パンチの独り言

(2006年4月3日〜4月9日)
(変革、貴重、定年、共通語、仮面、発展、仁徳)



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4月9日(日)−仁徳

 人間、金があるかどうかが一番の問題だ、と言う人々がいる。そう信じたいのであれば、そのままでよく、そういった人生を歩むのも選択肢の一つだろうと思う。ただ、財産を持たない人間にとっては、そういった選択肢は何処か遠くの世界のものであり、別の尺度を頼りに生きている人もいる。人それぞれがこんなところにも現れているのだろう。
 金の便利なところは、それが通貨という形をとっていて、ほとんど何にでも交換できるということにあるだろう。だから、それを持っていれば、ほとんどのものを持っているのと同じと見なすことができる。そんなところから、そういう人々を尊敬する人がいて、自分もそうなりたいと願うのだと思う。夢や希望を持つことは大切だろうから、たとえそれが少々歪んだものであっても持ち続けるべきだろう。但し、いつの日か達成されるのであればいいのだが、もし到達できなかったとき、どうしたものかあまり想像したくないところだ。逆に達成できたとして、それが予想通りのものかどうかはまた別の話であり、意外なほどの不満が残ったり、別の夢を追いかけることになる場合もある。確かに、金だけの繋がりとはいえ、それが継続するかぎりは太い絆で結ばれていることになるのだろうから、それはそれで幸せなことに違いない。ただ、そういうものを手に入れられなければ幸せになれないかといえば、違うという答えの方が圧倒的に多く返ってくるのだと思う。最低限の生活を保証するものは必要だろうが、他人との繋がりを維持するために使う必要のない人も多く、過剰なものを好まない人もいるかもしれない。それより、精神的な繋がりを大切にし、そういった関係を結べることを幸福と感じる人がいる。こういう人々にとっては、人との関係を良好に保てる人の評価は高く、思惑だけで動く人や身勝手な人の評価は低い。そこには地位の高低や財産の多少といった要素の寄与はほとんどなく、ただ単に人そのものを見ているだけに過ぎない。結果として、財産を築いた人や地位を上り詰めた人がいたとしても、それはその人の資質によるものであり、そのために全てをなげうって努力した結果ではない場合も多い。ところが、その辺りを誤解する人がいて、結局そういう努力を惜しまないことが成功の鍵と思うらしい。全く不幸の始まりとしか思えないが、努力する目標を設定できただけでもよしとすべきだろうか。人に対する評価の基準というものは、人それぞれに違うはずだが、多くの人々に好かれる人はおそらく何処かそういったものに当てはまるものを持っているのだろう。最近はこんな言葉を使っても理解してもらえないのかもしれないが、それをさして徳があるということもある。努力して身に付けられるものではないという見方もあって、生まれながらに備わっているものとも言われるが、さてどんなものだろうか。そういう人を見ていると、なるほど努力の結果ではないなと思えることが多く、確かに資質の一つといえるのかもしれない。だからこそ、それを持たない人は別の努力をせざるを得ないのだろうか。

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4月8日(土)−発展

 海を挟んだ隣の国の発展ぶりは目覚ましい。画面に映る光景は驚くほど高層のビル群であり、まるで最新の都市を見るようだ。しかし、その影で古びた低層ビルが朽ち果てている姿は前面に出てくることはない。破壊と建築の繰り返しによって作り出されている新都市は各所に作られており、複雑な状況を産みだす。
 何処かの国の後を追いかけてばかりいると言われ続けた国の人間から見ると、こういう情景も同じような状況を表しているように見える。違いを見いだそうとすれば幾つも出てくるが、それはその時代の違いによるものが多く、はっきりとそこに現れる意図の違いにまでは至らないような気がする。その中で、彼の国は社会組織の違いを常に強調し、そこに存在する自由度の違いが、結果の違いに繋がるものとしている。確かにそういう基盤の違いが分かれ道において、違う選択を促す場合もあるのだろうが、実際にそれを明確に表した例は今のところ無い。それより、どちらかといえば複製のようなものばかりが目に付き、無難で留まらないところに大きな違いはあるものの、全く違うものとは思えない雰囲気だ。だから、今後の注目点としてはある程度の水準に達したときから、更なる発展を望めなくなり、安定期に入ったとき、どんな変貌を遂げるのかということだろう。常に、次を狙って動いているときには、目標の設定も方向の固定も難しくはないが、平らなところに出たときには、だだっ広い場所で進むべき方向を見失うことが多い。そういうところに行き着くまでの時間がどれくらいあるのかはわからないが、この調子ならば数年のうちにそういう変化が訪れる可能性は高い。歪みの現れ方には先進国との違いは見られず、おそらく同じ轍を踏む可能性が高いだろうと思える。その上、このところの一部の先進国での政情不安というか、何となく不安な雰囲気が、このまま広がりを見せてしまうと、こういう国ではかなり大きな圧力に発展する可能性がある。内部の不安要素だけでなく、外部からの要素に備えるのはかなりの困難を伴うわけで、その動向は多くの国から注目されるだろう。様々な数値がうなぎ上りで増加し、一番を取り始めたものもあるという。このまま伸び続けるのは難しいだろうが、その継続にばかり注目せず、その他の要素、均衡やら歪みやらといった呼ばれ方がされそうなものにも、注目していく必要があるように思える。先人の知恵を重視してきた国だが、その一方で国の存亡の繰り返しが続いた国でもある。どういう結果が出てくるのか、さすがにそちらについては数年でというわけにもいかないだろうが。

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4月7日(金)−仮面

 虎の威を借る。最近はあまり使わなくなったのだろうか。別の言い方があるのかもしれないが、この国ではこんな様子がはっきり表れている例をよく見かける。昔の感覚とは少々違うのかもしれないが、とにかく自分の力量の足らなさを補う方法の一つとして存在しているようだ。そこにあるのが謙虚ではないのだが。
 自分のことを他の人々や世間に訴えるために、誰か実力のある人の助けを借りることがある。そうすることによって、自らの力も上がるような気がするのだが、実際に結果がそうなるとは限らない。特に、助けを乞うた相手がこちらのことを十分に理解したうえで登場するのならば、色々な形での配慮がそこにあるから、無理を通すようなことはなく、それなりのところに設定された話が展開される。ところが、お助け人との意思の疎通もなく、ただ金で解決しただけの話だと、どう見ても行き過ぎの話になることが多い。そういう展開を見守る方にとって、こういう形は好ましく映らないから、どうしても主張ばかりが目立つ形になり、そこにあるべき力の評価は些かも上がることはない。このあたりにも力の現れ方の違いがあり、本当の実力を見せるためには、もっと慎重になるべきと思われる部分がある。別の見方をすると、実力に見合わないところまで背伸びをすることで、その後の努力目標が明確になり、そこへ邁進することの方が大切であり、いつまでも実力通りの場所に留まるよりは、ずっとましな展開があるはずと言えなくもない。これもまた妥当な見方だと思うが、実際にはそこにどんな雰囲気があるかを見れば、どちらが当てはまるものかがわかりそうな気がする。いずれにしても、傍目から見てどちらに見えるかは非常に重要なことだし、そこでの評価は実際にその後の展開に影響するはずである。だからこそ、自分の力を遥かに上回る人に登場を願い、その助力によって何かをやり遂げようとしたわけなのだろう。こういう話はどこにでもあるようで、企業がそういった催しをしたり、政治家がそんな動きをすることもよくある。誰しも、上を目指したいものだろうから、こういうことが様々なところで見受けられるのだろう。しかし、そういった人々を利用しようとする思惑の違いによって、結果が大きく違ってくることに気づかない人々がいるのは何とも情けない気がする。

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4月6日(木)−共通語

 言葉が通じないところに行くことがあると、その前にかなり不安になる。国際語という意味では、英語がそれにあたるはずだが、たまにそれが通用しないところもあり、警戒心が高まるのだ。言葉というものは本来意志の疎通に使うわけだが、国それぞれ、地域それぞれ、人それぞれに違うこともあり、こんなことが起きる。
 国際化が叫ばれているのに、こんな状態ではと思うところもあるが、国ごとに事情があるのだろうから、一概に言えるものではないだろう。教育水準の違いにもよるだろうし、人それぞれの考え方の違いにもよるところが大きい。ただ、結果として出てくるのは仲間ならば問題ないが、それ以外だと大問題ということであり、普段の暮らしについては何の不自由も感じないわけだから、無理をすることもないという思いに至ったとしても不思議はない。実際に、自分が移動する段になって初めてそんなことを実感する場合も多く、だからどうしたというわけでもないだろうが、そんな機会もなければ、どうということもないわけだ。国や地域による違いは、そんなもので済まされてしまうのだろうが、人による違いの方はそんなに簡単には済まされない。同じところに住む人でも、世代の違いによって意志の疎通が容易でない場合も多くなってきたし、たとえ同じ世代でも、仲間かどうかによって難しさが変わることも多い。実感する人もいれば、そうでない人もいて、まあ、自分たちの周りの人間によるのだろうが、一方で、自らそういった動きをする人もいる。仲間とそうでない人とで区別をして、近い人にだけ意思が通じていればいいとする、そんな感じだろうか。時にはそれを更に強調する形で、わざと仲間内だけに通じる言葉を作りだす人もいるようだ。そうしたいという気持ちがあればまあ仕方のないところだろうが、仲間との確認ばかりに気がとられていて、周囲に対する配慮は全くない感じを受ける。人はそれぞれ、同じような考えを持った人と近づきたい気持ちを持つだろうし、違う考えの人との論争を避けたい気持ちも持つのだろう。しかし、だからといって、一様に排除するだけで良いのかといえば、そうではないのではないだろうか。国が互いに持つ思いと同様に、人が互いに持つ思いもそんなところに基づいているのだろう。だとすれば、その辺りの基本をいい加減にしてしまうと、とんでもない方向に向かい始めるような気がする。

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4月5日(水)−定年

 老後の心配は誰にでもあるだろう。健康の問題も大きいだろうが、先立つものはということもある。特に最近話題になっているものを見ると、自己管理が専らである前者に比べて、国が整えてくれていた仕組みの不備を指摘され始めた後者は、他人任せではなく、自らが将来を見据えて準備をしなければならない時代に入りつつあるようだ。
 他の国で暮らしてみると、自分の国の仕組みがよく見えるようになる。絶対的な評価は誰にとっても難しいものだが、何かと比べて長所短所を列挙できる相対的な評価は比較的簡単だからだ。そういう中で、自己管理体制が整備されている国と比べると、この国は社会保険体制が整えられていると言える。但し、北欧の国のような水準には達しておらず、それを見て不十分と見なす人もいるだろう。しかし、そこに注ぎ込まれる税金のことを考えれば、この程度の税率であの水準を達成することは明らかに無理な話だし、そちらを比べずに結果の部分だけを比べるのはあまりにも無茶である。同程度の税率を前提としたとき、当時は、その中で整えられる社会保険の水準としては良いところにあると思われたのだが、その後の展開はどうもそちらの方向には向かっていないように見える。健康保険制度は特にその中でも優秀な部類だったと思うのだが、それとて高齢化が進み、そこに不公平感が現れ始めると、その地位が怪しくなってきた。全体で支えることの大切さと、一方向的な恩恵の流れとの間で、うまく説明する手だてはないようで、それを仕組みの問題としてしまいたくなるようだ。実際には、こういう事態は十分に予想できたことだが、それ以外の要素に変化が起きたことが、こういう問題の発端となっているように感じられる。つまり、個人主義の台頭、利己的な考え方の増加、そういったものが、不公平感と相俟って、異様なほどの批判の渦を巻き起こしている。同じように社会で支える仕組みに年金制度があるが、こちらもこのところ槍玉に上がっており、年金の多少のみを問題として繰り返される批判には呆れるばかりだ。公務員は給与とともに、年金の問題でも批判の的となり、ついこの間まで、そんな安い給料で働かなければならない公務員には絶対にならないと言われていたことなど、すっかり忘却の彼方のようだ。年金制度は、老後を安心して暮らせるようにするためのものだが、元々生活を支えるためには働いて収入を得なければならない。しかし、公務員や会社員には定年という打ち切り制度があり、その後の生活は自分で何とかしなければならなくなる。定年が平等を謳った憲法に違反することという指摘は海の向こうで話されているようだが、この国ではそんな話は全く起こらない。だから、この決定を受け入れなければならないが、その中で自分の生活は続くわけだ。だからこそ、年金の存在は重要であり、できればそれだけで何とか賄えるほどの水準を保って欲しいと願うのは当り前の事だろう。ところがここで引き合いに出される問題点は、自営業者の年金との格差なのだ。定年制度の存在する組織とそうでない組織を、こういう形で比べるのはあまりにもおかしなことなのではないかと思うが、批判する立場の人たちにはそういうものが見えないことになっているらしい。それとも、結果として税金が支えるのだから、そこに不公平があってはならないというのだろうか。何処かおかしな気がするのだが、いつものことながら批判する側が強い立場にある。困った話にしか見えないのだが。

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4月4日(火)−貴重

 中古の電化製品に関する話題は、意地を張る人々の情けなさを暴露しただけなのかもしれない。真面目に動く人々だけが損をする形で、居直って、文句を並べ、力のありそうな人に頼った人々は損をしなかったという意味で、ごね得だったのかもしれない。しかし、根本にあるのが安全なのに、それが別の圧力により蔑ろにされたように見えるのはいただけない。
 古い物を大事にしよう、という気持ちが重要かどうかは人それぞれに見解の異なるところだろう。古臭い、汚い物を後生大事に抱えている姿は見窄らしいだけと思う人がいる一方で、本当に良い物は古くても、多少汚くても、大切にしていくべきと主張する人がいる。前者の多くは新しがり屋で、とにかく新製品に飛びつく性質を持ち、次々に古くなった物を捨てていく。経済を支えるという意味では優良な消費者であり、流行を作り上げていく上でも重要な存在である。こういう人々が全て歴史とか伝統とかを軽く見るとは言えないわけで、自分の使う物についてはこんな考え方を持つといった程度のことだろう。一方、他の人たちから見たらがらくたに見えそうな物を自慢気に飾る人々には、独特の拘りがあるそうで、それを理解できる者たちだけが互いに意見交換をする場を設けるなど、一部での盛り上がりはかなりのものだ。今回の騒動についても、そういう集まりが核となって、多方面に働きかけ、結果として妥協案を引きだしたと言える。今回の問題は、あくまでも通常使用する製品に対する規制であり、それが伝統をもつ貴重品なのか、単なる中古品なのかを区別するものではないところにある。法規制を当てはめる際には、利用者の安全を第一に考えるのが当たり前であるけれども、一部の愛好者にとってはそれを自己責任として納得することが出発点であることが多く、その辺りの考え方の相違が問題を複雑なものにしたのだろう。しかし、その議論の過程で一部の人々が問題視した、古いものを大切にしない風潮を拡大させるという懸念は、少々行き過ぎた配慮から出てきたものと言えるのではないだろうか。物を大切にする心を、こういう心のこもっていない法律はズタズタにするとまで言ってしまうと、なんという極論だろうかと思える。その一方で、海外から流れてくる話題はこういう議論が平和の上に立ったものであることを実感させるのは、これまた興味深いことだ。大国が介入した戦争の現場は、徐々に秩序を回復しているように見えるときもあるが、まだまだ混乱が続いている。その中で、目立たないが大きな問題と受け取られているのは、盗掘や略奪などによる文化財の喪失である。博物館から奪い去られた文化財の多くは海外に流出したらしいし、その管理が厳しくなると次には遺跡からの盗掘が急増してきた。古い物は一度失われたら再び手に入れることは難しい。たとえ、精巧な複製を作ったとしても、所詮は本物ではない。自分たちが今存在している場所の宝は、自分たちの存在証明でもあるはずで、それが歴史上の文化財を保護する考えのもとになっているのだろう。そういう考えが捨て去られる状況とは何を意味するのか、単純に世相の混乱だけを原因と見たほうが良いのか、それとも別の要因があるのか、平穏無事な生活を送る人間には、見えてこないものなのかもしれない。

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4月3日(月)−変革

 成長を続け、金余りの状態になったとき、何でもいいから闇雲に投資してしまった企業が沢山あったという。業績が傾くよりも先に、そちらの状況が悪化してしまい、あっという間に渦に巻き込まれてしまったとき、思いついたのは下手なものに手を出してはいけないということだったのだろうか。それが一時期下手、上手に無関係に駄目となっていた。
 懲りない人々の話を何度も取り上げてきたが、その一方で、一度の失敗で懲りてしまい、一つの答えに固執してしまう人もいる。はじめに書いたのもそういう人種の話で、失敗の選択を回避するための唯一の答えとして、そういったものを選ぶ方法がとられた。実際には、これも選択の一種であり、それが失敗の原因になったことに気づくのは、かなりあとになってからのことなのだが、選ぶことを躊躇するあまり、先行的な決断は一切なされず、出遅れが明確になってしまった企業も多かったようだ。それが自分たちの立場を守るためなのかどうか、最後まで経済の回復を否定する側に回り、それがまた自らの評判を落とすことになるというのは、何とも皮肉なものである。実際に、一度逆に回り始めると、そういう動きを止めるにもかなりの力が必要になる。止めようとするより、そのまた逆に回す力を思い切りかけたほうが効果的なことは明らかだが、それをすれば必ずそちらに回り始めてしまうから、またまた逆のという繰り返しを避けることができなくなる。はじめの回転速度が高ければ高いほど、つまり調子に乗って加速すればするほど、その逆の力も大きくなり、調整がうまくいかなければ逆転の速度が高くなる。これを繰り返していると、渦中の人々はあちらこちらへ引き回されることになり、安定を得ることは難しくなるから、肉体的にも精神的にも厳しい状況に陥る場合が多い。そういうところを巧く調整するのが経営者の役目のはずが、懲りてしまった人々は何も手を下さないという選択をしてしまった。結果は、落ち着きだけはあるのだろうが、衰退の一途となってしまう場合もあるだろう。そういうことが教訓になったのか、公の組織にも様々な改革の嵐が吹き荒れた。変えることを強いられ、次々に変更される方針に振り回された結果、当初の目的は何処かに吹っ飛んでしまった形で落ち着くところに落ち着いたようだ。これから、再び変わった姿での効率化が重荷として降りかかってくるわけで、簡単に答えが出せないことは既に明らかになりつつある。そんな中で、また別の形の統合が話し合われるというのには少々辟易としてくる。目先を変えるとか、猫の目のようにとか、そんな喩えが使えそうな雰囲気があり、その結果として、揺れ戻しやら逆転やらという対応の難しい現象が起こることは容易に予想できる。しかし、動き始めてしまったものは止められない。何処に行き着くのかは旗振りにもわからないのだ。

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