パンチの独り言

(2006年4月10日〜4月16日)
(拘泥、茶事、委託、儲欲、予備、広告、愛護)



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4月16日(日)−愛護

 毎年この季節になると思うことがある。国民的行事とも言えるもので、他の国ではほとんど見られない。ひと月ほど前からそわそわし始め、その日が近づいてくると居ても立ってもいられないという人もいる。季節の移り変わりを楽しむのなら、他の季節にもと思えるのだが、そうではなくこの時期に限られる。この国特有の不思議な現象の一つかもしれぬ。
 勿体ぶって書き始めたが、ほとんどの読者にはもう想像がついているだろう。この季節、国を挙げて、となれば、大体察しがつくものだ。其処彼処が賑やかになる花見である。花を見るだけなら、どの国へ行ってもありそうで、海の向こうでは春先に咲く砂漠の花を見るために車を飛ばす人も居る。花見には違いないのだが、こちらとはかなり状況が違っていて、パッとやって来て、パッと帰って行く雰囲気だ。人の手が入ったものではなく、単に自然を楽しむといった風情であり、公園に植えられた樹の花を楽しむのとは随分事情が違いそうだ。花を愛でるという感覚もちょっと違うみたいで、表現するのは難しいが心の高揚具合が違っているようにもみえる。何しろ国のあちこちで人の集まる場所があり、集まった人を相手に商売をする人がいるなどということはかなり珍しいのではないだろうか。本来の目的は満開の桜の花を愛でることのはずだが、どうも最近は事情が違ってきたらしい。綺麗とか美しいというより、それを機会に人が集まり、宴を開くことの方が重要に扱われるところもある。ただ花を愛でるのであれば、そこに更なる刺激は無用のはずだが、現実には口実を与えるためだけの花であり、上も見ずに盃を重ねる人も多い。これは今に始まったことではなく、昔からそんなことがあったのは、落語の世界を覗けばよくわかる。貧乏長屋の面々が花見に出かける様を面白可笑しく伝える話には、どことなく貧乏の悲惨さが見え隠れするが、その一方でそんなものを笑い飛ばしてしまう心意気が感じられる。本当にあった話とは思えないが、高価な肴の代わりに野菜が登場するなど、何とも言えない機知が感じられる。その昔から、花見に付き物だった酒も最近は限度を越えた行為が目立ち始め、ついには禁止令が出たところもあるという。愛でるついでの酒が、いつの間にか愛でることも忘れた酒になり、度を過ごした酔っ払いの迷惑行為が槍玉に上げられる。たまの無礼講と大目に見ていた時代は遠い昔となり、何事にも制限をかけることとなった。しかし、礼を失した行為をしないようにという気持ちからではなく、どちらかといえば、迷惑を受けたくないという気持ちがそこにあるようだ。現実に、花見の名所の周囲の迷惑駐車は相変わらずの状況だし、酔ってもいないのに花の枝を折ったり、木に登る人も見かけられる。何処かにずれを感じるのはこちらの感覚がおかしいからか、わからないことだらけだが、そこに心の余裕の無さが現れていることだけは確かなようだ。

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4月15日(土)−広告

 電車の中の風景が変わったように思う。以前なら、寝ている人と同じくらいの数が本を読んでいたように記憶しているが、今はそのほとんどが画面を睨んでいるのだ。メールの送受信を繰り返す人もいれば、ゲームに興じる人もいる。テレビ受信が可能になったことから、次にやって来るのはその波だろうか。これで歓声を上げたら、異様な光景だろう。
 車中の暇潰しは読書か人間観察と決まっているが、それ以外にも材料はころがっている。中吊り広告はその一つで、雑誌の広告、百貨店の広告、不動産もあっただろうか、次々に現れ消えるものだから、世相を表していると言えるだろう。時々刻々の変化を巧く攫むための道具として有用なのだが、最近は一企業が買い占めた車両もあり、楽しみは激減する。一方、それよりも長期に渡る宣伝効果を狙ったものは、壁の天井近くに並んでいて、それはそれでまた世の中の動きを追っている感じがする。こちらにも以前は見られなかったものが目立つようになっており、必要性の上に立つはずの広告だから、それだけの需要があるのかと考えてしまう。最近特に目立ち始めたのは、弁護士などの法律事務所や司法書士の広告で、その理由は単純明快である。借金の返済に困った人々がいて、法的な措置を必要とする場合に、彼らの助けが要るのである。なるほどなあ、と思いつつ、周りを見てみると、何故そんな助けの必要な人が増えたのかがよくわかる。サラ金などの貸金業の広告が、弁護士の広告の倍ほどの数並んでいるのだ。いくら法律の範囲内と言っても、借金にかかる利息の率は非常に高い。そんなことには構わず借りる人がいるのだから、それで商売は成り立つわけだが、預貯金の利率と比べたとき、その異常さは際立つのではないか。そんな中で、銀行業界が貸し金業界と手を組む話があったが、預かった金をそちらに運用すれば、簡単に利益をあげることができるわけだから、当然のことなのかもしれない。実際に銀行自身が融資する場合とは一桁ほど違う利率が課せられているわけだからだ。以前なら闇の領域と敬遠されていた業界に、全てを詳らかにしなければいけない業界が参入するなど、とても信じられなかったことだが、利益追求とはそんなことまでするのかと驚くばかりである。金を借りてばかりいる人々が何故それを必要とするのかはわからないが、とにかくあるところで破綻を来す人がいる。その時登場するのが弁護士や司法書士なのだろう。そんな図式から、隣り合わせの場所に広告が貼られるわけだ。そんな中で業界大手に厳しい措置が下されたという報道があった。こんなことで怯む連中でないのは承知しているが、だからこそ、何か根本のところを考え直す必要もあるのではないか。

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4月14日(金)−予備

 整理整頓の出来不出来がその人の仕事をこなす能力を表すと言われる。職場の机の周りをいかに片付けておくかが肝心であり、傍目にもその様子から能力のほどが判るというのだ。その真偽はさておき、多くの仕事を抱える人にとって最も重要なことの一つは、データアクセス能力だろう。昔の書類をいかに早く見つけるか、会議の要点をいかに思い出すか。
 そんなことをするために、通常は整理整頓をして、書類を纏めておくことが大切というのが、整理主義の主張の基となっている。しかし、一見整理されているようで、肝心の書類を発見できなかったり、メモに頼りすぎて記憶が曖昧だったり、どうにもその威力を活かせていない人も多い。その一方で、片付けられていない机の周りの山積みになった書類の中から素早く必要なものを見つける人がいて、整理という言葉の本当の意味は何なのだろうかと考えさせられる。結局、探し物を見つけるために必要な道筋を設定してあれば、それがどんな形で存在していようとも、問題にはならないということであり、しまい込むことが整理と思い込んでいる人々には、そのことが永遠に理解できないのだろう。ただ、一般的に言えば、乱雑な机よりはきれいに整った机の方が効率的に仕事を進めることができるだろうし、見た目も良いから周囲に対する印象も悪くはならない。データへの接近法は人それぞれに違うが、それは単純に人の性格だけでなく、その人がいる場所の設備によるところも大きい。以前ならば、全ての書類を手書きで済ませ、複写を別のところに保存する形式をとっていたが、今ではパソコンの中に入れ込むことが多い。電子的に記憶させていると、それが何の問題もなく永久に保存できると思う人も多いが、所詮は機械のやることであり、時に故障などの障害を生じる。重要な資料であればあるほど、それを失ったときの影響は甚大だから、その衝撃を和らげるためにも複写のようなものを作っておいたほうが良いと言われる。にもかかわらず、多くの人々が日頃の忙しさにかまけて、ついバックアップをとらずに仕事を進めてしまう。機械の信用度も増しているから、問題はほんのたまにしか起こらないが、その頻度の高さはここでは問題ではない。二度と回復できないデータであれば、たった一度の事故が起きてしまえばそれでおしまいであり、機械の復旧はできても肝心のデータは失われたままとなる。当り前の事のように思えるが、実際にはこの手の事故は頻繁に起こっており、それによって失われたものの大きさや復旧に要する人手の大きさは計り知れない。さすがに一部の金融業では記憶装置を複数置くだけでなく、全く別の場所に独立して設置しているようだが、全ての業界でこんなことが行われているわけではない。仕方がないという覚悟ができていたとしても、結果が変わるわけではなく、結局大きな手間をかけることになる。普段のちょっとした手間を惜しんで、大きな負債を抱えるようなものだろう。

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4月13日(木)−儲欲

 損をしますよ、儲けになりますよ、こんな話に弱いのは人間の性だろうか。巷で流れる詐欺事件の多くは、金が絡んだものとなっている。誰でも先立つものが欲しいからと言えばその通りなのだろうが、それにしてもいとも容易く騙されるものと思う。目が眩むことや恥をかかされることが、少しの言葉で連想される想像力が強すぎるのだろうか。
 常識で考えれば詐欺に引っ掛かることはないとか、欲に目が眩んだからそんな結末を迎えるのだという意見が沢山出てくるが、その場、その時、果たして自分が冷静な判断を下せるかどうか、ああいうことを強調する人にとっても難しい問題なのかもしれない。非合法的なものでも、誘う人間が大丈夫というだけで信用してしまう人もいるし、将来に対する甘い展望に基づく話でも、つい心が動いてしまう人がいる。心が弱いからと簡単に片付けることもできるだろうが、実際にはそれ以外の要素が複雑に絡んでいる場合も多い。確かに、何度も騙される人間がいるわけだから、そこに基本となる心理の動きというものがあり、それを巧く利用した人間が騙す側に回ることになるのだろう。しかし、それだけでは被害者があれほどに膨らむことはなく、何処かに人間の欲、仏教で言うところの欲の存在があるに違いない。嘘を吐くとか騙すとか、罪深いことであると宗教では主張しているが、実際にそれを経験したことのない人間はいないだろう。何かしらの罪を犯し、それを反省することでより高いところを目指す、というのが宗教で言うところの教えのように思うが、それがいつまでもなくならないからこそ、人間という存在があるのかもしれない。さすがに、そんな話は何処か別世界の話のように思えるが、いずれにしても、この世の中から詐欺事件が無くなることはあり得ないだろう。次々に新種が現れる振り込め詐欺と名付けられた一連の犯罪も、欲と恥が複雑に絡んだ心理を利用したものだし、最近話題になり始めた未公開株の取引についての事件は、まさに欲が前面に出たものに違いない。おいしい話には裏があるとか、儲け話は本当なら他人に話すものではないとか、そんなことを基本に置いておけば、こんないい加減な話に乗せられることはないはずだが、これだけ多くの被害者が出るところを見ると、やはり同じような論理で、同じような心理が動かされるのだろう。騙しの論理は自分で使えるようになれば、他からの話も適当に流せるようになると言われるが、それとて何処まで確かかわからない。信用していた人物に騙される場合には、それが当てはまるわけで、時間をかけてそういう手順を踏む詐欺師もいるのである。無欲で何事にも臨むということにはかなりの無理があるから、始めから考えることもないだろう。とすると、そこに欲に対する制動を持ち合わせるかどうかが大切になるのかもしれない。ただ、一つ間違えると悩みだけが増えることになり、引っ込み思案の消極的な人間を作り上げるわけだから、注意しなければならないのだが。

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4月12日(水)−委託

 関西のある都市にある美術博物館だったか、その存在は専門家の間では話題になっていたようだが、赤字続きの悲惨な状態にあるとの話だった。市営だから財政圧迫の問題もあり、廃館の可能性も検討されたようだが、さすがに反対の声が上がり、存続が決まったそうだ。その代わり、運営の一部を外部に委託することで経費削減を図るとのことだが。
 芸術とか文化と呼ばれるものには金がかかると言われる。それが当り前であり、その問題を解決するための方策を考えるべきという意見がある一方で、金の無駄だから無くすべきという意見もあり、議論は平行線を辿ることの方が多いようだ。結局、必要か否かという点に議論を持ち込めば、様々な見地からもその必要性を重視せざるを得ないし、生活に必要不可欠とは言えないまでも、彩りを与える要素として扱われることが多い。そんな中で予算との兼ね合いからのみ議論をする場合が多いが、ある私立美術館の館長によれば、寄付や会員による支援を模索せずの議論では解決への道は見えてこないとのことだ。確かに、欧米の美術館はそういった支援を採り入れ、少ない予算での運営を可能としている。今回の決定もそういう見方からすれば、ごく当り前の選択なのかもしれない。しかし、何でも公の力に頼ることに限界があるとはいえ、一方で全体で支える気持ちを捨ててしまうことには違和感を覚える。元々、この国の文化を支えてきたのは、公ではなく個の力であると言ってしまえばその通りなのだが、それだからそれしか道はないとするのもどうかと思う。享受する側に回ることだけを考える人々と、与える側に回ることを厭わない人が明確に区別できるのは、何処かに歪みがあるように思えてならない。文化を支えるものの一つに書籍があり、それを管理する施設に図書館があるが、ここも同じように合理化の波を被っているようだ。図書館全体の管理を外部に委託するところが出てきて、ある時テレビでその素晴らしさを紹介していたが、なるほどサービスとはこういうものかと思う一方で、何か違っているような感覚を覚えた。始める力は公に頼るしかないが、継続するためには効率を求めなければならず、そのためには経営の感覚が必要となるというわけなのだろうが、本当にそれしかないのだろうか。公のものだからこそ生まれた歪みという受取り方もあるのだろうが、実際にはそれとは全く違ったところに原因があるように思える。世の中全体に、誰かの為にとか、そういった感覚が薄れてしまい、自分の生活を守ることが最優先となった。当り前に思えるかもしれないが、最優先とその他の間に大きな溝ができた結果、現在の歪みが生じたようにも見えるのだ。効率化には公的なものは向かないという思い込みには、どこか無理矢理の論理があるように思える。切り捨てのための方便を、そんなに簡単に受け容れていいものかどうか、少し考えてみても良さそうなのだが。

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4月11日(火)−茶事

 街角から喫茶店が姿を消していると言われる。勝ち組と呼ばれる地域にある都市では、朝の特別セットが有名で、喫茶店もその競争の中で頑張り続けているから、他の地方と比べれば減少の割合はずっと少ないはずだが、将来もと言えないところがある。原因は珈琲離れではなく、巨大店舗網を持つ企業の参入であり、自由経済の象徴の一つかもしれない。
 喫茶店は長居をするものと思っているのはおそらくある年齢より上の層ではないだろうか。煙草を燻らせながら、ゆっくりと自分の時間を過ごす。そのための空間を提供するのが店の役目であり、客は少々高い値段の飲み物を注文するとしても、時間を買うことになるのだからと納得したものだ。では、飲み物の味に関してはどうかというと、店にもよるのだが、場末の喫茶店では炒りを深くして苦味を増したものが総じて供されることになっており、味の追求といった雰囲気は漂っていない。となれば、結果として場所代といった考えが主流となり、時間潰しのために店に入り、一時間を超えて滞在することも当り前となる。そんな空間だった場所に対する認識が変わり始めたのは、おそらく外国資本の導入の頃なのではないか。欧州に源を発する珈琲にそれに憧れた国の独自の方式として、泡立てた牛乳を注いだものは、苦いだけの味に慣れた人々に衝撃を与えたようだ。特に、外からのものに飛びつく若い世代に持て囃され、あっという間に広がった店舗網は、周辺の既存店の存亡に大きな影響を与えた。当然のごとく、成功例は追従者を招くもので、国内の資本も挙って参入し、競争の激化が目に付くようになった。そこで問題となるのは、他の店との違い、差別化というものだろう。開拓者はそのまま突き進めばいいのだろうが、後を追うものはそうはいかない。当然、人真似に過ぎないことが悪い印象を与え、二番手、三番手に甘んじるしかなくなる。それを打開するために、様々な試みをするのだろうが、本来の姿を失ってしまうほどのものでは逆効果だろうし、だからといって小さな違いでは気づいてもらえそうにもない。ただ、商品の違いよりも雰囲気や味そのものの違いに注目することも一つの方法であり、そちらに力を注いだところもあったようだ。いずれにしても、激烈な競争は良い結果だけを産むわけではなく、弱肉強食の世界を築いたり、盛者必衰の理を説いたりする。いつまでも同じままでいてはいけないという不安感が常につきまとい、結果的に変化し続ける事を強いられるわけだ。飲み物だけを提供すればよかった場所が、食べ物を主体として提供するようになり、その多様性を追い求めるようになったとき、そこに見え隠れするのは無理とか歪みといったものなのではないだろうか。じっとしていては結果的に負けてしまうという考えがあるのは理解できるが、だからといって成長し続けるとか、拡大し続けるとかいったことが可能であるとも思えない。ここにも自由競争の仕組みの落とし穴が空いているような気がしてならないが、渦中の人々はそんなことを考える気はなさそうである。

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4月10日(月)−拘泥

 萌え、若芽が萌え出る季節だが、巷で使われているのは少々違う意味にらしい。どうも理解できないので困っているのだが、さてどの位長続きするのかそちらを見守っていく方が先かもしれない。都会のある地域で特に流行しているらしいこの言葉の主たちは何をしているのかわからないが、何かしらに拘りをもって生きている人のようだ。
 拘るとか凝るとか、そんな人々のことをある時期から「オタク」と呼び始めた。彼らの間での挨拶が語源だという話が伝わっているが、真偽のほどはわからない。とにかく、趣味の世界に生きる人々が集まり、互いに情報を交換する。但し、総じて意志の疎通に困難が伴う場合が多く、同程度の拘りを持った相手としかうまく話ができない事が多いようだ。そんなところから特別扱いされることが多く、冷ややかな目で見られることもあったのではないか。しかし、最近では何となく市民権を得た存在になったようで、そういう人々に蔑んだ目を向ける人も少なくなった。萌えというのも、そんな時代になってきたからこそ出てきたものなのかもしれないが、どうも状況がうまく伝わって来ないので、何とも言えないところだ。この手の人々が全て自分の世界に篭っているとは思わないが、その傾向が高いのは否定できない。何となく影の存在というか、日向に出てこれない人々のように感じるのは、偏見があるからだろうか。拘りの対象には色々とあるようで、それは時代を遡っても同じことだ。それを脇に置く趣味の世界と位置づけるか、それだけにどっぷりと漬かるかが大きな違いで、いつの頃からかそれだけに生きているのではと思える人種が巷に現れるようになった。対象として昔からあるものに鉄道関係のものがあり、やたらに詳しい人間が誰でも近くに何人か存在するのではないだろうか。子供の頃から電車に憧れ、暇さえあれば駅を訪ね、電車に乗り、一日中でも乗り続けられる人がいると思えば、一方で時刻表なるものへの拘りが強くなり、まるで本を読むがごとく、あるいはそれ以上の情熱を込めて、隅から隅まで調べ抜く人もいる。理解できない行動であることは、こちらがそういう領域に踏み入れていない証拠であり、そういう世界が何処かに存在しているのかもと思うのがせいぜいだ。前者のオタクたちは、車内でも少し興奮気味に行動し、場合によっては独り言を繰り返す者がいる。以前ならば、話し相手とともに行動し、さほど目立たぬ存在だったのだろうが、最近は単独行動が目立ち、異様さが増した気がする。これもまた偏見なのだろうが、どうにも車内放送を繰り返したり、車掌の口調を真似たりすることには違和感があるし、最近目立っている人々と同類と見なせなくもない。拘りなどというものを理解することは他人には無理だと思うが、それを含めなくとも何とも異常な行動に見えているわけだから、気をつけたくなるのだ。世間一般に異常性が目立ち始め、事件が度々起こるようになってくると、こういう人々に対しても注意を払う必要があるように思える。危害を与える人々かどうかを区別する方法はなく、何が起こるかを予測する手だてもない。そんな中で、周囲を見渡し、警戒することはそんなにおかしなことではなさそうだ。といっても、反対側から見れば、そういう警戒心を顕にしている人も異常に見えるのかもしれないが。

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