パンチの独り言

(2006年5月8日〜5月14日)
(度外、俚言、真偽、迷惑、分別、舞台、勇退)



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5月14日(日)−勇退

 どっと押し寄せる人々が混乱の引き起こす。それまで通用していたことが機能しなくなり、あらゆる所で障害を生じる。そんな様子が伝えられていたら、どんな印象を持つだろうか。こんな書き方をすると、また訳のわからない話を始めたと思われるだろうが、今現在この国に起こりつつあることを表現しただけのことだ、様々な面で影響を持つ年代の。
 人の数が時代の流れとともに増え続けると信じるのは無理と思う人が増えただろう。昔はそんな考えもあったし、この星全体で見れば増え続けているのだが、この国に限って言えばそれは当てはまらない。そろそろ減少傾向に移り始めており、心配する向きもある。一方で、戦後まもなく一気に増えた新生児の数はその後の国の状況に大きく影響を及ぼし、繁栄を築く基盤となったが、他方様々な矛盾をも産みだした。その人々がついに一線を去り、第二の人生を迎える時期に来て、これまた大騒ぎが始まろうとしている。それまで自分たちの上の世代に退陣を迫り、自らの地位を築くことに躍起になっていた人々は、下の世代からの突き上げをかわす算段をし、多数を占める利点を活かした行動を始めているようだ。評論家達はいかにも冷静に分析するふりをしながら、自分も含まれるからその手助けに走り始めているようにもみえる。世代交代は厳然と続けられているはずだが、今の流れを見ているとその辺りも怪しい影が迫っているようだから油断できない。支えられる人間と支える人間の均衡が崩れることを危惧する考えから、色々な仕組みに改善が加えられ、それによって矛盾が解消されるはずだったのかもしれないが、今の様子を見るかぎり、更に大きな齟齬を来しているように思える。真剣に働かなくてもいい時代を迎えたのは、豊かさの象徴であるといった解釈も、一見理にかなっているように見えるが、その実、裏に退陣するはずの世代の将来が見え隠れすると、危うい考えに見えてくる。このところの政策転換にはこういった応急措置にしか見えないものが増え、傷口にペタペタと絆創膏を貼り重ねているかのようだ。様々な言葉が飛び交い、新しい表現として持て囃されて、いかにも時代を表すものとして受け入れられているように思えるが、実際には言葉が先行し、社会に変革を迫っているようである。どれだけ重要な役割を演じてきたのかを論じてみても、所詮は世代交代を妨げる材料にはならない。精々、後方支援をするつもりで細々とやっていく決意をしてもらわないと、重しになるだけなのだ。多数の原理によって、これまで主体を構成してきた人々が、果たしてこの機会に潔く退くか、その確率は低くなりつつある。いずれにしても、自分たちで決め、自分たちで実行できるという自負があるかぎり、そう簡単に起こることではないのだろうが。

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5月13日(土)−舞台

 痛みを分かち合う、この言葉にはいかにも民主的な雰囲気が漂う。特に、施政者が発した場合、そこにかなり大きな意味が込められていると受け取る向きが多いだろう。しかし、この言葉がいつも同じ意味を表すとは限らない。皆で等分の痛みと言われた時、何に対して等しいのか気になる人も多い。同じ権利を持たない人の間では、色々な平等があるからだ。
 国の借金に実感の持てない人も多く、実体の無いものと説く人もいる。それに比べると、より身近な存在である地方自治体では、事態はより深刻に見える。どちらにしても批判の対象となるわけだが、その声の大きさに違いがあるように感じる人も多いのではないだろうか。片や、遠い存在として届かぬ声を出している感じであるのに対し、一方は、隣の家にでも声をかけている感じで、届かせようとする気持ちが入っている。どの自治体も多少の違いはあれ、かなりの負債を抱えており、その縮小に力を注いでいる。しかし、長年に渡って積み上げてきたものを簡単に崩せる妙案は何処からも出てこず、何処も彼処も企業で行われたのと同じことを導入する程度の方策しか講じられていない。一度注目させておいて、その後一向に減らないものがある時、気にならない人はいないだろうから、もっと努力しろという声は大きくなるばかりで、矛先が次々に変えられ、改善を迫られているようだ。自分たちも苦しみを強いられているのだから、他の人々もそうなるのが当然、といった感覚がいかにも当然のように主張されているが、感情的な面ばかりが強調され、現実の方策として効果を期待できるものがほとんど無い現状では、何処かに矛盾があると言わざるを得ないのではないだろうか。一律に痛みを分かち合うという主義主張は一つの考え方として認められるのだろうが、その一方で、功績を讚え、それに対して報酬を与えることが同時に行われたとき、違和感を覚える人も多いだろう。これらの二つの主張は、それぞれに間違ったものではないのだが、同時に存在すると何だかおかしな雰囲気がする。その程度のことなのだろうが、感情を問題にしたときには、これも大きな要素となるだろう。現在の風潮が感情論に流れているのは、それを利用しようとする力が働いているからなのだろうが、所詮一時的なものに過ぎないところに注目を集め、すぐに忘れ去られることを勘案したうえでの戦略だとすれば、乗せられてはいけないものなのではないだろうか。悪者を引っ張り出し、それを懲らしめることで、世の中に安定を招くという図式は、まるで時代劇のような雰囲気が漂うが、現実はそれほど感情的なものではないはずだ。額の多少に振り回される人々、特別扱いに激怒する人々、苦しみに耐え続ける人々、これらの人々にどんな違いがあるのか、次々に変わる舞台を眺めつつ、全体の流れを追うことが出来ないのでは、同じところを右往左往しているだけになってしまう。変革がある方向に進むために必要ならば理解できるが、同じところでぐるぐる回るだけだとすると、心の動揺を鎮めて、少し離れて見渡す必要があるということなのではないだろうか。

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5月12日(金)−分別

 情報社会、的確な情報を素早く手に入れることが重要と言われる。しかし、社会にこんな名称がつけられる時代らしく、良いも悪いもごたまぜの雑多な情報が山のように積み上げられる状態にある。そこから出る澄んだ流れを目に出来る人は的確に正しいものを、濁って何があるのかわからない淀んだ流れを目にする人はただ闇雲に塵芥かもしれぬものをつかむ。
 新聞や書籍のようにある程度の篩にかけられたものとて、最近は何処まで信用できるかはっきりしないものだが、インターネット社会の中ではまるで三流雑誌にあるようなガセネタがきらきら光る衣をまとって次々に登場する。それらを発表する人々は独自の情報源を持って他にはないものを提供する人から、毎日の思いつきをまことしやかに文章化する人まで、まさにピンからキリまでという状態にある。送り手の多様化によって、受け手の能力による違いが更に際立つことになり、雑多な情報の流れの中でその真偽を見極める眼力やその内容を吟味する知識が重要となる。こういう仕組みの発達過程で、現在の状態は当然通らねばならない道筋であり、送り手の無責任に振り回される人々にはそれだけの能力を改めてつけることが要求される。しかし、現実には教育現場に身を置く子供たちでないかぎり、改めて審美眼をつけよと言われても大きな壁が立ちはだかるだけで、今更どうにもならないと思っている人もいるだろう。おそらくそんな状態がある程度の期間続くようであれば、徐々に情報の氾濫する場所から遠ざかることが最良の道であると認識し、無駄な努力をする代わりに別の情報源を求めることになるのだろう。そうしておけば、兎に角間違いは起きないわけで、機敏な動きは失われてしまうかもしれないが、ドブにはまるような危険は避けられる。そこまでする必要があるかどうかは人それぞれなのだろうが、自分を見失う危険のある人にとってはそれしか方法が無いのかもしれない。あの社会でガセネタとまではいかないまでも、様々な事物に関して、色々な人が様々に評しているのに出合うと、そこに個人差が感じられる。ところがこれとて一つだけを覗いたのでは差を実感することは出来ず、たった一つの評を鵜呑みにすることになりかねない。それを避けるために幾つかのものにあたるのは当然必要不可欠なことで、せっかくの道具を十分に活用するためにもそんなことを心がけておくのが重要だろう。どんなことが起きているのかを知りたければ、たとえばレストランや飲食店の紹介を見比べてみると良い。個人的な趣味に基づく評価が出て来れば、同じものを正反対に見ることも多くなり、結局のところ自分の目や舌で確かめる必要を感じることになる。書き手達はまるで評論家になった気分で表に出しているのだろうが、客観視を重視する人と自分流のみに頼る人では全く違う感覚が出て来ることになるわけだ。そういう事情を了解したうえで接することが、情報が氾濫する時代に面倒に巻き込まれたり、無駄な努力を強いられるのを回避するのに大切なことなのだろう。

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5月11日(木)−迷惑

 電子メールを使う人の数は増え続けているのだろう。使っていない人に嫌な顔をする人が出て来るようになったのは、まさにそういう状態であることを示しているし、現実に携帯電話の普及とともに、パソコンを持たなくてもある程度の通信が出来る状態にある人が増えたから、その傾向に拍車がかかった。その一方で、問題も急増しているのだろう。
 メールに添付されたウイルスに悩まされた人も多い。新種ウイルスの出現とそれらに対する感染防止ソフトの配布の間には、明らかにイタチごっこの図式が存在し、終わりの無い戦いは今も続いている。こういうことが新技術の開発と結びつくという話をする人々がいるが、そのために莫大な被害が生じることを考えると、そんな論理を通用させるべきかどうか怪しいところだと思う。そんなやり方ではなく、別の手法が適用できないのか、素人にとっては不思議に思えてくる。それとは別のことだが、広告のメールも徐々に増え始め、最近ではダイレクトメールを遥かに上回る数のものが毎日届くようになった。アドレスを公開している場合でも、それをいちいち調べる手間は誰しも惜しいのだろう。何かしら不正な手口で手に入れたリストを使って、送り付けられるものが急増している。仕掛けのことはよくわからないが、これもウイルスやウイニー絡みで手に入れられたものかもしれない。いずれにしても、開設費用以外ほとんど経費のかからない仕組みだけに、郵便や電話などの通信手段との違いは大きく、その上何千何万という数のものを一瞬のうちに送り付けられるという便利さが更に大きな要因となっているのだろう。携帯メールではそういった問題からアドレス変更を頻繁に行う人もいるようだが、職業上のものではそういうわけにもいかない。結局、サーバーに細工をして篩にかける方法が採られていることの方が多いようだ。時に真面目な広告も送られてくるが、それが全て役立つわけでもなく、更には迷惑千万なものが含まれているから困る。これまで数回しかそんな目に遭ったことはないが、そのメールは開くことが出来ないのである。開こうとするとソフトがエラーを生じ、強制終了する。この状態では削除も出来ず、始めの時は一時的に放置した。しかし、ある時前後のメールとともに消去すれば問題なく操作できることがわかり、その後はそういう対処をしている。おそらく送り主は様々な仕掛けをメールの中に組み込み、広告効果を高めようとしたのだろうが、受け取り手が同じメールソフトを使っていない場合、こんな障害が生じるのだろう。まるでダイレクトメールの中から蝎が出てきた感じだ。便利さの陰には様々な問題があるが、結局それを使わざるを得ない状況なのだから、利用者が自ら解決しなければならないのだろう。

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5月10日(水)−真偽

 人間の目で区別できないものを機械が見分ける。今となっては当り前のことかもしれないが、そういう話題に触れると改めて凄いものだと思う。人間の判断より機械の判断を優先せよという話が交通関係から流れてきたときも驚いたが、人の目どころか判断まで惑わせる事例を出されると、いよいよ機械に頼らねばならない時代という実感が押し寄せてくる。
 切手や紙幣など、印刷技術を誇る国にとって、それらを注入するものがあることは有り難いことなのかもしれない。手に取ってみても大した違いを実感できず、技術を集積した結果などと言われても、聞き流すのが精々という人が多いだろう。しかし、紙幣はただの紙切れが金銭価値をもつことになるわけだから、偽物を作られては困る。技術を結集させた結果でき上がったものに対して、その本物たる所以を見出す技術の発達も偽造防止には欠かせないものとなる。今回の事件はまさにその組み合わせが正常に機能していることを表すものとなったわけだが、一方で機械を通すことがその必須条件であることが露顕した。人間の目にはその違いを見分けるだけの能力が備わっておらず、検査を日常としている人々にとっても難題であったことが伝えられた。さて、この状況は偽造防止という観点で本当に喜ぶべきものなのだろうか。確かに検査のための機械を持つ金融機関や自動販売機の場合は、全く問題ないわけだが、金の遣り取りの多くは人と人との間で行われる。そこで頼りになるのはお互いの目であり、指であるわけで、それが印刷ミスを見破れないとしたら、それと同等の水準に達した偽札も区別できないことになる。おそらく、当局は偽造がそれほどの水準に達することはないと見ているのだろうが、何ともおかしな雰囲気と感じた人もいるのではないか。最新技術を導入するということは、ひと目で区別できるようにするためではなく、隠れた形で特別な処理を施すというものであることが、今回の報道である程度伝わってきた。凄いと思うと同時に、そんな偽札をつかまされたとしたら、という思いが過ったわけだ。技術の進歩には様々な側面があり、今回のように特別な機械でのみ認識できるものもあれば、人間の五感で十分に認識できるものもある。用途によっては前者でも十分であろうが、紙幣のように人間の手を介して流されるものについては、やはり後者に当てはまるような技術を期待したい。一人ひとりが小型化された機械を持ち歩くなどという時代が来るくらいなら、電子化された金銭を持ち歩くほうがましなのだろう。

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5月9日(火)−俚言

 この頃色々なところから、文章を書けない人の話題が飛び込んでくるようになった。その一方で、ネット社会ではブログが大流行し、出版の声が掛かるところもあると聞く。更に若い世代には携帯で書いた小説やら詩歌やらが流行しているようで、違う方向から正反対の情報が流れてきているようだ。これでは、何故、どうしてと考え込む人がいるのではないだろうか。
 文章を書く、一言で言ってしまえば全く同じ事なのだが、実際には全く違うことであるのに気づいている人はどれくらいいるだろう。文字を連ねるという意味では全く同じであり、そこには何も違いは無さそうに見える。しかし、そこにある文章を読み進めてみると大きな違いがあることに気づくのだ。昔習った文語調と口語調の違いに似ているかもしれないが、それほど違っていると言うべきかもしれない。先日、ラジオから流れていた携帯で書いた短歌という番組を聴いていて、ふと思いついたのだが、そこから流れてきているのはどう考えても思いつきをそのまま文章化しただけのもの、つまり頭の中に現れた情景の直接的な表現にしか思えない。現代短歌はそういうものと解説されればそれまでだが、言葉の並べ方、使い方、どれをとってみても、技巧の香は皆無で、稚拙と思えるものが多かった。それが味を出しているという意見もあるが、果たしてどうだろうか。ブログでも同じような調子のものが多く、友達との会話を連想させられる。この調子で会議に使う文書や報告書を作成されたのでは、読むに堪えないものしか出来てこないだろう。結局、普段会話で使っている言葉や友達との間でしか成立しない会話で用いる言葉を使うことは、文書だけで接するものや一対多数の対話では通用しないのである。では、どうしたら良いのかと聞かれるだろうが、そこには一種の翻訳の介在が感じられると表現すれば理解されるだろうか。口語と文語の話を引き合いに出したのもそのためだが、同じ母国語であるにも関わらず、そこには厳然とした区別があり、使い分けが要求された。その間ではおそらく異なる言語での翻訳と同じような作業が必要とされるのではないだろうか。誰とも意志の疎通が出来ない人間には土台無理なことだが、少なくとも仲間内で何とか話が成立する人間であれば、このことに注意して、何らかの方策を立てれば何とかなるかもしれない。これは、自分の意見をまとめるときにも重要な要素となるだろうが、たとえば仕事上のことについても、専門外の人に対する解説が要求されたときには同じようなことが起きる。家電製品の使用説明書やパソコンソフトのマニュアルなどはその例であり、不出来なものが多いことが指摘されているのも、この辺りに問題があるのではないだろうか。考えを言葉にする時点で使い分けが出来るように訓練することが大切なのだと思う。

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5月8日(月)−度外

 学校が危ない、と書いてあったら、さて何を想像するだろうか。学校と言っても様々あり、何処を指しているかによって内容はかなり違ってくる。荒廃が取り沙汰された時代にはそれぞれに問題解決が図られたが、どれも成功裏に終ったようには思えない。その代わりに、別の問題が生じ、それに気が奪われて、古い問題はそのまま忘れ去られたように思える。
 現在はどうなっているのか、人それぞれに見解は違っているだろうが、いずれにしても、問題を抱えていないところはないとなりそうだ。当然対策が講じられるわけで、それぞれの学校を単独で考えることを止めて、欧米型の連続性を築く試みまで出てきた。一長一短があるのは当り前のことで、長所と思えたものが短所になり、それが結局問題化してとなりそうに思えるが、一心不乱に取り組む人々には関係のないことのようだ。新たな取組のほとんどはこういう問題を抱えていて、片方では効果を出せるものが、一方で逆効果を産みだす結果となる。どんな仕組みにも完璧などと呼べるものはなく、探す努力は無駄と言わざるを得ないのだろうが、だからといって、今の仕組みの最良と別の仕組みのそれとどちらが良いのかといった議論も無駄になりかねない。多様性が重視される時代だからといって、何処も彼処もそれを追求するようになると、何とも落ち着きの無い不安定な仕組みが勢揃いすることにしかならないだろう。自由度が増す高等教育機関ほどその傾向が顕著になり、大学はてんでんばらばら勝手な方向に進み始めている。それに比べると、初等教育は様々な縛りがあるから、いくら無茶をするといっても限度があり、軽率な試みはしっぺ返しを食らうことになる。中途半端な存在となり、教育機関としての問題が重大化しているのはおそらく高校なのだろう。進学率が向上することで、半分義務教育機関のようになってしまったことや、多様化の嵐が吹き荒れて、何処に重心を置いたら良いのかわからなくなってしまったことが特に問題とされるところらしい。下手をすると、上級学校への予備校化しているとする指摘もあるくらいだから、その存在意義が問われるのも無理もないことなのだろう。下の学校での授業内容改訂の波を受け、様々な調整を強いられているのも問題だが、その一方で、何をどうするのが高校卒業の資格と呼べるのかが不明確であることが最大の問題となっている。これは今に始まったことではなく、受験戦争が始まった頃から徐々に浸透してきたもののようだが、今のところ解決策は見つかっていないようだ。誰もが大学に行ける時代となれば、少し事情は変わると思われたが、それとて競争の激化を止めることにはならない。本当は、これらの問題を産みだしている何かを見つけないかぎり、解決の糸口は見出せないのではないだろうか。その一つと思われるものは、あまりに単純で、あまりに当然のことだが、教育とは何か、ということなのだろう。単純で当然だからこそ、複雑で度外なのだろうから。

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