パンチの独り言

(2006年6月5日〜6月11日)
(狭窄、惑乱、熱弁、還元、迷惑、一掃、糸口)



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6月11日(日)−糸口

 独り言で取り上げる話題のほとんどは、何処かで聞いた話である。それも、身近なところというより、ごく当り前に誰でも見聞きしそうな話題を選んでいる。日常的なことを捉えるのも一つの方法だが、道端で見かけたり、車中で目撃したようなこと以外は、どうしても仕事の上の話に触れてしまう。できれば避けたいと思うから、どうにも苦しいわけだ。
 そんな状況下では、新聞やテレビで流される事柄を取り上げるのが一番手っ取り早い。たぶん、他の人もそういう話題に興味を持っているだろうと想像するのだが、そうでもないと感じることも多い。同じ話題に対して、違った感覚を持つとか、意見の違いを際立たせるとか、そんな進め方を好むのだが、話題自体に重なりが無ければどうにもならない。ちょっと考えることもあるが、かといって巷で大きく取り上げられていることを今更同じように捉えても面白味は出ない。だから、なるべく新聞の端とか、人気のない番組の中に、興味が湧きそうなものを探す。それとて、そこにあることをそのまま鵜呑みにするより、逆に疑いを意識しながら接するから、変なこじつけのようなものができ上がるのかもしれない。それでも、少しでも頭を使いながら書いてみると、変わった考えが浮かんで面白い。これも一つの訓練と思いつつ続けているのだが、流石に毎日の課題というところまでは至っていない。元々片付けることが苦手な性分だから、目の前に積まれた日課をこなすなどという気持ちでは、何も進まなくなる。ただ単に、書くことが楽しいからという気楽な感覚で行うことが、自分にとっては良い方向に働いているようだ。まだ、何かを書き残しておきたいという気持ちは起きていないし、自分の考えを世に問いたいとする雰囲気もない。誤解を恐れずに言うなら、ただ単に言いたいことを言っているだけだ。それを無責任なものと受け取る人もいれば、今の世の中そんなものばかりと聞き流す向きもあるだろう。そんなものをいつまでも続けるとは、と思う人もいるだろうが、それでもたまには読み手が何かを感じてくれれば、と思うことはある。強い意図を持った文章を書こうとは思わず、これは問題なのではと問い掛けるくらいの軽い感覚を持っている。その辺りが、人によっては目的が明確でない不鮮明なものと見えるところだろうが、一方では、それをきっかけに自分で考えることを楽しむ人もいるだろう。文章を読むときの心の動きは人それぞれなのだろうが、自分の気持ちや意見との違いを考えながら読むことを常としている人間にとっては、やはりそんな書き方が適しているように思う。中途半端では意見の違いが見つけられないと思う人もいるだろうが、実際にはその入り口くらいのところで、端緒を見つけて先を続ければ、そこからの違う道を見比べることができる。必要ならば、意見の交換を始めてもいいはずなのだから。こんな風に考えるのも、世の中が意見の押売りで溢れているから、なのかもしれない。

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6月10日(土)−一掃

 運送業界にとって厳しい制度が導入された。駐車違反の取り締まりに関する制度が見直され、これまでなら大目に見られていたことが、全て違反と見なされることとなった。導入後、幾らか日数が経過したところで、状況の変化を伝える報道を見るかぎり、思ったほど大きな問題もなく、すんなりと動いているように見える。効果のほどは、要観察だろうか。
 導入された日には、各地で様々な問題が起きたが、それぞれに解決の糸口がつかめたのだろう、その後は取り上げられていない。一方で、効果のほどは劇的と伝えられたのだが、こちらの方も落ち着き始めると、今一つなのかもという声が上がり始めている。一つは監視員の導入の効果がある決まった時間帯にしか期待できないことがある。四六時中見張ることもできないから、こういう結果が出るのは当然予想されたのだろうが、捕まらなければ何をやってもいいという考え方が世の中に浸透していることを如実に表している。夜の繁華街は以前と変わらず、酷い状態が続いており、昼間の平穏と比べるとその酷さは一層際立つ感がある。何処までも犯罪を追いつめるという方式を実施するためには、おそらく、役割分担が手っ取り早く、昼は監視員、夜は警察官という具合にでもするべきなのかもしれない。もう一つ、おやと思うことがある。報道される都会の状況に比べると、田舎町の状況は以前とほとんど変化が無いように見えることだ。人員配置の問題なのだろうが、問題が深刻な地域により多くの人を導入した結果、こんな状況が生まれたのではないだろうか。確かに渋滞の起きやすい道路について集中的に取り締まることは大切だが、そのすぐ近くに避難場所ができてしまうことは何とか防がねばならない。地方との格差はこれとは違った事情によるものだろうが、同じ考え方から出たものに思える。肝心の運送業界については、助手をつける、駐車場を借りる等という対策の一方で、依然として同じことを繰り返しており、一ヶ所あたりの配達時間を短くしたり、監視員の存在を確認するといった裏技に頼っているようだ。これはこれでイタチごっこの始まりを想像させるが、できればそうならないことを願っている。この制度自体の効果の中で意外に思えたのは、検挙件数が導入前より減少したという話だ。人々の警戒がそういう結果を産んだということかもしれないが、それより、以前からそれほどの検挙が行われていたことに驚く。おそらく違反台数が多すぎて手が回らなかったためだろうが、道端にびっしり止められていた車が動かされているのを見るのは稀だったから、その比率に鍵があるのだろう。いずれにしてもこういった制度が本当に効果を上げるのは、もう少し時間が経過してからだろう。

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6月9日(金)−迷惑

 毎日、膨大な量の塵芥メールを削除している人がいるのではないか。フリーメールのアドレスならばそれなりの覚悟があったかもしれないが、職業上のものまで侵されるようになると、深刻な問題を抱えた気がしてくる。それを防ぐために制限をかける手段を講じるが、次々に現れる新種の塵芥に振り回されるだけのことで、根本的解決は期待できない。
 便利さを手に入れた途端に、何か大切なものを奪われた気がすることがある。インターネットもその一つであり、恩恵に浴している一方で、その恩恵を消し去るほどの暴力的な作用が浴びせかけられる。電子メールはその典型であり、多くの場合受発信に経費がかからないから、利用者はその利便性を享受するが、その一方ではじめに書いたことが起きてしまえば、とんでもない迷惑を被ることになる。だからと言って、一度手に入れた便利さを手放す気はさらさら無いから、何とか防衛策を講じるわけだが、それとて焼け石に水といった状況になるだけだ。結局のところ、便利さの一方に脆弱性があり、仕組み自体にそういった性質があるわけだから、それを悪用する人間が登場すれば、どうなるかは明白である。そんな中で、根本的な解決は見出せず、同じことの繰り返しが何度も起こるわけで、利用者が便利さと不便さをどちらも受け取るしかない状況が続く。この頃流行しているブログと呼ばれる仕組みも、その便利さと手軽さから参加者が急増しているが、最近様子が変わりつつあるように見える。自分の意見を手軽に書き込むことができ、それに対する一般からの感想や意見を広く取り込むことができるのが、流行の一因なのだろうが、当初の思惑とは違う効果を産みだしているように見えるのだ。書き込みは本人がするだけだから、そこに大きな変化は現れないが、それに対するコメントに二つの変化が現れているように見える。一つは、反論することを主な目的とする人々の登場で、多数の人間が一人の人間に対して、執拗な攻撃を繰り返す。このやり方が間違っているとしてしまうと、正常な議論までも排除されかねないから、一様に対処するわけには行かないだろうが、被害に遭った人間は便利さと引き換えに重い荷物を受け取った気分になるだろう。もう一つは更に悪質なものだが、今のところ無視されているように見える。どんな掲示板にも、広告の書き込みが毎日のように押しかけ、下らない作業を強いられている管理者も多い。それと同様なことがブログにも起き始めているようで、検索に引っ掛かるブログの多くにその痕跡が見られる。ブログを管理する企業が何らかの対策を講じないかぎり、こういう行為は止められないだろうが、そんな面倒をするとも思えない。結局のところ、便利さを手に入れる際に、そこにある正反対の作用を覚悟するしかない。最終的には、こういう道具の使い方について全ての人々がそれなりの考えを持つことが、唯一の解決の道だろうから、それを待つしかないのだが。

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6月8日(木)−還元

 会社は誰のためにあるのか。こんなことが改めて問われる時代になったらしい。答えは事情や立場により様々、それでいいのだと思うが、主義主張を言わないと気の済まない連中がいるらしい。そこに金が絡む、生活がかかるとなるから、余計に声が大きくなり、何だか煩くなる。正しい答えが一つしかないと信じる心を理解するのはかなり難しい。
 企業は何かを生産し、それを供給することが一つの役割だが、その一方で収益を上げることで、利益を還元する必要が出て来る。当然雇っている人間を養わなければならず、株式会社であれば株主に何かの形で利益還元をしなければならない。ただ、そこにあるのはそういった風習的なものであり、どの程度の割合をそれに充てるかに決まりはない。だから、設備投資などの社内の整備にそれを回すところもあれば、個人への還元に多くを割くところもある。経営状態によることだし、経営陣の方針によることだが、それはそちらの立場での話であり、労働者や投資家は全く逆の方向から見ていることが多い。株主価値という言葉が今更のように多用されるようになった背景には、投資行動への関心の高まりとそれを商売の道具として使う人々への注目の高まりがあったのだろうが、それにしても、何とも近視眼的で狭い視野のものの見方を披露されてしまった感じがする。株主への利益還元には色々な様式があり、企業はそれぞれ工夫を凝らしてきただろう。しかし、より高い収益を要求される投資ファンドにとっては、手に入れられるものを手っ取り早くといった感覚が第一であり、それまでに貯め込んでいたものを全て吐き出させるような動きが多発していた。それを株主価値という言葉で表現していたようだが、果たしてこの用法は正しいのだろうか。株価や配当は株主にとって価値を産みだすものだが、株式を保有する人々にとってはその期間によって雰囲気ががらりと変わるものである。長い目で見た投資を心がける人々にとっては、それらの変動は長期に渡って利益を産むような形が好まれるのに対して、短期の売買を主体とする人々には、一時的な高騰が歓迎される。価値と一言で言っても、立場によってその形態は様々であり、それを自分に都合のいい解釈でのみ使うのは一方的すぎるだろう。そういうことを考えるのも経営者の役目であると再認識させた功績を高く評価する人々がいる一方で、その考えの根本にある利益追求に着目する人々は大した評価を与えない。立場や見方によって様々に変貌する事柄が世の中にはあふれているわけで、その一部だけを取り上げて騒ぎ立てることがいかに馬鹿げたものかを実感させてくれた事件だが、価値ばかりを追いかける人々が多数参入した結果、このところの停滞が起きたと考えるのは、ちょっと無理なことだろうか。

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6月7日(水)−熱弁

 雄弁に語る姿が大きく画面に映し出される。逮捕前に、思うところや持論を展開する人々が増えたように感じられるのは、どうしてだろう。世の中では一般に、自分の意見をきちんと話せる人が減り続けているという。その一方で、犯罪を犯す人々は何故だか口数が多くなり、自らの正当性を主張するかの如く、熱弁を振るう。何が違うのだろうか。
 何時頃からか、様々な人々の主義主張を聴くことの重要性が強調されるようになった。それも財をなした人や地位を上り詰めた人だけでなく、あらゆる職種、あらゆる性格、人それぞれに思うところを聴いておくことの大切さが力説された。当然のことなのか、犯罪者の心理にもその範囲は及び、動機や過程を垣間見ることができる機会を得ようと、社会全体が動いているように見えた。始まりが何時の頃かはっきりとはしないが、大量殺人を犯した団体がその前から姿を頻繁に現していたのが印象に残っている。雄弁に語れば語るほど、そこには何かしらの問題が埋められているという感覚を持ったのも、その辺りからかもしれない。誰にも行った行為に対する理由があるものらしく、彼らなりの解釈を展開するが、それが異常に思えることも多く、やはりという気持ちになるばかりの時がある。その一方、一見論理的にも見える話を熱く語り、人格者のように振る舞う人がいて、彼らの話の中では犯罪の姿が見えなくなることもある。保険金殺人やら、詐欺やら、そんなことをやった人にもこういった行動が見られ、そこにある犯罪者心理に興味を持つ人もいるに違いない。しかし、どういう理由付けをしたとしても犯した罪には変わりがなく、そこに意識があったかどうかを議論の中心にすることには大きな間違いがある。雄弁に語るのは多くの場合、自らの行為を正当化するための方便に過ぎず、それを皆の前で展開することによって、自分の犯した罪を少しでも小さなものにしようとする意図がある。そういう犯罪者を裁く場所での雄弁さは外に漏れ出てくることはないが、公の場所での雄弁さはそのまま伝えられるから、本人にとってはやり得のように見えるのかもしれない。昔ならば、恥の上塗りとでも評せられたものも、今ではどうにも理解しがたいほど、素直に嘘を鵜呑みにするから、この状況は正しくないと思える。こんなことが日常的になってしまってからは、どうにもならないことなのだが、それにしても誰がどうしてこんな茶番を企画するようになったのだろう。最近のものを見ていて思うのは、何も考えられない人間が、自分に有利になるように意図する人間の話を聴いたとして、全く意味をなさないということであり、それをただ垂れ流しのようにする人々には、そんなことをする資格が無いように見えることだ。一方的に雄弁に語る人々に対し、ただ漫然と質問を繰り返し、そこにある問題点を厳しく追求することが無ければ、誰のためにそれをしているのか、明らかなのではないだろうか。個人の判断に任せるといういい加減な言い訳をせずに、その前にすべき判断が何かを見極めたらどうだろう。

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6月6日(火)−惑乱

 ある企業が14期連続で営業最高益を出したと報じられていた。その一方で、同じ業界だが新興勢力と目され、大きな期待をもって迎えられ、上場した企業は赤字が続いているという。流石に老舗は違うという見方もあるだろうが、全ての老舗企業が同じ状態でもなく、合併などが盛んに行われている。株価の動向も気になるが、業績の違いも気になる。
 科学の発展は人類に恵みをもたらすと学校で習った世代にとって、最近の科学の功罪の話は信じてきたものに裏切られたような気持ちにさせられる。公害と総称される工業生産に伴って生じた環境破壊はその典型なのだろうが、何が先手に来て、何が後手に回るかといった流れに問題の源がある訳で、その技術を生み出した科学そのものに責任を押し付けるのはどうかと思う。それとは全く違った形で展開しているのが、はじめに書いた業界の動向で、人の健康に深く関わる製品の生産をしている。この分野は明らかに科学の発展の影響を受けており、その恩恵に浴している人々が沢山いる。その一方で、多くの人を救ったにも関わらず、一部の人に悪影響を及ぼし、問題点のみが取り上げられてしまったものもある。冷静に見れば、という言い回しを使うと、それだけで批判の矢面に立たされそうになるから、多くの人々は静かに見守ることを選択するが、病気と薬の関係はまさにそういう均衡の上に成り立っているのではないか。そんな業界を揺るがす出来事として、全く新しい創薬技術の導入や個人毎の治療方針という問題が浮かび上がってきた。生き物としての人間、つまりヒトの遺伝子の解析が終了し、それを基に人間一人ひとりの違いを見極める方法が確立できるとする話や未だに発見されていない物質の探究が可能となるとする話から、これらの革新が始まると論じられていた。現実には、これに関わる業界がそこに利益の可能性を見て、次々に参入することになったのだが、今のところ目立った効果は上がっていない。その代わり、以前から続く商売のやり方が成功を収め、利益を上げ続けているというのがはじめの話題のことになるのだろう。可能性を論じているだけでは商売として成立するはずもないが、その一方で宝の山の存在を信じている中で、それに見向きもしないわけにも行かない。そんなジレンマが業界内では続いているのではないだろうか。これは、科学の功罪と呼ぶには少し行き過ぎの感があるかもしれないが、現状を見るかぎり、先走った話に躍らされているといった雰囲気を否定することもできないだろう。それにしても、話題としての注目度は衰えることもなく、次々に夢物語が語られるのを眺めていると、科学への理解の不足がこの事態を招いているのではないかとも思えてくる。形だけを整えた知識の羅列が産みだすものは、単なる混乱だけなのかもしれないと思えてくるが、逆の見方をすれば、こういう過程を経てこそ、真の発展がなされると言えなくもないから、今はそんな時期かもしれない。いずれにしても、目の前の出来事には地道に取り組むことが第一なのだろう。

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6月5日(月)−狭窄

 目の前をノロノロと行く車がいる。全体の流れが乱され、苛々が後ろから押し寄せてくる気がするが、目の前の車には通称紅葉マーク、高齢運転者の表示があり、諦めるしかない。かつて海の向こうで見かけた光景は、更に驚きのもので、低速運転の車から降りた老婦人は、四つ足の杖をつきながらヨロヨロと商店に姿を消した。
 高齢化社会になったからといって、皆安全に年をとるわけではないし、加齢現象の現れが遅れるわけでもない。ただ、平均年齢の上昇により、あらゆるものに対する年齢の影響が大きく取り上げられるようになっただけだ。車の運転に関しても、民営化を絶対とする政策により、様々な生活援助が打ち切られ、公共交通も切り捨てられた中では、老人だけの家庭では必要不可欠のものとなる。それでも車を所有できるだけまし、という声が聞こえてきそうだが、それはそれとして、自分の中では活動を支える重要な道具であることには違いがない。その一方で、危険運転とも思えるものが目立ち始め、事故の原因の分析から高齢運転者がその一つと指摘されるに至って、初心者同様、その存在を明示する必要が出てきたのだろう。更に別の角度からは、免許の返還を促す声も上がり、更新を断念する必要を訴えるものも出てきた。いずれにも高齢者が抱える問題から生じたものだが、その原因となるものがつい最近指摘されていた。視力の衰えは以前から明らかにされ、特に白内障まで至らずとも、色彩感覚の低下、動体視力の極端な減少、更には明暗適応の遅滞等が指摘されていた。これだけでもかなりの影響があると思われたが、最近の指摘はこれらに加えて視野の狭窄を挙げていた。緑内障等の病気によるものに比べれば軽いものだが、視野が狭まる症状を抱えた高齢者が多く、それが交通事故に繋がる危険性を指摘したものだ。画像を見せて行った検査でも、事故に直結する行動が見られたそうだが、現実には視野が狭くなっていることが元々の原因とはいえ、その上にそれを自覚していないことが大きな要因となっているようにみえた。これらの分析では、高齢化によって生じる様々な症状を指摘することはできるが、それではどのようにすれば事故が防げるのかという方向には話が進んでいない。まずはじめに指摘があり、ということは理解できるが、それを自覚できない人々にどんな働きかけが行えるのか、すぐには見えてこないのだ。運転者の場合には、免許更新時にこれらの検査を義務づけるなど対策は容易に思えるが、一般の歩行者や自転車に乗る人々については、そういった制度を適用できないからだ。何でもできると自信を持つことは大切なことではあるが、できないことまでもその中に入れるのは無謀である。大きな荷物を抱えた老人が、横断歩道から少し離れた所を無理矢理渡るのを見るたびに、結局は自分が何をどう捉えるかが肝心、と思えてくる。

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