地域活性とか、まちづくりとか、中央が頼りにならなくなったせいか、はたまた自分を見つめ直すためか、そんな動きが其処彼処で出ている。ちょっと人が集まるところには、それにまつわる話が生まれ、その町の特徴を絞り出し、売り言葉を思い浮かべる。本当は、全体的な衰退の結果なのだが、実際には改めて見直す良い機会となったのかもしれぬ。
こういう運動にしても、自分たちの手で何とかしようとする人がいる一方で、成功者の手を借りようとする人がいる。確か、何処かの町おこしで活躍した人がそのままその地の首長になったところがあったと思うが、まさにその人の知恵を拝借するという話を聞いた。順序が違い、首長が町作りを先導し、街路樹の整備や彫刻を歩道に展示するなどした町では、一時期多くの市町村の担当者が訪れたのだそうだ。他力本願と言ってしまえばそれまでだが、自分の住む町の特色を考え出す前に、縁もゆかりもない人間に方策を練ってもらおうとするのは、虫が良すぎると言うより、兎に角何も考えられないと言われても仕方ないだろう。地方都市にとって、中央から流れてきたやり方をただ模倣する時代は何処か遠くへ行ってしまい、独自色を出すことが要求される時代になった。しかし、一度模倣によって破壊されてしまった伝統を取り戻すのは並大抵のことではない。特に、失われてしまったものに対して、何の記憶も持たない人間ばかりになったところは、何があったのかさえわからなくなっている。手探りも何も、適当にやってみて、受けたらそれでよいというやり方をとるところもあれば、昔のことは忘れて、新しいことを始めてしまえと決断したところもある。それぞれ特徴を引き出すことができれば、何かしらの形で認められることになるが、一度きりの注目で終ったところも多いのではないだろうか。古いものをそのまま保つ努力をするか、はたまたそれを打ち壊して、新しい企画を立てるか、どちらを選ぶのかは人それぞれの判断である。ただ、一つだけ言えるのは、一度破壊されたものを取り戻すのは難しいということだろう。そんな反省の声が聞こえているところも多く、おそらくほとんど計画性もないままに、成り行き任せにしたところは、伝統を失い、統一性のない町を遺すことになった。これは田舎に限ったことでなく、都会でも同じようなことが起き、新しく建てられたものを見たときに、落胆させられることが多い。多方面からの賛美の声を聞いても、企画者の意図に躍らされているとしか思えず、何処を見たというのか呆れるばかりだ。もうそういった流行に流される人は少なくなっていると思うが、人を集めるための方策の一つに、有名人を引っ張り出すなどというのがあるようでは、なんともはやという気がしてくる。地方は地方なりに、進むべき道があるはずなのに。
厳しい世の中で生き抜くことはとても難しい、親が子供に何を託すのかはわからないが、こんなことを伝えている人もいるのではないか。確かに、様々な障害が立ちはだかる中をすり抜けていくことはかなりの困難を伴うだろうし、一度ぶつかってしまったら、それを避けて通ることはより難しくなる。だから、自分を中心にして考えよとなるのかもしれない。
最近巷に流れる話の中で気になるのは、困難に直面したときの人々の反応である。何かをしでかした人についての話だから、かなり歪曲された情報に違いないのだろうが、それにしても、何故それほどまでに極端な論理が組み立てられるのか、不思議でしょうがない。障害を押し除ける力はなく、それを打ち砕く知恵も浮かばないとき、人は回避行動に出る。それは、巧くすり抜けるものであることもあるが、時には、他人を犠牲にすることで辻褄を合わせるといった行動に繋がる。その時の心境が伝えられるたびに、異常さのみが感じられ、猟奇性をうかがわせるものまである。自己中心的な考えがあると言ってしまえばそれまでだが、それにしても程度の問題が残るのだ。誰しも、自分を中心において、初めて物事を深く考えることができる。他人のためにとか、人の見方でとか、いわゆる客観的な見方を推奨する人々がいるが、そんなものを一人の心の中から導き出すことは無理である。まずは、主観的な考えを構築し、それが他の人々の考え方にも通用するかどうかを検討するという道筋でなければ、一般化などということはできないのだ。そういう意味で、誰でも主観的な見方を頼りにして、そこから答えを導き出す。ところが、同じように始めても、独り善がりの考えに帰着してしまう人々がいる。彼らの言うところの自分の為は、専ら自分だけを考えたものであり、特に他人の犠牲の上に築かれるものであることが、大きく違う。通常は、自分の考えに基づき、そこから他の人々にも理解できる範囲を定めていくが、そういう過程がすっぽり抜け落ちているのが特徴なのだ。そんなやり方だから、多くの人に忌み嫌われ、更に多くの障害が築かれることになる。まさに、自業自得といった状態に陥るが、本人はその原因を他に求めるのだ。こんな状況があるからだろうか、今の世の中、自分の為に何かをするというのが、悪いことのような印象を持つ人が多い。経過として、他人のためになることが出て来る場合があっても、最終的には自分に戻ってくることばかりなわけだから、全ての行動が自分の為と言えるはずなのだが、これを言うと自己中心的とか、利己的とか言われて、蔑みの眼差しを向けられる。そのものをする人もいるが、実際には誰かの為という大仰なことにはせず、自分に利益になるはずと信じて、何かをする方が、気が楽になる人も多い。まあ、そんなことを口に出すと、厳しい目を向けられてしまうのだが。
金銭を極端に尊重すること。辞典の中の、拝金の解説である。拝み倒して、何かをしてもらうならまだましで、拝んでいるばかりで、その使いように思い至らず、結局そのまま放り出してしまう。あるいは、折角そこまで築き上げたものを、更なる上を目指そうとするあまり、上手の連中に巻き上げられてしまう。良い印象の残らない言葉の一つだろう。
ほんの一部に限られていた考え方が、何時の頃からかごく一般に通用するようになり、頻繁に見聞きするようになった。悪い印象からも想像できるように、使われる場面はほとんど悪い場面であり、人を見下すためのものが多いようだ。しかし、本人達が極端に尊重しているかどうかとは別に、金の価値についての細かい話がよく聞かれるようになったのは、時期を同じくしているから、おそらく同じ考えに基づくものなのではないか。それだけの価値のあるものか、投資の対象となりうるか、など、色々な表現として使われるが、以前であれば、金銭的な価値ではなく、別の形の価値判断が持ち込まれていた部分にまで、金銭という尺度が採り入れられるようになった。そうなると、一見理解しやすく、他との比較も容易にできるから、便利になったような気になるようだが、実際には絶対的な尺度を捨て、比べようのないものを相対的な尺度で測ることばかりが横行しているように見える。当事者達は大真面目に検討しているようだが、それこそ行き当たるところのない目的地を目指しているようなもので、その場限りの議論に終ってしまう。ただ、結果が明らかになるのはずっと先のことであり、それまではそんなまことしやかな議論が如何にも強い根拠をもつように扱われるから、対象となったものはとんでもない迷惑を被ることになる。経費削減は、税収の伸びない自治体にとって最優先の課題であり、そのためならばどんな理屈でも捏ねそうだと言いたくなる。人員削減は手っ取り早い施策の一つだが、これ以上の推進は難しいとなれば、次に来るのは給与だろうか。この国では公の形で支えることが第一と考えられている事業の一つは、海の向こうではそれに携わる人々の処遇が問題視され、それが立ち後れの原因の一つと指摘されていた。当時、こちら側では手厚い待遇で迎えられた人々がその立場にあり、他の国から高い評価を受けていたが、その後の凋落は監督官庁にとって悩みの種となっている。そうなってきて、回復の方策が練られている最中、そこへの資金投入は価値と見合うものではなく、他の職業との格差を縮めるべきとの指摘が出された。一見合理的に思える考え方も、その結果がどうなるのか、他国の事情を見れば歴然としている場合、その合理性を疑う声が上がりそうな気がする。しかし、今の社会の目は彼らが育成すべき人材の動向よりも、今早速の出費の削減に集中し、後先を考える余裕を失ったように見える。実際に、どんな結果が導かれようとも、今そういう施策を提示する人々には関係のないことで、予算削減だけが手柄として残るわけだ。天然資源を持たない国にとって、人材という資源を育て上げる事業の大切さは政治の中枢にある人々の当然の認識だったはずが、ここに来て、極端に尊重するものに目を奪われ、すっかり忘れ去られてしまうかもしれない。
若者の傍若無人ぶりを伝える番組が増えている。近ごろの若者は、という言い回しは、今に始まったわけでもなく、百年どころか、ひょっとしたら千年前から続いてきたものかもしれない。それぞれの時代に、それぞれの形で、でも世代間の感覚の違いが浮き彫りになる。そこまではこれまでにもあった話なのだが、最近に限った特徴があるようだ。
番組の中でオジサン代表として登場していた人物は、素顔がわからないほどに塗りたくられた顔を持つ女の子に説教を垂れていた。意外な反応を見て、はてと思った男性は、やりにくそうな顔をしていた。強面で知られる人だけに、若者からの素直な反応に逆に面食らってしまったようだ。この手の話は、色々なところであるようで、あまりの非常識を叱ったら、嬉しそうに謝っていたという話もある。それに対して、いわゆる中年の非常識に対する叱責は、猛反撃が返されるわけで、この違いは何かと不思議がる向きもある。総じて言えることは、何も知らない人間と、知ったうえで悪いことをする人間との違いで、本来謝るべきはどちらなのかと思える。それにしても、何も知らずに非常識な行状を重ねているのに、それが咎められないのは何故なのだろう。若者たちの力を恐れる大人たちの恐怖によるものか、自分たちの非常識を棚に上げたくない心のせいか、はたまた、ただ面倒なだけなのか。他人の子供の面倒まで見るのは御免だと言うならまだしも、自分の子供の非常識を看過するのは何故か、すぐには想像がつかないものだ。確かに、自分の行動を見守りながら育った子供だから、そうなるのは仕方のないことと言えるのかもしれないが、だからと言って野放しではまともな考えは芽生えない。また、子供からの反撃を恐れるあまり、口をつぐんでしまったとしたら、それもまた呆れるばかりのことだろう。よく見れば、自分と同じことをしていると親が思えても、それを悪いことと咎めることはできる。自分の反省と結びつければ、一石二鳥になるはずだ。しかし、親だっての一言を怖れ、更には自省を面倒と思う気持ちから、全てを投げ出してしまう。そんなものかなと思うが、お節介な一部の大人が、勇気を出して発言すると、そこには意外な反応が返ってくる。善悪の区別がつかない子供たちには、ちゃんとした教育が必要で、といった流れの考えから、少年の更生を促すのが第一とする考えが骨格となっている法律も、世の中の大人たちがこんな考えでいたのでは効力を発揮するはずもない。法律で何とかするという考えを捨て、道徳や説諭を前面に出すようにしないと、下り坂を転がる社会を止めることも、上らせることもできないのではないだろうか。
破壊者として名を残すだろう宰相の評価については、様々なものがあるだろう。破壊という表現が残るとすれば、概ね悪い方向への評価が幾分なりとも多数を占めることになる。一つ一つを細かく見ていけば、結果に対する評価も様々になり、一概に決めつけることなど不可能だ。ただ、一つだけ言えるのは、大きな変化は破壊からしか生まれないことだろう。
前を進む人の後ろ姿を見ながら、その後を追う。ある世代が歩んできた道は、こんな表現がピタリと当てはまるのかもしれない。そういう人々にとって、先人が築き上げたものを手直しすることはあっても、ぶち壊して作り直すなどということは思いも寄らないことだ。そんな人々が中枢に居座り、あらゆる干渉に対して抵抗を示す図を描いてみせ、それを破壊することの必要性を説いた人物の活躍の場はそろそろ消えようとしている。本人が目指した破壊とは名ばかりのもので、結果的には何の変化も生まれなかった例も数多くあるようだが、表面的にはその断行を自画自賛する声ばかりが聞こえてくる。その効果のほどについての批判もあるが、一方で小手先ばかりの誤魔化しを陰で続ける人々の悪業にもっと注目すべきだろう。何も政府、官庁に限ったことではなく、また自治体にだけ当てはまることでもない。あらゆる組織で同じようなことが繰り返し行われ、その時その時の勢力図が反映された手直しの結果が負の遺産として跡を継ぐ人々に残される。関係した人々の多くはその功績を主張し、彼らにとっては光り輝く作品に対する賛美を期待する。しかし、張りぼてとか、金メッキとか、そんな呼び名しか当てはまらないものに、誰が称賛の声を上げるというのだろう。長年積み重なってきた歪みを解消する手立てとして、唯一残されているのは、基礎からの再構築であり、そのためには小手先の手当てなどは何の意味も成さないことは明らかである。にもかかわらず、現状の歪みの中にどっぷりと使ってしまった人々には、ぬるま湯から出ようとする気も起こらないのだろう。結局、今そこにいる人々にとっての最良の答えを引き出すのがやっとで、将来への展望のない代物を手渡すことになる。受け取る人間にとっては、何もない状態の方がまだましであり、築き上げる前の破壊に注ぎ込む力がかなり必要となる。そういうお土産を残していく人々が、後になってその作品の自慢をしようものなら、腐った土産を受け取った人々は苦々しく思うしかないわけだ。無駄な時間と金を注ぎ込み、やっとのことで再建したと思ったら、その手柄は自分たちにあると主張する先人がやって来る。馬鹿げた図式だが、今、こんなことが世の中で頻繁に起きているのだ。破壊だけが道ではないことは確かだが、時には過激と思えるほどの措置も必要となる。ただ、前者と後者の違いは、そこにきちんとした論理があり、それが導き出す答えが確固たる基礎の上にあるということだ。
この独り言を読む人は、たぶん、勝手なことを書いているなと思うと同時に、最新の話題より少し古くなったもの、あるいはもっと一般的なものに、話題を絞っていると感じていると思う。確かに、そういった意識は働いていて、慌てて反応するより、少し落ち着いてからじっくり「勝手な」考えを書くようにしている。情報操作に振り回されたくないからだ。
そんな気持ちで書いていることの方が多いが、時には、禁を破ることがある。時々刻々変化する報道に、何故だろうかと感じた場合だ。十分に練り上げられた形での情報操作の場合、初動報道から首尾一貫した姿勢が見られる。だから、少し時間が経過したところで、別の意見や内容が伝えられるようになって、初めて全容が見えてくることがあり、それを待つほうが、得策と考えられるのだ。しかし、予期せぬ出来事を急かされて伝える場合には、十分な打ち合わせもなく、様々な情報が錯綜することになる。だから、初期段階から混乱したままに、正反対の情報が流れることになる。この場合は、待つことより取捨選択が必要となり、少ない中から信用できそうなものを選び出すしかない。それはそれで正確に対応しようとすれば大変なことだが、自分に直接関係ない出来事の場合は、少し落ち着いて様子を見守ることができ、それによってその後の情報操作の流れを分析することができる。こんなことを書いているのは、ここ二日の出来事が気になったからである。散々揉めた挙げ句法律を制定し、更には異論や反対論を押し切って延長を決めた、中東のある国への派遣についての話が、昨夜突然流れてきた。内容に驚いた人もいるだろうが、そちらよりその後の展開に首を傾げた人もいるのではないだろうか。ラジオから流れたはじめの報道では、向こうの首長が撤退要請をしたとあった。別の国の軍隊による治安維持から、自国の機関によるものへの移行に伴って、こちらの駐留についても必要なしとの判断が下ったといった考えによるもののように感じられた。その時すぐに、なるほど、そうすれば、引き上げやすくなるなと思ったから、記憶違いとは思えない。しかし、今朝の報道はがらりと様子が変わり、こちらの政府がその決定をするという話だけになっている。確かに、決定をするのは彼らなのだろうが、要請されたからという話は全くなく、警備上の問題からの判断とされ、いつの間にか問題がすり替えられているように聞こえる。驚いたのは、それが首相の交代と絡む話にまでされていたことで、これではまるで自主的な考えに基づくものに見える。何処から何処までが真実で、何処からが装飾されたものなのか、この時点で判断することは難しいが、こういう流れを見ていると、これまでにもあったように、色々な場面で情報操作が行われ、それを利用してきた人間の存在が見えてくる。最後まで茶番劇を演じたいという素人役者の思いによるものか、はたまた周囲の気配りによるものか、そんな考えは素人の思い過ごしか、どれも当てはまらないのか、いずれにしても、そんな深読みをしたくなる出来事だった。
隠し事をする、嘘を吐く、しらばくれる、毎日、何処かで流れている言葉だ。これらのことを意識的に行うかどうかを問題視する向きもあるが、しないに越したことはない。しかし、毎日のように報道されるところを見ると、かなり日常的に行われているに違いなく、逆にそれが当り前のこととする人まで出てきそうだ。必要悪とでも言うのだろうか。
社会全体にこういった風潮が蔓延ると、それらとは無関係な世界を見つけるのに苦労をする。兎に角、人を出し抜くためには少しぐらいの嘘が必要であり、自分の利益を考えたら、大したことではないと思うのだろう。本来は、どんな大きさの嘘でも、それが発覚したときにはそれなりの代償を支払わねばならない。社会的な信用を失う人もいれば、金や時間という形で支払う人もいる。罰の形としては様々であり、人によって、それらに対する感覚も様々である。大した痛手を負わずに済む人もいれば、心に大きな傷を残してしまう人もいる。同じ行為をしたとしても、これほど違う結果が出てくるのは何故だろう。人それぞれの心の強さから来るのか、はたまたその人の生まれつきの性格のようなものが関係しているのか。いずれにしても、彼らの行為で被害を被った人々にとっては、何とか制裁を加えて欲しいと思うところだろうし、そういう人がいなくても、社会的な制裁を望む声が上がるときもある。特に、ある程度の地位にある人々については、それを利用した形での悪業が多いわけだから、その声も自然と大きくなる。しかし、現実には行為そのものに善悪があるわけであって、それによって手に入れたものや影響の大きさによって、そのもの自体の大きさが決まるわけではない。純粋無垢に生まれてきたはずの子供たちが何かしらの悪戯に手を染め、それが高じて犯罪を犯すに至るまでには、こういった判断が何度か下される場合が多い。結果的に犯罪者となってしまった場合に限って言えば、そういう判断が間違っていたとされることが多く、何処かで抑止力を働かせるべきだったとされる。ここで下される判断の多くは、子供だからとか、一時の気の迷いとか、魔が差したという言葉で表現できるものだが、そこに問題があるように感じられる。悪いことは悪いと明確にすることで、ある程度の圧力をかけねばならないこともあり、それが功を奏する場合もある。しかし、多くの場合、将来のある若者に対して過度な制裁は好ましくないとする考えから、控えめな対応に終始する。それが数度に渡って続いても、野放しに近い状態で放置されれば、何の変化が起きなくても不思議ではない。学校という社会の中で、様々な制裁が禁じられ、何の歯止めもない状態になってしまうと、道を外れた子供たちを戻す力は働かない。虐め、殺人、そんなに大きな事件だけでなく、もっと日常的なものに対しても、大人だけでなく、子供たちにも厳しく対応する必要があるのではないか。