夏も近づく〜♪と始まる歌の季節である。末広がりの印象をもつ八の字は、吉祥の印として使われることが多い。近ごろ聞くことも無くなったが、米という字には八十八の手間を掛けるという意味が込められているという話があった。百姓の仕事の大変さを伝え、米を粗末にするなという教えの一つとして伝承されていたが、今どき通じるはずもないだろうか。
効率化、省力化、そんな言葉が持て囃され、兎に角手間を掛けずに最大限の仕事をするのが能力と見なされた時代があった。そういうものも確かに能力には違いないのだが、実際にはそれを実践したがために何処かに欠落部分ができ、後になって歪みが生じることがある。農業での人工肥料の問題はまさにその現れだったのだろう。最近では必要とされる養分だけを与えるのでは不十分であることが理解され、理由はわからずとも古くからのやり方を真似ることが増えてきた。一方で、八十八の手間よりもっと手間を掛ければもっと良いものが出来ると信じる向きもあるようだが、手間の掛け過ぎの問題が出てくるのではないだろうか。これで十分とも言えないわけだから、勘所の難しさがあるが、ここにも過ぎたるは及ばざるが如しがあるわけだ。植物を育てるための手間の話を聞いていると、他のものにも通用するものが多いことに気づく。人間を育てることにもそのまま当てはまりそうで、あまり比較し過ぎるのも嫌な気がするが、少し考えてみてはいかがだろうか。同じ時代に同じような考え方が流行するのは世の常らしく、農業の省力化が叫ばれているころ、教育にも同じような風が吹き荒れていた。その結果は、周囲を見渡せばわかるように、これまた農業と同じ道を歩んだようだ。その後の展開も全くよく似たもので、手間暇を掛けることの重要性を強調する論調が強まり、先祖返りするかと思えば、また違った形の手間を掛ける風潮が広まってしまった。そこが農業とは少し違うところかもしれないが、あちらも機械化の波が訪れた後、随分違った様相が展開しているから、同じと言えるのかもしれない。但し、結果が同じであるかどうかはそれぞれの評価基準が大きく違うだけに、簡単には判断できないだろう。そんなわけで、教育に手間を掛ける時代、どんな掛け方をするかと言えば、学校や塾でのものに限られているように思える。幼児教育での英語やら英才やらと名付けられた教育も、この部類に当てはまりそうだが、筋違いと言えるのではないだろうか。農業での手間暇は、日頃の手間の掛け方に注目する向きもあるだろうが、最も肝心なのは土作りである。それを子供に当てはめたとき、何が肝心がすぐにわかりそうなものなのに、今の風潮は兎に角ビタミン剤の投入の様なもので、一時の人工肥料と全く同じことを繰り返している。この点が農業と教育の大きな違いであり、立ち返るべき場所の取り違えが始まりと言えるのではないか。勘所は何処か、時間や金を掛ければいいわけではなく、もっと別の掛け方があるはずなのだが、見えないのかもしれない。何とも情けない気もするが、自分なりの考えで動くのではなく、誰かが用意したものを使うのでは何ともならないだろう。
中流意識がこの国の特徴と言われていた。しかし、最近は違うらしい。その割りには、好き勝手し放題の傍若無人ぶりをみせる人々をよく見かける。金が無ければできそうにもないことをやりつつ、片方では小さな存在であることを主張する。どうにも矛盾に満ちた行動だが、以前と変わらぬ共通項があるようだ。過小評価、卑下とでも言うのだろうか。
一体全体貧乏人だけの集まりという意識があるからなのだろうか、それとも一部にトンでもない金持ちがいることを嫉む気持ちから来ているのだろうか。卑下すると言ってしまうとすぐさま反論が返ってきそうだが、どうも筋の通らないことを聞かされているように思う。経済状況が悪くなっていた頃は、そういった認識が共有できるものに思えて、それを安心に繋げた人がいたようだが、最近はその仲間意識にも綻びが見え始めているようだ。格差が大きくなるのは当り前と言ってみたり、従来のやり方ならもっと大きな格差を招いていたはずとうそぶいてみたり、まあ何を言っても勝手気侭な施政者では、反論を聞く耳は持たないだろう。そんなことが表面化してくるに連れ、勝ち負けを重視する動きが出てきて、物質的なものだけでなく精神的なところにまで圧力がかかるようになった。当然の帰結なのかもしれないが、それにしても嫌な思いを強めるような空気の流れには異様さを感じる。そんな中で、大移動の繰り返される時期が迫り、特に国外脱出組に関する情報が流されるようになった。史上最大の旅行者を報じる中で、それぞれの人々が持つ意識の問題は取り上げられることはない。ただ単に、回復を実感させるものとして扱われるだけで、渦中の人々のどの位の割合が貧乏を意識しているのか、さっぱりわからない状況だ。しかし、こんな話を聞いていると、意識調査のいい加減さばかりが思い起こされ、一方で身勝手な主張をする人々の横暴さばかりが目立つようになる。本当にこの国はどうなってしまったのか、そんな心配をする向きからは、今大事なことという著作が次々に出されている。その中の幾つかは人気を博しているようだが、そこにも不思議な感覚があるように思えてならない。当然のことを当然と思わず、当り前のことが当たり前にできない人々が、そういう文章を読み感激する姿は、一種異様な感覚さえ誘発する。その場限りの感激をしたとて、それが次の行動に結びつくわけでもなく、ただ一時の喜びにしかならない。こんなことは何処かが狂っているからなのではと思えたとしても、何もおかしなところはないのである。固定化された意識を持ちつつ、常識に接して感動する。何ともへんてこりんな話ではないか。
職業意識、この言葉にどんな印象を持つのだろうか。人はいつまでも学校にいられるわけでもないし、家庭にいられるわけでもない。いつかは社会に出て、働かねばならないから、そのための準備が必要である、という意見を聞く。いかにもと思える話だが、そのために職業意識を学校で身につけさせないと、といわれると急に話が違うように思えてくる。
職業意識の欠落が顕著になったと言われ、それが特に新卒の人々に目立つと言われて久しい。本人達がどんな感覚を持っているのか確かめたわけでもないから、この点についてどう思うかと言われても何も答えられない。どちらかというと、それよりある程度の経験を積んだ人々の中の意識の欠落の方がずっと深刻な問題と思える。様々な事件もそういったものを背景にしているように見えるし、価値観の違いと言ってしまえばそれまでだが、あまりの杜撰さに呆れるばかりとなる。職を失うことと金を手に入れることをどうして比べられるのかを理解できないのも、その辺りの意識の違いなのかもしれない。人や社会を騙してでも自分の収入の確保をする人々が蔓延るようになると、それを修正するために使われる労力は膨大なものとなる。ある抑止力がその効力を失ったとき、それに代わるものを何とか編み出さねばならず、四苦八苦した挙げ句訳のわからない法律を制定されたのでは一般市民はたまったものではない。職業上の嘘が業界内での罰によって片付けられた時代はよかったのだろうが、今ではそんなことを何とも感じない人が目立ち始めた。そんな中でもっと犯罪性の強いものと見なし、罰も一般の犯罪者に処されるものと同じにする事が試みられている。しかし、嘘をついて収入を得ることを詐欺行為と見なしたとしても、せいぜい10年の懲役刑でおしまいである。確かにそれによって得た財産も没収されるのだが、ひょっとするとかなりの死者が出た可能性もある事件の場合、可能性だけのこととはいえ、その程度のことでいいのかという意見が出てくるのも当然なのかもしれない。ごく常識的な感覚を持つ人間であれば、罪を犯し、それによって罰せられたとしたら、それを一生背負っていかねばならないと思うのだろうが、この頃のその手の人々を見ているとそんな気はさらさら無いように思える。罰則を強化することが抑止力となると言われ続けているが、それとてかなり危ういものになりつつあるのではないだろうか。何か一つのことを強く思う人たちにとって、その他のことは所詮瑣末なものに過ぎない。社会における犯罪とは基本的に個人の中だけで判断をつけたものではなく、その構成員全体の判断から決められたものだろう。その中で陳腐な個人主義が何にでも通用すると思う人々が下す判断は、何とも無茶なものに見えるのも仕方のないことだろうか。
別件、そんな表現がピタリと当てはまりそうなのに、誰もが気づかないふりをしている。以前ならば、権力の象徴として槍玉に上げられたはずなのに、逆に遅すぎる対応を批判される。はてさて、どうなってしまったのか、世論の向かう方向を危惧する向きもあるのだろうが、その声さえ無理矢理小さく抑えられているような気がする。何故だろうか。
金の価値をどう見るかは昔と今とは大きく違うように思う。何事も与えられるままに受け入れ、そのために必要なものは金銭のみという感覚が身に付いた人々にとって、命の次に大切なものは金、ということになってしまった。本来ならば、自らの評価、世間体、社会的地位、その他諸々のものがその人の価値を決めるものとして扱われ、それを失うことが何にも増して重大事であると思われたのだが、今はその辺りの扱いはかなり軽くなってしまった。どうしたものかと思うが、社会全体の心理状態がそうなってしまったのだから、仕方がないとしか言えないだろう。問題は、法制度がそれに見合わない形で定められていることで、今回の別件の話もそれが根底にあるだけに扱いが難しくなったようだ。単純に職を失う、信頼を失う、そんなことで一生を駄目にすることを恐れていた人々と違って、何をしてでも、法を犯してでも金儲けに走った人々には、最後に手元に残るのが金であればそれで良かったのだろう。何とも情けない人たちだと思うのは、こちらが古い考えを後生大事にしているからなのかも知れないが、このままではいけないと思うのは他の人とて同じだろう。しかし、法律上はどんなに悪質な行為といえども、業務上の間違いは大した罰を与えられない。上にも書いたように、職業上の制裁が下されるからそれで十分であるという仮定に基づいて定められた罰則だけに、おまけのような感覚にしか思えないのだ。事の重大さはとてもそんな扱いで終らせられる状況にはなく、さらにはこのまま放置されていた場合に予想される大惨事のことを考えると、とても収まるものではないとされた。しかし、別の罪状を取り込むには様々な障壁があり、このままでは困難という判断と、更には急かせる世論の圧力に屈する形で、今回のやり方を決めたのだろう。これはこれで致し方の無いところというべきかもしれないが、その一方で気になるところはある。これまでなら、こういった搦め手から攻めるやり方は一様に批判の対象とされてきたのに、今回はそういう声が上がってこないことだ。理由は明確にはなっていないが、どうも世の中全体によって罰を与えようとする風潮が最近強くなっていることや、世論全体を導こうとする動きが強くなっていることが関係しているように思える。悪いことを悪いとして罰することに反論するつもりは毛頭ないが、こんなことに全ての力が結集してといった図式には違和感を覚える。果たして、どうなっていくのか経過を見守るしかないが、いずれにしてもきちんとした処罰が下されることを望むには変わりがないのだ。
突然目の前の画面が消えた。いくら不安定な天気が予想されていたとはいえ、こんなことが起きるとは思わなかった。落雷による停電である。何処に落ちて、何が起こったのかはわからないが、兎に角電気の供給が止まったわけだ。ほとんど大した被害もなく、すぐに復旧したが、もし入力の途中だったら、叫び声をあげていたかもしれない。
パソコンは電気の供給が無くなればただの箱である。目の前に映し出されている画面も真っ暗になってしまい、何の役にも立たない。ほんの一瞬の出来事と言っても、やはり現代社会の生活における電気の価値を実感させられるようなものだ。読み取りや保存の最中であれば、被害はこれだけでは済まされず、叫び声どころではなかったのかもしれない。それとも最近の仕組みはそういった不測の事態に応じられるようになっているのだろうか。雷雲が近づいてきたら、用心して作業を止めておいたほうが良いと言われるが、実際には少々暗くなっていたとはいえ、雷鳴は遠くでしか聞こえていなかった。現実に、その時も数秒の遅れで雷鳴が轟いたから、すぐ近くに落雷したわけではないだろう。それにしても、久しぶりのことで驚いてしまった。パソコンにも被害はなく、メールサーバーにも、全体のシステムにも何も異常は起きなかったようだが、本当のところはよくわからない。その瞬間に届いていたメールがあったとしたら、消えてしまったかもしれず、誰にどう確認していいのかわからないわけだから、こういうことに対する処置はまだ確定していないのかもしれない。まあ運が悪かったというくらいが関の山で、たまたまそんなことになっていたとしたら、あとで謝るくらいしかできないだろう。こんな不測の事態は、ネットワークができてから突然表面化したわけではなく、以前から別の形で起きていたことだろうが、最近のように多くの人々がそれに依存するようになっていると、被害はかなり大きくなるのかもしれない。停電が起きても即座に電力供給できる仕組みを持たせている人もいるだろうし、多くの事業所ではそんな仕組みを持つことで被害を食い止めようとしているに違いない。それにしても、停電くらいでと思う人もいるだろうが、落雷の場所によっては過電流が流れ、機械自体が損傷を受けることもある。そうなってしまうと、職業上に利用しているものでなくても、被害甚大となるだろう。それを避けるために、以前も話題にしたことだが、バックアップを備えておくことが大切なのだが、どうも面倒と思う気持ちの方が大きくなるようだ。本人の責任において、と片付けられる個人用のパソコンは別にして、やはり共有部分が大きなものについてはそんな備えをしておく必要があるのだと思う。
毎日、こんなに事件が起きるのかと思う。凶悪な事件から悲惨なものまで、よくもまあこれだけ連なるものだと思うが、昔に比べて増えたからなのか、それともあれこれ並べ立てる人が増えたからなのか、受取り側にはすぐにはわからない。一つだけ言えそうなことは、多くの人々が麻痺しているのではないかと思えるところで、刺激が強すぎるようだ。
殺人事件の多さにも驚かされるし、それが身内によるものや知り合いによるものであることにも驚く。全くどうなってしまったのかと嘆くと同時に、自分の周りはどうかと心配する向きもあるだろう。けれどそんなことを過度に心配してみても何にもならない。どんな背景にしろ、事件は起こるべくして起きたものが多いからだ。そこに至る過程の何処かで何かしらの歯止めがかけられれば、と思えるものが多いように感じられる。一方、事故、事件に慣れてしまい、感覚が鈍っているのではないかと思えるところもある。一年前の鉄道事故の記憶を新たにする企画が多くの報道番組で取り上げられている最中、人身事故には至らなかったが、利用者に多大な迷惑をかける不通事故が起きた。線路が隆起し、異常音を感じた運転士が電車を停止させたもので、その後の復旧に手間取り、何時間も利用不能な時間が過ぎてしまったらしい。交通網を見渡せば、ある程度の抜け道は見つかるはずで、全く動けなかった人はあまりいなかったのではないかと思うが、それでも普段と違う行動を起こすには決断が必要だ。あれやこれやと迷っているうちに時間が過ぎ、結局何もできずに引き上げた人もいるのだろう。それにしても、この事故を一年前の大惨事と重ね合わせた人が多かった。丁度時期を合わせて企画されていたこともあるのだろうが、それを不思議に思った人がどれくらいいただろうか。事故の詳細が伝えられる前に、道路工事が原因で線路に異常が発生したという話が伝わった。そこでふと思ったのは、よく似た事故がこの間あったはず、ということなのだが、報道ではそんなことは一言も出ない。こちらの記憶違いかと思っていたが、一夜明けてみると一気にその話ばかりになっている。一体全体何が起こったのかと思えるが、想像するに、誰かが急に思いだしそれと結びつけた途端に、事故の原因がほとんど同じであることが明らかになり、皆がそれに飛びついたということなのだろう。何とも情けない人たちと思うと同時に、あまりに多くの出来事に情報処理が追いつかない現状を表しているような気がした。にもかかわらず、一つ一つの事件を深く掘り下げてなどと論じている人がいて、何の役に立つものかと今更ながらに思う。その場その場で勝手な評論をするだけの人々が面白がって追求する姿など、せいぜい映画の世界だけにしてもらいたいと思うわけだ。次の事件が起きれば、前のことなどすっかり忘れ去られるのでは、分析が役立つ可能性はない。
電車の中での行動は観察する側にとっては興味深いものだ。じろじろと見るわけではないが、周囲の人たちの動きを見ているうちに、他とは違ったことをする人がいて、ついそちらに目が向いてしまう。乳母車を畳まずに持ち込む親子連れ、大きな荷物を床に置く若者、荷物を両脇に置いて座る老婦人、それぞれに事情があるのだろうが、はてさて。
彼らの行動をつぶさに見ているわけではないから、自宅と同じかどうかを知る術もない。しかし、どうにも他の人々と同じとは見えず、他人の存在が見えないと思える人もいる。携帯電話による通話は以前に比べたらかなり減少したとはいえ、いまだに始める人がいるし、年齢による違いは見られない。一方身支度については中々減りそうもなく、性別が限られるのは当り前としても、年齢もかなり限定されるように感じられる。自分の顔を良く見せたいという気持ちが理解できないわけではないが、それを衆人環視の中でやろうとする気持ちは理解できない。揺れる電車の中での技術を感心する声もたまに耳にするが、そんなことはどうでもいいのである。本来密室の鏡の前で整えられたはずのものが、鏡の存在は変わらずとも、その向こう側にいる人々の存在は無視できる、そんな神経には何か大きな違いから生まれたものがあるのではないかとさえ思えてくる。これから友達に逢うための準備、という理由も聞こえてくるが、隣に座っている男性は誰なのか、さっぱりわからなくなる。誰のための化粧か、本人に聞いてみなければわからないが、ひょっとすると本人も答えられないのではないかと思うことがある。以前、長距離ではない通勤用と思われる電車の中で握り飯を頬張っていたら、おかしな空気が流れたことがあるが、先日は、目の前に立つ女性が吊り革を手に、お握りを食べていた。別におかしなところは何処もない、とでも言わんばかりの様子だったが、その下に座る人間には異様に映る光景だ。外面ばかり良いと家族から批判される人もいるだろうが、内外何の区別もなく過ごすのはどうかと思う。電車の中で目立つ人々の多くは、外面が良い人ではなく、自宅に居るような振る舞いをする人だろう。他人の目を気にする行動をする一方で、不特定多数の人々の前では何の躊躇いもなくそんな行動をする。この辺りの違いが何処からやって来ているのか、すぐには理解できないものだ。一つだけ可能性があるとしたら、仲間意識の強化が挙げられるだろうが、これとてそんなことだけでと思えるところもあり、断定できそうにもない。暇な時間を持て余しているときには歓迎すべきものかもしれないが、少々辟易とするところもあり、いい加減にしてくれたらと思う。