パンチの独り言

(2006年5月29日〜6月4日)
(過褒、分数、妨遏、自問、過保護、破綻、鑑賞)



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6月4日(日)−鑑賞

 ブルームーン、ピース、スーパースター、クイーンエリザベス、これらの名前からすぐに思いつく人は、かなり熱心なのかもしれない。その上、花の色まで当てられるようなら、自慢していいのかも。これらは薔薇の品種で、最近はオールドローズが人気のようだが、ハイブリッド系は栽培も簡単だからと、一時期流行していたようだ。
 歩き回るのは何も野山と限ったものではない。近所の道をてくてく歩くのも、たまにはいいもので、特に他所の家の庭先の花を眺めながらというのも面白い。せっかく庭付きの家が買えたのだから、ということもあるのだろう。皆それぞれに力を入れて、様々な植物を育てている。植木に力を入れる人もいれば、小さな草花に興味を持つ人もいる。総じて言えることは、彼らがそれぞれに丹精込めて育てていることであり、何を好みとするのかは全く別の話ということだろう。この国独特のものとして昔からあったのは、菊や皐月であり、ずっと昔、江戸時代に一世を風靡したのは朝顔だろうか。欧州のチューリップの狂乱は様々な面で注目される出来事だったのだろうが、こちらとて財をなした人もいれば、全てを失った人もいたのだろう。輸入品が生活の隅々まで入ってくるようになると、庭先の植物にも変化が現れる。薔薇はその代表格で、個人の趣味として成り立っただけでなく、皆に楽しんでもらおうという動きがあったことは多くの町にバラ園があることからもよくわかる。個人で立派な薔薇の木を沢山育てている人もいるが、元々病気に弱い品種が多く、世話がかかることから、ちょっと始めてみたけれどすぐに諦めてしまった人も多いと聞く。そんなことを思いながら、庭先の草花を見て歩いていたら、立派な薔薇の木が沢山植えられているところに出た。そこは庭ではなく、畑の端で、如何にも栄養が行き届いている様子がそれらの木の勢いから推察された。久し振りにブルームーンを見て、特にその花の見事さに驚かされたが、元々青と名付けられたとはいえ、実際には淡い紫の花は、通常小さく弱々しく咲くものだが、そこでは全く違ったものが咲いていた。病気に対する世話とともに木の生育のための土の世話も大変だろうが、流石に畑ではそんなことを心配する必要のないのだろう。買い物帰りの人も足を止め、ひととき楽しんでいた様子で、少しだけ言葉を交わした。畑に隣接する家の主が世話をしているとのこと、畑の方はこんな時期なのに何も植えられておらず、何とも不思議な光景だった。その他にも10を超える品種が植えられ、どれも元気そうに花を咲かせていたのは印象的で、皆の楽しみになっているのではないだろうか。住宅街の一角に残る畑の一場面である。

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6月3日(土)−破綻

 景気は確実に良くなっているし、社会全体としても改善が進んでいると言われる。しかし、株式市場は年初来安値をつける企業が溢れ、どう見ても良い状況にあるようには見えない。企業の業績が軒並み好調を示しているにも関わらず、こういう状態にあるのは先行き不安を抱えるためと分析する向きもあるが、本当にそうなのだろうか。
 人間の心理とは不思議なもので、微妙な動きに惑わされ、振り回されることが多い。下り坂にある時、すぐ其処に底があると誰かが言えば、楽観的な見方が広がり、早すぎた投資をあとで悔やむ人が出る。その一方で、同じように見える時でも、まだ底が見えないという分析を信じて、後手をとってしまい、常に裏目が続くことになる。上り坂とて同じことで、まだまだ上があると信じて、高値でつかんだものを手放せなくなる人もいれば、いけいけドンドンの中でさっさと手仕舞いする人もいる。上手下手と言ってしまえば簡単に片付けられそうだが、実際にはそんな線引きができる代物ではなく、ちょっとしたきっかけでどうとでもなるものなのかもしれない。安全策をとることが勧められ、分散投資が推奨されていても、安全の度合いが少し増やされるだけで、危険が全く無いわけではない。あちらこちらで不満の声が上がり始め、そんな中で時代の寵児と呼ばれる人々が表舞台から引きずり下ろされていくのを眺めていると、そんな連中に振り回されて一喜一憂するよりも、堅実に生きるほうが結局のところ安全なのではないかと思えてくる。石橋を叩いても渡らないと言った経営者もいたが、自分の信じるところを歩き続け、周囲の喧騒に惑わされないのが、より良い結果を産むのかもしれない。しかし、信じると言っても、何を信じたらいいのかわからない、という声が聞こえてくるような時代には、こんな話も通用せず、ただ振り回される人々が慌てふためくところで、他人の上前をはねて暮らす人々が大きな顔をしているのを羨ましく思うのが精々だろうか。将来の安定を保証するのが政治の役割のはずが、過去の綻びの批判を続け、その修繕と称して次々に大鉈を振るっていると、そこには不安だけが漂い続けることになり、結果的には言葉に躍らされた人々が放心状態で立ち尽くす姿が残るだけになる。こんな流れの時こそ、自分の心を信じる事が必要であり、何が将来に渡って重要となるのかを考える必要がある。そんな時に、どうやればいいなどとほざいている人々には、やはり誰かの後を追いかけるしか選択肢は残っていないのだろう。後を追い掛けるにしても、他に選択の余地が無いからという理由ではなく、確固たる信念をもってやっていれば、次の分かれ道で決別することができるかもしれない。社会の綻びの原因は個人の問題もあるが、もう一つそれを許した社会の不甲斐なさにもあるのだろう。

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6月2日(金)−過保護

 人が自由と言う時、そこに権利が生じるが、その一方で責任も出て来ると言われる。しかし、権利の中には最低限のものがあり、責任を伴わない状況でも護られるものがある。人権と呼ばれるものはまさにそれであり、人としての権利を定めたものだ。これにはある一定の基準があり、それを厳守することが条件のはずだが、どうも危ういところがある。
 国として基本的人権を遵守していないと批判されるところもあるが、個人の範囲ではその基準はかなりあやふやなものとなっている。ハラスメントと呼ばれる行為はその典型であり、その基準に関しては様々な意見があるけれども、基本的には守られるべきものが守られていないというわけだ。一方で、先日話題になったハラスメントでは、被害者が犯した間違いを厳しく追及する過程で、過度な処分を下したことが問題となった。加害者にとってはその人物の過失で被害を受けたのだから、当然の措置という理解だったのだろうが、行き過ぎと判断されたようだ。この事件の場合、誰が見ても過剰な対応と見なされたのだろうが、これとは逆の形での人権擁護が目立つことが問題にされている。未成年による犯罪に関する加害者の人権保護については、様々な方面からの議論が盛んになっており、一方的な線引きに対する批判はかなり強く現れるようになった。一般の犯罪についても、その凶悪性には関係なく、加害者の権利を守ることに注意が払われている。報道する側から言えば、大した影響も及ぼさないのに、人権を踏みにじる行為と見なされそうな間違いは犯したくないのだろう。細心の注意を払って、行き過ぎと思えるほどの画像処理や音声操作が行われている。その一方で、犯した罪との関係からこの程度のことは十分に意味をなすと判断して報道するメディアもあり、判断基準が存在しないことがはっきりとわかる。しかし、今の社会の流れを見ていると、犯罪者に対する感情の高ぶりはかなりのものであり、彼らの人権への関心は薄れている。どこに線を引くのか、常に正しい答えは存在しないのだろうが、様々な考え方を主張してもいいのではないだろうか。交通違反などの報道で、警察官に罵声を浴びせている人々は、自らの姿を晒してまでその行為を続けるだろうか。一時の感情で犯した間違いだから、保証されるべきという考えは、何故罪の重さで扱いが変えられるのだろう。そんな考えを持つ人々から見れば、現状は過剰な保護が横行する社会となる。程度の問題というのは如何にもと思える言い訳だが、それなら何処で線が引けるのか、はっきりして欲しいとなる。このままやり続けていると、次には反対の極端に一足飛びに行ってしまいそうで恐ろしくなる。そろそろ、人の権利をきちんと論じておいたほうが、良さそうな気もする。

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6月1日(木)−自問

 随分と息の長い、と表現される政治体制が最終盤を迎え、次の体制に関する話で囂しくなっている。状況は刻々と変化し、圧倒的な人気を誇った人物に対して、批判的な声が上がり始めると同時に、現状に対する批判がそれと重なるようになっているように見える。人気に陰りが見えて身を引くという形でなく、引くと決まり陰りが見えてきた感じがする。
 いまだに支持率は高いままであり、個人的な人気も高いようだが、改革と称して推し進めたものに綻びが目立ち始め、結局元の木阿弥になるのではと憂慮する向きもある。それ以上に、精神的な疲弊がひどく、当然の帰結として訪れた経済の改善を慰めにするしかない人もいるだろう。最近の停滞状況はそれさえも奪われかねない状況であることを如実に表しており、何処に救いを求めればいいのか戸惑う姿が目に浮かぶ。それにしても、こういう状況に陥ったのは何故なのか、学者による分析も如何にもと思わせるだけで、何とも役に立たないものであり、今後の展開を謀る手立てにはなりそうにもない。経済の絶頂を迎え始めた頃から、人々の心に宿っていたのはどんな考えなのか、それが崩壊の過程でどう変化していったのか、そんなところを説明した上で、その心の拠り所となっているものをどう扱うのかを論じないと、単なる数字の羅列とその分析に終ってしまう。外国資本にしてやられたと批判する人々でさえ、その傷の深さを何処まで理解しているのか、よくわからない状態にある。何もかもが不鮮明になったとき、自分自身の中に何やら明確なものを持つ人々は少しの不安しか抱かないだろうが、何も持ち合わせのない人々は煽りをかけられ慌てふためくしかない状態に陥っている。世の中の流れに巧みに乗ってきたと思ったのに、結局のところいつの間にかそこから振り落とされてしまった人々には、このところの格差を明確にする動きは怒りしか思いつかないものになっているのではないだろうか。そんなこんなの流れの中で、ある体制が終焉を迎えているにも関わらず、その継続を依然として主張する人々がいて、更に奥底を見たい欲望に駆られているようにしか見えない。一体全体、この国の人々は自分で何を考えたら良いのかわからなくなってしまったのだろうか。それとも、ただ身の回りの整備だけに執着し、その基盤の整備の大切さに目を向けなくなっただけなのだろうか。政治体制の崩壊を目にする前に、一言二言言いたい人々がいて、自分たちの考えを世に示す動きが急になっている。それとて、本来の意図は捨て去られ、誰か別の人間の思惑が上塗りされたものが紹介されることで、流布されるようになったのでは何とも情けない。結局、自分の考えは、と自ら問い掛けることが、今の時代に必要なことに思えてくる。

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5月31日(水)−妨遏

 子供の将来を考えたとき、何とかそのための道筋をつけてやりたいと思う親は多い。そのために、乳幼児の頃から教育玩具を買い揃え、経験が必要と様々な所に連れ出す。教育熱心と言われる人々だが、それが必ずしも成功しない。役立たずの玩具は押入れに詰め込まれ、旅先で撮影した写真は束となって残る。教え育むより、押し付けに近いものだろうか。
 昔ならば教えることといえば、読み書き算盤と相場が決まっていた。しかし、今は多様性の爆発が起きており、早期教育などと称するものまで横行するようになった。更には、運動能力を活かさせるということで、少年少女クラブなどに通わせる親もいる。習い事の一種なのだろうが、子供の将来設計の一つということらしい。親主導のこういった活動に対して、総じて言えることは子供の気持ちの関与が薄いことであり、ある時点でそれが方向性を決める鍵となることだろう。自主性を重んじる社会で、本人の自主より、親の思いが優先されるのは、何処か歪んだ感じがするし、それが打算的なものであれば、更にその印象は強くなる。才能と努力の結晶という形で現れたものを持つ人が一流と呼ばれるわけで、誰でもできることを巧みにこなすだけではそうはならない。見極めが大切と言っても、そこに親の打算があるのでは難しい感じがする。子供が興味を持たないと嘆く親に限って、山のような課題を押し付けていることが多いし、せっかく出てきた興味の芽を摘んでいる自分に気づかない人も沢山いる。視覚を中心とした感覚を身につけ、それを元に情報を集めるようになると、自ずと様々なものに興味を持つようになる。そこに区別はないように思えるが、子供たちそれぞれに全く異なる様相を呈することは面白い。放っておいてもそうなるものを、あれこれと手や口を出して軌道修正を施し、何とか親の願いを叶えようとするのは、どうにも間違っていることに思える。但し、その一方で成功者の中にそういった事例があることも事実で、これが儚い幻想を抱かせる原因になっているように思う。そんな例外に囚われず、きちんと自分の目の前にいる存在に向かうことの方が大切に思えるが、どうも成功物語の影響は大きいらしい。とはいえ、大部分の人々はそんな経緯を辿るわけではなく、興味中心の人生を送ることになる。そういった中で大切だと思えるのは、子供たちが抱いた興味をどう伸ばすかということより、その芽を摘まずに済ますためには何をしたら良いのか、といったことなのではないだろうか。興味を示さなくなった子供たちの多くは、まさに摘果の憂き目を経験しており、その影響は大きい。しかし、その現場は何気ない行動の繋がりだけであり、これという強い意志が働いているわけでもない。そのちょっとした短気が、配慮の無さが、大きく影響する場合もあるわけだ。これは子供にとってはとても大きなことだが、大人にとっても同じような事が妨げになることがある。自主を大切にするならば、まずはその辺りから考える必要があるように思う。

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5月30日(火)−分数

 何処から綻びが出てしまったのか、またかといった感じを込めつつ、批判の声が上がっている。成績を上げるために、様々な工夫をすることは奨励されるが、数字だけの誤魔化しをしたとき、厳しい批判の矢面に立たされることになる。ここまで読んだとき、さてどちらに思い当たるだろうか、民間の話、それとも公の話、共通点が目立つことに驚くばかりだ。
 保険というのは、色々な意味で社会の成熟度を表す制度だと思う。しかし、その運用には様々な困難が伴い、特に経済状況の動向からの影響は大きなものとなる。落ち込みの時代を潜り抜けたとき、創意工夫が発揮されるところと、無駄ばかりが目立つところに分けられた雰囲気になったが、その後もこういった流れは変わっていないようだ。民間で言えば、成績を上げるために禁止された行為を繰り返した事が発覚し、厳しい処分が下された。引責、という言葉も踊っていたようだ。それに対して、公の方は制度をどれだけ実行できるかが問われるから、事情がかなり異なっており、ここでも数字を獲得するために不正が行われたという。両者を眺めてみると、責任者の前職に注目が集まっても良さそうに見えるが、そういう気配は今のところ無い。不正そのものに対する批判に集中しているためか、はたまた誰かからの指示によるものなのか、理由は定かではないが、兎に角、それどころではないといった感がある。それにしても、この不正の解釈については、どうにも理解しがたいところがあり、何故こんなことが罷り通るのかと思える。今のところ、不正の目的は率という形で表される数字の向上であり、その解説でまことしやかに論じられているのは分母の操作という話だ。これから、更に不正が暴れることによって、その数字は更に大きくなるのかもしれないが、元々加入者とおぼしき人の数が2000万人余り、そのうち、問題になっている数字に該当する総数は270万人ほどである。つまり、分母全体の2割に満たない人の数を操作することで、率の操作を目指したというわけなのだ。では、現在6割強の率を8割まで向上させるとしたら、どんなことをしなければならないのか、分母が100で分子が64だったとき6割4分になり、これから分母を2割減らして80にすれば8割となる。これは、全部が不正となればの話だろう。また、前年に比べて上昇した率が一割にも満たないのだが、これが不正によるものとするとその総数は11万人では済みそうにもない。こんな数字のお遊びを、どういう意図をもって引っ張り出したのかわからないが、誤魔化されているような気がしてこないだろうか。法律に違反する行為が罰せられるのは当然のことだが、その一方で誤魔化されているようではおかしいだろう。根本にある納めようとしない人々の問題を、こういうときも厳しく取り上げ、そういう背景の元で誤魔化しに走る人々がいることを論じるべきなのではないだろうか。

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5月29日(月)−過褒

 いい所を見つけて褒める、教育の基本と言われるが、果たしてそうだろうか。このこと自体に反対する気はないのだが、どうもはじめの所に誤解があるような気がして、疑いを抱いてしまう。だから、世の中に蔓延っている風潮を眺めていると、その誤解に基づく所が目立ってしまい、明らかな間違いを繰り返す人に一言言いたくなるわけだ。
 いい所を見つける、この気持ちを持つことは大切だと思うのだが、さて、見つけられなかったときにどうするのだろう。褒める必要もなく、そのまま放置しておけばよい、と結論づけられるのならどうということもない。ところが、一部にはこの発見を義務と捉えて、何としてでも見つけなければならないと受け取る人がいる。そうなると事は複雑になる。何しろ、どんなに探してみても見つからないものは見つからないわけで、無駄な努力に終ることは明白なことだってあるだろう。にもかかわらず、たとえどんなに小さなことでも何とか見つけようと努力する。その努力自体を無駄と片付けてしまうと、これまた無茶な話になるから、そこまで言うつもりはないのだが、しかし、見つけようとしても見つけられなかったとき、そこで問題をすり替えるのであれば、話は違ってくる。悪いところを良いものとすり替え、それを褒めてやるという行為に至ると、これは明らかな誤用となる。いい所と褒めるという繋がりが、受け取る側にとっては、悪いことと褒められるという繋がりに変わるからだ。その時の遣り取りによっては許されるのではないかという意見もあるだろうが、そういう細かな手法の違いを論じているのではなく、気持ちの持ち方を論じているので、技術論にはしたくない所がある。褒めて育てる、何とも気持ちのいい響きだろうが、果たして全てに通じるのか、怪しいものだと思っている。悪いことと良いことの区別をきちんとつけさせたうえで、いい所を取り上げてというのならまだしも、何もないまま、ただ闇雲にとなるようだとそれは危ないことに繋がるのではないだろうか。まるで制動をかけているようだから、世の中の流れに逆行しているように受け取られるかもしれないが、無理矢理何でもかんでもとやったとして、それがどんな結果を招くのか、少し考えてみればわかるだろうに、と思うことは多い。褒めることを妨げるつもりはなく、いい所があれば、大いにやればいいと思うのだが、今の社会の流れを見ていると、褒めるための材料が見つからず、たぶん叱りたいのも山々なのに、それを我慢しているとしか思えない。もし、その気持ちの奥底に、褒めなければいけないという思いがあるのだったら、大きな間違いを産み出していることになるのではないだろうか。

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