パンチの独り言

(2006年3月20日〜3月26日)
(拒否、修正、移動、重荷、自発、地価、虚構)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



3月26日(日)−虚構

 ノンフィクションとかドキュメンタリーと聞くと、あるがままのものを記録したものと思う人が多いだろう。虚構ではないものという意味なのだが、事実そのままというのでもなく、事実に基づいた話であるが、そこには作者の作為が含まれるという点に気づかない人が多い。何かを演じているわけではないが、その場を作るための工夫を施してあるわけだ。
 事実そのままでなければこういう呼び方をしてはいけないと主張する人もいるだろうが、現実には其処にカメラがいること自体が不自然さを産みだしているわけだから、簡単に結論づけることはできない。それよりも、カメラを意識されないような工夫をしたり、逆に意識させたうえでの記録という筋書きを付け加えることによって、全く別の状況を整える場合もある。いずれにしても、記録として残すためには何かしらの異常さが生じてしまうのは致し方の無いところだろうし、映像でなくも字として記録する場合にも、出来事全てを書き並べるよりも、抜粋という形式をとることが多いから、其処に何らかの作為が入り込む余地があると言わざるを得ない。こういうことを職業にする人がいるわけだから、そこには入り込もうとする若い世代がいるのは当然のことだろう。それを記録したかのような番組をちらちらと眺めていて、不思議に思えたことが幾つかある。最大の関心事は記録をとる本人の動機であり、学生であるがゆえと言ってしまえばそうなのかもしれないが、先生に指導されたからとよどみもなく答えている姿が其処にあった。これはある時代に生きた人々にとっては驚くべきことであり、自分の思うところの無いままに行動する人々に対して、大きな壁を感じることになったのではないだろうか。その後の展開を詳しく見たわけではないし、そこでの先輩の落胆ぶりからして、期待できそうにもないことが明らかになっていたから、まあそんなものなのかもしれぬと思う程度のものだった。実際には、自分の回りにいる若い世代に類似の行動様式をとる人々が数多くいるから、同じような病気があらゆるところに蔓延していることを再認識させられたわけだ。何かを産みだすことを職業とする人々にまでこんな兆候が見られるのだとしたら、末期的な症状というしかないのかもしれない。もう一つの不思議は、こういう記録をとられることに対する人々の反応であり、実際に話し合ったり、議論しあうはずの場に、カメラが持ち込まれることで、まともな意志の疎通は全く無くなり、虚構ばかりが目立つようになっていたのには驚いた。何がしたくて、何を求めたくて、これらの個人的な欲求によるものでさえ、他の人々に認められることが第一と考えるようになってしまった人々には、個人の感性を研ぎ澄ませてといった感覚は起こりえないのではないだろうか。それよりも、皆がやっているとか、皆に認められるとか、そんなことの方がずっと大切なものになっているのだろう。それにしても、こんな状況が長く続いたとすると、さてどんな社会ができ上がっていくのか。そんなことを心配する必要など無いのかもしれないが。

* * * * * * * *

3月25日(土)−地価

 地価の変動は経済状況を表す指標の一つとして使われることが多い。それも、地域ごとの統計が発表されるから、地域格差を計るものとして便利なものと受け取られているようだ。一方、物価とか、求人倍率も同じように地域格差を表すものなのだが、どうも違う形で扱われているように思える。人気の高さと元気の良さ、同じようで違ったもののようだ。
 田舎より都会の方が良いと思う人が多い国では、どうしても人口密集地の土地の方が高い価値をもつと考えられる。バブル崩壊の主要因であった土地の価格は、その後低下の一途を辿っていたが、さすがに底を打ったと思われ、回復の兆しが見えているという。しかし、これは都会に限ったことであり、地方都市は依然として下がる一方ということだ。物価は安いほうが住みやすそうに見えるし、求人倍率が高いのはその地域の産業が健全な状態にあることを示している。しかし、人が住もうと思う動機にはそれだけではない何かがあるようで、現実には多くの人が住む地域の人気が高く、流入傾向が継続するような状況になっている。別の動機として考えられるのは、たとえば、医療施設をはじめとする公共的な施設の充実が挙げられるだろう。ただ、都心は確かにそういう傾向にあるが、その周辺は逆のドーナツ化現象が起きており、人口当たりの医療施設や医師の数はかなり少なくなっている。そんな状況であるにも関わらず、都会の隅でもいいから住みたいと思う人々の気持ちは理解できないが、彼らなりの理由があるに違いない。子供の教育を考えたときに、公立よりも私立の方が充実しているという話もあり、そのために都会を目指す人もいるのだろう。しかし、大学に入ることだけを考えた教育ならばその通りなのだろうが、最近話題になっている全人的な資質を育む教育を考えたとき、そういう選択が必ずしもいい結果を産むとは限らないだろう。毎日の生活や子供たちの将来を考えた結果という選択とは別に、バブルの時代を彷彿とさせるような動機も復活してきており、投資の対象の一つとして都会の土地を手に入れようとする人もいるようだ。確かに、一時の下落状態ではそういう気持ちも起きなかったのだろうが、ここまで回復基調が明確になってくると、再びその気になる人が出て来るのも無理はない。一度や二度の失敗では懲りない人もいるだろうし、それ自体を知らない世代が励んでいる場合もあるだろう。どんな結果が出てくるのかは誰にもわからないが、上手く立ち回れば格好の資産運用となると思われている。最近、そういう電話が頻繁にかかってくるのもまさにそれが理由なのだろうが、やたらに林立するマンションにその価値があるのかどうかは怪しいものだと思う。特に、最近の報道を見ていると、印のつけられたものにうっかり手を出してしまったら、結局運用も何もなくなることが確実だから。

* * * * * * * *

3月24日(金)−自発

 spontaneous。のっけから英単語が出て来ると面食らうかもしれない。ラジオで話題になっていた言葉である。辞書によれば自発的な、という意味だが、自発を国語辞典で引くと、自分から進んで行うことという意味とともに、自然にそうなることという意味も記してある。話題もその辺りに及んでいたのだが、その真意は、となると中々難しい。
 自発的に掃除をする、という言葉が通知表に載った人がいるかもしれないが、教師が生徒を褒めるときによく使われるのが自発という言葉であろう。ここでの意味は辞書にある最初のものであり、意識をもって自ら進んで行うということで、だからこそ人間的に優れているということを表現するときに頻繁に使われる。そんな意味しか知らずに、ラジオの話を聴いていたら意味不明な話が流れてくるだけに終わっていただろう。早朝に流れていたラジオには、眠れぬ夜を過ごすためと聴く人もいれば、早起きの友として聴く人もいる。他人の話を興味を持って聴くことができれば、人生訓など参考になる話も多いだろう。しかし、他人の話を聞き取ることができるかどうかは、本人の気構えによるところが大きい。ここでも、自然にそうなるという無意識的な用法での自発をどう受け取るかが肝心となったのではないだろうか。そこでの理解を乗り越えられれば、次に見えてくる話も人それぞれに想像をかき立てるものとなってに違いない。人間が意識的に行っているように見える自発も、実際には無意識の部分があり、そう考えてから改めて生き物の世界を見てみると、ほとんど全ての生き物がその能力をもっていることに気づかされる。人間の特殊性を否定することが科学の一つの側面なのだが、まさにそれを表面化したものと捉えることもできるだろう。そこで終わるのも一つの形だが、そこから先に進むのも面白い。話は、生き物が快適に過ごすための方策としての自発に及び、本当の快適さを探し求めるための方法として、常に動き回ることを紹介していた。これは怠け者の人間が快適になると安住してしまうこととは異なり、快適だからこそ活発に動き回ることの意義を示すものだろう。それを意識的に行うことが重要と考えがちだが、実際には無意識的に行えるかどうかが肝心であるという話だったのではないだろうか。努力とは自分で感じるものであると同時に、他人が見て感じるものでもある。他人から見た努力は本人にとって意識したうえのものである必要はなく、自然の成り行きに任せた結果であってもいいわけだ。生き物としての本来の姿はまさにそういうものなのかもしれない。なるほど、気持ちの問題として捉えてみると、やる気などというものは一生懸命出してくるものではなく、何となく湧いてくるものに見えてくる。やりたいとか、知りたいといった気持ちは、何処かで意識して初めて出て来るものなのではなく、何となく湧き出してくるものなのだろう。それを失ってしまった人間にとって、意識してできることは大したことにならないに違いない。生き物の話を聴かせつつ、人間が持つはずのものに触れていたのかもしれないと、思うのは、少々深読みが過ぎるのだろうか。

* * * * * * * *

3月23日(木)−重荷

 相手に話が通じなかったとき、はて、何故、どうして、と考えることがある。きちんと筋を立てて話しているにも関わらず、全く理解してもらえず、逆に誤解をもたれて落胆することがある。理由もわからずに悩む場合もあるが、あとになって考えてみると少しずつ分かってくることがある。通じないときには通じないものなのだということだ。
 論理とか筋とか、いつでも何処でも誰にでも、通じるものだと多くの人は思っているが、実際にはそうではないことが多い。客観と主観の違いのようなもので、対象とする人の問題であるだけで、そこに現れる感覚は同じものであり、一人の意見が皆の意見となれば、それが客観と見なされるだけのことである。だから、始めから全ての人々に通用するものがあるわけではなく、何かしらの過程を経て、徐々に受け容れられていくものなのである。そう考えると、話が通じないという場合にもよく似たことが起きているのに気づく。つまり、こちらの考えた論理が相手の感性に上手く響かず、空回りした結果として無理解が起きるというわけだ。そうなれば、どんなに努力をしてもその壁を崩すことは難しくなる。何故なら、相手と自分がまるで違う道を歩んでいるようなもので、同じ景色を見ていると思い込んでいてもまるで違った方角を見ていたり、全く違うものに目が奪われているからなのだ。そんな中で話を通じさせるのは容易なことではなく、何とか通じたように見えてもすぐに誤解が生まれてしまうことになる。誠に困った状況なのだが、おそらく一度起きてしまうと困難ばかりが大きくなり、和解は遠いものとなる。これとは別なのかもしれないが、先入観のようなものが同じ問題を生じさせることがある。たとえば、誰かに聞いた噂話が気になって、相手の話の主旨をきちんと理解しようとする気持ちが薄れ、結局変な誤解をしてしまうことがある。まるで相手が自分の敵であるような印象を持っていると、どんな言葉でも攻撃的に聞こえるわけで、どんなに良い話でもそこに思惑があるように感じられてしまう。そうなると、それを産み出した人が自分で消さないかぎり、誤解を生じることを止めることはできず、何かにつけて反対意見を突きつけられることになる。話をしている本人は、そんなことは露とも思っていないわけだから、何故強硬に反対されるのか思い当たらず、何とか壁を破ろうと努力するのだが、原因は別のところにあるから功を奏することはまずない。そんな遣り取りがしばらく続き、決裂となるわけだ。何とか結論を出さねばならない状況にあるとき、こんな相手と出くわすと、どうにももどかしい気持ちになり焦るばかりだが、おそらくその相手とでは結論が出ないのが当たり前なのだろう。たまたま運が悪かったとするか、はたまた大騒ぎをして相手を変える努力をするか、それは個人の趣味のようなものだが、いずれにしても厄介な荷物を担がされたことになるわけだ。

* * * * * * * *

3月22日(水)−移動

 大移動の季節になりつつある。人だけの移動が盛んな盆暮れとは違い、その他諸々の物まで動かさなければならないこの時期の移動は凄まじい様相を呈する。其処彼処の道路には引越用の大型車が駐車され、迷惑千万な状況になる。業者にとっては当たり前のことだろうが、依頼主にとっては渋滞の状態などが気になるところだ。
 最近は家具付きの賃貸住宅が増えてきたとはいえ、まだまだ大きな家具を移動させる人々が多い。そのため数人の家族でもかなり大きな荷物となり、当然大型車が必要となる。家具付きの住宅が多い海の向こうでは、元々嫁入り道具などという感覚もなく、たとえ大陸横断の移動だとしても、レンタルの牽引車を引っ張るくらいで済んでしまうようだ。ベッドなどが含まれれば大袈裟になるが、それも引越セールなる催しで片付けてしまうことも多く、身軽な移動にするように心がけるようだ。それに比べて、こちらの移動は何ともすごい量の荷物を伴う。最近は、子供たちにも個室を与える家庭が多く、そのために家具の量も増えてくる。進学、就職の際にも、これらを持ち歩くとなれば、単身の引越と言えども侮れないものとなる。こんな状況だからだろうが、毎日盛んに宣伝されている引越業者の広告も、海の向こうではとんと聞こえてこない。それくらい事情が異なっているのだろうが、それにしてもどうしたものだろう。商売は相手がいてこそのものだから、こうなるのは当然のことなのだが、逆に言えば、それだけ無駄なことをしていると言えるかもしれない。移動の度に中古品を購入し、次の移動ではそれを売り捌くということを繰り返していけば、大した出費も必要とはならないが、新居を構えるときにそれではいかにもみすぼらしく感じられる。単なる見栄はりに過ぎないと言われてしまえばそれまでだが、まさにそうなのではないだろうか。家具を大切に使うのだから、という意見も出てきそうだが、効率だけを考えれば採用されにくいだろう。いずれにしても、この時期、国全体でかなりの物が動く。ということで、金も同時に動くわけだ。それによって、全体の経済が支えられているのだと言ってしまえばその通りなのだろうが、本当にそれでいいのだろうか。経済的に豊かになり、何でも大型化してくると、移動も容易ではなくなる。冷蔵庫、洗濯機、はてはテレビまでが大型化、重量化している。そうなればプロでなければ動かせないものとなり、さらに業界は潤うことになるのだろう。あれほどの量と頻度の宣伝を繰り返すことができるほどの潜在的な顧客がいる業界も珍しいのではないだろうか。しばらくの間、この狂騒曲が演じられることになる。お互い様で片付けるようにしないと、頭に来ることばかりで気疲れしかねない。

* * * * * * * *

3月21日(火)−修正

 外食をしようと思ったとき、一人で行くのでなければ、他の人の賛同を得られるような提案をしなければならない。常に先導者である場合は別だが、皆がそれぞれに食べたいものがあったり、好き嫌いがある場合にはその間での調整が必要となるからだ。さらには、その日の気分までが勘定に入ると、駆け引きが要求される。
 食べ物のことでそんなに揉めることはないと答える人は別にして、せっかくの外食なのだから楽しまないとと思えば、ここでの駆け引きは重要となる。その中で自分の望みをかなえようとすれば、それなりの材料を提供することが必要だ。食べ物は欲求がそのまま現れるものだから、こういう話を始めるときには良い例となると思う。実際には、家族などの親しい仲にある人間だけでなく、仕事の上でも食事ではないが提案をする必要に迫られることがある。その時、相手との駆け引きは当然の手順として出てくるものであり、それを巧くこなせないと自分の思いを成就することができない。特に、考えを出す人とそれを吟味する人がきちんと分けられるような場合、この役割分担ははじめから決まっているから、常に相手を納得させるような話の進め方を心がける必要がある。一方で、受ける側はそれぞれの提案が十分に練られたものか、明らかな思い違いはないかといったことに注意を払い、場合によってはそのものの不採用を決断する必要がある。お互いに相手の立場に立つようにしておけば、こういった問題の解決は容易なのだが、どうもそういう想定を苦手とする人が増えているような気がする。独り善がりの考えを最後まで押し通し、それを許さない上司の陰口を叩く人が増えているのではないだろうか。互いの立場に立っておけば、厳しい指摘の意味も理解できるだろうし、指摘を跳ね除けようとする気持ちも理解できるだろう。しかし、そういう歩み寄りは一切無く、ただ自己主張に走るのみの提案では、受け容れられるはずもないだろう。更には、これらの提案が他の人々を対象とする場合、そこでも再び受容の問題が出てくるから、やはり相手のことを気遣う必要は大きいと言わざるを得ない。一方、指摘されたときの対応にも人それぞれの特徴があり、たとえ指摘を認めるにしても、それに対する反論を先に出しながら話を進めるのと、相手の指摘を受け入れることを表明したうえで話を進めるのとでは、印象が全く違ってくることがある。結果が同じなのだからと思う人は、おそらく逆の立場に立ってみれば少しは事情が理解できるかもしれない。実際には後者のやり方が何事もすんなりと進めるうえで必須条件となるわけだが、実行するとなると意外に難しいことが多いものだ。提案する段にはこれしかないという信念を持ってかからねばならないが、指摘を受けた時点では心境の変化を必要とする。言葉で言うのは簡単だが、実行するのは思ったより難しいものだ。何しろ、相手に自分の考えを否定されたような気分になっているのに、それを認めなければならないのだから。いずれにしても、こういう遣り取りでことが上手く進めばそれでよいのだから、一歩引き下がるくらいの気持ちを持つことが大切なのだろう。

* * * * * * * *

3月20日(月)−拒否

 月曜日、職場に顔を出すのが辛いと思う人も沢山いるだろう。そんなとき、次の日が休日だったら、どんな感じがするのだろうか。まさにそれに当てはまる日なのだが、そういうときほどそんなことを考えないようにする人がいるのではないだろうか。気にしてしまうから気になると言ってしまえば単純なように見えるが、実際には何もわかっていない。
 休日明けの出勤を抵抗無く始められる人はとても楽をしているように見える。まるで、ヨッコラショと声をかけなければ立ち上がれない人と特別なことなしで立ち上がれる人の違いのように、一目見てわかるほどの違いがある。しかし、その違いは何処から来ているのか、これに答えられる人はあまりいないのではないだろうか。青の月曜日と呼ばれるほど、憂鬱な一週間の始まりと受け取る人々にとっては、何事も困難を伴うものだし、それを解消する手だてはいつも見つからない。そんなことを毎週繰り返し、何の変化もなく過ごせるのだから、慣れてきそうに思えるが、彼らの心のは常に戦っているようだ。一方で、何の問題もなく月曜の朝を迎えられる人々は、何も無理して戦う必要もなく、いつものことをいつものようにこなすだけである。取り組み方の違いのようにも見えるが、実際にはそこに大きな違いがある場合は少なく、そこには掴み所の無い、心という対象物が転がっているだけである。ちょっとした思考回路の違いや、人の話の受取り方の違いも違いを産むのだろうが、それよりも、内側から湧いてくるような感覚がこの違いを産みだしているような気がする。それは何かと問われても、今すぐ答えを提示できるわけでもなく、そのうち何かわかるかもしれない、という程度のことでは、何もわからないと思うが、しかし他にすることもない。これらを全て心の病のせいにするのも結構なことだろうが、果たしてそれで何かが解決するのか、さっぱりわからないのが現状だ。わからないことに取り組み、わからないままに終わるという流れは、このところずっと続いているようで、心とか脳とか、そんなものを対象とした場合、様々な障壁が立ちふさがるようだ。しかし、周囲にはそんな症状で苦しむ人々がいて、そのせいで仕事の能率が落ちている人も多い。これは結果的に、職場の効率の低下を招き、いつまでも続くようだと大きな問題となってしまうだろう。その気になれないのだから仕方がない、という片づけ方もあるのだろうが、それしかないのかどうか、依然として答えが出ていないように思う。個人の問題であるだけに、周囲からの手助けが功を奏するかどうかは一概に言えない。どちらかというと、追い込むよりも見守るほうが結果的には良好なようだが、これも程度の問題であり、すぐにもそうせよとは言えないだろう。いずれにしても、毎週の繰り返し、何とかしたくなるものだが、その気もない人々もいるらしい。困った人を、困ったままにしておくのが良いのかどうか、これまた難しい問題なのだが。

(since 2002/4/3)