分相応という言葉を何度か使った。自分に相応しいという意味なのだが、どうも被害妄想症の人々には違ったふうに聞こえるらしい。民主主義と絡めて議論する人々にも呆れるが、その場に留まるように強制していると受け取る人には耳を疑う。向上心と分相応が反対の意味と受け取る向きには、一度辞書を開くことを勧める。何故かはその時解るはずだ。
平穏な日々が続き、国が豊かになってくると、そこに住む人々も段々とその気になってくる。自分たちが築いた国なのだから、現在の姿があるのは自分たちのお陰であるというのだ。おや、と思う人もいると思う。現状を築き上げてきたのは、その前に頑張った世代であり、少しは寄与しているとしても、今その繁栄を謳歌しているのは享受している世代に過ぎないのではないだろうか。しかし、そんなことを冷静に考えてみる人々はこんなことを思わないだろう。こんなに豊かなのだから、もっと別のものを手に入れる権利があるはずだと。何かを手に入れるために自分たちで頑張った世代は、そのさらに上を目指そうとすれば、更なる努力が必要なことを認識できる。しかし、他人の力によってその地位まで押し上げられた人々には、その力の大きさを推し量ることはできないから、次なるものも簡単に手に入るはずだと思えるし、さらにはそのために必要なことは権利主張だけと思い込む人もいる。そんな状況が生まれるのが豊かさの証明であると論じる人々もいるが、どうも論理のすり替えに思えてならない。良い製品を生産するためには、ある程度の粗悪品が生まれてしまうことは仕方がない、というのと同じ根っこにあると思えるが、これが大きな間違いであることは、この国の生産管理の現場を知る人だったらすぐにわかるはずだ。機械と生き物は違うという考え方もあるだろうが、もしそうだとしても、いかにも杜撰な論理であることには違いがない。では、今の豊かさに加えて、分不相応に望むものは何か。それには色々とあるだろうが、人それぞれに違い、これと決めつけることはできない。しかし、たとえば、子供を欲しいと思う人々に対する世論はどうだろう。生き物として何らかの問題がある場合に、生殖能力を失うことは時々起こる。この例に当てはまる人が全てそうだと言うつもりはないが、何かの問題を抱えていた場合に、果たしてこういう希望を叶えることが将来にどんな影響を与えるのか、十分に議論されているのだろうか。昔、遺伝的な疾患と思われた病気に罹った人々に不妊手術を施すという飛んでもない話があったそうだが、権利を奪う行為だから問題であると受け取られたとしたら、何処かに誤解があるように思えてしまう。話は全く違うが、不労人口の増加についても、豊かさの証と受け取る向きもあるようで、心配になる。人々の希望を叶えるために、自分自身が努力するのは当たり前であり、そのために他人や家族が一生懸命環境を整えてやるのは何処か話がずれているように思う。これらの話は、全く違った話題に受け取られがちだが、実はよく似た根拠に基づくものなのではないだろうか。欲望は努力を伴わないほど強くなるものなのかもしれない。
春の陽気に誘われて、と始めると良い話のような気がしないだろうか。必ずしもそうなるわけではなく、季節の変わり目に不安定な人が増える話題から始めようと思う。なるべく快適な環境をということで、気温の変化に応じて室温を調節し、湿度も調節、さらには部屋の明るさを、という具合に何が何でも快適にという風潮が目立つようになってきた。
ところが、そんなことをどれだけしてやっても、外に出れば自分の思い通りにはならず、人によったら押し付けと感じるほどの変化が押し寄せてくることになる。生き物は機械のように無理矢理働かせることもできず、変化についていけなくなれば、何かと不具合が出てきてしまう。それが体調に響き、場合によっては精神に変調を来すこともある。冬から春になれば、誰でも喜ぶものと思っているが、実際には激しい変化が押し寄せてくることに対して、恐れおののく人々もいるわけだ。毎年のように春になると体調を崩し、夏が近くなるまで何もできずに過ごす人もいるようで、なんとも効率の悪い話である。こういう季節的な変動も仕事の上では大きな問題だが、一方でいつでもこんな調子という人が増えていることも大問題である。素直に育ってくれればそれで十分という話が巷に流れ始めた頃から、こんな話がよく聞こえてくるようになった。与えられた仕事をその範囲内でしかこなせない、と言われる人々は、昔から沢山いたように思うが、彼らの反応が大きく違ってきているように思える。どちらにしても、指示通りのことしかしてこないわけだから、当然やり残したところに関して指摘を受けることになる。こういう流れは以前からあったようで、そういう過程を通して仕事を覚えさせるという伝統があって、そこで自ら学び取るとか、自ら考えるという習慣が身に付くと思われてきた。それでも、上司の思惑などには思い及ばず、言われたことだけをやり続ける部下がいて、厳しく叱責されることになる。そこでの反応は、まず謝ることから始まり、さらには足らない部分を自分で埋めようとするはずだった。ところが、最近聞こえてくる話はそういう流れになっていない。つまり、足らない部分は指示を出さなかった上司の至らなさによるものであり、部下には何の責任もないという考え方が勢いをつけてきたのだ。下っ端は何もできないのが当たり前であり、それを承知で十分に配慮された指示を出すのが上に立つ者の使命であるというのだろうか。とにかく、返答は決まっていて、言われてませんとか、聞いてませんといったもので、自分が悪いとか足らないとかそんな考えは出て来る気配もない。では、一度指示したら後は大丈夫なのかといえば、そんなことはなく、何度も同じ指示を全体に渡って出し続けなければならないことになり、類推とか推察とかそういう応用問題は出してはいけないものとされる。新入社員がはじめから役に立つことは今も昔もあるはずの無いことなのだが、その後の経過は今と昔で大きく違っている。問題はそれが目立つようになってから二十年近く経過して、そういう人々が上に立っているかもしれない世の中で、この先どうなるかということなのだ。上も下もそんな状態の人々が溢れ、まともに機能しなくなった職場が何故だか走り続けているとしたら、何処かで目の前に崖っぷちがやって来ると考えてしまうから。
人間、それぞれに役割があるのだと思う。だから、人間が集まった組織にも、それぞれに役目が出て来る。それはそれで、きちんと役目を果たし、仕事が進むのであれば、何の問題も生じないように思える。しかし、世の中を見渡してみると、どうにもそういった方向に動いていないことがわかってくる。仕事は進んでいるように見えるけれども、という類いだ。
ある組織がある仕事を任されたとき、それを遂行するために全力を尽くすのだと思う。ある一定の仕事を継続するのであれば、慣れた連中が慣れたように進めるのが最も効率的なのだろうが、いつまでも同じ仕事が続くわけでもないだろうから、変化が出てきたときにすぐに対応できるとは限らない。そうなってきたときに、どんな対応が考えられるのだろうか。同じ組織が新たな場合に合わせて、適切な対応を行うようにする場合もあるだろうが、一方で、別の組織が対応に当たる場合もあるだろう。前者がすんなりと進むのであればいいが、実際にはそうならないことが多くあり、そうなってしまったときに、後者の動きが出てくることがある。当事者でないかぎり、効率良くことが進めば十分であり、それが最優先の事項となるはずだが、これが渦中にある人々となると、そんなに簡単には話が片づかなくなるらしい。以前なら、担当が決まっていたことであり、そこが全責任を負う形で仕事を進めればよかったのに、ちょっとした変化が生じて、組織の担当が不明確となれば、次に問題となるのは責任の所在というわけだ。本当に巻き込まれている人々がそこまで意識しているかは一概には言えないのだろうが、そういう動きを止めようとする人々にとって責任の所在が不明であることは好都合となる。本来の責任部署がきちんと仕事を進めるべきで、新しいところが余計なことをするのはけしからんというわけだ。確かに、こういう考え方にも一理あり、何事にも成功不成功があるから、結果に責任を負う人間を定めておいたほうが、良い場合もある。しかし、そんなことを気にするばかりで、肝心の仕事が片づかないことになったのでは、意味がないわけだから、これをすぐに全面的に受け容れるというのも変なことだろう。効率だけを考えたとき、どちらの選択をすべきかは、状況にもよるのだろうが、明らかになってくると思う。しかし、それを遂行するために障害となるのが、こういう組織の間に築かれた壁であり、それによって作られたシマという感覚である。シマ荒しという言葉は全く別の世界で使われるのだろうが、ここではまさにそんな気持ちが働くことがある。余計な手出しをするなとか、そんな言い方が横行するのはそんなときなのではないだろうか。でも、変化の激しい時代にはそんなことばかり気にしていたら何も進まないことになる。外的要因による場合も、内的要因による場合も、どちらにしても、変化が促されている場合に、小さなシマを必死で護ろうとする人々こそ、余計な手出しということになるのではないだろうか。世の中が効率だけで動いていないのは承知の上でこんなことを言わなければならないほど、どうにも固定化して硬直化した組織が多くなってしまったように思う。
何とか前線の北上とか南下とか、季節の変わり目を伝える便りが流れてくるが、そんな表現が頻繁に使われるほど、地方ごとに移り変わりがずれているということなのだろう。小さな国のわりにはそういうことになるというのは、おそらく温帯とか寒帯とかそういった言葉で分類される地域の境目に位置しているからで、自然の豊かさもそこから来ているのかもしれない。
予想外の厳しい冬になったと言っていたが、実際には大雪は前半に集中した格好となり、一部では本来雪の降る時期にほとんど降らず、例年よりも降雪量は少なくなったという。気温の低さについても、同じようなことが言えるようで、それこそ、始まりが急激に訪れたがために、慣れない体にとっては厳しく感じられたものの、その後は何となく普通に過ごせる冬となった。変化への対応が遅れるのは適応能力の問題だから、仕方のないところだが、慣れてしまえばこっちのものといったことは、逆にそのお陰なのだから面白い。こういうことは人間特有のものではなく、自然の中で生きているものにとっても同じことで、特別なのは住環境を制御しようと躍起になれる点くらいのものだ。冬も峠を越えて、春を迎える段になってくると、例年桜の開花時期の予報が出される。厳冬ということで、遅れるものと単純に思った人々には意外に思えたのかもしれないが、例年より開花が早まるとのことで、その理由として、気温の低下がいつ止まったかが鍵となるという話が紹介されていた。春の訪れと誰かが言ってくれるまで、その変化に気づかない暢気な人間たちに比べたら、野生の生物たちはずっと律義に変化を観察している。冬の盛りが過ぎたことに気づいたら、早速春の準備にかからねば、あっという間に夏になってしまうからだろう。外から見たら何の変化も無いように見える木々も、内側では着々と準備を進めているわけだ。桜の開花にしても、花芽が突然花に変わるわけではなく、小さな芽が花になれるように変化する段階で、その重さや大きさに変化が現れる。だから、確認のためということで、花芽の重さを計測して、開花時期の修正を行うわけだ。予報を出した後も、その経過を常に点検して、微調整に励むようだ。それでも、急激な温度の変化が起きれば、すぐに十日やそこらの違いが生まれる。いくら着々と準備をすると言っても、何日に花を咲かせようと計画するわけではなく、やはり気温などの変化が最後のきっかけを与えることになるからだ。事前に予想することの難しさはこの辺りにあり、特に気候の変化はいまだに難しい問題の一つであるから、それとの兼ね合いである開花時期は当たらなくて当たり前なのかもしれない。いずれにしても、北の方を除いて既に春がやって来ており、梅の花が目立ち始めている。毎年のこととはいえ、やはり嬉しさが伴うのは春特有のもののようだ。
年代によるから一概に言えないと思うが、子供の頃には見たこともなかったものが食卓を飾るようになったと思うことがよくある。買い込んでくるのが自分であれば、売り場での衝撃の方が大きいのかもしれないが、とにかく変わった食材がずらりと並んでいるのを見ると、ここは何処なのかと思えてくるわけだ。これが豊かさなのかと同じかどうかはわからないが。
こういう状況が可能になったのは、単純に消費者の欲求が原因とは言えないだろう。消費者なんて、単純そのものであり、目の前に並べられたものの中から選ぶといった行動がほとんどで、何か特別なものが欲しいと探し回るなんてことは、ほんのたまにしかないからだ。では、何が大きな要因となったのか。おそらく、流通の発達が最も大きな要因であり、それによって遠距離からでも欲しいものを手に入れることが可能となったからだろう。そういってしまうとまた消費者が欲しがったかのように受け取られるが、実際にはそういう仕組みが発達することで様々な物品が流通するようになり、珍しいものが手に入るような状況ができ上がったところで、消費者がそれに興味を抱くようになるという順序がありそうに思う。そんな中で国内どころか海外からも食材が次々に入ってくるようになり、本場の食材を使った本場の料理が家庭でもできるようになる。専門のレストランでしか食べられなかったものが、自分で作れるようになれば、頑張ってみようという人も増えるに違いない。こういう図式はプラスの方向に働くもののようで、次々にそんな種が蒔かれ、皆がそれに振り回されるようになる。そんな中でこんな状況に疑問を抱く人が現れても不思議はない。特に問題視されたのは、何が自分たちのもので何が他所から来たものかを知っているはずの大人ではなく、それについて全く知らない子供たちのことのようだ。本来家庭で身に付いてくるはずのものが、そんな珍しいものばかりに走る環境にあると、子供は何がこの国特有、あるいは地域特有のものなのかを知る機会を奪われ、そういう人々が成人し、次の世代を育むようになったとき、知らない者が教えることは不可能となる。そんな状況に陥りそうに思えたのだろう。またぞろ、学校という組織がその問題を解決する場として名乗りを上げさせられた。学校で食べるのは給食というわけで、給食に地元の食材を使った料理を出そうという運動が盛んになり始めているのだそうだ。家庭でできないことを補うのが学校という図式には呆れるばかりで、どうにも歪んだ感じがするが、それでも何もしないよりはましとでも言うことなのだろう。こういうやり方を自給自足とでも言うのかと思ったら、新しい試みを強調するためだろうか、地産地消と呼ばれているらしい。どんな呼び名を考えるかとか、それがそれらしい感覚かとか、そんなことはどうでも良いことで、とにかく、こういう試みは地域活性化にとっても大切だというのだろう。それにしても、こういうことまでしなければならない状況をどう見たら良いのか、もう一つは、こんなやり方が本来の教育の姿なのか、そんな疑問が浮かんでくる。
ここひと月、ふた月の間に、株式相場に手を出した人々は、混乱の極みにあるのかもしれない。順調に上げ続けていた平均株価があることをきっかけに崩れ、その後の展開はまだ不安定な形のままにある。そんな中で、株は儲かるらしいと聞いて参入してきた人々は、大きな悩みを抱えることになってしまったのではないだろうか。またぞろ、自己責任が話題に上る。
市場の取引高が急増しただけでなく、様々な数値が一気に増えはじめ、そこに起きた混乱がさらにそれを複雑なものにしていった結果、予想もしなかった歪みが市場に生じてしまったようだ。その後の展開を見ても、崩壊以前の状況にはまだほど遠い感じがあるし、動きの激しさばかりが目立つようになって、手軽に儲けが出ると思ってやってきた人々には、厳しい状況に変化してしまった。全体に上向きになっているときには、誰がどうやっても大した障害も出てこないのに、ちょっと動きが急激になると、波乗りのように何処に自分がいるかによって、結果が正反対に出てしまう。そうなると、上手く立ち回れるかどうかに運を任せるしかなく、俄何とかには荷が重すぎることになるのだろう。こんな時、人それぞれに処し方が違うようで、長期を念頭に置いている人はそのまま知らん顔をするだけだろうし、ポジションなるものを重視する人は一時的に引き上げる策をとるのかもしれない。どんなことをしても、儲かる人は儲かるし、そうでない人はそうでない、などと言ってしまえばそれだけのことだが、まさにそんな様相を呈しているように見える。だからこそ、と言うと言い過ぎかもしれないが、掲示板の話題はそんなことばかりだし、他のところでも同じようなことが取り上げられている。ただし、面白いと思えるのは、こういうときに質問する人の多くは、ほとんど独力で回答を見つけようとはせず、ただ聞けそうなところに聞いてみるといった姿勢を取ることだ。これは何も株式投資の世界に限ったことではなく、最近色々なところで見かける現象であり、自己責任という括りから言うと、随分外れた感じさえしてくるものである。何でも手軽で気軽なのが良いと思う人たちだからこそ、こういう山に登った時期に参入してくるのだろうが、もう少し考えたほうが良いのではないかと思える。まあ、そんなことを言ってみても、自分自身そんなにきちんとした形で取り組んでいるわけでもないし、何らかの戦略を持ち合わせているわけでもない。とにかく、じっくりと構えていけば何とかなると信じているだけで、これまでのところは吉と出たようだ。ただ、ここから先、どんな動きをすべきかは考えてもわからないから、結局今まで通り、寝て待つしかないと思っているのだが。
経済というのは思ったよりも厄介な学問らしい。学問は元々、ああ言えばこう言うといった雰囲気があり、口先三寸、上手く切り抜けてさえいればよい、と言う人がいるくらいだ。確かに、経済動向を論じている有識者の様子をじっくり見ていると、出て来る度に違うことを言う人もいて、信用できないという気持ちだけが強くなる。
状況に応じて、分析の仕方を変える必要もあるだろうし、結論自体が大きく変化することになる場合もある。しかし、どうしてもついていけないのは、同じ変化に思えるものを違う形で説明するやり方で、何故そんなことが可能なのか、全く理解できないものだ。詳細に見渡せば、小さな違いが一杯あり、それが分析結果に大きく響くという言い方もあるだろう。でも、あれほど臨機応変に変えられてしまうと、変化の方向に一貫性が見られず、おかしいぞと思うしかなくなる。このところ、経済についての話題として注目されていることに、格差の問題と金利の問題があるのではないだろうか。格差は当たり前と仮定するか、はたまたそういうものを無くすための努力をすべきか、色々な考え方があるだろうから、ここで一つの結論に導く必要はないのだろうが、一方で格差の是正に走るより、格差の存在を認めたうえで、どういう形の格差がこの国にとって意味があるかを議論するのはどうかと思うことがある。何が気にかかるかといえば、格差のあるなしではなく、それがどんな形になるのか、既存のもののどれかに属するべきという考え方に違和感を覚えるのだ。はっきりとした形で何かを論じるところまで考え込んでいないが、聞いてすぐに思いついたから、やはり何か引っ掛かるのだろう。もう一つの金利の問題も、話題の導き方という意味で興味深いものだ。経済効果を見たときに、一つの動きが一つの結果につながると言える例は少なく、複雑に入り組んだ仕組みの中で、一つの動きが複数の経過を辿り、結果となると、かなり多くのものが考えられるという場合が多いと思う。そんな中で、金利の話は直接的な効果を考えれば、ある結論を導きだすことはそれほど難しくないのだが、それから始まる波及効果にまで思いを巡らせようとすると、一気に話がややこしくなる。その結果として、あれもあるけど、これもある、といった調子にどっちつかずのことが導き出され、さて結論は何になるのだろうか、と言わざるを得ない状況に陥る。結局、何がどう変わるのかは、その後の展開次第であり、それは様々なことをきっかけとして変化しうるものとなる。いやはや、素人には判断のつけにくいところであり、有識者の意見を尊重したくなるのだが、これがまた一様ではないから困る。何とかの法則のように一本道で決まるものなら問題も起きないのだろうが、実際に起きていることはまさに渾沌としており、理想状態にのみ適用できる法則は意味をなさないわけだ。どちらの話題も、これから先何処に向かうのか気になるところだが、さてどんなものだろうか。