線がそれとのことで、そっけない返事の仕方とともに嫌な印象を与えられるのだそうだ。本人たちにはそれなりの考えがあるのだろうが、社会という共同体で生きている以上、最低限の礼儀というものがあるのではないかというのが記事の筋のようだったが、人それぞれに受け取り方が違うかもしれない。何しろ、返事をはっきりするのが最良と言われて育った人々にとっては、わざわざ前置きをして断らねばならないなどという話は奇異に映るだけだろう。しかし、それが当たり前のことだとしたらどうだろう。そこでの議論も、非常識な若者はいつの時代にもある程度存在していたが、彼らに起こる変化が全く違うことに及んでいた。昔教わったことを後生大事に繰り返し、新たに教えてもらわないかぎり、何の変化も起こせない人々には、察するという感覚は皆無だろうし、学び取るという言葉も意味不明だろう。教わることが全てとなり、重要なことは全て教えられるはずだと思い込むことで、日々の生活はぐっと気楽になり、抑圧から解放される。はてさて、どんな抑圧が存在するのかと思うのは、明らかに世代の違う人間だけであり、それが当たり前である世代の中でそんな考えを持つ人間は、異端児として扱われるだけなのだろう。彼らの責任は大きいと思うが、一方で、そんな彼らを見ながら、だから学校で生き延び方を教えねばならないのだと説く評論家の非常識さ加減の方が重症だと思える。彼らの思惑は、不安を増長させることで自らの存在を主張するだけなのだが、それを表に出してやる人々の無深慮にも呆れてしまうのだ。どうも、色々な星からやって来た人々が暮らしている社会が形成されつつあるようで、互いの共通理解を必要としない時代がやって来るのかもしれない。そんなのは御免だと思うのは、既に滅びかけている星からやって来た宇宙人だけなのだろうか。

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3月1日(水)−利器

 誰だって、自分の話を聞いて欲しいと思うのではないだろうか。それとも、あまりにも下らなすぎて、その価値さえないと信じている人がいるのだろうか。後者のような話をする人でさえ、いざ何かしらの機会が与えられたら、態度を一変させそうな気がする。とにかく、伝達する道具を持ち合わせているかぎり、どうにかして意志疎通を図ろうとするだろう。
 多くの場合、そういう機会に恵まれないわけで、結局身近な人に話すのが精々となる。酷い場合には、家族にも見放されて、一人心の中で、となってしまうこともあるが、そこまで極端になるのはよほどの事情が無いかぎり、無いのではないだろうか。ただ、子供の頃に、母親にそんな仕打ちを受けたという人がいるらしく、不幸な時代を過ごしたと訴えている。親にしてみれば、下らない話は聞く価値もないというのだろうが、それにしてもどんな価値判断が必要だというのだろう。そんな事情があろうが無かろうが、やはり何処かで何かを伝えたいという思いを持つ人は多いようで、インターネットの普及がまさかそういう人々に機会を与えることになると予想した人はあまりいなかったのではないだろうか。そういう社会でも、はじめのうちは受け手という存在でしかいられなかったが、掲示板が登場し、チャットが登場し、と時代が進むうちに、どんなに拙い考えでも、どんなに身勝手な考えでも、他人に向けて発信することができるという利点に注目する人が増えてきた。そこに登場したのが、ブログと呼ばれる日記風の仕掛けだ。以前に一度だけ紹介したことがあると思うが、今書いているこのような独り言と比べると、遥かに簡単な手続きで遥かに便利な機能を手に入れることができ、さらには他人からの反応も期待できる。人に意見を聞いて欲しいと思う人々にとっては、まるで公共の電波に自分の考えを乗せて、それに対する反響を受け取ることができるような仕組みは、かなり魅力的なものに映ったに違いない。発案者の意図がどの程度のものだったのかは知らないが、とにかくあっという間にネット社会に普及することになり、個人の意見が驚くほどの数、飛び交うことになった。こうなってくると別の使い方を模索する人も登場するわけで、最近は企業が顧客の意見を吸い上げるのに使ったり、独自企画を広告料の支払いなしに進める利点を活かすところもある。しかし、便利な道具は利点のみを産みだすわけではなく、反対の効果も及ぼすから、そろそろ難点に注目するところも出てきたようだ。ホームページの掲示板では変な投稿に目を光らせて、削除する必要があり、未熟な社会では大切な管理の一つとなる場合がある。しかし、ブログは本来そういう手間を省くことによって、誰でも簡単に扱えるようにしたわけだから、異常な投稿者がいた場合、様々な問題が生じる危険性がある。企業にとっても、顧客が全て味方であるはずもなく、嘘の情報を書き込んだり、犯罪行為と思えるようなものも出てくる可能性がある。利用者全てがそういうものに対して正しい判断を下せるような成熟社会なら良いのだが、現状は遥に及ばないところにあり、結果として責任は主催者である企業が負わねばならない。便利とは常にそんなものだと思えばいいのかもしれないが、どうもそういう判断さえしなくなった人々にとって、この社会はどんな影響を及ぼすのだろう。

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2月28日(火)−説破

 何か新しいことを始めようとするときに、できうるならば避けたいことがある。消極的な話をする人が参加してくることだ。何事も始めようとするときには、少しくらいの障害は付き物という感覚が必要で、無理矢理は別にして、積極的な取り組みを進めなければならない。そんなときにブレーキを踏み続ける人がいると、何も進まなくなるからだ。
 方針を纏めるときに、違った観点からの意見を出す人の存在は大きい。一人で決めたことでも、話し合いで纏めようとしたときでも、その時の雰囲気に流されることは多く、そんな中で冷静な判断を下してくれる人がいるかいないかは、大きな違いを産むからだ。ただ、大切な存在とはいえ、そちらも度が過ぎるとかえって前に進めなくなる。ブレーキばかり踏んでいる運転と同じで、時には思いきりふかさなきゃいけないことがあるからだ。観点の違いだけでなく、意見の違いというか、反対意見を出してくる人の存在も大きな影響を与える。その場合に、代案を提案する形であれば、解決方法を見つけることも難しくないが、一部の人々は反対のみを主張する。その理由だけは教えてくれるのだが、ではどうすればいいのかが示されなかったとき、次の行動のきっかけは失われてしまうのだ。新しい市場を開拓するときや新たな分野へ進出しようとするとき、それらのことに詳しい人がいてくれると助かることも多いのだが、実際にはその人自身の性格によるところが大きい。つまり、積極的な考え方をする人であれば、どうすれば障害を乗り越えられるのかとか、問題を回避するための手だては何かといった話が提案されるのに対して、何事にも消極的な考え方をする人だと、全てが悲観論となる。やるかやらないかを決めるときには、そんな意見も大切になるのだが、多くの場合、それは既に過去の決断となり、其処から先にどう進めば成功できるかを論じているときに、そんな行動に出られたのではなんともならない。あれも駄目、これも駄目、ばかりでは、手の出しようが無くなってしまうからだ。熟知している人物として登場したからには、他の人々はその人の意見を受け容れるしかない。それを知ってか知らずか、とにかく否定的な意見の連続となった場合、新提案は座礁してしまうわけだ。確かに、その話は始めから無理があったのだとする意見も出るだろうし、その意味ではそこで止めにしておいてよかったという結論も出せるだろう。でも、本当にそれでいいのだろうか。新しいことを始めるためにそれまでに費やした時間は単純に無駄になってしまうわけで、ただ単に中止とするだけで良いとはどうしても思えない。はじめから、ああいう人に来てもらわなければよかった、という声が聞こえてきそうだが、こんな時、まさにそんな展開が起きるのだと思う。

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2月27日(月)−専守

 専守防衛、軍隊を持たない国のやるべきことというより、昔犯した間違いを二度と繰り返さないという思いを表す言葉なのかもしれない。攻めることと守ること、本来は戦いにおいて話題になる事柄のはずだが、実際には日常生活でごく普通にやっていることと変わりがないのではないだろうか。仕事の上でも、話し合いでも、よく起きることのようだ。
 仕事上で、攻撃は最大の防御なり、を地で行くような人を見ていると情けない気持ちになるし、その生産性の無さに呆れてしまう。何しろ他人を攻撃することが自分への火の粉を払うために必要不可欠という思いがあるから、全ての提案に対して反対することになる。結果は明らかであり、よほど強大な権力を持つ人でなければ、多勢に無勢という図式が展開されるだけだ。それでも、日常的にそういう行為を繰り返すことで、自分への攻撃は避けられるわけで、当然のことながら其処から出てくる提案は取るに足らないものばかりとなる。相談事でこういうことが起きているのは何度も経験していたことだが、それとは別のところで気になる動きがあることに気づいた。若い世代に限ったことなのかどうかはわからないが、目立ち始めたのは最近になってからのように思う。巷でも取り上げる人がいるけれども、少しずつ形を変えているので、同じことを主張しているのかどうかははっきりしない。要するに、若者たちが自分たちを変えようとせずに、意地を通しているように映ることなのだが、人それぞれに背景に関する分析は違っているようだ。何かを学ぶことにおいて、失敗は付き物と言われるが、同じような失敗を何度も繰り返す人が増えているように感じられる。当然、何度も同じことを繰り返せば評価が高まるはずもなく、本人も困ることがあるはずなのだが、それを取り込むことができないように見えるのだ。何処かで何かについて間違えたとき、それを厳しく追及され、本人も正しいやり方を身に付けるのだが、よく似たことで同じような間違いを再びしてしまうのが目に付くようになった。まるで、試験問題で答えを間違えたときに、正しい答えを丸覚えするように、その場限りの修正で済ませているようで、根本のところで何故間違ったのか、正しい答えを導き出すために必要な何を自分が持っていないのか、といった考えに至らないようだ。その結果、基本を習得している人間から見れば、何度も同じような間違いを反復することになるのに、本人はそれぞれが全く違った種類の間違いだと思っている。この考え方の違いが何処から来るのか、答えは様々なのかも知れないが、一つ考えられるのは、手持ちの札の間違いを正すことへの恐れにあるのではないかということだ。数少ない札を失うことへの恐怖が、自分をさらに上に引き上げるための作業を拒絶することになり、結果的に何処かへ落ち込んでいくしかなくなる。そんな空気が流れているような気がする。おそらく、目の前の壁を実際以上に高いものと思い込まされ、それを越えるための唯一の方法を伝授されることが繰り返された結果、その場その場の手当てだけが重要となり、根本を考えることが欠落してしまったのだろう。本来ならばそんな風な考えに至らないように脳の構造はできているはずだが、何処かでそれらを打ち破るほどの洗脳術が開発されたのかもしれない。いずれにしても、そんな人間が役に立つはずもなく、何処かへ打ち捨てられるのが関の山だから、そろそろ自分で何とかする気になってくれないと困るのだが。

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