パンチの独り言

(2006年5月22日〜5月28日)
(持病、独歩、拠点、燃料、世話、蜜源、継続)



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5月28日(日)−継続

 毎日毎日、丸三年も書き続けていると、段々同じような話題を取り上げてしまうことも出て来る。全てを読み直してから書き始めるようにすれば、重複は避けられることだが、そんな手間暇を掛けてやり続けることは困難だ。年をとってきたのだから、同じ話を何度してもいいだろうと勝手な理屈をつけて、その場その場の思いつきを書き綴るわけだ。
 毎日付けているタイトルも、実際には、その日の分を書き終わってから考えることにしている。語彙がそれほどあるわけではないから、時には同じものつけてしまうこともある。これについても、検索機能を使えば調べられることだが、面倒なだけであるから、何もしないことにした。しかし、書き手よりも読み手の方がそういうことをよく覚えているようで、時々そういった指摘を受ける。まあ、一日に一時間にも満たない時間を費やすだけなのだから、そのくらいのことは大目に見て欲しいのだが、逆に、指摘されることは読み手を意識できるから嬉しいものだ。いつまでこれを続けるのか、全く考えていないが、世の中がまだブログで賑わう前から始めたことだから、少し違った形式のものとして少しの間続けていこうかと思う。まあ、終ろうかと思ったときが終るときであり、そんなものは急に訪れるに決まっている。前々から準備をして、整理整頓、形を整えてからなどというのは性分ではないし、始めたときの経緯からして行き当たりばったりが精々である。それ以上を望んでもいけないし、そんなことをするくらいなら、さっさと止めてしまったほうがましなのだ。こんなことを書いていると愈々かと思う人もいるかもしれないが、まだまだ、その気にはなっていない。徐々に題材が無くなりつつあり、話題の範囲が狭まりつつあるが、それでも何とか新しいことを見つけようと、日々目と耳を働かせている。周囲の出来事でありながら、自分の生活そのものとの関係は薄いといった制限は、今でもかけているつもりだが、見る人が見ればわかってしまうものなのだろう。自分のことを書いた方が楽な場合とそうでない場合があると思うし、話題の範囲を設定しないほうが色々な意味で面白いと思う。思いつきを思いつかなくなったとき止めればいいだけのことであり、そんなことに準備が必要だとは誰も言わないだろう。それにしても、新聞もテレビも悲惨な事件ばかりで取り上げる気にもならない。こんなに荒んだ社会では豊かな心が育つはずもなく、せめて自分の周りだけでも何とかしたいと思うことも多い。批判的な文章が多いけれど、その中に暖かみを感じてもらえたら嬉しいものだ。

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5月27日(土)−蜜源

 路傍に白い塊が目立つようになってきた。周りを見るとその源は見上げる先にある。小さな白い花を一杯つけた別名ニセアカシア、ハリエンジュの木が並んでいるのだ。この時期、その白い花は河原に生えた木からぶら下がっているのが目立ち、桜、躑躅、藤と続いた春から初夏にかけての花の繋がりの一角を構成しているように見える。
 春の花たちは、冬を越したミツバチ達の密集めの対象であり、国内の生産をレンゲと二分するのがハリエンジュであることはあまり知られていないようだ。蜂蜜の生産者にとって局地的に沢山の花をつける草木の存在は重要であり、以前は田圃に一杯咲いていたレンゲがその勢いを無くした今、頼りになるのはニセアカシアの白い花なのだそうだ。ところが、その状況に異変が起き始めているという。オオクチバス、通称ブラックバスやブルーギルといった釣りの対象となる魚が、様々な漁業被害を与え、環境省が特定外来生物に指定し、規制に乗り出したことは知られており、更に多くの外来種に対して同様の規制が適用されている。哺乳類では、愛玩動物として輸入され、飼い主の勝手な都合や不適切な管理によって逃げ出した動物が野生化した結果、生態系の破壊が危惧されている。どれも人間の都合に始まったものに思えるが、その一方で植物に関しては、ブタクサやセイタカアワダチソウなどがかなり昔から深刻な被害を与え、一時期は大きな社会問題として扱われた。但し、こちらは、どちらかといえば、輸入品の何かに付着してやって来たわけで、そのものが人間の都合でどうにかなったわけではないようだ。いずれにしても、生態系を乱す外来種は目の敵にされ、次々に指定されていった。特定という呼ばれ方をしなくても、固有種の植生を乱す傾向のあるものは、別の呼び名で注意を喚起しているようで、要注意外来生物というリストが提出されている。その中にハリエンジュが含まれていたために、養蜂家は将来に不安を抱いたというわけだ。実際には、指定リストの記述にも良質の蜜源植物とあるくらいだから、利用価値の高さは十分に認識されているのだろうが、元々緑化等の目的で意図的に導入され、その後河原や海岸に分布を広げ、他の植物の生育に影響を与えていることから、要注意という指定がなされたのだろう。順位から言えば、緊急を要するものでもないし、抑制が必要とされるとはいえ、全てを取り除くといった表現はないわけだから、そこまで気にすべきかどうかはわからない。不安を抱くといった表現がおそらく一番似合っているのだろうと思うが、生態系の制御が容易でないことは養蜂家たちにはよくわかっていることだろう。良質の蜂蜜をとるために全国を移動しながら花を追いかける人々にとっては、沢山の花をつける草木は重要な対象であり、草と違って木は毎年同じところに同じだけの花を供給してくれるから有り難い存在なのだろう。これからの展開は予想しがたいもので、見守るくらいしかできそうにもない。

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5月26日(金)−世話

 人が可哀想、と思うとき、どんなことを考えているのだろうか。同情、憐れみ、様々な感情が入り乱れて、ということもあるだろう。ただ、それぞれに共通しているように思えるのは、自分との位置関係ではないだろうか。一概に言ってしまうと極論と言われてしまいそうだが、こんな感情を抱くのは何となく相手を下に見ているときに限られるのではないだろうか。
 そんなことはない、上司のことを可哀想だと思ったことがあるといった意見や同情とは同じ立場にあるからこその感情といった話が聞こえてきそうだが、それとて解釈によるところが大きく、別の見方も十分に通用するような気がする。逆に言えば、感情だからこそ正反対な立場でものを見ることができるとなるだろうか。いずれにしても、そんな感情を抱かされる場面は多くあるようで、話題として取り上げられることも多い。ただ、皆が総じてそういう気持ちになることばかりではなく、時には賛否両論となることもある。もう30年近く続いている制度で、そんなことがあったことが報じられていて、気持ちは理解できてもそれを実行するかどうかには、全く正反対の意見が出されているようだ。多くの人が通過した関門の一つに受験がある。それでも約半分の人の更にまた半分くらいが経験しているだけだろうから、誰もがというには少々無理がありそうだが、国立大学を目指す人々が必ず受けなければならない試験についての話題が取り上げられていた。呼び名も数回変わったようだが、その規模の大きさと採点制度の問題は導入当時から大きく取り上げられ、社会現象の典型として扱われてきた。入学試験の制度としてはそれまでにない形式であり、最初の年にはかなりの混乱があったと思う。その後数年の間、記入漏れなどの扱いは厳しく保たれていたようだが、ある時期から親心のような措置がとられていたという。記入漏れは規定に反することだから、当然ながら答案としての体をなさないと受け取られる。まさにそういった形で処分されていたものが、ある時期から様々な方法で記入者を割り出し、正規の答案として採点していたというのだ。せっかくのこと、一生に一度、そんな言葉が並べられていたのだろうが、うっかりとはいえ間違いを犯したわけで、それを咎めないというのはどうかという意見がある。一方で、調べればわかることなのだから、許してやるべきという意見もあり、おそらく後者の立場が優位に立っていたのだろう。しかし、他のミスに関しては、調べる範囲を広げる必要があり、無理との判断から想定通りの措置を行っていた。つまり、あることに平等を保とうとする気持ちが、別の不平等を産みだしていたのかもしれないのだ。また、自己採点をした受験生がそのうっかりに気づいた時、果たしてどうしたのか、得点を知らされる機会のない状況では、そんな措置が何の役にも立たなかったこともあるだろう。こういう流れを見ていると、可哀想とか頑張ったのにといった個人的とも思える感情に流される人々の多さに気づき、その気持ちの表せ方に違和感を覚える。それこそ、何か大きなお世話に基づく、大きな間違いがあるように。

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5月25日(木)−燃料

 長年抑えられていた物価の動向に注目が集まっている。経済停滞は人々の生活を圧迫してきたが、それを幾らかでも和らげようとする意図からか、色々なものの値段を抑えたり、場合によっては下落させる策がとられていたようだ。停滞を脱し、回復が明確になったから、そろそろ自由にさせて欲しいということからか、動きが盛んになり始めた。
 抑制されていた時代には原料費の高騰があったとしても、企業努力でそれを消し去れといった風潮があった。お互いの生活を守るためというより、経済回復に必要な手順として勧められ、守らざるを得ない状況に追い込まれていたようだ。そういう足枷がそろそろ外れて、これまでたまっていた不満を吐き出すかのごとく、原材料の値上げを製品の価格に転嫁する動きが高まっている。特に大きな影響を与えているのは原油価格で、石油化学製品の原料としてだけでなく、あらゆる工場で必要とされる燃料に影響を与えるわけだから、波及効果は絶大である。そんな中で遠い昔の記憶を呼び覚ましてくれたのは、紙の価格、特にティッシュペーパーの値上げの話題で、石油ショックの頃の狂乱ぶりが映像として流されるのではないかと思えたほどだ。当時も何故そんな騒ぎが起きるのか、すぐには理解できなかったが、徐々に影響が及ぶ道筋を説明されて初めて少し理解できたような気がした。但し、当時の狂乱は価格の高騰に関するものではなく、品薄懸念といった類いのものであり、少々方向が違うというべきなのかもしれない。いずれにしても、こんな形で物価が上昇し始めると、そろそろ経済の仕組みの変更が迫られるのではないだろうか。既に、ゼロ金利政策の見直しといった話も出ているが、バブルの主犯と言われた金融業界さえ、大きな収益を上げるようになってくると、いつまでも保護する必要などないと思える。その一方で、今回の原油価格の高騰が同じような金融競争の結果と見なせることから、依然として経済構造に大きな歪みが存在することを実感させられる。拝金主義が人の心の奥底の何処まで染み込んでいるのかはわからないが、兎に角こういった状況が日々の生活にまで影響を与えることからはろくでもない話としか言い様がない。これから、どんな動きが出てくるのかわからないが、経済の発展というのは結局はこういう歪みを産みだしながら続いていくしかないのだろう。そんな中で自分たちの生活を豊かな状態に保つための手だては、やはり自分たちの力で考えていくしかないのではないか。特に、個人の自由を声高に主張する政策が優先されている時代には、自由を手に入れる代わりに、何か大切なものを失わないように気をつける必要がある。既に多くのものを失った今、こういう政策に基づいて経済の成長が始まると、更にそれが加速される危険性を孕んでいるのだろうから。

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5月24日(水)−拠点

 新聞の読み方にもよるのだろうが、最近「拠点」という言葉が踊っているように感じる。本来の意味は、活動の足場にする所、ということらしいが、ここで使われているのは足場といった感覚よりも、中心という意味合いが強い感じがする。いずれにしても、このところ世の中で流行している差別化の現れであり、他に比べて特別なという意味が込められている。
 特に、経済新聞ではこういった話題が大きく取り扱われている。経済効果が見込めるという意味もあるのだろうが、更に大きな理由として考えられるのは、拠点に対して予算措置が伴われるという点だろう。以前ならば、そういう話題から最も遠い存在として考えられた教育担当の省についても、研究を主体として担当する庁との統合をきっかけとし、更なる要因が加わることで、多様な形で掲載される機会が増えた。文部科学省は依然として学校絡みの予算にのみ関わるようだが、その学校に多様化が求められるようになり、こんな事態が訪れたのだろう。研究拠点という話題も頻繁に取り上げられるが、教育拠点なる政策も度々掲載される。大学などは既に拠点なのではないかという意見が出て来るのは当然のことだが、その中で更に上を目指す様式を導入したということらしい。現在、一体幾つくらいの計画が進行し、また立案されているのか、全体を見渡す報道はないからわからないが、毎週一つや二つの話題が取り上げられるところを見ると、かなりの数に上ると想像できる。研究拠点は既に十年ほどの歴史が有り、そろそろ第二弾への移行が検討されているようだが、その後登場した教育拠点については、更に多くの学校が取り組む姿勢を見せているという。大学、短大、高専などだけでなく、高校についても科学に対する取組に重点を置いた教育を実施するとして指定されるところもあり、あらゆる所に差別化の波が押し寄せているということなのだろう。予算の分配において、多い少ないの差を設けることが重要と見なされる時代に、こういった競争的資金の分配は歓迎されているようで、それが報道という形にも現れているのだろう。しかし、一見効率のよい資金の利用法に思えるものが、その裏で様々な歪みを産んでいることには、まだ目が届いていないように見える。一部に大量の資金が流入したときの出鱈目な運用の可能性や依然として続く年度予算による無駄な制約は、この制度の綻びを見せているようだし、競争に敗れた組織に降りかかる人材、資源の損失もそろそろ表面化しそうだ。報道する側の責任として、ただ単に流されたものを渡すのではなく、そこに潜む問題を暴き出すことがあるはずなのだが、最近の動きには一緒にお祭り騒ぎをしている感がある。勝ち負けをはっきりさせるのが競争の原則だが、教育や研究に勝ち負けがあるとも思えず、そこにある矛盾をどう考えるのか、大所高所からの見解が必要とされている。

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5月23日(火)−独歩

 自分の周りにいる人間のことを考えて欲しい。彼らから受けているものと、与えているもの、どちらが大きいと感じるだろうか。これに影響を与える要因として最も大きいのはおそらく年齢だと思う。それぞれに、年を重ねるごとに徐々に変化していき、はじめは周囲から受けるものばかりだったのが、段々と与えるものが増えてくる。大人と子供の違いなのだ。
 こんなことを書くとすぐさま反論がやって来る。大人だろうが子供だろうが、影響を及ぼす人がいるし、受け身だけの人もいると。確かに、次に大きな要因は人の性格、性質、資質などといった類いのものから生まれる個人差だろう。しかし、そこに見かけ上大きな差があるとはいえ、年齢とともに変化することを否定することはできないのではないか。受け身に徹する人でも、無意識に影響を及ぼしているだろうし、発信ばかりしているように見えても、何処かで影響を受けることがある。それは自分の周りの人間の年齢構成の変化にもよるだろうし、環境そのものの変化にもよる。年を重ねるというのは結局そんなところにあるわけで、たとえずっと同じままを望んだとしても、それが叶えられることはない。しかし、最近の社会情勢は大きく変化しているように見える。大人になる準備のできていない少年少女たち、社会に出ることを拒む青年たち、そんな存在は大きな潮流に流されて、何処かに消えてしまうように思えたが、最近は大手を振って生きている。社会が寛容になったとも言えるだろうし、家族の形態に変化が生じたとも言えるのだろうが、にしてもこの歪みは著しく見える。引きこもり、ニート、呼び名は様々に変化しても、その実態には大きな変化は訪れていない。もっと昔からそんな人々の存在は知られていたのだろうが、社会的には見えない存在として無視されていた。しかし、今では無視できないものとして捉える人が現れ、重大な問題として取り上げられるようになった。兎に角何とかしないと、社会全体の体制が崩れてしまうという主張には同意できる部分もあるが、その主張の大半が対症療法に限られ、対策を講じる案ばかりが目立つことには落胆を隠せない。何故、大本にあるだろう原因を追及しないのかと思うが、それに対する反論には、そんな猶予はないとある。対策自体を無駄と論じるつもりはないけれど、それだけで何とかなると考えるのは止めて欲しいだけだが、近視眼的な展望しかない人々には無理な願いのようだ。原因は人それぞれ、様々なのだろうが、多くの場合、そういう人々を受け容れることができる所に問題がありそうだ。仕方がないという一言で片付け、そのまま放置することは結果を悪くするばかりだが、そこまで至ってしまったものは仕方がない、となる。準備をさせるのは、外からあれこれ与えることではなく、本人の中から出て来るようにすることのはずで、そこでの誤解と間違った用法がそんな結果を産む。自立とはまさにそのことを言うはずなのに、促すつもりで妨げていることに気づけば、様相は一変するのではないだろうか。

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5月22日(月)−持病

 子供の頃に長生きできないと宣告された人が、平均を超えて生き延びたという話をよく聞く。医者の判断の間違いと片付けてしまえばいいのだろうし、結果よければといった話だろうから、本人にとっても一時の迷惑程度で終ってしまうことだ。たぶん、子供の頃の体の変化に体自体が追いつけなくなったためであり、変化が落ち着けばそれまでということだろう。
 こんな形で持病を持ったために用心をするようになり、その後大病をすることが無くなるという例は多く、子供の頃に限らず、成人してからでも通用する話である。弱々しく見える人が体を休めながらでも長く生きるのに対し、健康そのものに見えた人が急に体調を崩し他界してしまう。そんな話を見聞きするたびに、無病息災ならぬ、一病息災が通用していることを感じる。体調を崩した経験のない人にとって、どうなることが兆しなのかの判断ができず、手遅れになるということもあるだろうし、無理を重ねることによって根元から崩れてしまうこともあるだろう。いずれにしても、命は一つしかないわけだから、失ってしまえばそれまで、そうならないように用心するのが長生きのコツということなのだ。逆に言えば、持病を持ち、それと付き合うことが、制動をかける意味でも上手な調整術となり、体力的にも精神的にも良い水準を保つ手段となる。病気の症状を抑えるために休息が必要ならばそれでよしとし、薬を使って無理矢理抑えれば、結局は惨事を招くことになる。大袈裟な言い方に聞こえるかもしれないが、たぶんこんな遣り取りが体と心の間で行われ、何とか生き延びているのだろう。心臓の問題や血圧の問題など、休息や食餌制限だけでは何ともならないことも多く、薬の助けを借りるものもあるが、それだけで十分というわけには行かない。基本的に体の管理を心がけることが大切であり、無理が禁物なのは当り前のことなのだ。医療技術の進歩は、体調不良の原因や不調の原因を探しだす技術をも進歩させ、その治療法の確立が人を救う結果を産み出すこともある。しかし、一方で休息をとることが最善の策であるものまで、薬の力を導入して制御し、結果的に体全体への負担を増大させることに繋がるものもあるのではないか。精神的な不安定についても同じ様な進展が見られ、様々な原因が取り沙汰されて、治療法が紹介されるまでになった。心の病と呼ばれるものに風邪との類似点を見出し、薬の投与の必要性を説く人々には、対症療法と根本治療の違いが見えていないのではと思えることがある。仕事や勉学によって引き起こされた不安を解消する手段として、薬に頼るのも選択の一つなのだろうが、そこにいることやその作業をすることが原因となりうる点を見る必要もあるのではないだろうか。人は皆平等であり、全ての機会は平等に与えられるべきとする理念を否定するつもりはないが、向き不向きが存在し、それによる過剰な圧迫があることを無視してはいけないと思う。こんなところにも適所の法則があり、それを見極める必要があるのではないか。

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