パンチの独り言

(2006年3月27日〜4月2日)
(上、命の値段、貧富、誤論、無恥、努力、猟奇)



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4月2日(日)−猟奇

 江戸川乱歩の小説を読み耽った時期がある。少年の頃ならば、二十面相なのだろうが、もう少し大人になりつつあったときに、全集が出版されて、思い切って買うことにした。そこに並んでいたのは、今までに見たことの無い世界であり、まるで、襖の陰から覗いてはいけない世界を盗み見るような感覚に陥ったものだ。
 それが書かれた時代から、既に半世紀が経過していたのに、何とも不思議な感じがして、しかし引き込まれてしまう魅力は色褪せていなかった。猟奇的と評される小説の多くには、普通の人間ならば思いつかないようなことを実行に移す人々が描かれ、異次元の世界を垣間見るような感覚がしたが、登場人物の心情を理解しようという気にはならなかった。椅子になって人の座る感触を楽しむとか、天井裏から覗き見るとか、確かにどんなものなのだろうかと興味を持たないわけでもない行動を起こす人間の不思議さ、異常さを、乱歩は書きたかったのだろうが、それは逆に言えば、届きそうにもない遠くの方にあるものという気持ちがあった上でのことではないだろうか。その異常さを分析して、理解できるようにしてやろうとか、その心理を紐解いてみようとか、そんな大それた気持ちがあったとは思えないし、そんな下らない動機で書いたものとは思えなかった。爛熟の時代、退廃の時代と呼ばれた時期に現れた小説家は、それまでならば怪談といった分類がなされそうな物語を、その時代に合うような形に直し、さらには別の形のおどろおどろしい雰囲気を加えることによって、人気を博していたようだ。面白いのはそれから何十年も経過しているのに、そこにある物語の雰囲気は古惚けておらず、今読んでもその恐ろしさが伝わってくることだ。やはり人間は、自分に無い猟奇性を好むものかと説明する方法もあるが、実際には、自らの心の奥底にあるかもしれない、潜在的な異常さを垣間見ることに魅力を感じているというべきなのかもしれない。それを理解できるかどうかは別にして、ひょっとしたらこんな気持ちが自分の中にもあるのではと思えるのではないか。ただただ成長を続けていた時代には省みられなかったものが、成熟期に入り、どちらかといえば下り坂にさしかかった頃、こういう感覚が再び目覚めてきたのかもしれない。世の中で巻き起こる異常な事件の多くは、一般大衆にとっては理解不能なものであり、たとえ動機が明らかとなっても、それを実行に移す心の異常さが理解できるわけではない。猟奇性、異常性が高まれば高まるほど、そこには精神的な崩壊が絡んでくるように思っているが、現実にはごく普通に振る舞う人物がその中心にいるのである。時代の流れと片付けるのはあまりにも乱暴なことなのだが、乱歩の小説を思い出してみると、そんな乱暴さも許されるのではないかと思えてくる。最後の一歩の思いきりを理解できない自分に安心し、ごく普通の生活を送れることを喜びとする。何とも情けない気持ちもしてくるが、世の中の乱れはそんなことを思わざるを得ないほど大きくなっているのかもしれない。

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4月1日(土)−努力

 真面目であることがこれほど重視される時代はないのかもしれない。そんなことはない、成果主義があるではないか、という意見が出てくるかもしれないが、それこそ、そんな主義主張が出て来ること自体、自分たちの役割をきちんと果たしていない人間が多くなった証拠ではないか。成果を計るからちゃんとやれ、と言わねばならない時代なのだ。
 実社会でどんな具合なのかは、それぞれの人々が属するところによって多少の違いがあるだろう。また、それを相対的に比較したとしても、それぞれの事情を汲まないと変な話になってしまう。そんな背景もあって、各企業での真面目さに対する扱いをさらりと纏めることは難しい。その代わりと言っては何だが、社会に出る前の場所ではもう少し客観的な比較ができそうな感じがする。学校は、色々な人々が集まっている割りにはそれぞれの比較がある基準に基づいてできる場所だろう。今では半数の人々が通うことになってしまったから、大学もそんな仲間入りをしていて、世相を表す指標の一つとして、学生の感覚が紹介されることも多い。真面目さについても然りで、学生が出す教師への要望にまでそんなものが表れているというから驚きだ。面白い講義だから出るが、面白くないのは出ない、という気質がごく普通に思われていたのは、もう何十年も前のことだろうか。その頃の学生は、出ようが出まいが、期末試験の点数さえとればいいのだという考え方を基本として、試験前に駆けずり回った人も多かった。教師の方も、誰がいようがいまいが、そこで寝ていようが起きていようが、全く意に介さずに自分の役目を果たすことに集中していた。役目とは講義を行うことであり、学生に理解させることでも、出席をとって管理することでもなかったのだ。これこそが今で言う成果主義だと思うのだが、そんなことを敢えて取り上げる人もいなかった。それから数十年経ち、より多くの人が大学に入れるようになると、様相は一変する。客の数を増やそうとすれば、色々な特典をつけるのが商売の常であるが、ついには教育現場にも、そんな遣り取りが見られるようになったのだ。バブル期には、遊園地まで作った大学があったと記憶しているが、それは極端とはいえ、教育とは理解できるようにすることという何とも都合のいい論理が罷り通るようになり、理解できないのは本人のせいではなく、教える側に責任があると言われるようになった。次々に改革を迫られ、そういった観点に基づく評価が下され、厳しく査定されるようになったとき、学生たちから更なる要望が出たらしい。真面目に努力したこと自体に評価を与えろというもので、出席や講義を受ける態度に点を要求するものだ。確かに、半数近くの学生が突っ伏している教室で、前を見ているのはそれだけで辛いものだろうし、朝一番の講義に無理をして出てきているのも、努力の賜物なのだろう。しかし、それが自らの理解に与える影響はあるのだろうか。寝ているものには聞こえないものが、起きているものには聞こえるのは確かだ。しかし、起きて前を向いている人たちが全て聴いているかどうかはわからない。寝覚めが悪く、何も聞こえず、何も残らないとしたら、さてどんな効果があるというのだろう。このところの真面目主義には、こういった結果を求めない、努力のみの評価が目立つ。能力に見合わないところにまで顔を出すようになった人々の悲劇がこういう形で現れていると見るのは、さすがに言い過ぎなのかもしれないが。

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3月31日(金)−無恥

 非常識な人間と付き合うのは誰にも辛いことだろう。その程度は別にして、こちらの話は理解できず、曲解して、誤解を産みだす。自分にとって都合の良いところだけを抜き出し、それに基づいて話を作り上げる。そして、最後には、これらの行状によって生じた歪みの責任は、その後の脚色をした人間にではなく、もとネタを出した人間にあるとする。
 ほぼ、こんな形での展開が繰り返され、その度に精神的にも肉体的にも疲れ切るわけだが、当の本人は何の学習もできていない。それこそが非常識の根源だと思うのだが、何度も何度も同じことを繰り返し、同じ役に徹した三文芝居を上演する。普通ならば場の雰囲気を読めるはずという思い込みがあるほど、被害は大きくなるばかりで、期待を裏切られ続けたあとで、何も思わなくなったとき、やっとふっ切れるものがあるのだと思う。しかし、組織で動く場合には、そういう連中を全て窓際ではなく、いっそのこと窓の外に出せるのならばいいのだが、それができない相談となるわけで、結局、対外的に被害が生じないような人員配置を考えるだけで、内部的には騒動の発生を完全に封じることは不可能だろう。本来ならば、若い者は、というふりが非常識という言葉につけられるはずなのだが、最近はそういう常套句の有効性が疑われているようだ。年齢に無関係に、全くどういう観点でものを考えているのか、想像がつかない人々が、其処彼処に溢れかえり、我が物顔で職場を歩き回るか、踏ん反り返って上席に居座る。何とも情けない光景が広がっているのだが、大改革でもないかぎり、こういう人々を一掃することはできないだろう。それよりも、いちいち腹を立て、後始末に明け暮れるような生活を送らされることをどう回避するのかを考えたほうが、よほどいい結果を産み出すのではないだろうか。無視するのは一番簡単な方法だが、それによって悪影響が周囲に波及する場合もあり、単純にそれが最良の策と呼べないところがある。さらには、目下の者の非常識に対する策は、これもありうるが、目上になると無視もできないし、さらにはそれが結果を歪める場合も多いにある。できれば、こういった直接的な方法も、相手に跳ね返るようなやり方を採り入れるべきで、非常識さ加減をいちいち指摘するのはその一つだと思われる。ただし、これを皆が実践しない大きな理由がある。面倒なのである。何しろ、こんな非常識人間を矯正できるのならまだしも、何をしても何の効果も得られないことが明白な場合、精神的に疲れるだけで結局何も生まれないことになる。そうなれば、やはり無視か、と思う人がいても、無理のないことなのだろう。今の社会の仕組みで、こういう人々がいることによる最も大きな問題は、そういう人々でも昇進し、より大きな影響力を得てしまうことなのではないだろうか。評価の難しさは何度も指摘したが、それを回避することによる弊害は、こんなところにも現れているのである。

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3月30日(木)−誤論

 自分の考えをはっきり述べることのできる人は偉いということになっているようだ。どうも主体性のない人が増えてしまったせいか、少しでも自分の考えを持っていれば、それがどんな代物だろうともよしとするといった感じで、その意見を詳しく聞いてみるとあまりに独善的なもので驚いてしまう。怖いのはそういう人に限って、何処が悪いのか判らないことだ。
 夢を追いかける人というのも、一時期持て囃された。しかし、最近では夢の質やその実現のための努力など、本当に大切なものを吟味するようになってきた。だから、ただ単に夢ばかり見ている人間は、早晩相手にされなくなり、本当に何をしたくてそのためにどれだけの計画性を持っているのかが、その人を判断する基準となる。それでも、夢を語る人の数は減ることはなく、少し相手にされると調子に乗ってしまう人もいて、あとの処理が大変になる。そういう輩を持ち上げる人たちは、何とも無責任に上げるだけ上げておいて、結局さっさと立ち去ってしまう。持ち上げられたほうはその気になるから、しばらくの間頑張ってみるが、本当に見込みがある場合を除けば、大部分の夢は成就せずに終わってしまうわけだから、いつの間にか勢いを無くし、しばらくあとには何処かにいなくなるわけだ。その間に相手をさせられるほうが何とも悲惨であり、右左、上下に振り回された挙げ句、失敗の原因を作った悪者のように扱われる。かなわないと思うこともあるが、真面目に取り組む性格だけに、そういう夢追い人を放っておけないのだろう。一方、確固たる主義主張のある人たちにもそんな人種が一杯いるようだ。人の意見に流される人が増えてきて、自分の意見を出す機会も失ってきた人が多くなると、その中で闇雲にでも意見を述べる人は貴重な存在と扱われる。実際には取るに足らないものばかりを並べ立てる場合もあり、そういう人の相手をさせられたら何とも嫌な思いをするばかりなのだが、ここでもある程度真面目な人は被害を被ることになるわけだ。それにしても、何故こんな人種が目立つようになってきたのだろうか。世の中全体に変になる方向に向かっているという意見も出るだろうが、どちらかというとそういうことではなく、以前ならば目立たないか押さえ付けられていたはずの人々が、舞台に上がる機会を得られるようになったということなのではないだろうか。常識が第一とされていた時代には、非常識な言動や素行を繰り返すだけで相手にされなくなったものだが、最近はそういうこともないらしい。特に、上に立つ人間に非常識が目立つようになると、歯止めがかからなくなるようで、この頃そういう輩がやけに目に付くようになってきた。人の能力を測る指標の変遷もそういう事態を招く原因の一つになっているのだろうが、それはつまり多くの人々が人を見る目を失いつつあることを表しているのではないだろうか。ちょっと注意して眺めるだけですぐに判りそうなことが、難しくなるだけでなく、どうも同類が群れる傾向がさらに強くなり、彼らの勢力が増すことでさらに悪化の速度が増加するという悪循環を産んでいるように思える。何処まで落ちれば済むのか、判らない状態では、不安だけが先に立つから、そろそろはっきりさせたほうが良いのかもしれない。

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3月29日(水)−貧富

 金持ちは文句を言えるが、貧乏人にはその資格がない、そんな意見を平然と述べる人が戻ってきた。国や社会に対する注文の権利は納めているもの次第で決まるという時代もあったのだろうが、さすがに民主主義とか言い始めた時、そんな声は消し去られてしまった。しかし、今、どうもこういう話が復活してきているのではないかと思える節がある。
 人生の成功者はどれだけ金を稼いだかで決まるなどと信じている人が増えている時代だけに、何でもかんでも金銭的な価値で計ろうとする風潮が目立つようになるのは仕方のないことかもしれない。それにしても人間の価値がその資産で決まるとは大金持ち以外は思いたくないことだろうし、世の中の物事を全て金銭で判断するのも止めておきたい。自分がそういった物差しで測られることも腹立たしいが、これから行うことを経済効果のみを指標にして評価するのも変な感じがする。収支の均衡といえばそうなのだろうが、いずれにしても一見してわかるような指標を採り入れないと理解できない人間が多くなっていることには落胆してしまう。何故、そんな方向に向かってしまったのか。まずは、経済成長の結果として多くの人々が経済的に豊かになり、その座標上の大小で人の価値を計るような風潮が少しずつ現れ始めた時代があった。全体として成長を続けていた時代には、流れに乗って先頭を行く者でも、あとをくっついて流れていく者でも、どちらにしても成長の急流に乗っている実感があった。ところが、そこに大きな変化が訪れ、滝のような急激な落ち込みが目の前に現れたとき、人それぞれにその後の対応によって、または運に左右され、滝つぼの澱みに嵌まったまま動けなくなった人が出る一方、巧くそこから抜け出して、その先の流れに乗ることができた人が出てきた。そんな中で、大きな格差が生まれ、以前から抱いていた感覚をそれに当てはめることで人間の価値を金銭的な指標で計り、扱いを決める気分が表面化してきたのではないだろうか。何にでも効率を押し付け、投入した金額とそこから産み出された金額の差を問題とするようになると、一般の経済活動であれば当たり前のことでも、そういう観点では本来捉えられないものにまでそれが適用されることで生まれる歪みが徐々に大きくなった。その典型は教育であり、富裕層の子息と貧困層の子供が全く違った進路を歩む結果となるのはそのためと言われるようになっている。しかし、実際には金で片付けた教育は本来の教え育むものではなく、単なる技術としての試験術の伝授でしかなく、何処か別の形の歪みを植え付けることになったのではないだろうか。そろそろその歪みの解消の緊急性に気がついた人々は、文句を言った人を巻き込んで、社会全体で進行方向の修正を試みるようになってきた。果たして間に合うのかどうか、すぐに効果が出る代物ではないだけに何とも言えないが、何もせずに突き進むよりはいくらかましなのではないだろうか。経済界に身を置く人々も教育界に身を置く人々も、同じことを問題視しているのであれば、一致団結して解決を図る必要があるだろう。自分だけが良ければいいと思えた時代はそろそろ終焉に近づいていて、そういう悪しき個人主義の末路は悲惨なものであることに気づいた今、人それぞれにやるべきことを見出して取り組むべき時代が来ているのではないだろうか。

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3月28日(火)−命の値段

 値段の問題の続きなのかもしれないが、市場原理が云々という意見がよく出される。需要と供給の均衡によって価格が設定されるというものだが、実際には様々な変化を経てあるところに落ち着くという過程が必要となる。その途上で種々の要素が顕になり、それぞれの軽重を比べたうえで、何処が適切なのかが決められていくわけだ。
 これだけならなるほどと思うのだが、何に対してもこうなるのかと考え始めるとそんなに簡単なものではないことが分かる。需要と供給とか、競争原理とか、そういったものが重要になることは確かなのだが、それ以外の要素が入り込む余地はたっぷりあるからだ。同じ性能を持った製品が同じように市場に出回った場合、それぞれがどの程度買われるかは価格が決めることになるだろう。しかし、もしその製品に購入後の配慮が必要となることが明らかな場合、それがどういう形で行われるかも価格に含まれる重要な要素となる。一方、安全性が問われる製品の場合、それがどういう形で保たれているかとか、そのことに対する信頼性はどの程度か、といった要素もいつの間にか加味されており、それが価格に反映されることが多い。単純に製品そのものの品質と言っても、その中には表に現れるものとそうでないものがあり、これらをどう扱うかは購買者の気持ちに左右される。現実には品質管理が法律上の規制として義務づけられているものが多いが、それとて現場でどう対応しているかは生産者側に任されているわけだ。だからと言ってしまうと言い過ぎになるが、様々な事故が起きたり、管理上の不備が指摘される事件が度々起こり、倫理上の問題として扱われたり、企業の印象が下落するなどといったことに繋がる。こんなことを考えていると、、安かろう悪かろうの時代でないことは確かなのだが、それほど明確でないにしても、価格競争が何らかの形で製品の品質に跳ね返ってくることはありそうに思えるのだ。食品の安全性について、様々な問題が指摘され、法規制だけでは不十分な点があることが明らかになったが、それとは全く違うところで、違う問題が明らかになりつつあるように思える。安全性と言っても、食品のように直接的に命に繋がらないものではなく、何かあれば即座に命を失う危険性のある業界についてのものである。運輸業は物を運ぶだけでなく、人の移動に関わる業界で、ここでも様々な競争が巻き起こり、業界全体を揺るがす事になってきた。海の向こうはその変化が劇的であり、果たして競争が消費者にとっての利益に繋がるのかどうか、段々信じがたくなっているようだ。それとは別の意味の激変がこちらでは起きているように見え、業界再編による安全性の失墜も大きな出来事だが、一方で競争激化が原因としか思えない安全性を無視するような出来事が頻発している。消費者にとって出費をいかに減らすかは大変重要なことに違いないのだろうが、それによって最も大切なものを失ってしまったら何ともならない。このところの動きを見るかぎり、何かしら重要な要素を欠いたまま、様々な改善と言われるものが実行されてきたためなのでは、と思えてくるのだが、どうなのだろうか。おそらく一番大きな問題が買う側が当たり前と考えていることが失われつつあることで、この大前提が崩れてしまっては何も成立しないことになる。安全は当然という考えが危うくなったとき、おそらく別の競争が導入されるのだろうが、そうなることを望む人はいないだろう。

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3月27日(月)−上

 外食するとき、場所によっては同じようなものの中から一つを選ぶ形式になっていることがある。並、上、特上とか、梅、竹、松といった具合にして、価格に反映される形のものもあれば、名称からだけでは分からないが、値段を見れば何となくそれが判るようにしてある場合もある。問題はどれを選ぶかなのだが、さて、どうするだろう。
 このところ、外食産業の競争の厳しさが取り上げられることが多く、値下げ競争や低価格の新商品の紹介が頻繁に行われていた。安かろう悪かろうという時代ではなく、良いものを安く提供することが強く求められる時代だから、経営者にとっては頭を悩ませる問題であり、競争の継続はうっかりすると共倒れになりかねない危険性を孕んでいた。消費者にとっては歓迎すべきことなのだろうが、もし共倒れが起きた場合には結果的に不利益を被ることになるから、それを心配しつつも低価格を歓迎するという複雑な心境だったのではないだろうか。こういった動きに促されたからか、安い物を優先的に選ぼうとする心理が強く働くようになっていたが、本来はそういうものでもなかったようだ。たとえば料理店に入って、2つより多い選択肢の中から選ぶような形式になっていた場合、下から二番目が良い選択と言われることが多かった。最も安い物は安くするためにどうしても安い食材を使わざるを得ず、それが質に反映されてしまうのに対して、二番目ともなればきちんとした食材を使うようになるし、少しくらい高くても食べてみようとする客を大切にしようとする心理が働いているはず、というのがその理由として挙げられていたことだが、その真偽はともかく、こういう心の動きが取り上げられることからして、ランクというものの扱いは重要とされていたのだと思う。それに対して、最近の市場の動向は全く別の考えに基づくものであり、とにかく安いことが第一であり、その質の保証については二の次となるといったものであった。元々出回って、人気を博していたものの値下げ競争が主体であったから、こういう考えが出て来るのは当たり前なのだろうが、それにしても激化していたものだ。その結果として何が残ったのか、何となく安い物だけを追いかける心理が強調されただけのような気もするが、どうだろうか。このまま行くと何とも情けない心の持ち主だけが増えるのではと心配していたが、そんなことはないらしく、実入りが増えれば気持ちを変える人種ばかりだったようだ。一つ上の価格のものを選ぶとか、少し贅沢をするとか、まだ最低を基準とした表現が目立つが、それでも違った心理を働かせる人が増えているという。これを経済状況の改善の指標として紹介するところが出てきたところを見ると、まさに収入との比較が問題にされていたのだということが判る。しかし、額の違いはほんのわずかであり、ほとんどは噂や報道に誘導された心理的なものに過ぎないことが本質的なことであることをもう少しきちんと分析して欲しいものだ。

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