身勝手からだろうか、それともそこに価値を見出したいからだけなのか、自分らしさの主張が目立つようになった。一番をとることより、唯一を目指すとか、自分らしく生きるとか、兎に角自己についての主張を耳にする機会が増えているように思う。当然のことを何故と思う人は少ないようで、我が意を得たりといった表情が目立つのは世の中の歪みのせいか。
自分らしく生きよう、という言葉が学校で使われるようになったとき、そこまで厳しい状況に追い込まれたのかと思った人がいるだろうか。周囲に適応することを第一として、様々な圧迫を感じていた人々には、まるで救いの言葉のように聞こえたのかもしれないが、実際には現状を認めただけに過ぎない。この一言だけで救われることはなく、結局自分で打開すべき課題が目の前に山積みにされただけのことだ。しかし、そういう世代でなくても、その親の世代も類似した状況に追い込まれていたわけで、それぞれに迫害されているといった感覚が何処かにあるのかもしれない。その世代が徐々に終末を迎え始め、いざ振り返ってみると何処にも「らしさ」がないように感じられたとしても、不思議はないのだろう。自分らしさを強調する世論に後押しされるように、準備を整え始めたというのだ。死は誰にも訪れるものであり、避けることのできない運命であるが、区別のないことに救いを求めるのではなく、それさえも区別の対象にしようとする動きがある。独特な形の墓石を建てる人、墓に入ることを拒否する人、葬儀の段取りをつける人、様々な形で死後の道筋をつけておこうとする人が増えているという。遺された人々にとってそれはどんな意味を持つのかわからないが、選択できないものにまで選択肢を採り入れている印象を持つ。それが場合によっては身勝手に映り、遺族にとっての足枷になるわけで、それを自分らしさの象徴とするのはとんでもないことに思う。どうしても「らしさ」を主張したいのであれば、そう生きればいいだけのことであり、それが人々の心の中に残れば良いだけのことではないか。死んでしまえば土に還るのみ、といわれるのが嫌で、皆と違うことをしたいと願うのは、どうしてもやり過ぎに思えてしまう。何かを遺したいと願うのならば、生きているうちに作り上げたものにそれを託すべきだろうし、そういう心がけで生きることが自分らしさを主張することになる。物として何も遺せなくても、人の心の中に良いも悪いも含めて何かを残せばいいだけのことだ。こんな話を聞くたびに思うのは、自分で手を下すことができないものに最後の願いを託すのは、何とも情けない所業ではないかということであり、そんな印象しか残せない羽目に陥らないようにしなければ、ということである。自分の勝手を置き土産にして、後始末を託すというのでは、なんともはやと思えてしまう。
加齢現象と言われて、何を思い出すだろう。頭髪のこと、体重のこと、体力のこと、どれもこれも大きな問題かもしれないが、それなりであればそれで良いのではないだろうか。深刻に考える人々にとっては、受け容れがたいものであり、何としてでもと努力する人もいる。人それぞれと言うと語弊があるかもしれないが、まさに感じ方次第のことだろう。
いずれにしても、生まれ出たものが死んでいくのは運命であり、それを変えることはできない。ただ、どんな経過を辿っていくのかについては、運命とは違い、何かしらの努力が報われそうな気がするものだ。とはいえ、そこにどのような目標を設定するのかは人によって違う。だから、大した努力もせず、ただのほほんと過ごすことで、気楽に生きる人がいる一方で、全てのことに高い目標を持ち、その達成に努力を惜しまず、頑張って生きる人もいる。片方からもう一方を見ると、何故という疑問が浮かぶかもしれないが、お互い様のことで主観の違いと片付けるしかないだろう。しかし、最近話題になり始めた加齢現象の一つには、そういった片付け方のできないところがあり、考え方の違いが対応の差に大きな影響を及ぼすことが感じられる。年をとるに従って、様々なことを覚えられなくなったり、思い出せなくなることが知られている。年相応のことであり、加齢に伴う変化だから避けがたいことと、これまでは簡単に片付けられていたのだが、最近の情勢は大きく違うようだ。まずは、実感の湧かない用語が適用されるようになった惚けについて、研究が進むに連れ、単なる物忘れとの違いがはっきりしてきた。日常生活に支障を来すほどの症状の場合、病気として扱うしかなく、周囲への影響も大きい。そのことが伝えられるたびに、彼らの行動の異常さに注目が集まり、それに対する怖れも次第に大きくなったように思う。その中で、別の問題が見つけられたとき、老人に限られると思われたものが、すぐ近くに現れる危険性に驚いた人もいるだろう。若年性、と言っても、昔であれば寿命と言われたほどの年齢で、極度の記憶障害が始まることが知られるようになった。働き盛りと呼ばれる人々に、突然襲った悲劇の結末は、かなり悲惨なものと受け取られるだけに、こういう話は恐怖をもたらすことがある。ただ、治療によって病気の進行を遅らせることが可能と言われても、発病を抑える手段がない状況では、恐怖を縮小させることは難しい。そんな状況にも関わらず、患者の症状を伝える話が続くと、心配性の人にはかなり堪えるものとなるのではないか。これもまた運命と受け取ることができれば、などと言ったらおそらく強い反発が返ってきそうだが、現状のように原因がつかめていない状況では、そういった受取り方が最善に思える。無駄な努力かどうかはわからないが、頑張りたいと思う人々とて、何処まで忍耐が続くのかわからない。他人事のように言っていると思えるかもしれないが、何時自分に降りかかる災難とも知れないのは誰しも同じことなのだ。気を楽に持つことが、実は最も効果的なのかもしれないのだから。
海の向こうでは、もう何十年も前から現金を持ち歩かない習慣が定着している。その代わりのものが流通しているからだが、代わりのものにも時代に合わせて変化が訪れている。小切手帳を持ち歩く時代は遠い昔となり、クレジットカードを持つのが当り前となり、さて次にはどんなものが登場するのか、既に幾つか試されているようだが。
次々に新しいものが出て来る理由には、おそらく便利さの違いがあるだろうが、もう一つ重要なことは偽造にあるようだ。通貨、紙幣の偽造はそれが流通し始めた時代には既に存在していたらしく、人間の考えることは古今東西を問わず同じであることがわかる。どんなに新しい技術を導入しても、必ずそれを真似る犯罪者が登場し、イタチごっこはいつまでも続くわけだ。それは、代用品である小切手でも同じであり、カードとて例外とはならない。今や偽造カードによる犯罪、詐欺事件は後を絶たず、全体としてみればとんでもない桁の額に達しているだろう。防止策として、様々な技術が導入されたが、結局は絶対的なものが無く、犯罪者との知恵比べといったところだろうか。しかし、見えない形での防止策ならば比べようもあるだろうが、その時代の最新技術を駆使して、見える形での対策を講じるのでは、技術を買い取る力さえあれば済むわけで、資金力の問題というべきなのではないだろうか。そんな事情もあり、次から次へと登場する技術を積み込んだプラスティック製品が全世界に流通しているわけだが、ごく簡単に見つけることができる新技術に気づいている人も多いだろう。表の面にきらきら光る四角いものは、そこに企業のロゴが現れるようにしてあり、特殊技術を謳っている。しかし、その技術自体は随分古くからあるもので、既に半世紀を経過しようとしているはずで、新技術と呼ぶのはどうかといった感じがする。平面に印刷されたものから、立体的に見える画像が飛び出すという技術はホログラムと呼ばれ、全体を記録するという意味で名付けられたのだそうだ。何やら光の性質を使っているとのことだが、すぐに理解できるものでもなく、それを見るかぎり、そこに何が印刷されているのかもわからない。ただ、ある方向から光を当てたときに、立体画像が浮かび上がるわけで、理由はわからずとも見ることができるわけだ。博物館や展示場などでもたまに見かけることがあるが、うまく見えたときには驚かされるが、その見え方に不満を持った人もいるだろう。いずれにしても、これを使って単純な成型技術だけでの模倣を防ごうとするのが導入の目的だったらしい。しかし、そろそろその効果も薄れ、既に偽造カードが出回るようになったというから、相変わらずの状況が続いているようだ。といっても、その多くは製造業者からの横流しという噂もあるから、偽造そのものを防いでいることにはなっているのかもしれない。光の性質を利用した技術は次から次へと産み出されており、一般人にはさっぱりわからないことでも、それが製品に導入されているようだ。兎に角、技術を理解できなくても利用できるわけだから、大いにそれを愉しめばいいのだろう。
新しい環境に移ってから、早ひと月半という人もいるだろう。そろそろ慣れたという人がいる一方、疲れが頂点に達してしまった人もいる。場合によっては、逃避の兆しが見え始めた人がいるかもしれないが、山の高さを実感する前に下山するようなもので、もう少し歩き続けても良いのではないかと思える。
一時的な浮き沈みに一喜一憂していても仕方がない、と思うのは後からであって、渦中にある人々には、波に揺られる気持ちを落ち着かせるのに四苦八苦するのが精々だろう。新しい環境が自分にとって適しているかどうかについても、日々起こることによって左右されることが多く、その度にどうだろうかと悩んでいたのでは、精神的な不安定に襲われたとしてもしようがないかもしれない。別の環境に移るきっかけにもよるのだろうが、外部からの力で決断させられた人は別の力に対して弱さを見せることがある。その一方、自分の判断で決めた人は、その気持ちが揺らぎはじめ、不安定を招くのかもしれない。こう考えてみると、結局、どう決めたかは問題ではなく、その人それぞれの心の問題と言わざるを得ない。しかし、そんなことを言っているだけでは自己防衛は実現できず、対処法が導き出せることもない。肝心なことは、自分自身の心の動きを知ったうえで、どんな環境を選ぶかを検討すべきで、大きな変化に対応できるかどうかが一つの鍵になる。とはいえ、大きさなどというのは相対的なものであり、人それぞれに感覚が違うだろうから、簡単でないことはすぐにわかる。では、どうすればいいのか、このままでは行き詰まってしまうしかない。それが難しいのであれば、別のことを考えてみてはどうか。実際には新たな環境に自分が適応できるかどうか、それが一番肝心なことだろう。そういった状況で、多くの人々の材料探しはできることよりできないことに向かうことが多い。そんなことは大したことではないと思う人も多いが、実際には自分の評価を過大にすることより、過小にすることの方が安心できるらしい。だから、そっちに向かい、結局適さないかどうかの判断だけになってしまう。現実にはそういう基準を元にしたのでは、何かがあったときに対応できなくなるだろう。そんなことがだんだん大きくなり、結果的に退くしかなくなったら困ってしまう。周りの人間を自分より低く見ようとする若者が増えていると言われるが、その一方で過小評価の傾向は変わっていない。ものの見方を知らないと言ってしまえばそれまでだが、適材適所の意味も含めて、自分なりの判断ができるようにすることが大切なのではないだろうか。
数日前の朝、小さな自転車が数珠繋ぎに歩道を行っていた。子供たちは誰一人として乗っておらず、皆一様に押していたのが印象的だった。特に小さなものが多かったから、低学年の小学生だけが対象だったのかもしれないが、おそらく学校で自転車教室が開かれたのではないだろうか。やっと乗れるようになり、次は正しく乗るための知識というわけだ。
自動車や自動二輪と異なり、自転車には運転免許制度が適用されていない。そういう意味でも手軽な乗り物であり、誰でも何処でもといった感じがあって、重宝している人も多いのではないだろうか。最近は単に手軽というだけでは物足りない人もいるようで、健康に良いとか、体重制限に適しているとか、そんな話題まで提供されているようだが、自分の力で動かせる乗り物の気持ち良さをもっと強調したほうが良いように思う。学校での教室の開催は昔はなかったと思うが、最近は何でも教えるのが学校の役目ということもあり、これも例に漏れない。自転車も道路交通法上は軽車両と区分されるわけだから、車両を動かすための最低限の規則を守る必要があり、それを何らかの形で教えることが要求されるようになった。そのため、学校では自転車に乗った場合の通行区分、交差点での行動の様式、など、様々なことを教室という形式で教えるようになったらしい。これをそのまま守りつつ成長してくれれば、何の問題も生まれないのだが、世の中はそんなに単純ではないようだ。車道から追いだされ、歩道を通ることを余儀なくされた軽車両は、道行く人々にとっては危ない存在であり、そのことを十分承知の上で走ることが要求される。にもかかわらず、ほとんどの人は先を急ぎ、歩行者の存在を邪魔と感じてしまうのは、まるで自動車の運転者が自転車に対して抱く感情とそっくりである。そういう心の動きの結果、事故が頻繁に起こる。車体が重い車に比べれば、自転車はそれほどでもないから、相手に与える力も大したことはない、と考えるのだが、実際に人と人がぶつかっても大怪我をする場合があるわけで、大丈夫と言えるわけではないだろう。その上、動きが鈍くなった人にとっては、ちょっとした力をかけられれば、そのまま転倒する危険がある。捻挫や骨折だけでなく、場合によっては命に関わることもあり、たかが自転車でという考え方は捨てるべきだろう。最近は、事故の多発から補償の問題が取り上げられるようになり、保険制度の整備が論じられているという。免許制度の無いまま、保険制度を導入して、どれほどの効果が期待できるのかわからないが、そういった形の周りを整える考え方だけで満足するのは、そろそろ止めて欲しい気がする。もう一つの肝心なこと、自転車に乗る人の意識の改善に努める方策はどうなっているのだろう。これに限ったことではないが、どうもこの手の話で感じるのは、自分のやることで何が起きるのかという予測能力の低下で、そこを何とかしないと全てがおかしなままになりそうに思えるのだ。
自分の話を聴いて欲しい、と思ったことのある人は多いと思う。でも、そういう機会に恵まれたとき、いざその場に出てみると、思うように事を運べず、反省の山を築いてしまう、そんな経験を持っている人もいるだろう。準備万端だったはずなのに、人前に出た途端に全てが吹き飛んでしまう。一生懸命話したのに、目の前で居眠りする人がいる。
一対一の会話ならば、お互いにある程度の緊張を保つ一方で、ある程度寛ぎながら話ができる。だから、思ったことも、伝えたいことも、何とか相手に投げ掛けることができる。しかし、多数を相手にしたときには、そういった雰囲気を作り出すことは難しい。一人ひとりから違った信号が出され、それを受け取るたびに過剰な反応をしてしまい、結果的にあたふたしたものになるからだ。内容が大切であることは言うまでもないが、同じ内容を同じように話したとしても、聴衆によって受取り方は様々であり、時にはまるで正反対の反応が引き出される。話術に長けた人の多くは、その内容の構築の準備に時間を割くだけでなく、その場での対応に幾つかの技術を持ちあわせているようだ。同じ話でも、募集によって集まった人々と、無理矢理参加させられた人々では、聞き方も違うだろうし、集中力にも差が出る。聴きたいと思って集まった人々を相手にする場合は、その内容を高めておけば十分であり、それ以外に策を弄す必要もない。しかし、聴く気のない人間が多くいる場では、まずはこちらに気持ちを向けさせる努力が必要となる。つかみが大切と言われるのは、おそらくこういった場面を想定したことなのだろう。当然、一度つかんだ心をすぐに離してはいけないから、常に、見えない気持ちの遣り取りをする必要もある。問いを投げ掛けるのも一つの方法だが、これも逆効果を産むことがあるから面白い。考えさせるわけだから、こちらに気持ちが近づきそうに思えるが、その代わりに、隣の人間との会話に気持ちを向けさせることになる場合があるからだ。聴衆の年代にもよることだが、一度この流れができてしまうと断ち切るのが難しい。やってしまってからしまったと思っても、それこそ後の祭りとなりかねないのだ。私語が始まると、次々に会場の色々なところから声が聞こえてくるようになる。あとは、その音量が増していき、全体にざわざわと騒がしさが広がるだけだ。聞かせる技術として紹介されるものの一つに、こんな時の対応があり、一つは話を打ち切ること、もう一つは口パクをやったり、声をわざと小さくすることと言われる。全て、本来の送り手からの信号を途切れさせることであり、それによってその場の雰囲気をがらりと変えることに繋がる。自分たちの会話に集中していた人々も、その変化に気づき、舞い戻ってくるということらしい。大きな声の持ち主の勝ちと信じている人々にとっては、こういった逆手は思いつくはずもないが、効果絶大という話もあるくらいで、試してみる価値はありそうだ。ただ、これは一対一には当てはまらない話で、多くの人々にとってはこういった場に出る機会を持つこと自体が稀なだけに、あまり参考にはならないのかもしれない。
インターネットのサイトを覗くと、新しい表示が目に付くことがある。いつ頃から始まったのか、おそらく法律の施行からなのだろうが、個人情報云々に触れる注意が目立ち始めた。表面的には匿名が可能とはいえ、管理する立場からはある程度のことを知りえるわけで、それに関するものかと思う。情報の氾濫からその管理が重要となっているのだろう。
多くの人々が自分のホームページを開設し、そこに人が集うことを楽しみの一つとしている。この場合、開設者が手に入れられる情報は、積極的に参加した人のものであり、そこにある程度の危険が潜んでいることも了解していると考えられる。現実には、それほど深刻な問題とは考えず、何かが起きてから慌てる人もいるのだろうが、少なくともその危険を回避するための判断は自分で出来る。しかし、別の形で収集された情報の場合、それがどんな危険に曝されるのかは、提供者の知るところではない。そういう意味で、こういった情報の管理者が何かの手違いでそれらを他人の目に触れる形にしてしまうことは、重大な過失と言わねばならない。ノートパソコンをなくした、フラッシュメモリを落とした、書類を盗まれた、等々、そんな事件は毎日のように起きている。その一方で、これらとは少し違った形での重大な過失についても、頻繁に報じられている。ネット上での情報交換を円滑に行うためのソフトとそれを利用したウイルスの組み合わせが引き起こす情報流出事件である。驚くべきことに、利益追求を第一とする企業だけでなく、公の立場にある役所からの流出が数多くあり、情報の入手方法の違いを考えると、後者の影響の方が遥かに大きいことから、情報管理者の倫理観の無さに呆れるばかりだ。ただ、報道を見るかぎり、流出元の話ばかりが取り上げられ、それが何処へ流れたのかについてはほとんど触れられない。流出の可能性を報じる場合には、そういう状態にあることは理解できるが、何処かしらから指摘されたものについては、流出経路や流出先についての分析があっても良さそうである。特に、個人情報の流出で実際に被害を受けた人物を取り上げる場合、何故それがそのような事件を引き起こしたのか、気になるところなのだ。多くの場合、たまたま手に入ったということなのだろうが、もしそうだとしても、それがその個人に直接的な被害を及ぼす形となるためには、入手した人物が何らかの行動にでる必要がある。そう考えると、確かに情報管理者の倫理も問題だが、それを受け取る人間の倫理にもかなりの問題がありそうだ。インターネット社会における処し方の話をいくらしても効果は期待できないが、こういった事件の背景には自分にとっての有利不利だけで行動する人の存在がある。流出を咎めるためなら、別の行動で十分だろうし、被害者になりうる人への警告ならば、別のやり方があるはずだからだ。まるで、加害者は別にいると主張する人もいるらしいが、最終段階で被害を与えたのは誰なのか、認識できないのだろう。