パンチの独り言

(2006年7月3日〜7月9日)
(力点、力説、力技、胆力、圧力、筆力、抗力)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月9日(日)−抗力

 結果には必ず原因がある。良い結果も、悪い結果も、そこにはそれに至った経過があり、その源となる原因があるはずだ、という考えだ。事件が起こるたびに、動機云々に拘る理由はその辺りにあるのだろうが、背景を無視して動機のみを取り上げても、意味はないだろう。動機にもそこに至る経過と原因があるわけで、それらなしでは唐突にしかならない。
 最近多発する事件の中でも、身近な人々の間での揉め事が増えているように思える。特に、家族という人間にとって最も身近な構成単位の中で起きる事件が目立っている。殺人、放火となれば大きく報道されるが、取るに足らないことを含めれば、近所でも日常的に何かしらの問題が起きているのだろう。それが突然姿を変え、巨大化して目の前に現れる。諍いがあっても、何とかなっていくのが家族、という思い込みが崩され、一方で一体化しているように見えたものが、硝子のように脆いことに気がつかされる。何がきっかけで崩れ始めるのか、すぐには理解できないものだろうし、たとえ分析が進んだとしても、何故、どうしてという疑問が消え去ることはないように思える。それほど、当り前に思えることが、ある時、ある所では当り前でなくなるわけで、その変貌に驚かされるばかりで、決め手は霞んで見えてこないものだ。それにしても、内圧ばかりが気にされて、外圧に弱い人間の存在が目立つようになってきた。自分の中から出て来る欲求の捌け口を求める行動に、自分も周囲もハラハラし、結局答えが見出せないまま、不満や不安が高じていく。そこに、外からの圧力がかかると、抵抗する力もなく、脆くも崩れていく。その時に、内側にかかる力が強く残れば、精神に異常を来すことになるし、逆に内圧の高まりに耐えられなくなれば、爆発的な行動に繋がる。前者は、世間的にはほとんど知られることなく、治療などの処置がとられるが、回復の成否は人によるようだ。後者が、世間一般に問題視されている事件の当事者になるわけで、同じような境遇に置かれた人間でも、人それぞれに反応が違ってくる証しなのかもしれない。それにしても、何故そこまで圧力を強く感じるのか、何故爆発するほどの圧力を生じることになるのか、理解に苦しむところである。不良品の圧力釜のように、釜自体に亀裂が生じやすくなっているのか、あるいは、圧力釜の安全弁のような存在が、無くなってしまっているのか、そのくらいのことなのかもしれないが、それが起きるような素材と環境がどうやって形成されるのか、想像できない。特に、家族を破壊する行為は、最近の身内のみを大切にする考えと、相反するものに思えるから、更に困惑させられる。ひょっとすると、大切にする考えの裏に、正反対の考えが芽生える土壌が存在しているのかもしれないが、その存在を確かめる術はなさそうだ。いずれにしても、ただ強くすることより、しなやかさを備えることが重要であることを、これらの事件は物語っているのではないだろうか。

* * * * * * * *

7月8日(土)−筆力

 一つの言葉に拘って、話題を繋げることは、相手に何かを伝えるために、どうしても必要なことである。しかし、時にそれが伝わらなかったり、あらぬ誤解を受けたりすると、さてどこが間違っていたのかと思い悩む。多数を相手にするときに、少しの誤解を受けるのはやむを得ないが、一人を相手にしたときにはこちらに落ち度がある場合が多い。
 言葉は一人ひとり少しずつ違った意味を持ち、微妙なところで調整が必要となる。多くの人を相手にするときには、たとえそこに違いがあったとしても、それを含めて概要が伝わればよいとすることで、何となく済ませていることが多いが、逆に言えば、そういう受取り方の多様性が、別の展開を産むこともあって、それを楽しみにする人もいるだろう。しかし、目の前にいる人物を納得させるためだけの言葉の場合は、そんなに簡単には片付けられない。その場で正確に思いを伝える必要があるし、誤解が生まれたときにはそれを解く必要がある。言葉の遣り取りはその為にあるのだが、現実には、そこに現れない表情の変化や態度の変わりように注意する必要がある。それによって、あらぬ方向への展開を未然に防ぎ、伝達すべきことが何かを確認させるわけだ。会話においてはこの手法が様々な場面で利用できるからよいが、文章にはその手は使えない。主張を厳密に規定し、正確に伝達するためには、誤解を産まない表現に気を配り、あらゆる可能性を考慮に入れておかねばならない。それが簡単と考える人はいないと思うが、実際にやるとなると、想像以上に難しいことに気づく。それでも、主義主張に関わることであれば、確固たる考えを持ってかかれば、何とか実現させることはできるし、その必要性の高さから言っても、そうしなければ事が進まない。しかし、ちょっとした思いつきとか、気になったこと、といった程度のものを、同じように扱うのは、少々難儀なことになる。そこには、まだこれと決まっていない事柄が多く残っているし、そういうことに関するぶれこそが論点となる場合が多いからだ。幾つかのきっかけを得るために、そういった作業をする人もいるし、そういう目的はなくても、そんな話題の導きかたを好む人もいる。そういう人々の多くは、どうしてもあちこち彷徨い歩く感じの内容を記述し、相手を困惑させることになる場合が多い。しかし、中には、そんなことはものともせず、読み進むうちに、余計な装飾は削ぎ落とされ、じつに見事に論を立てていく人がいる。どこに違いがあるのかわからないが、そこに何かしらの力が働いていることだけはわかる。

* * * * * * * *

7月7日(金)−圧力

 平等とは、差別なく、皆一様に等しく扱うこととある。これを読んで、さて、今の時代はこの点についてはどんな具合なのかと考えた。平等を謳う話が巷に溢れる一方、逆差別なる言葉も頻出している。今まで虐げられてきた人々を救う方策が、特別扱いを助長し、逆の傾向が露になることで、丁度良い所を見つけることの難しさを表しているように思う。
 それまで不均衡だったものを、均衡のとれたものにしようとすれば、ある方向への動きが必要となる。それまでも小さな動きがあり、ある均衡点の周辺を行き来していたものを、大きな動きによって、離れた新しい所に移すわけだから、その際にはそれまでと異なる経過を辿るわけだ。その過程だけを見ると、とても平等と呼べる代物ではなく、以前とは逆の力が働いているように感じられるわけだ。それに逆差別という呼称を与え、注目を集めさせたのが誰なのか知らないが、上手なやり方のように思える。単に批判をするだけでは届かない声も、採り入れやすい呼び名を付けることで、賛同者が増えたり、問題提起がやりやすくなるからだ。現実には、それまでのずれを修正しているだけのはずが、別の矛盾を生じる結果を産み、争点を増やすだけのことになる。そんなことばかりを対岸から眺めていると、問題点を洗い出し、それを解決するための方策を講じる人々の意図が、何処か別の方向を向いているのではないかと思えることも多い。方策を提出することの大切さが優先され、そこから生まれる結果について、誰も見向きもしないということが多いからだろう。先日乗りあわせた電車で、久し振りに異様な光景に出くわした。車内の雰囲気がどこか変なのである。慌てていたので気づかなかったが、乗車口にはピンクの印がつけてあり、女性専用車両と明記してあった。なるほど、と思いつつ、しかし、朝9時過ぎならもう時間制限は解かれているだろうと思いつつ、窓に貼り付けてある注意書きを探した。やっと見つけたところに明記してあったのは、9時半までということ、慌てて隣の車両に移ったものだ。ところが、振り返ってみるとそこには10人ほどの男性が乗り合わせていたのである。恋人同士のように見える片割れ、疲れた雰囲気で眠っている男性、若い人もいただろう。彼らが皆気づいていて、それを無視していたとは思えない。何しろ、れいのごとくの見えない圧力が感じられたからだ。でも、まあ、気づかぬふりしてか、丁度いいわいか、とにかく終点までそこに居続けた。他の車両が混雑する中、異様に空いていたのはおそらくそのせいであり、何とも不自然な感じがあった。何かを防ぐために導入されたものであり、被害に遭ったことのない人間には理解しがたいものだが、重要な対策として使われている。しかし、その中にたまたま迷い込んだ人間にとっては、決まりの悪い思いだけが残る。何処かに矛盾を感じるのだが、その声を届かせることに意味があるのか、自信はない。

* * * * * * * *

7月6日(木)−胆力

 もう一週間、力絡みの題を続けようと思いつつ、それに縛られながら話を作ろうとすると、中々思うように作業は捗らない。しかし、意地を張るようなもので、始めたからには何とか終わりまでという気持ちが出て来るから、不思議なものだ。といった始まりをもってくるということは、まさに想像の通り、少し苦しみ始めていることを表している。
 昔の話の中に出て来る英雄や豪傑は、剣などの技量の確かさと共に、窮地に追い込まれても、慌てず騒がず、何とかそれを切り抜けるだけの精神力を持っていたとされる場合が多い。剣道とか柔道とか、術ではなく、道をつけた形で普及していったものも、技だけでなく、そこに精神性を持たせたものとしたかったからだろう。何故だかわからないが、精神を特に重視する伝統がこの国にはあるらしく、何かにつけて、精神が引き合いに出される。確かに、心の問題は重要であり、そこに備えがあるかないかによって、結果が大きく変わることがある。ところが、いざというときに、その足りなさを実感する場面が多く見られ、ひょっとすると重視する伝統があるのは、その不足を常に意識するためかと思えてしまう。ただ、この手のことは国民性として片付けてしまうと語弊がありそうで、昔も今も、そういう場面に動じない人々と慌てふためく人々がいるのは変わりがないようだ。そんな中で、以前ならば大して取り上げられることもなかったのかもしれないが、最近話題になることの一つに、動じることとできることの違いがあるように思う。器械体操の選手たちが王国を築いていたころ、その完璧さに驚嘆したものだが、この場合は気持ちと技術がどちらも高い水準に保たれていたからだろう。緊張感が高まる中で、何とか普段通りの行動をすることは、一般人には困難に思えた。最近目立ち始めた人々の中に、途中まではこれと同じような挙動を示すのだが、結果として大きく違ってくる人がいる。落ち着いて、緊張感の中でも、自分を見失っていないように見えるのだが、実際には肝心の技術の方がついてきていない。自己評価が何処かずれていて、自分にはできるという思い込みがある一方で、現実にはその水準に達していないというものだ。過信とでも言うのだろうか、まさに何故どうして信じられるのかわからないが、とにかく最後の最後まで可能性を信じる人である。日々の積み重ねによって手に入れた自信と、元々持ち合わせた精神力が合わさることで、不可能に見えることを可能にしてきた人々と、そういう過程は一切なく、ただできるという信念を持つ人々では、あまりに違いすぎる。表面的には、窮地に追い込まれても慌てず騒がず、という図式に変わりはないから、一見肝が据わっているように見える。しかし、そこには肝心なものが欠けているのである。

* * * * * * * *

7月5日(水)−力技

 人の話を聴いていたり、遣り取りをそばで見ていると、なるほどと思える言い回しが出てきたりする。自分では使いこなせなくても、そんな言い方があるのかと感心することは、ある意味大事なことなのではないかと思う。その通り使いこなせるようになるのも良いけれど、ちょっと違った形でも自分なりの工夫ができればそれでいいのではないか。
 相手に対する気遣いとか、言葉の選び方とか、そんなところも参考になることがあり、何とか自分なりにと思うこともあるが、実際にはほとんど巧く行った試しが無い。とにかく不自然な感じが出てしまうし、さらりと話せなくて、かえって座を白けさせる場合もあるからだ。母国語でも苦労するところへ、こんなことを外国語でやる必要が出て来ると、とんでもない苦労をするものらしい。丁寧な言い回しを引っ張り出したり、失礼のない話し方を思い出したり、そんなことをしてみても、それが相手の国の言葉で表現できなければ何ともならない。巧みな表現ほど、翻訳が難しくなるように思える。当然、辞書を片手に四苦八苦となるのだろうが、そうしてみたとて、本来の巧みな言い回しが何処か遠くの方に消え去り、何ともぎこちない文章が出来上がったりする。折角の苦労が水の泡ということになると、やはり別の道筋を選ぶべきだったかと反省するしかない。元々、言語が異なれば心情の表現方法も違うだろうし、文化の違いから心の持ち方も違ってくるかもしれない。そんな中で、異種言語の間で同じ気持ちを伝えることが大切だとすれば、言い回しの格好良さに振り回されることが、必ずしも得策ではないことに気づいてくるだろう。しかし、もしそうだったとして、では何をしたらいいのか、これがまた問題となる。母国語であれば、そのままの気持ちを表す表現の中で、言い回しの質の向上を図ることができるが、外国語を相手にしては、そんなことは容易ではなくなる。となれば、たとえ表現は稚拙でも、気持ちを正確に伝えることに力を注いで、自分の考えに忠実なものを編みだしていくしかない。自分の言葉では色々な表現方法が使いこなせても、普段使わないものではそう簡単にはことが進まないから、単刀直入、直接的な表現を多用することになるのだろう。そう考えてみると、外国語の表現では、自分の使えるものを適当に並べて、何とか気持ちを表現する方向に向かうしかなさそうに思える。訳のわからないものを並べて、煙に巻きたいのなら別だが、とにかく気持ちが通じることを第一と考えれば、無理をせずにこんな感じでいいのではないだろうか。確かに、改まった席で一つ気の利いた挨拶でも、という場面に出くわしてしまった場合には通じない話だけれども。そこまで考えてくると、この手の話は別段外国語だからというものではなく、母国語にも通じる話に思えてくる。体裁ばかり気にして、中身の無い挨拶より、少しばかり形が崩れていても、自分の思いを表す言葉の方がずっと心にしみるものなのだろう。

* * * * * * * *

7月4日(火)−力説

 以前、職業倫理の前に、人間としての倫理があるはず、と書いた。これまでに問題になったことの大部分は、職業の専門性によって出てきたものではなく、ごく自然に、ごく普通の人々にも思い当たる、そんな倫理観で処理できるものだったからだ。では、世の中すべてそうなっているのかと言うと、そうではないということがよくわかる話が出てきた。
 金融機関の長の資産運用に関する話題は、そういう次元を遥かに越えた世界に住む人と思っていた人々には、すぐには理解できない代物だったようだ。その証左に、報道の主体は結果としてどれだけの利益を上げたかに集中するばかりで、何故そのことを話題にしなければならないかを説明するものが皆無だった。庶民が預貯金の金利がほとんど無い状態で苦しんでいるのに、地位を利用したような資産運用で利益を上げるのはけしからん、という論調は如何にも賛同が得られそうだが、実際には何処が悪いのかを指摘したことにはなっていない。単なる感情論に訴えて、論旨を曖昧にすることは、最近の物書きに多く見られる傾向だが、今回の話題もまさにその典型と言えるだろう。企業の経営者は皆自社の株式だけでなく、他社の株式を保有する人もいて、それ自体が禁じられているわけではない。肝心なことは、自分しか知りえない情報を利用して、売買によって利益を上げることが禁じられているわけで、保有そのものを禁止するものではないことだ。一方、今回の話題では投資信託という形での資産運用であり、託された運用会社がどのような手口をとるのかは、本人の知るところではない。直接、何らかの形での影響を及ぼすことができるとすれば、金融政策の決定において、そういう職種が利益を上げやすい環境を整えることだろうが、その指摘はなかったし、おそらくそういったあからさまなことはなかったのだろう。一方、倫理観の欠如で問題視されるような、法律や規律に対する違反行為も明確な形では現れておらず、社会通念上の問題として気をつけるべき事柄に対しての配慮が欠けていたことが指摘されるくらいのものだ。こうなると、抜け道を巧みに利用して、利益を上げたことばかりを指摘したとしても、節税対策を講じる人々や様々な生活の工夫をする人々と、何処が違うのかを明らかにはしにくい。単に、地位の高い人が更なる儲けを得たことを羨ましく思う人々の、恨み辛みが注ぎ込まれているだけに見えてしまう。更に、程度の低さを反映しているのは、その後の年金の額やら資産の内容やらに対する批判の声で、ここまでくるともう急所を突くことは不可能に思える。遅すぎるかもしれないが、ここで誰かが今回の事柄について問題点を整理して、何がいけないのかを指摘する必要があるだろう。そうでないと、これまでにも何度もあった事件同様、何も学習することなく、法律による取り締まりにばかり頼る結果が生まれるだけではないか。

* * * * * * * *

7月3日(月)−力点

 落語を聴いていると、その中には必ずと言っていいほど、要領の悪い人物が登場する。知恵遅れのごとく扱われる人物もあるが、一見まともそうに見えて、その実どうにも理解しがたい行動をする人が出て来る。総じて、憎めない性格であり、要領が悪いからこそ、人に好かれる部分がある。話の中では扱いにくいが、噺では扱いやすい存在なのだろう。
 要領の良し悪しは何処で決まるのか、そんなことを考える人もいないだろう。それは、パッと見ただけでわかることで、何処に原因があるの、などと論じるまでもないと言われそうだ。昔は、そんな人はもともとそうなんだから仕方ないと片付けていたものだが、やはりそういうことを問題にする人がいて、それについて色々と調べたりするから、そこから結論が引き出されてしまう。それが無理矢理かどうかはすぐには解らないものの、結論付けの時に使われた分類は如何にも便利な代物に見えるから、つい利用したくなるものらしい。そんな経緯を辿って、種々雑多な呼称が巷に出回ることになる。専門家たちは厳密な分類を心掛け、それを守ろうとするのだろうが、ただ利用したいだけの人々にはそんな心掛けは微塵もない。それに、はじめに定義された分類も、その後の精査によって様々な変遷を遂げるから、分類も確固たる考えに基づくものでもないわけだ。そういう調子で、色々な呼称がよく訳の解らないまま使われるようになり、現場での混乱を招くこととなる。まあ、そんなものかなと思うけれど、それにしても当事者たちにとっては何が何やら解らぬままに、どんどん話が進み、結果的に人との違いを決めつけられることになる。分類などというものは本来、整理するために使われるものだけに、人それぞれに何処かで使っているものなのだろうが、社会全体で何かの指標として使われ、それが区別に繋がることになると少々事情が違ってきそうだ。能力が、顕在も潜在も含めて、同等であるはずとの信念が存在する中では、こういった区別は全くおかしなことに繋がるはずなのだが、それをそういう業界で頻繁に使うところを見ると、その辺りの事情を完璧に理解することは難しそうである。そんなことはさておき、要領の良し悪しがあり、それが表面的な能力の差のように扱われてしまうことに、抵抗感を覚える人もいるのだろうが、実際にそこには何の差も存在していないのか、そちらの議論になったときにはどうだろう。力の入れ方は同じように見えても、表に現れる力が違うことは色々な場面で意識させられることである。一度読んだだけで文章を理解できる人とそうでない人、話を少し聴いただけで大枠を捉えられる人、その他色々な違いを実感したことがあるだろう。能力の差を論じることは忌み嫌われているけれども、現実には歴然としたものを感じるというのは何とも不思議な状況である。そこにはまるで梃子の原理のようなものがあって、力を入れる場所と支えるところ、更には力を出すところの位置関係が重要となるのかもしれない。

(since 2002/4/3)