私たちはカード社会に生きていると言われ始めたのは、いつ頃のことだったか。世代によっては、もう当たり前のこととなっていただろうから、今更何のことと思うかもしれない。しかし、カードが生活の必需品であることには変わりがないが、実際に使っている物としては次々に変化が起きていることに気付いているだろうか。
始まったのがいつかわからないのと同じくらい、変化の様子に対しても無頓着な人は多いと思う。次々に現れるカードを財布の中に入れ込み、パンパンに膨らんだ中から目的のモノを探すのに必死になっている姿は滑稽そのものだ。始まりはテレホンカード辺りだったと思うのだが、それも確かなことではない。その後、電車のカード、と言っても始まりは切符を買う為の物で、かなり遅れて西の方から改札を通る定期や回数券としてのカードが導入されたが、さらには、ハイウェイカードと進み、その頃には多種多様な物が出回るようになった。クレジットカードとの大きな違いはその形態にあり、磁気テープを仕込んだプラスティックの物ではなく、全体が磁気媒体のように見える物だ。そんな勢いに翳りが見え始めたのは、テレカの偽造が始まってからだ。都心の公園にたむろする外国人が細工を施したテレカを安く売り捌く姿が見かけられるようになり、高額カードの販売が禁止されるまでになった。携帯電話の普及によってその使命を失ってしまったようで、いつの間にか登場したICテレホンカードの広がりは感じられない。電車の回数カードも一時はその利便性から人気があったが、こちらも多社共通という付加価値を付けることで改善が図られたが、孤立した大手は別の道を選ぶことになった。ICの埋め込まれたカードの登場で、定期券と回数券の併用を可能にしたり、様々な付加価値が加えられつつある。となれば、無用の長物と化してしまうのが世の常で、回数カードは姿を消してしまった。これらとはかなり事情が違うのがハイカの消滅なのではないだろうか。高額カードの普及によって利用者を呼び込むことに成功したが、一方で偽造があとを絶たず、高額カードの廃止に伴い低額カードとの交換が数年前に実施された。廃止直前の駆け込み購入の騒ぎも凄かったが、その後の展開も凄まじいものがある。こちらも当然の如くICカードの導入となるのだが、電話や鉄道のような形式の機械の導入では利便性の向上は図れず、無視されるおそれがあった。その為、高速道路の課題の一つである渋滞解消に繋がる方式の導入が立案され、ETCの登場となったわけだ。しかし、ここで大きな問題が生じた。それぞれの車に搭載する機械の価格が購入敬遠の理由となってしまったのだ。当然予想されたことだが、すぐには低価格化もできず、渋滞解消だけではハイカの利用者は減らないこととなった。そこで料金割引の新方式の導入などの付加価値を付け、やっとのことでかなり利用者が増えてきた。ということでハイカの廃止が決まったのだろう。現実には半数程度の高速道路利用者しか搭載機を積んでいないにもかかわらず、こういう決定をしたことには別の理由があるのではないかと思う。それにしても、便利な道具が次々に現れるものだ。
親ならば、子供が五体満足で育ってくれることを望むだろう。でも、これは医療状況が満足でなかった頃の話であり、乳幼児の死亡率が高い事から出てきたのではないだろうか。それに対して、一部の地方を除けば医療環境も改善され、そういう心配をする必要がなくなったこの頃は、ちょっと事情が違ってきているように思える。
子供の生き死にに対する心配はそれほど強くなくなり、その代わりに無事に育ってくれればと願うことの方が多くなった。無事も以前なら命の無事が中心だったのに対して、最近では様々な障害を無事潜り抜けてくれることに重心が移ったようだ。医療の問題だけでなく、生活の豊かさについても以前とは比べ物にならないほど向上したから、無事が当たり前となるはずなのだが、どうも心配の種は減らないものと決まっているらしい。依然として入学試験は大きな壁として目の前にそそり立っているし、経済状況が悪化したあおりを受けた形の就職戦線も改善が明らかになりつつあるとはいえ、まだまだ厳しいと言わざるを得ない状況にある。そんな中で、一人前に育った子供たちが独立して、家庭を築くまで、親の心配は続くものなのだろう。しかし、こういう光景に以前とは大きく違うものがちらついていることに気づいている人がいるだろうか。入学式や卒業式に親がついてくるのはおかしいと指摘する人々の心情はある意味理解できる部分もあるが、どうも的外れな意見と思える。その背景には別の意味が込められているのに、表面化したものとして取り上げたものが外れなのである。親が手をかけすぎという意味を込めて、こういう話題を提供したのだろうが、現実には節目節目で親が登場することに対して批判をしても、本丸は攻め落とせない。いかに非常識な場面で登場するのかを的確に指摘しないかぎり、真意は伝わらないに決まっているからだ。では、それはどんなところに現れているのだろうか。見聞きした話の中でもちょっと驚いたのは、たとえば会社見学に付き添う親たちの姿であり、頻繁に子供の住み処を訪れる親たちの姿である。心配なのだから仕方がないとか、親が子供のことを気にかけているのだから良いことだとか、そんな意見が出てきそうだが、相手は成人した人間なのである。親から見れば子供はいつまでも子供だから、と言い訳じみた話をする人たちもいるが、そんな人の中にも、こういう光景を見て、首を傾げる人は多いと思う。当然程度問題なのだが、何処までが良いことで、何処からが悪いことかという線引きは不可能であり、それぞれに良識の範囲で行動した結果としてどうなるかが問題なのであろう。うちの子供は素直に育ったから、と宣う人々の多くの心には、素直とは自分の言うことを聞くという意味しかなく、そんな自立心のない子供を育てたことを誇りに思うのはなんともおかしく見える。反抗期が無かったから、親の言うことを聞いたから、という言葉を聞くたびに、確かに不良にならなかったのかもしれないが、自分で生き延びる術を身に付けているのか、そちらの方はどうかと問い質したくなる。何処から何処までが親の責任か、何が子供たちの将来にとって重要か、考えて欲しくなる瞬間だ。
何やら、金融システムが大きく変わり始めたと言われる。と言うより、実はこれまでが従来とは全く違うやり方をしてきただけで、まともな形に戻り始めたと言った方が適切なのかもしれない。まともじゃない方式を採り入れることによって、何とか持ち直してきた経済が今後どんな展開をするのか心配する向きもあるが、どんなものだろうか。
それにしてもこういう話が出てきたときに、自分の主義主張と合わないからとすぐに批判の声を上げることには感心しない。確かに、やっと安定してきたのだから、ここで手を緩めるのは危険と思うことは理解できる。しかし、異常な体制を継続することの危険性にはある意味不感症になってしまったわけだから、本当に冷静な判断の結果と言えるかどうか怪しいように思う。異常事態として異常な体制を採り入れる必要があると決断したことを今更どうこう言うつもりはないが、今後の展開にまで口を出すことについては止めておけと言いたくなるのだ。こういう転換があったからといって、急に全てが大きく変わることは無いだろう。指針を見ても、そういう配慮をしたうえでの転換だから、現実には何も変わらない状況がしばらく続くと見ている人の方が多いようだ。では何のための方向転換なのか、簡単に言えば、異常な状況による歪みがこれ以上溜まることを警戒するための警告の一種なのかもしれない。徐々に正常化させるためにも、一度宣言しておく必要があり、そのための決断の下の発言と言えるのではないだろうか。しかし、これによってどんな波及効果があるのか、すぐに見通すことは難しい。それほど複雑に絡み合った仕組みの中での一つの変化であり、一つの答えに行き着くような予想は立てられそうにもないからだ。その代わりに、多くの人々は借金の具合がどうなるか、住宅の購入を急ぐべきか、そんな話をする程度のことで、全体としてどんな展望があるのかを論じることはできそうにもない。どちらにしても、自分たちの生活が第一であり、国がどういう方向に向かうかには大した興味もない人々にとっては、こういう大変革に思える出来事も小さな結果に目を奪われるだけなのだろう。借金をするわけでもなく、日々の生活を楽しむことだけ考えている人間にとっては、どちらにしても大きな変化が現れるわけでもなく、ただ何処か別世界の出来事のようにしか映らないのかもしれない。経済の動向は国の行く末を考えたときに非常に重要な事柄だから、と何度言われても、やはり身の回りのそれも短期間のことしか見えない人間にとっては、どうでもいいことにしかならないのかもしれない。それより、自分の家族が、自分の会社が、自分の何かが、ということの方がずっと大切なのだろう。これをいけないこととするよりも、その積み重ねが全体の利益に繋がると考えたほうが健全であり、自らの痛みの積み重ねが全体の利益に、などと言われるより、よほど分かりやすい話になるのではないだろうか。いずれにしても、決断は下されたのだから、今後の展開を見守り、自分たちの生活への悪影響を減らせるようにすべきだろう。
国の財政は、という議論がされるとき、随分と乱暴な論理が出されて驚くことがある。たとえば、国民一人当たりの借金という話をするのにも、誰が何処にした借金なのか、さらにはそれが今後どんな影響を産むのかといった話をしないで行われ、最も分かりやすい数字で示される。分かりやすいから心配する人が増え、それで目的が果たせたという場合もありそうだ。
色々な考え方があるのだろうが、国は企業とは違い、収益を上げなければならないものではない。その点をどう解釈するかで、問題の捉え方が違ってくるはずだが、多様な考え方に馴染んでいない人々にとっては、それだけで大仕事となる。だから、というわけでもないのだろうが、とにかく分かりやすくしようとする動きがある。しかし、これもまたかなりの危険を伴うものであり、誤解が更なる誤解を産み、どうにも止まらなくなる場合がある。借金云々の話も、世間では一般化したように受け取られているが、それしか解釈の方法が無いわけではなく、実際には何とでもなるとする人もいるようだ。ただ、悲観的な話に安心感を抱く人々にとっては、このところの経済回復は不安を産みだす材料となり、すんなり進まないような話を待ち焦がれている面もある。深層心理と言ってしまえばそれまでだが、実際にはこういう形で世論が作り出されることになり、反作用として足枷やら障壁やらを築くことになる。そんな中で、国として最も期待しているのは税収が増えることであり、それも目に見える形での増税ではなく、経済状況が改善されることによるものを待っているようだ。やっとのことで書き上げた書類を持ち込んだら、目の前でさっさと片づけられて、あっという間に次の人に席を譲ることになったとき、ホッとするのか、はたまた、あっけなさに首を傾げるのか、人それぞれの反応があるようだが、そんな狂騒曲も終演となった。株式への投資をしている人たちの中にも、損失の報告をしようとする人々や特定口座の登録をしていない人々がいて、列に並ぶことになったのだろうが、感想はどうだったのだろう。頻繁に取引を繰り返しているいわゆるデイトレーダーたちは、もし申告するのであれば、かなりの手間がかかるはずだが、どうなのだろう。適当に寝かせながら、時々思い出したように取引をする人々にとっては、大した労力もかからずに書類に数字を書き込むことができるものでも、二百日以上の経過を記録しないといけないとなれば、ぞっとしてくる。しかし、資産運用というだけでなく、これを生活の糧としている人々にとっては、ここでの一工夫が結果を変えてしまう場合もあるだろうから、力が入るのではないだろうか。いずれにしても、国が安定しているからこそ、安定した生活ができると思えば、納税もそのための重要な要素となる。義務と言われると嫌になるという人でも、そのくらいは理解して、きちんと済ませて欲しいものだ。
随分昔から指摘されていたことなので、今更といった感が否めないが、進路を決める要素に大きな変化が現れていると書いてあった。今回は大学の優劣ではなく、学部の優劣とでもいうのだろうか、医学部へ進学した人々の出身高校の公私立別を調査したもののようだ。結論から言えば、昔に比べて私立出身者が飛躍的に増加したとのことだった。
こういう話はこれまでにも何度も取り上げられているが、その度にある特定の国立大学を主題にしたり、有名私立大学を対象としたり、さらには今回のように学部での分類が試みられることもある。いずれにしても、この手の話に注目して集まってくる人々の心の中には、両極端な考えがあるように思える。つまり、子供の将来を決めるのは親の地位や収入であり、本人の資質とは別のところにあるという現実を受け止めようとする心と、教育は本来平等であるはずなのに、こういう歪みを産みだしている現状は何かしらの欠陥を露呈しているのではないかと思う心である。どちらも誤解やら誤認やらがついて回るものであり、一言で言おうとするとどうしても無理が出て来る考えなのだが、無理矢理纏めるとこんなものになるのだろう。現実を受け止めるべきとする人々の中には、地位や収入によって受けられるべき教育の質が違うのは当たり前であるとする人がいるようだが、そういった人々にとってはこういう調査はまさに我が意を得たりといえるのだろう。実際には、そんなに簡単な片づけ方はできるはずもないのだが、人間自分に有利となる話にはすぐに飛びつきたくなるものだ。教育に携わる人々の中にこういう考えを臆面も無く突きつける人がいて、呆れ果てると同時に、そういう人とは関わりたくないと思うのだが、一部の人々はそういう人こそ自分にとって味方になると思うらしい。ただ、分析するのもおかしなことと思うが、こういう人々の多くは実際には彼らが侮蔑して止まない階級を相手に教えることしかできず、おそらく自らの力不足の言い訳に使っていると言えるのではないかと思う。そんなことはさておき、現実に将来を決めるための選択として、こういう状況が現れていることは、たぶん早い時期からの決定を促すものとなるだろう。ある職業に就かせたければ、ある学部に行かねばならず、そのためにはある高校に行き、そのためには、という具合に、次々に遡り、ついには、生まれた直後の教育方針にまで至るかもしれない。それに近いことを実行している親の話も聞こえてくるが、果たしてそんなことにどれほどの意味があるのか、理解不能の域に達しているようだ。人はそれぞれに才能を持ち、それぞれに役割を持つはずという考えには、実際には同じ才能を持つという限定はない。しかし、いつの間にか同じ資質を持つ人間を教え育むことが現場の目標のように扱われ、無理難題が山積してしまった。その想定の間違いが何処にあるのか、触れないようにしているのか、はたまた理解できないのか、わからないが、そろそろ、そういった考えを捨てて、目標設定の見直しをしたほうが良いのではないだろうか。今回の調査結果も上辺だけのものとはいえ、その問題を表面化したものなのだと思う。
何とか商法と呼ばれるほどに有名になった詐欺商法が幾つかあると思う。そういうものが次々に登場することに驚く人が多いが、この手の話の中で驚きに値するものがもう一つあることに気づいているだろうか。詐欺で騙す方にとって最も重要なものは騙される人の存在である。大抵の人は一度騙されたら二度と騙されないと思っているが、そうでない例が沢山ある。
こういう事件が報道されるたびに驚かされるのは、そこに登場する被害者たちの状況であり、中にはもう何度も同じようなことに騙されているという人がいることだ。詐欺に遭ったとき、しまったという思いが過るとともに、二度と騙されないぞと思うのだろう。実際に多くの人は一度の失敗に懲りて、同じようなものに手を出すことを躊躇するようになる。悪いきっかけさえ攫まされなければまず安心であり、二度同じ憂き目に遭うことはなくなる。本来その程度のことで防げるはずのことに、何度も出くわしてしまう人がいるとしたら、何故なのかと首を傾げたくなるものだ。全く違った手口の詐欺に騙される人がいるところを見ると、どうも他人の話に乗りやすい気質なのかなと思えてくる。確かにそういった性格の人もいるようで、被害者を装う人に簡単に騙されたり、調子のいい話に乗ってしまったりする。これとは別に、全く同じと思える手口に何度も引っ掛かる人もいて、こちらはすぐには理解できない部分があるように思う。上手くできた作り話に騙されることは一度はあったとしても、次の機会には少しくらい制動がかかりそうなものに思えるからだ。しかし、本人はいたって真面目に今度は違うと強調し、結果的にいとも簡単に騙されることになる。どんな心理状態にあったのか調べる手だてはなさそうで、結局迷宮入りとしか言い様がないのだが、とにかく同じ話だろうがなかろうが、結果は同じとなる。同情を誘う話にまんまと騙されて、金を巻き上げられてしまうわけだ。せっかく貯め込んだものをそんな形で吐き出しては勿体無いと思うのは冷静に考えられる人のすることであり、実際にその決断をする人は色々な意味で人のためという気持ちを持っているのではないだろうか。一方、金儲けの話に乗せられやすい人々の場合は、少し違った形態が見受けられることがある。一度騙されて財産を失うと、それを取り戻すために別の詐欺に引っ掛かるといった具合に、負の方向への動きが止まらなくなってしまうのだ。欲望がそうさせているのかもしれないが、別の見方をすれば損をしたこと自体が次の損を誘発していることになり、詐欺事件だけに限らない世の常を垣間見ているような気になる。相場に手を出している人々にもこういった行動をとる人は沢山いて、昔からの小豆相場での大損の話はこの手の典型のように見えるし、株式相場に参入してくる人の中にもそんな気質を持った人がいるだろう。上手い具合に回っているときには何の問題もなく収益を上げるが、一度逆方向に回り始めるとどうにも止まらなくなる。熱くなるタイプと言えるのかもしれないが、そうでもないことも多く、一概には言えないようだ。でも、こういう話は、とにかく、自分がどんな気質を持っているのかを知ったうえで、取り組むべきものであることだけは確かなようだ。
見下すとか、蔑むとか、する方の立場ではあまり強く感じないのに、される方に立つと非常に強く感じられる感覚がある。そんな状況ができたときにどう対処するのかは人それぞれなのだろうが、最近話題になっていることからは、多くの若者が一つのやり方に偏っていることが窺える。それぞれの立場でどうするのかを考えるより手っ取り早い方法に。
様々な人々が暮らす社会で生きていくための知恵には色々なものがあるだろう。立場の違いから生まれる不当な扱いや差別といったものに対抗する手段も、経験を積んでいく過程で徐々に身に付いていくものだと思う。年齢を重ねるごとに、違った状況が生まれ、上に立つようになれば、それぞれに適切な対処を求められる。経験が重要となるのはこういうときで、様々なものを様々な形で経験しておくことが大切になる。しかし、その一方でそういった複雑さから逃れようとする気持ちは常に心の中にあるもので、絶対的な手法があればそれ一つで事が済むのにと考えることもあるだろう。ただ、本当にそんなものがあるのかと問われたら、多くの人は無いと答えるのではないだろうか。経験を積んだ人ほど、誰がどうやっても上手くいく方法の存在を疑い、その時々で微妙に変化させた対処法を適用することの重要性を痛感しているのだと思う。しかし、若い世代にとってはそういうやり方は気に入らないものだろうし、経験の有無だけで差別をされているように感じられて、嫌な気持ちになるようだ。誰しも経験してきたことと諭されたとしても、上の世代によって作り上げられた都合のいい論理と受け取る向きもあるらしい。そんな中で自らが編み出した方法が、最初に触れたやり方のことである。どちらの立場に立つかを問題視し、それぞれに対処法を身に付けることが望まれたとしても、面倒くさいと思えたからなのだろうか、立つ場所を決めることから始めるやり方を採り入れることにしたという。つまり、常に人を見下し、蔑んでいれば、自分が逆の立場に立つことを想定する必要もなく、一定の態度を取り続けることができるというのだ。そんな馬鹿なと思う向きは、世代の断絶を痛感すべきと言われるかもしれない。ただ、こういう考え方が蔓延してきた背景には、基礎から積み上げることの難しさと手間を回避しようとする考え方があることに注意すべきだろう。そんな背景が生まれるきっかけを与えたのは、成長の止まった成熟社会の出現とその中で次の世代の心配ばかりする人々の台頭なのだと思う。心配するだけではもの足らず、手を出し、口を出し、転ばぬ先の杖を与え続けた結果、外からの働きかけのみに頼る人格が形成され、努力なしに地位を築く手法として見下しが生まれたようだ。なんとも情けない状況なのだが、これが当たり前となっている世代にとっては、勝ち組負け組の設定やカリスマの存在などといった方向に走ることで、自分たちの立場を守ることが最重要となる。そのために、本来ならば重視されるべき基礎固めは無駄なものと映り、手っ取り早い手法の考案が重要とされた。結果として見えてきたのは薄っぺらい権威主義の台頭であり、中身のない主張の急増である。すぐに馬脚をあらわすことになるだけなのだが、こういう安易な手法は麻薬のように一度社会に蔓延したら、完全に撲滅することは難しいものだ。