パンチの独り言

(2006年6月26日〜7月2日)
(他力、自力、知力、実力、力学、眼力、底力)



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7月2日(日)−底力

 このところ、色々な事件が続いていて、どうなっているのかと思う。たぶん、多くの人々は、自分たちの生活を考えるとき、こんな状態ではたまったものではないと思うだろうし、将来に不安を抱く人も多いだろう。誰がこんな国にしてしまったのか、と思う人もいるだろうが、それを考えたとて何にもならない気がする。何の対策も浮かばないから。
 凶悪な事件が数多く起きていることも気になることだが、その一方で、それまで脚光を浴びてきた人々が、何かしらの悪事を働いたということで逮捕される話が多いことも気にかかる。人の人生に勝ち負けがあるとは思わないが、とにかくそんな尺度でしか測れない心の持ち主が巷に溢れるようになってから、そういう人々は裏ではなく、表舞台に顔を出すようになった。自分の意見をはっきり言うとか、主張があるとか、そんな褒め言葉が踊っていたのに、いつの間にか逆方向に走り始め、結果として法を犯すことになったようだ。それまで、神様とはいかないまでも、かなりの調子で褒め称えていた人々が、一気に逆の立場に立ち、彼らの行状を批判するのには呆れるばかりだが、本来評論家というものはそんな人種らしい。周囲の空気を読み、どちらにつくのが適切かを考えて、意見をまとめ上げるわけだから、確固たる根拠のあるものにはならない。まあ、そんなことはさておき、過去の行状を批判するのは、法律に関連した人々に任せるとして、自分たちに何ができるかを考えなければいけないときがやって来ているのは、確かなのではないだろうか。そんなとき、現状に対する不満だけでなく、先行きに対する不安に満ち溢れている世の中では、期待も何もできないわけだし、どうにでもなれとしか思えないという人々もいる。そう思いたい人にばかり注目が集まっているように見えるが、実際にはその陰でじっくり構えて、自分のできることを続けている人がいるに違いない。そうでなければ、こういった心理だけが働く社会は崩壊するしかないだろうし、何処か別のところへ逃げ出す人が次々に出て来るはずである。そうならないと思うし、そう信じているという人がいるうちは、中々そう簡単に壊れないものではないだろうか。とはいえ、大きな声でそんなことを主張できる雰囲気はなく、とにかく悲観的な意見が重要視される時代には、こういう意見は心の底にしまっておいて、やれることをやるしかないと思うのが一番だろう。そしてそれを実行していったとき、先に光が見え、回復の兆しが見えてくるのではないだろうか。今の経済の回復とて、あれほど悲観的な意見を主張した人々は全く逆のことを平気で述べているか、あるいは何処かに消え去ってしまったのだろうから、どうにでもなることのように思える。人々の意見を聞く耳は持っていなければならないだろうが、その一方で自分の気持ちを定めておくことも重要なのである。じっくり力をためる必要があると思うのなら、そんな方向に行けばいいし、今こそ力を試すときと思うのなら、そちらに向かえばいい。信念を持つことがこういうときの行動に必要なことであり、他人に振り回されるのをいかに避けるかが重要なのだと思う。

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7月1日(土)−眼力

 人と話をするとき、何処を見て話すか。小さい頃に注意された人もいるだろうが、一般的には目を見て話せと言われる。で、さて、そういう人はどれくらいいるのかと、話をするたびに気にしてみると、多くないのである。自分の子供には失礼をしないようにと教えたのだろうが、こういう状況を見てみると、あまり役に立っていないのかもしれない。
 目と目が合うのは、お互いに何らかの信号を送っているからだろう。話をするときに、目を見たほうが良いというのも、話をしている相手に意識させるとともに、ちゃんと話を聴いているかを確認するためなのだろう。失礼という言い方もあるだろうが、その実、相手のことを疑っているのではないか、などと考えたくなるのも、こんなところにあるのかもしれない。当然ながら、目上と目下の関係にもよるところがあり、上に対してそっぽ向いて話しかけるのは、失礼に当たると言われる。しかし、そこに二人しかいないときに、別段相手の目を見ずとも、話しかけているのは誰だか明白だし、相手が聴いているかどうかを探る必要など無い、と言われてしまうと、まあそんなものかなと思えてくる。こういう理屈が通るかどうかは、相手次第なのだろうから、失敗を重ねたくなければ止めておけばいいのに、どうもこんな行動をとる人が多いようだ。その辺りが、少ない原因なのかなと思ったりもする。その一方で、一部の人に限られたことだが、話し相手の目を見ていると、何から何まで見透かされているような気になる人がいるのも事実で、この場合、なるべく目を逸らしたくなる気持ちは理解できる。吸い込まれる気持ちが出るのやら、見透かされている気持ちが出るのやら、人それぞれに様々な雰囲気が漂うものだが、あれこそ不思議な感覚なのではないだろうか。目つきと言っても、人の目は同じようなものに見えるはずで、たぶん物質的には何も変わらないはずだ。にもかかわらず、相手を射貫くような目をした人間がいたり、嘘偽りが通じないように見える人間がいる。どんな目がそれを促しているのかはわからないが、とにかく送り手の問題のように言われることが、実際には受け手の問題であることの方が多いように思う。つまり、何やら負い目がある時に、そういった目つきの人に出会うと、何となく誘導されてしまうといったような、そんな感覚を持つ人がいるのではないだろうか。確かに、目つきは大切な部分があり、それがまさに話を聴いているかどうかの判断に使われたくらいだから、何かしらの雰囲気を読み取ることはできそうだ。しかし、射貫くとか見破るとか、そういった感覚は送り手よりも、受け手の心の動きによるところが多いのではないだろうか。だから、そんなことを微塵も感じないで、嘘八百を並べ立てる人には、その力も通用しないような気がする。

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6月30日(金)−力学

 少し前までは、専門家といえば、あることに関しては豊富な知識を持つけれども、その一方で、常識的なことを知らない人を指すことが多かった。専門にのめり込むあまり、その他のことが目に入らなくなるから、などと言われていたが、最近はそうでもないらしい。世渡り上手、錬金術師、何やらよからぬ呼称を授けられる人が目に付くようになった。
 漱石の小説に登場する人物は何処か浮世離れしている。特に、大学の先生は研究に打ち込むばかりで、他のことには目もくれないといった雰囲気が伝わってくる。教授の多くが貴族や華族の出身であった時代には、浮世離れは当然のことであり、趣味が高じないかぎりそんな職に就く人もいなかったのだろう。それが平等の時代となり、誰でも才能と努力があれば、人にものを教えることができるようになった。帝王学を学んだかどうかが問題ではないのだろうが、こういう時代になると当然世渡り上手の人々がそんな業界にも参入してくるようになる。少し前までは、そんな雰囲気は漂っておらず、先生は先生らしく浮世離れしているように見えたが、最近の報道を見ていると、教職に就く人格者とは思えぬ行状が巷に溢れているようだ。昇進のためなら、虚偽、捏造も厭わないとか、研究に使う金を他の目的に流用したとか、セクハラなどの話は日常茶飯事となり、取り上げられる機会が減るほどになった。教育者は人格者であるべき、という意見を誰かが吐いたとしても、賛同が得られるような時代ではないことは確かだが、それにしても、次から次へと出てくるものだと思う。よくよく考えれば、同じ人間のすることだから、こんな時代に象牙の塔だけが例外となるはずもない。特に、高度成長期に雨後の筍のごとくその数を増した大学では、粗製濫造もさることながら、作る側の能力低下が著しくなったとしても仕方のないところだろう。ただ、能力の問題と倫理に反する行為の問題は、同じ軸に乗っているわけではなく、全く違ったところに端を発しているというべきだろう。それは、後者の主流になっている人々が事件が発覚するまでは優秀な研究者としての評価を受け、それなりの光の当たる道を歩いてきたことからもわかる。逆に、評価が上がれば上がるほど、更なる上を目指す気持ちが芽生え、そこに悪魔の囁きが漏れ出てくるきっかけが生まれる。そこまで昇り詰めるだけの実力の持ち主だからこそ、脚光を浴びてきたわけだろうし、そこまでに築き上げてきたものの幾つかは評価に値するものだったに違いない。それが、何処でどう道を踏み外したのか、訳のわからない薮に迷い込み、外道となってしまった。功なり名を遂げた人が、何故そんなことをしてしまうのか、本人にさえわからないことかもしれないが、何処かで制動をかける心を失ってしまったのだろうか。

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6月29日(木)−実力

 資格繋がりをもう一つ行こう。免許と呼ばれるものは世の中に沢山溢れている。資格と呼ばれるもののうちでも、免許というのは特別扱いなのかもしれない。医師免許、看護士免許、薬剤師免許など、人の命に関わる場合、厳しい試験が用意されている。国民の半数以上の人が持つ運転免許は、実技、記述とも試験はあるが、厳しさはそれほどではないようだ。
 免許というものの大部分は、国家が行う試験のように、公的機関がある水準を守るように管理をしながら、授けられるという形をとる。そうでなければ問題が生じてしまう業務に対するものだから、当然のことなのだろう。しかし、同じ免許でも試験という形式を導入せずに、それに関する課程を経た人々すべてに与えられるものもある。教員免許はその代表格だろうか。大学や短大の教育関係の学部を卒業した学生だけでなく、その他の学部の卒業生でも、教員資格に必要となる講義の単位を取得した人々には、申請すればそのまま免許状が授与されるのだ。教育に携わる人々と人の命に関わる人々の間で、資質や知識の要求度に差があるかどうかはわからないが、とにかく国家試験といった類いのものは課せられていない。人材の確保についての問題や、歴史的な流れに、その原因があるのだろうが、とにかく教育現場の荒廃が問題視されるようになってもなお、この仕組みが変えられる兆しは見えない。その代わり、それぞれの地域で教員採用試験が実施され、教員としての経験を問うところも出ているから、それで済ませているのかもしれない。いずれにしても、大学への進学率が頭打ちになるほどにまで達し、ある意味当り前のこととなる中で、子供の数が減った結果、教員の需要は減少し続けている。そのため、教育学部を卒業した人でさえ、教員になる人は一握りとなり、一般業務に就いたり、企業に就職する人が増えているという。その一方で、荒廃を重く見た教育審議会が教員免許に必要なもののうち、最も重要と思われるものに注文をつけたと報道された。何をするにしても、知識だけでは十分ではなく、実技の要素が必要不可欠となる。そのため、教員については教育実習なるものが課せられ、場合によるが、二週間からひと月ほどの期間、現場での経験を積むことが要求される。誰でも、学校に通っていた頃、大学生と思しき人々がやって来て、何やら不慣れな様子で授業をしていたことを覚えていると思う。あれが実習生であり、多くの場合、自分たちの先輩が母校に戻ってきていたようだ。今、母校での実習を止めさせようとする答申が下り、更に厳しい実習を課す仕組みの導入が検討されている。不慣れな連中をそのまま現場に送るのは罷りならぬ、ということなのか、免許の取得の後の経験を要求する話とは、かなり違った考えがそこにあるように見える。本当に厳しくすることが必要と考えるのなら、何故資格試験を課さないのか、そちらの方が不思議に思えるのだが、果たしてどんなものなのか。

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6月28日(水)−知力

 「でもしか先生」、死語どころか、もう発掘でもしないと出てきそうにもない化石化した言葉だろう。先生にでもなるか、と、先生にしかなれない、という二つの言い回しを表した言葉だったと思う。魅力的な就職口が急増し、安い給料しか貰えない教師の成り手が少ない時代に使われた。事情が大きく変わったのに、状況はあまり変わっていないようだ。
 どんな学歴だろうが、何を知っていようが、とにかく人手が欲しいと企業が叫んでいた時代には、職探しは大した苦もなくできた。それが高じたとき、今では想像できないほどの対応を求人側がしていたものだ。それが、一気に坂を転げ落ちたとき、何か一本筋を持っていたとしても、首を縦に振ってくれるところはなく、職探しに奔走する人々が町に溢れていた。そんな時代には、手に職をつけることが絶対条件のように喧伝され、俄資格マニアが急増した。専門職が持て囃されるようになり、特権階級のように振る舞った時代もあった。しかし、最近はそんな騒ぎも下火となって、ごく普通に新しいことに取り組めることが、最低条件として扱われているくらいだろうか。資格も必要となれば、そこで準備をして取得すればいいだけのことで、専門的な業務をこなしてこそ、その意義が出て来るといった考え方が優勢になったのではないだろうか。その一方で、専門職に就いている人々が法律に反する行為を行い、知識の前に必要となるはずの倫理観の欠如が明らかになるに連れ、彼らを特別扱いにすることのつけが回ってきた感覚を多くの人々が抱いたのではないだろうか。資格を必要とする専門職だからこそ、それを失うことは避けるのが当然といった思い込みが通用しない時代には、どんな考え方が必要なのか、すぐには見えてこないのが大きな不安材料だろう。実際には、ある時代の手に職が謳われた環境である時期を過ごした人々の心には、他人よりも有利になるために必要な手立てというものが大きな容積を占め、それが物事の順序を出鱈目に並べ直させたわけだから、同じような環境にない人々には理解しがたいものがあるだろう。そんな中で方策を考えても、土台無理な話であり、解決の糸口さえつかめないのではないだろうか。そういう時代に育った人々の不幸、と一言で片付けるのも無茶な話だが、そのくらい尺度も立ち位置も違っているのだと思う。問題は、そういう人々の悪さを横目で美ながら、自分のふりを直せるかどうか、そこのところだけにあるのではないだろうか。大人がそんなことをするから、子供もそうなるという考え方があることは百も承知だが、現実にはその逆のことを考える子供たちもいるわけだ。抜け駆けをする、人を出し抜く、法律を犯す、様々な手管を使って、私腹を肥やす人々を見て、同じことをしようとする気持ちを起こすのか、はたまた反面教師として眺めるだけで済ますのか、どちらにするのかは本人の心次第なのである。このところの批判の渦をどう見るのか、その辺りも関係するかもしれないが。

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6月27日(火)−自力

 世の中には、色々なことを考える人がいるものだと思う。子供の数が減っている原因は、定職に就いている人が減少しているからだというのだ。調査によれば、職に就いている人は子供を持ち、そうでない人はほとんど子供を持たないのだそうだ。なるほどと思う人もいるだろうが、さて、このデータは本当に少子化の解決となる話なのだろうか。
 確かに、安定した収入の有無は子育ての大きな要因となる。しかし、その一方で、定職に就くかどうかは、生活設計の一部であり、計画性の有無の指標ともなりうる。どちらの考えを優先させるのかは分析者によることで、それに続く話の流れ次第というものだろう。そういう攻め手があったかと思うと同時に、こじつけの香りがすると思うのは、こちらもひねた考えを持つからだろう。いずれにしても、一つ二つの要因を挙げたところで、今の状況を打開できるとは思えない。結局、考え方の問題であり、貧乏人の子沢山という言い回しが昔はあったことを考えれば、背景にあるのがそれだけとは言えないだろう。定職に就くことがこれほど大きく取り上げられるようになったのは何時頃からか、兎に角楽な生活を送る若者が増え、何事にも縛られたくないという主張が罷り通るようになったからだろう。しかし、そんな時代がある程度続くと、そんな主張は何処かに姿を消し、ただ漫然と生活を送った結果として、職にありつけない人が増えてきた。それらの人の呼称までが登場すると、流石に社会問題として取り上げられるようになり、真剣に議論されるようになった。とはいえ、解決の糸口は見つからず、人を求める企業がそれぞれ独自の路線で活動しているに過ぎない。ただ、それらの中には新卒者よりそういった人々に注目するところがあり、徐々に雇用を増やしているようだ。鍵となるのは意欲の有無だそうで、それさえあれば、知識や技能は後からついてくるということらしい。この話を良い展開と思う人がいるかもしれないが、そこに矛盾を感じる人もいる。つまり、これは新卒者の意欲の喪失の裏返しであり、自分たちで何とかしようとしない新入社員に業を煮やした結果とも言えるのである。そう思って周囲を見回してみると、各企業がそういう無気力な人々に手を焼いている現状が伝えられるし、職場だけでなく、学校でもそういう問題が大きく取り上げられるようになっている。後者の場合は特に深刻で、給料を貰うようになれば、意欲が出て来るという戯言を並べる学生達の、卒業後の状況に呆れるばかりとなるらしい。何事にも意欲が湧かない人々には、小さなきっかけは功を奏さず、大きな出来事は逃避行動へと発展する。こんな状況で、少子化の問題を論じても何やら面白いことは出てきそうにもないのだ。それにしても、様々なことに対して意欲を発揮できない人々が、さて、生きる意欲を無くしてしまうのだとしたら、どんな手をかけねばならないことになるのやら。

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6月26日(月)−他力

 この国の経済が絶頂期にあった頃、対岸では凋落の一途を辿る国が青息吐息の中で回復の糸口を探していた。国を愛する心の大切さ、強い国の回復、その他、様々な標語が掲げられ、国を意識させようとする動きが目立っていた。人々の生活はさほど落ち込んでおらず、皆それぞれに勝手な方向を向いていて、国の財政危機など目に入らない様子だった。
 あれから四半世紀近くを経て、よく似た状況がこちらの岸で起きている。同じような落ち込みを経験したとき、そこから上がってきたものは国を意識させる標語であり、その一方で、そんなものを無視する人々の行動が目立つ。当時、あちらでは自国で生産された品物を購入しようとする運動に力が入れられ、そんな広告が目に付いていた。しかし、高かろう悪かろうという評判をとってしまったものに、目を向ける消費者はおらず、たとえ国を愛していても不便と損失を引き受けようとする人はほとんどいなかった。最近のこの国の動きを見ていると、流石にあちらの模倣を続け、個人主義を重視してきただけあって、そっくりそのままの状況にあるように思える。但し、心理的なことであり、工業製品の質は当時のあちらの状況とは大きく違うし、ものの考え方も似て非なるものにしかなっていない。だからかどうか、同じ道を辿ることもなく、何となく復活してきたわけだが、よくよく考えてみれば、あちらの回復もこれといった切り札が出されたわけでもなく、何となくそんな流れができたからといった雰囲気もある。結局はある程度のぶれの中で、あちこちに振られているだけで、おおまかに見れば反復に思えるだけなのだろうが、だからこそ自分がどの時代にいるのかが肝心なことなのだろう。結局、自国生産品の購買運動は功を奏さず、いまだに輸入品に頼る体質が続く国では、また同じような凋落の兆しが見え始め、少しの警戒感が現れ始めている。同じとは言わないが、この国の状況のうち、それとよく似た感じがするのは地方都市の窮状かもしれない。次々に撤退する大手資本、徐々に締めつけられる財政、環境的には厳しい状態にあり、自治体は回復の手立てを編み出そうと必死である。しかし、せいぜい、出費を抑えることくらいしか思いつかず、これはまたじり貧の状態を加速させるだけなのだから、どうにもならない。本当に、回復を願う住民がいるのならば、環境のことばかりを口にせず、自分たちの手でできることをするべきなのだろうが、相変わらず文句や批判ばかりが目立っている。経済は元々金が回ることによって支えられているのだとしたら、自分たちの住む地域の経済を回復させるための方策として、地元での購入が一つの手立てになりそうに思えるが、ここでも安物買いに走る人々が大部分で、自分の懐を痛めるつもりは毛頭ない。税金は取られたくない、楽な生活がしたい、便利な環境が欲しい、何処まで並べ立てたら気が済むのだろう。上から降ってくるものを待つだけでは、こういう状況は打破できないのかもしれないのに。

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