パンチの独り言

(2006年4月17日〜4月23日)
(分岐、帰依、待機、抜駆、珍説、暮四、詰問)



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4月23日(日)−詰問

 人前で話をするのが得意、という人はほとんどいないのではないか。自分はそうでないが、あの人はと思う人がいたとしても、得意に見える人がその実、様々な苦労をしていることを知らないだけで、周到なる準備の結果を見ているに過ぎないことは多い。人の影に隠れていれば良いうちは未だしも、いつかは前に出なければならなくなり、はたと困るわけだ。
 友達同士話をするなら何でもないのに、人前に出ると急に様子がおかしくなる人がいる。緊張が極致に達し、どうにも抜け出せなくなるからだろう。心理的な作用であるだけに、それを防ぐことは難しく、始めのうちはその代わりに準備を整えるのに力を入れるとなるのは当り前の事かもしれない。しかし、せっかく準備したのに、緊張のあまり全てが吹っ飛び、真っ白になった中で話した結果、何も覚えていないこともある。実際にどんな結果だったのかは他人から聞くしかないが、悲惨な結果だった初期に比べ、ある程度慣れてくると覚えていない割りにはきちんとこなしたと言われるようになる。何処がどう変わったのか、精神的な変化が現れていないのは緊張の度合いからわかるから、たぶん準備の程度が変わったのだと思うしかない。何度も繰り返すことで何とかなるものだと気がつくのにもかなりの時間がかかるものだ。その後は徐々に慣れていき、聴衆の雰囲気もつかめるようになる。この辺りから別の問題が出てくるが、これはこれでまた高い壁となる。一方的に話すだけの場であれば起きないことだが、何かしらを紹介して、それに対する質問を受け付けるような場であれば、当然起きることなのだ。用意周到は自分の中の問題であり、どれだけ綿密に計画したとしても、相手から戻ってくる反応は予期できないことがある。質問の想定は準備段階での必須要件の一つだが、必ずしも全てを網羅できるものではないし、奇をてらう人からの予期せぬ話題の提供もありうる。その場に立つ者としては、どんなに慇懃な問い掛けでも、予想外のものであれば意地悪なものに聞こえるし、まして答えを見出せないものとなれば、その場から逃げ出したくなることもある。当然知っているべきことであっても、不勉強がたたりとなれば、何とか誤魔化したくなるのも無理はない。しかし、その辺りの遣り取りが実際には重要な要素と考えられるから困ったものだ。知らないと言えば、無知を知られるし、知っているふりをすれば、ばれたときに更なる窮地に追い込まれるし、という具合に頭の中で考えたことのある人も多いだろう。でも、少し考えればわかるように、本当に予期せぬ、まったく知らないことを聞かれたときには正直な反応を示すのが良いのではないか。無知を恥じる気持ちもわかるが、それを隠す方が更に恥の上塗りとなりかねない。全く違ったことを平気な顔で話続ける人も時々見かけるが、あれとて知らないと言うのとほとんど変わらない印象しか与えない。潔さだけではどうにもならないことだが、一方で隠すためだけの方便は何も産み出さないような気がする。

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4月22日(土)−暮四

 話をしていて、意外に多くの人が知らないと気づくことがある。民営化の問題で取り上げられたが、そこにある要素の中でもかなり重要と思えるものに関心を持たない人がいることに驚かされる。とにかく、官より民が良いに決まっているという思い込みの強さと、そのいい加減さに対する見識の無さにびっくりするのだ。簡単に騙される人が多いのも頷ける。
 と言っても、話は銀行についてである。このところ合併が続いて、元の名前が何で、新しい名前が何かさっぱりわからなくなってしまったが、そういう状況になっても変わっていないことがある。都会に住んでいる人の多くは気づいていないし、まして出張などで移動を繰り返すことのない人にはそんなことを感じる機会もないのだろうが、地方都市へ行くと銀行が見つからないのだ。そんなはずはない、何処へ行っても銀行は町の中心部にあるではないか、という意見がすぐに返ってくるかもしれない。確かにその通りだが、そこにある看板を見ると、見慣れない名前が並んでいるばかりで、自分の町にあった銀行の名前は一つも見つからない。そんなことが頻繁に起こるのである。これは合併をしたとて同じことで、都市銀行と地方銀行の区別は歴然としてあり、都会と地方の区別もそれに準ずるからだ。その上、多くの人に知られていないのが、銀行の守備範囲の問題である。都会にいればさほど強く感じられないのだろうが、西と東ではそれぞれの銀行の支店の数は驚くほど違うし、首都より北にはほとんど支店を持たない都市銀行もかつてあった。唯一の例外として扱われたのは宝籤関連のところで、さすがに全国津々浦々に無ければならないから、各県何処かに存在していた。それが合併の余波か、徐々にその支店数を減らし始め、効率化を御旗に更なる不便が利用者に強いられることになるかもしれない。地方銀行ともなれば、互いに連携することが重視され、都市銀行がまだ何もしていなかった頃に、自動預払機での利用を可能にしていたが、所詮は別会社の間であるから余計な出費は利用者に押し付けられる。それに対して、葉書や手紙の事業から始まっている組織は元々全国に分布しており、何処の町に行っても必ず見つけることができる。そこが金融機関として存在していれば、地元の人間にとっても便利だし、他の地方からやって来た人間にとっても助かるわけだ。ここに大きな違いがあり、以前は官と民の違い、棲み分けのような扱いをされたのだが、改悪政治を継続し続ける政府には別の角度からの感覚しか出てこないのか、効率化やら圧迫やら何とも言い訳染みた話ばかりで次々に先行きが考えられていない政策が実行される。反対するか賛成するかの決定に必要な材料は沢山あるのに、その中のほんの一部しか取り上げない恣意的操作に惑わされる人々には、やはり明日のことより今日のことなのかもしれない。呆れるばかりだが、このまま行けば、後の祭りを踊る人が沢山出そうだ。

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4月21日(金)−珍説

 今、読んでいる本、何とも不思議な感覚を覚える。定説を覆す新しい学説とでも言うのだろうか。著者自身はそんなことを思い描きながら書いていたのだと思う。更にそれを強めているのは翻訳者の存在で、自身研究者でもあり、異端論者と呼ぶと言い過ぎだが、そんな雰囲気を漂わせていただけに、力の入りようが伝わってくるのだ。
 しかし、不思議な感覚はそういう勢いの違いからくるのではない。それよりも、論に論を重ねて自説を通そうとする、そのやり方に違和感を覚えるのである。大抵の説明には論理が必要であり、それが無いものは乱暴な言葉の羅列としか受け取られない。しかし、一方で論理を通しているように見えて、そこに独特の道筋が見え隠れするものも乱暴と言わざるを得ないのではないだろうか。一つ一つの話では辻褄が合っているように見えるが、途中に幾つかの飛躍があり、それを巧みに隠しながらの論理には、違和感どころか嫌悪感まで催してくる。議論を得意とする人々の多くは、他人の土俵では相撲を取らない。自らの得意とする場所で、得意技を仕掛けることによってしか、勝負に出ないわけだ。そうすることで、負け戦を経験する必要はなくなり、連戦連勝の記録を残すことができる。通常科学の世界ではそういう場はほとんど無く、公平を基本とした、万人に通用する論理だけが使える場所が提供される。明らかな嘘で固めたものでないかぎり、やり過ごすことはできない。最近ではそういった虚偽に対する抵抗感が減ってしまい、飛んでもないことを繰り返す専門家が出ているが、総じて言えば今でも客観性を重視する世界が展開している。異端論者の多くはそういう世界では生き延びられないから、別の世界への展開を図るらしく、最近ではその手の世界が大きく広がっているように見える。たとえば、書籍を出版することにはその話題性のみが重要であり、内容の正確さが問われない場合もある。だからだろうか、脳の中での出来事についての持論を発表する機会として、著作を選ぶ人が増えているらしい。更にその上を行きそうなのが、ネット社会での発表だろう。どの位の数のものが出ているのか調べようもないが、論理性のあるものからまったく無いものまでまさに玉石混交である。そこまで極端ではないにしろ、今回の本については首を傾げるばかりの状態だった。理由は簡単で、ある説を否定するために使われた説が不完全なのである。それを指摘する人がいたとしても、それは理解力の不足によるものと片付けられ、自説に合わないことには取りあわないで済ますという手法を使う。これが書籍の特徴であり、そこに中立性の必要はないわけだ。何とも都合のいい話だが、そんなものでも話題になってしまえば勝ちである。研究者とおぼしき著者だが、巻末にある文献リストには本人の論文はほとんど見当たらない。そういうところが怪しいと見る向きもあれば、そうでないと見なす人もいる。いずれにしても、判断は読者にかかっているわけで、分厚い本を読み通したとしても、不快感ばかりが残る場合もある。どうもこういった類いの本にはこの手の話が多くて困るが、今回も期待を裏切られたと言うしかない。

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4月20日(木)−抜駆

 物の価格は競争で決まる、と信じている人が多いと思う。崩壊した多くの社会主義の国のように、公の機関が決める制度がある場合を除いて、売る側と買う側の力関係、競争関係を基にして決まると言われている。しかし、ほとんどの消費者は適正価格とは何を根拠で決まっているのかを知らない。オープンなどと言われてもピンと来ないのである。
 そんな事情があるにも関わらず、世間では自由競争による価格設定が確かに存在するとなっているようだ。何故、どうして、と思う人は少なく、ただ、そうなのかと受け容れるしかない状況にある。定価に対する値引きの場合には、そこに小売業者間での競争が起きるだけで、非常に明確な指標が示されている。しかし、決められた価値が無いものについては、何の根拠もなく、理解不能な遣り取りがなされるのみで、末端消費者にとっては自由なのか束縛なのかさっぱりわからない。一見自由に見えるものでも、たとえば米の価格なんて、飛んでもない基準が設けられていると言えるのではないだろうか。自由経済と言いつつ、様々な制限を見えない形でかけ、自由という名の不自由を押し付けられていることは多い。最近話題になっている談合や随意契約などと言ったものも、自由経済という仕組みの中で忌み嫌われる存在として生まれたものなのではないだろうか。自由であれば何処でもよいはずが、特定の業者を指定しなければならない理由があり、契約を結ぶ。問題は理由の部分で、同程度のものが存在するなら、そこに特殊な事情をつけねばならない。購入後の業者との事情は理由とはならず、どんなに無責任な相手でも同程度の製品を入れるのなら、競争の対象とするのだ。談合についても、価格を一定に保つための悪徳業者の手口のように伝えられているが、別の見方もあるのではないだろうか。入札で指定した廃棄物の業者が不法投棄を行い、その後始末に予定価格を上回る出費を強いられたという話もあり、安かろう悪かろうの問題は常に付き纏う。建物にしても、数年後に建て増ししようとして梁の中を見たら、鉄筋が入っていない手抜き工事だったという話もある。全て、疑ってかかれば防げたことなのだろうが、そのために要する時間や労力は価格には含まれていない。悪業を重ねれば信用を失うから、という理由や、厳罰に処せられるから、という理由がほとんど通用しないことは、最近の世の中の動向を見ていれば一目瞭然であり、それほど脆弱な基盤の上に立つ競争に意味があるのか、疑わしい。何もかもが問題なく進む社会を築く前に、一時的な競争が激化した結果といえばそうなのだろうが、果たして、抜け駆けが許されない社会はできるのだろうか。それとも、そんなものも含むのが自由経済なのだろうか。

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4月19日(水)−待機

 母親が君臨する家庭では、全てのことがその命令一下行われる。父親でもありそうに思うかもしれないが、家庭での滞在時間を考えると、これは専ら女性に見られる傾向のようだ。そんな家庭で育った子供は、何でも言うことを聞く素直な子と呼ばれる。一見正しい子育てのように思われる話だが、その実、将来に大きな障害が生まれる可能性が大きい。
 支配する人間とそれに服従する人間、そんな形容をすると極端すぎると思われるかもしれないが、本人達の気持ちは別にして、表面的にはまさにそんな雰囲気である。親と子の関係が強くなればなるほどこの図式は強化され、子供同士の付き合いより、親子でいる時間が長くなれば、更に酷くなる。子供の頃から様々な関係を築き、それぞれに自分の存在や位置を考えながら変えていけば、臨機応変に対応する力がつくとともに、役割分担を変えることによって、様々な立場での行動をこなせるようになる。しかし、親子関係のみに偏った生活を送っていると、そこにはただ一つの役割の存在しかなく、それをいかに的確にこなすかが唯一の訓練項目となる。そんな中で、親から出される指示をやっとのことで守っていける能力だけが発達することとなり、指示が出ていないときに与えられる休息が楽しみになる子供もいるのではないか。何かしら、周囲に変化が起きたときに、指示が出されないことに不安を抱き、そんな心理状態で待ち続けることもこういう子供たちによく見られる傾向だろう。結果として動きがとれないで、そこに立ち尽くすことになるのだが、傍目からは何とも不思議な行動に見える。いずれにしても、そのまま成人した場合、組織の中で受動的に回る歯車にはなれても、始めに力を加えるエンジンにはなりえないわけで、根本からそんな考えしかなければ、早晩大きな壁に当たることになる。指示待ち人間という呼び名も、いつの頃からか頻繁に使われるようになったが、まさにそこに大きな問題があるわけだ。その後、そういう連中の数は減ることはなく、更に症状を悪化させた人間の数が増えているように感じられる。指示を待つしかないところは以前と同じなのだが、そこに更なる悪条件が重なることになった。肝心の指示を聞き取る耳や頭に欠陥があるように思える人たちの登場だ。他人の話を聴くのに必要な集中力の欠如から始まり、指示の内容を理解する能力の欠如に至る、全般的な受容力の不足である。原因は、同様に親子関係に結びつけることができ、単なる指示による支配だけでなく、行動全てを支配することによるものと言える。つまり、指示をしても動けない子供に全てを先にやってしまうという助け船を出すことだ。ある年齢になるまではその必要性もあるだろうが、いつまでもそれを続ければ、欠陥人間の完成を見るしかなくなる。そういう意味で、最近問題視される人間性の幾つかは、家庭での接し方に端を発すると言えるのではないだろうか。基礎の構築で躓いた子育てを、その後の学校教育の問題にすり替えるのも、彼らの得意技と言えるのかもしれない。

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4月18日(火)−帰依

 古都として有名な二つの町は、電車で30分ほどしか離れていないため、海外からの観光客の多くは両方とも訪れることが多い。歴史ある町という意味ではどちらも同じ扱いを受けるが、中身はかなり違った印象を与えるらしく、人それぞれの好みに合わせて好き嫌いが決まるようだ。静かな町並みを好む人にとっては人が少ないことが重要な条件なのだ。
 歴史と言っても、ここで比べられているのは神社仏閣のことであり、大部分はその場所の雰囲気が決め手となっている。商売っけのある町と、そうでない町、どちらを好むかは、どんな扱いを受けたいかによるのだろう。しかし、元々宗教に関わる場所ということを考えると、それが商売に結びつくという話は少々行き過ぎに思えるのだが、考え過ぎだろうか。隣の国の空手の本場である寺が最近経営感覚を採り入れ、宣伝活動や講演を頻繁に行うようになっているという。布教活動とは異なり、宗教そのものを広げようとする意図よりも、自分たちの持っているものを見せたり聞かせたりすることによって、何らかの収入を得ようとするものである。現代社会ではあらゆるところに経営感覚が必要とされ、彼の寺の住職の一人も経営学修士を持つとのこと、まったく凄い時代になったものだ。とは言え、空手そのものであれば武術の一種であり、それを広めることは宗教活動とは無関係と見なせるだろう。そういう流れのみでの話ならば少々の無理は承知の上で受け容れることは可能かもしれないが、そこに寺の存在、宗教の色が厳然とある以上、簡単には片付けられそうにもない。と書いたところで、ひょっとすると多くの人は違和感を覚えていないのかもしれないと思った。なるほど、どんな関わりにしろ、多数の人が暮らす組織を維持するためには先立つものが必要であり、従来の手法で獲得できないものなら、他の方法を模索するしかない。しかし、そう考えたとしても、取り上げられた方法は安直に見え、そこに悟りとか教えといった存在が見えてこない。古都の一つの商売感覚の薄い町にあって、異彩を放っている寺の昔の住職は、ずっと昔に失われた二つの塔の一つを再建するために東奔西走していたと聞く。彼が編み出した方法は単に寄進を募るのではなく、そこに仏教への関わりを持たせていた点で、評価が高かった。つまり、写経を納めると同時に寄進するという手順をおいたわけで、これにより、ただ単に金集めに走ったわけではないとしたのだ。結果は同じことかも知れないが、そこにある志が違うと言いたかったのかもしれない。数年前にも、屋根を飾る瓦の裏に一文字書いて、という形での寄進も行われ、別の建物が再建されていた。そこに一貫してあるのは宗教の存在であり、それを見失うことの無いようにという戒めかもしれない。それに比べると経営云々の話が先にやってくる話は、どうも胡散臭く感じられる。効率第一としたときに心の拠り所が必要なのか、怪しくなってくるからだ。

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4月17日(月)−分岐

 指示通りに動けば幸福な生活が送れるとしたら、どうするだろう。そんな夢物語は何処にも存在しないが、たとえば宗教関係の教えはまさにそんな雰囲気を漂わせている。人は窮地に追い込まれ、活路が見出せなくなったとき、そんなものに頼るのだろうかという思いが過る。しかし、最近の世の中にはそんな状況でなくとも、その道を選びたがる人がいる。
 カタカナ英語を使うのは苦手だが、マニュアル本と呼ばれる類いの本が溢れている。manualとは手動のという意味の形容詞がある一方、手引き、教則などの意味の名詞でもある。後者がマニュアル本の由来だが、元々はパソコンソフトの操作法を記した冊子の呼び名として入ってきたようだ。機械はまさにそれが当てはまるもので、ある操作をすれば、ある機能が発揮されるようになっている。機械的に、とはよく言ったもので、原因と結果が一対一に結びつくものを指す。ここら辺りから何を学ぶにしても、手順や操作法を明確に示し、そこから生まれると予想される結果を導くことで、読者に安心感を与えようとして作られたのがマニュアル本なのではないだろうか。しかし、機械操作といった結果が決まっているものならば別の答えが出てくるはずもないのだが、こと人間が相手となると様相は大きく異なってくる。恋のマニュアル、上司対応のマニュアル、商売のマニュアル等々、溢れ返るとはまさにこのことであり、何でもありの状態となっている。それぞれがそれなりに売れていると言われるのは、そういうなまものを対象にした話にも一対一が成立すると思い込む人が増えている証拠だろうか。しかし、一方で同じものを対象に取り上げた本が幾つも出て来るところを見ると、絶対的な結びつきの存在は怪しいものであり、一対一の存在を疑いたくなる。人間は誰しも不安を持ち、何とか安心を得ようとするものだが、その時困難な道より、安直な道を選ぶ傾向にあるようだ。だから、ある選択をしたとして、それが一定の結末に結びつく話の方が、幾つかの結末のどれかに行き着きそうだという話よりも受け容れやすいのではないだろうか。しかし、冷静になって見直してみればすぐにわかるように、一つの事柄が生まれるためにも多くの要因が複雑に絡んでおり、そのどれもがそれなりに関わっていることばかりである。にもかかわらず、そこで一つの決定要素に絞り込み、それだけに注意を払うやり方を好むのにはやはり上で挙げたような理由があるのではないだろうか。一つのものが一つに対応するという考え方は決定論と呼ばれるが、その世界にいることが心の安定に繋がるとする人もいる。複数選択の道は不安を煽ることになり、それによって精神的な不安定を招き、ろくでもない結果を産むとするわけだ。しかし、この論理には一つの大きな欠陥がある。始めの不安を煽るという前提が全てに当てはまるわけではないということだ。元々、分岐点ばかりの流れがあるところに無理矢理一本道を作ることの方が無駄であり、そんなことに振り回されるほうがよほど悪い結果をもたらすと考えることもできる。入り口の安直さに誘われて、間違った出口に導かれるほうが、結果が悪くなることに気づかないと、良さそうな結果しか提示しない大したこともない論理に振り回されることになる。

(since 2002/4/3)