パンチの独り言

(2006年6月12日〜6月18日)
(自得、訓導、自助、歯止め、抑揚、格率、移り気)



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6月18日(日)−移り気

 雨の話題ばかり続けていると、いい加減にしろという声が聞こえてきそうだ。梅雨らしいという言い方も変な感じがするが、如何にもそんな感じのする天気が続き、洗濯もままならず、蒸し暑さで苛々している人もいるだろう。確かにこの季節、何も良いことがないような気までしてくるが、周りを見渡してみると可憐な花が咲き誇ることに気づく。
 梅雨といえば紫陽花と言われるほど、その結びつきは強い。庭に植えている家も多く、色とりどりの花に目を奪われるほどだ。花が生えている土の酸性度によってその色が変わると言われるが、隣り合って咲いている花が全く違った色をしていることも多く、本当なのかと疑いたくなることもある。一年草のように毎年植えるわけではないから、一度根づいた花を何年も楽しむことができる。一方、種類も多く、花の咲き方の違うものが出回っている。根づいたものを毎年楽しむのも良いが、違うものを楽しみたい人にとっては、こういう新たな品種は大歓迎なのだろう。雪洞のように咲いたり、平たく咲いたりするのに対して、尖り帽子の形のものを最近見かけるようになった。この時期、雨が多く、湿度や温度が適当だから、他にも沢山の花が咲いているが、中でも話題に上りやすい花のようだ。寺院で有名なところもあるし、公園でもそんなところをよく見かける。日当たりの良さを必要としないことや、手入れが簡単なことが好まれる理由になっているのかもしれない。それにしても、季節それぞれに花を楽しむ気持ちを大切にしているのは、この国の人々の性格によるものだろうか。気候が温暖なこともあり、人工的な鉢植えより、地植えのものを好むから、紫陽花のような植物に興味が湧くのだろう。いずれにしても、鬱陶しくなりがちな季節に、こういう花を眺めに出かけるのは息抜きになるに違いない。自然のものを愛でる気持ちが残っている間は、まだまだ心の問題は深刻化していないから、これもまた一つの指標と考えたら良いのかもしれない。寺院の庭の薄暗いところで輝くように咲いている紫陽花の花を見て、ホッと溜め息を漏らすだけで、気持ちが和むのであればそれでいいのだ。ギスギスした関係に満ちた社会を生き抜くための知恵として、そんなことがあるのだとしてもそれはそれでいいのではないだろうか。何も無理をして働き続けることもないし、緊張感を持ち続けなければいけないこともない。時には、ゆったりとした気持ちになる術を知っておくのが、大切なことなのだろうから。

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6月17日(土)−格率

 この頃、地域社会の重要性を論じる話が多くなっているように感じる。ひょっとしたら、これほど強い主張がなされた時代はなかったのではないか、と思えるほどだ。逆に言えば、それが弱くなったり、無力化しているからこそなのであって、本来の姿を失ってしまい、持つべき力を無くしてしまったからこそ、それを危惧する声が上がっているのだろう。
 人間同士の距離感というのは微妙なもので、これといった基準がないものだ。個人と個人の間であれば、何となく想像できるのに、その数が増えていくに従って、複雑に入り組んだ構造をとり、距離が測れなくなる。国とか、国の間などとなれば、実感できない差を感じることが多く、それを縮める努力も無駄に終ることが多い。それに比べたら、個人間より少し広がっただけのものであれば、想像の域を出ない程度であり、何とか手が届きそうな気もする。それが地域を指しているのだと思うが、どうも少し以前の風潮は、近いものを嫌う傾向を持ち、近くの他人より、遠くの友人を頼る雰囲気があった。互いに監視するような気分でいれば、息苦しくなるのは当り前だろうし、共同体といった言葉も拘束との結びつきを強く連想させるものだった。しかし、こういった風潮にも変化が現れたようで、地域を重視する考え方が頻繁に聞かれるようになり、地域で支えることの重要性を説く人々が増えてきた。ともかくそういった働きかけの欠如が、最近生まれている問題の多くの原因の一つになっているとする考えには、ある程度の同意が得られるようになり、進むべき道が示されているように見え始めた。何でも、個人に任せるだけでは負担を強いるだけとすれば、それをもう少し大きな組織で担う必要があり、そういった方向に人々の考え方が向き始めたのだろう。しかし、人々の心にそういう考えが芽生えるのとは別に、政治に携わる人々はそれを法律という形で推進させようと努力するものらしい。個人や家族で解決できない問題に、地域社会やより大きな組織が取り組むべきとする動きは、確かに困り果てている人々を救うきっかけになるかもしれない。しかし、そこにあるのが責任転嫁だけだとしたら、問題のすり替えにしかならないだろう。自殺者の増加が社会問題として取り上げられたとき、取り組むべき組織に対する認識は人それぞれだったのだろう。だから、家族に過度な責任が向けられたり、企業に無理難題が押し付けられたりして、解決や防止に向けての努力とは違う何かが動いていた感があった。そんな中で法律が制定されたとのことだが、今の流れからすると何やら「ふり」をしているだけに終りそうな気がしてくる。弱いところを突く行為は確かに控える必要もあるだろうが、本質に迫るときに一時的にせよそういったことが必要となる場合は多い。どうも、この手の話が出てきたときに、回避ばかりが中心になって、何も解決できない、何も防げないといった結果に結びついてしまうような気がするのだ。今回の話も、法律以前の問題として取り組むべきものは何か。それを論じた上での整備にならないと、本質的な部分は変えられないのだと思う。

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6月16日(金)−抑揚

 鬱陶しい天気が続くと、気分も憂鬱になる。こんなことを書くと、安直と言われそうだが、そんな気分の人も多いのではないか。生き物は、自然の中で生きているのだから、周囲からの影響は少なからず受けるだろうし、その中には、良いものも悪いものもあって、自分では気がつかないうちにそれらに振り回されることもあるだろう。
 この季節、太陽が顔を覗かせる時間は少なくなり、高い湿度と温度の作用で、ジメジメした気持ち良いとはとても言えない日が続く。そんなことを改めて書いてしまうと、余計にその気分が落ち込むから止めておけと言われそうだが、これを読む間の我慢として欲しい。とにかく、そんな気分になりがちな毎日、やっとのことで抜け出したと思った五月から、また何処かに引きずり込まれそうな雰囲気がしてくる。そういう波は人によって大小様々であり、何とも感じない人がいると思えば、浮き沈みの激しい毎日に疲れ切ってしまう人もいる。体力的な疲れは休息によって何とか回復できるかもしれないが、これが精神的な疲れとなると、どんな形の休息をとればいいのかが難しい問題となる。そのままやり過ごすことが一番の休みとなることもあり、何度か経験することによって、しばらく問題を脇に寄せておくことに気づいた人は、それなりにこの季節を乗り切ることができるが、取り憑かれたように過ごし始めると気になるばかりでどうにもならなくなる。せっかく乗り越えたところへ、気分の落ち込みに襲われれば、確かに厳しい試練が訪れるのは仕方のないところで、何とか立ち向かおうとすればするほど、落ち込みがきつくなることもあり、大変な事態に陥ることもあるだろう。気分の浮き沈みと捉えてしまえば、当然のことと思える部分もありそうだが、予想以上に振れ幅が大きいと、途中までは何とかやり過ごしていたものが、巧みに乗りこなすことができなくなり、振り回されてしまうこともある。そうなってしまったら、まずは難物は脇に寄せておき、知らぬ顔を決め込むことが肝心なようだ。悩み込む性格の人がこういう事態に苦しむのは、結局忘れたり、無視することができず、真面目に取り組む方向に進むからなのではないだろうか。いい加減な性格というと、とかく評判のよくないものだが、そういったときには、適当に流すことも必要となるだろう。少し距離を置いてみたら、と忠告する人もいて、それが上手く働くこともあるし、他のことに集中することで、何とかなる場合もある。しかし、一度穴に落ち込んだら、抜け出すことは難しくなるわけだから、その辺りの見極めが大切なのだろう。こういう現象が季節の移り変わりで目立つ時期とそうでない時期があるというのは、本当にあることなのか確信は持てないが、それにしてもこの時期、悩んでいるように見える人が多くなっている。他人事で片付けられるうちは良く、自分の方に飛んでこないように気をつける必要があるだろう。

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6月15日(木)−歯止め

 街から子供の姿が消えるなどと言ったら大袈裟だろうか。高齢化が急速に進むのに対して、子供の数は大きく減り始めている。このまま行くと、大人と子供の比率だけでなく、高齢者と乳幼児の数の割合が大きく変わってしまうことが予想され、それに対する不安を訴える人々が増えている。問題の深刻さについては異論も出されず、厳しいもののようだ。
 子供の数の減少を表す言葉として、少子化が頻繁に使われ、その指標として出生率なる数字が用いられる。女性が一生の間に産む子供の数という意味だったと思うが、女性と男性が同じ数いるとすれば、女性一人から二人の子供が生まれることが、総人口の増減無しの状態を示すと考える事ができるのだろう。但し、これは、生まれた子供たちが何の問題もなく育ち、次の世代を産むことになったらの話で、現実にはそうならないわけだから、単純化しすぎであると言われるかもしれない。さて、産めよ増やせよの時代から、戦後の爆発的な人口増まで、出生率はかなり高い数字を示していたのだろうが、いつのころからか減少し始め、最近では、かなり低い数字となっていて、問題の深刻さを表していると言われている。特に、問題視されるようになってから、対策を講じているにも関わらず、その減少傾向が小さくなるどころか、更にその勢いを増しているように見えるから、困ったものなのだろう。そんな中で、将来予想の数字が発表され、これが更なる減少を明らかにしたから、騒ぎは更に大きくなりそうだ。こんな数字予想がどれほどの意味を持つのかわからないし、これまでにもそんな数字が偏ったデータを基に引きだされたり、ある意図をもって処理されたりしたために、誤解を産む原因となることも多かった。果たしてどうなるのかは、結局その時になってみなければわからないとしか言い様がないが、それにしても対策が功を奏しないのは何故なのか、そちらを考えておいたほうが良いのではないか。たとえば、子供を持つ家庭に補助金を出すという政策は、かなりの額の資金を必要とし、その効果は十分に出ると思われたのに、一向に変化が現れない。金が全ての時代だからこそ、そこを突いたこういうやり方は効果絶大と思ったのだろうが、現実の子育てにかかる経費と補助金の額の違いはあまりにも大きいのだから、それを頼りに子供を持つなどという考え方が出てくるはずもない。元々、金が無いから子供を持てないと主張する夫婦にとって、一体どの程度の金があれば、という質問もせずに、こんなことをしても傾向を変えるまでにはならないだろう。逆に言えば、こんな小手先の手だてで何とかなると思うほうがおかしいのだ。単純に元々子供を育てようとしていた人々にとって、少しの助けになるものだとすべきことで、過大な期待をするほうがおかしい。では、何をしたら良いのか、社会全体の雰囲気を変えるのが精々だろう。たぶん、将来不安を煽る風潮ばかりが目立ち、それを強調しているようでは、こんな傾向に歯止めをかける手段は出てきそうにもないからだ。

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6月14日(水)−自助

 文字を読めない、書けないという人が増えていると言う。いわゆる文盲ではなく、きちんとした教育を受けてきたにも関わらず、ということで、仕組みの問題というより、個人の問題のようだ。中途半端な形でも、何とか潜り抜けられる道があるようで、教育過程を終えて社会に出てくる。そこで問題が愈々表面化し、何とかせねばとなるらしい。
 ある企業の問題が取り上げられていたのだが、大学を出てきたと思われる社員の中には、中学生の問題さえ解けない人がいるという。ふた昔ほど前なら、社員教育に力を入れていた所も多く、それなりの対策も練られていたはずなのだが、効率化の波に押されて、切り捨てられてしまったから、すぐには対処できないようだ。最近、高度技術者なる言葉が飛び交うようになり、その養成が急務であると発表したところもあったが、そのための要素として取り上げられていたものの中には、意志疎通、書類作成という、ごく当り前で基本としか思えないものがあり、傷の深さを実感させられる。以前であれば、基礎の上に高度なものを積み上げるといった感覚で十分だったのに、今は高度なものを一から築き上げる必要がある。こんな状況になってから、最先端を教え込む人々の苦悩は想像するにあまりある。話を戻して、読み書きを教え直している企業では、音読をさせ、手書きをさせ、様々な工夫をしているようだ。こんなことまで、給料を与えながらさせるのかと呆れる向きもあるだろうが、それをそれまでの関わりの責任にしたとしても、今目の前にいる人間に対して何ができるわけでもない。だから、自らの手で、当人達をどうにかすると決断したのだろう。足らない部分を認識させることや、欠点を露にすることは、個人の為にならないという意見が大勢を占めた時代もあったが、そんな戯言を並べている余裕が無くなったらしい。これはこれで一つの答えだろうし、それを突き詰めていけば、何が必要なのかは明らかになる。そんな過程を経て、今の対策を講じるところが出てきたのは、問題を直視した結果だと評価したい。この報道の中で気になったことはもう一つあり、覚えさせるという表現で、本人の努力に任せるという点である。ちゃんと教えてくれないとか、解るように教えてくれないといった身勝手な主張が罷り通るようになってから、努力とか頑張りといったものが違う形で解釈されるようになってきた。ここへ来て、本当に重要なものは何かを追求しなければならなくなり、それを探し求めた結果、環境を整え、圧力をかけることが重要と考えるようになったのではないだろうか。明確な目標とそのための努力、といった組み合わせが、正常に働いていた頃はよかったのだが、今はどちらかというと、手近な目標と楽な生き方、という組み合わせが好まれるようだ。こんな形では高度技術を活かす場は作り出せそうにもなく、根本から建て直す必要があるわけだ。

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6月13日(火)−訓導

 最近、生き方とか、ものの考え方について記した本が目立つようになってきた。以前も、出回っていたのだろうが、取り上げられることもなく、ただ静かに並べられているだけだったのではないだろうか。同じようなことが書いてあっても、それを受け取る側の心境に変化が起き、何かを感じたからだろうか、よく売れているようだ。
 方法を詳しく説明した本は、マニュアル本と呼ばれて、こちらもよく売れているそうだ。コンピュータのソフトの説明書があまりにも杜撰な作りで役に立たず、その欠点を補う形で利用者の立場に立って、一つ一つの段階を追って解説した本が売れたのは、もう随分昔の話で、説明書に書かれた順序とは全く違っているが、使い勝手がよく、疑問に答えてくれる作りが、人気の秘密だったようだ。逆引と称する、ソフトの用語による分類ではなく、やりたいことから目的の手順を見つける機能も好評だった。つまりは、利用者がソフトの中での言葉を理解していなくても、自分にわかる言葉で動かすことができるというのが、人気の秘密だったようだ。手軽に、気楽に、といった売り言葉が飛び交う中、この方式は別のことにまで飛び火し、手順書なるものが様々な分野で持て囃されるようになった。人の心をつかむ方法、上司や部下に好かれる方法、子供を育てる方法、あらゆるものに応用可能に見えたが、実際には通用しないことの方が多かったのではないか。ソフトは決まった機能をどう使いこなすかが肝心なのに対し、人間相手のものは決まった反応もしてもらえず、思惑通りには行かないからだろう。今でもこの手の本は溢れており、それなりの売れ行きのようだが、その一方で毛色の違った本が登場してきた。一つ一つのことに対応するわけでなく、全体的な考え方や見方を紹介するもので、重要なところを説明するといった形式をとっている。著者の考え方、生き方に基づいた話だから、それなりの成功を収めた人の意見として、参考にしたい人が多いのだろう。ある時、そんな話題で盛り上がっていたら、今の事情ではなく、少し昔の事情が影響しているとする意見が出た。つまり、経済状況が悪化したときには、それまでの繁栄を築いてきた人々の経験や意見は下らなく、役に立たないものと見なされ、耳を傾ける人がいなくなっていた。それが経済の回復とともに、再度見直されることとなり、崩壊を招いた原因と繁栄を築いた要因の違いに気づく人が出てきたというのだ。そんな中で、以前ならば一蹴されていたごく当り前の意見さえも有り難く拝聴する風潮が出てきて、ついにはこんな状況に至ったというのである。当たっているかどうかはわからないが、兎に角手順が示されてなくても読もうという気持ちが起きたのは事実だろう。問題は、指針を示されただけで果たして向かうべき方向が理解できるのか。様々な混乱が続いている今、その辺りが問われるのだろう。

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6月12日(月)−自得

 世の中は振り子のように動く。時を刻むという意味ではなく、二つの極端の間を行ったり来たりするという意味だ。丁度良い所はあるに違いないが、そこに留まっていたら、もっと良い所を見つけることはできない。だから動き続けることが大切になるが、その一方で、良い按配の所に止まることもできず、通り過ぎて行き過ぎになってしまうわけだ。
 これは世の中に限らず、個人的なことにも当てはまるだろう。色々と修正を繰り返し、自分なりに最良の地点に到達したと思った途端に、どうも過ぎている感覚が浮かぶ。少し手前で調整し、巧く着地すればと思っていても、中々思うようには行かないものだ。一人だけでもこれほど苦労するのに、それが多数の人間で構成される組織や社会となると、調整もままならない。色々と苦労を重ねた結果として、その場の妥協点を見出したとしても、すぐに反対の声が上がるし、後になって考えればその時点の最良とは言えない代物だったことに気づく。そんなことの繰り返しが世の中の流れを作っているわけだから、振り子のように揺れ動くのは仕方のないことだろう。逆の見方をすれば、そういうものだと承知した上で、社会の一員としての自分の行動を律すれば、慌てふためくこともないし、余計なことをしなくて済みそうだ。自分なりの考えを持って行動することが推奨されるのは、こんなことからも来ているのではないだろうか。最近の市場の動向を眺めていると、いつまでも以前と同じ投資行動を続けることが、裏目に出ている人々が苦しむ姿が浮かんでくる。しばらくの間離れておこうと、手仕舞いをした状態で高みの見物を決め込む人もいるだろうが、乱高下を繰り返す相場の波に飲み込まれてしまった人もいるのではないだろうか。短期投資で巧みに行動すれば、かなりの利益を上げられると思われたのは、ほんのしばらく前のことだが、最近は不規則な波と全体の低調さが重なり、まさに賽子を振ってみるまで結果が見えない雰囲気がある。以前から経済学者の一部では長期投資を強く勧める声があったが、それも一部の活動家の声に押し切られていた感があった。その声の主が壁の向こうに閉じこめられ、届かなくなった途端に、もう一方の声が大きくなりつつあるのは、まさに振り子現象の典型であろう。拝金主義と呼ばれると猛反発が返ってきそうだが、そんな言葉で呼びたくなるほど勢いに乗っていた人々が、躓きを見せ始めた頃には、じっくりと長い目で見つめる人々の評価が上がりだす。どちらにしても、市場に求めているものは同じなのだが、その行動様式は正反対の様相を見せる。不思議な感じもするが、実際にはそういう多様性が社会を支える力となっているのだろう。流されてばかりいたのでは、落ち着く先も見つからないわけだから、この際、自分なりの戦略を練ることの方が大切なのではないか。

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