パンチの独り言

(2006年7月10日〜7月16日)
(無比、利殖、工夫、近隣、扶助、邪魔、木陰)



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7月16日(日)−木陰

 久しぶりの長距離運転、明るい時間にするのも久しぶりだから、道沿いの風景につい目が行ってしまう。これはある意味危険なことだが、せっかくだからもう少し、という気持ちになってしまうほど、楽しいものである。連日の暑さを忘れさせてくれるほどのものではないが、それでも、街路樹を眺めているだけでホッとする。
 道沿いに植えられた木々は、道の管理者が意図的に植えたものに違いない。欅通りだったり、銀杏通りだったり、どちらかと言えば、上に向かって枝を伸ばす樹木の方が管理がしやすいのだろう。そういう道は全国何処へ行っても見かける。それに比べて枝を横に伸ばすものは、陰を作る有難さはあるが、低木だと通る車に当たってしまい、邪魔になる。そんなことを考えさせてくれたのは、ある町を通る国道の街路樹だった。普段なら気がつかないが、この季節、その木に花がつくから、走っている車からでもすぐに区別がつく。桃色の淡い色彩が、毛羽立っている感じがして、何となくふんわりとした鞠のように見えるのは、合歓の木である。ずっと以前に同じような季節に気になり、独り言に書いた記憶があるが、道の脇の森に自生するところがあった。今度はそれとは全く違う景色で、田んぼの中を通る道に等間隔に植えられている。それほど上の方には枝を伸ばさず、枝の広がりが特徴的な木を、ちょっと工夫した植え方で、良いところを引き出そうとしている感じだ。道路側に枝が伸びれば、大型車の車体に接触するのは容易に想像できるから、それを避ける為に、歩道側に傾けて植えてある。それだけで、枝の伸び方が微妙に変わって見えた。人通りが少ないから、次の工夫はあまり効果がないのだろうが、歩道側に伸びた枝はこの時期有難い木陰を作っていた。そんな所も工夫の跡かな、と思いつつ、通り過ぎていた。地元の町と特別な関係があるのかどうかはわからないが、他では見たことのない街路樹で、面白いと思う。道路管理が今後も順調に進められれば、もう少し大きな木になり、見栄えも変わってくるのかもしれない。せっかくだから、そこまで力を緩めないで欲しいものだ。

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7月15日(土)−邪魔

 夏らしい気候、と簡単に片付けてしまうと、何処かから批判の声が上がりそうだが、とにかく、蒸し暑さが募ると、この辺りの話だけでも簡単に片付けたくなる。この国らしい、という表現も、良いことならば賛同が得られるが、正反対に思えることとなると、さすがに簡単には受け入れられそうにも無い。それにしても、空気が重い。
 気温の高さだけであれば、もっと凄いところは色々あるらしいが、それとは違う要素が関係している。また、一方、それと同じように高温多湿と呼ばれる地域と比べた場合も、どちらがどうかとなると、どっちもどっちと言うべきだろうか。いずれにしても、不快になっているからと言って、話題をそらすことによって、何とか一時しのぎをしようとしても、簡単ではないようだ。同じような気候が数日続くと、ちょっと気を逸らしてみても、すぐに現実に引き戻される。まあ、なんだかんだと言っても、毎年やってくるこの不快な気候も、いつの間にか何処かに消え去り、別の形の文句の対象がやってくる。そう思うことで何とかなるなら良いが、やっぱり何ともならないらしい。汗をたらたら流しつつ、こんなことを書いていて、結局、下らないと言われてしまうのだろうが、しかし、他に思い付くこともない。特に、朝から全国的に猛暑が伝えられ、それが繰り返されていると、もう、他の方に思考が向かなくなってしまう。仕事があれば、気も紛れるのだろうが、週末となるとそうはいかない。何ともはや、妙案が浮かばずに、ジリジリとしてくると、更に状況は悪くなる。こんなことを書きながら、うっぷんを晴らすのがやっとといった感じだ。もう少し、涼し気な話題を導入できたら良いのだが、それも無理のようで、結局、こんなことを書いてお茶を濁すことになった。連日では、批判の雨霰だろうから、翌日は、また違った方向を考えてみよう。では、今日のところは、こんなところで、おあとがよろしいようで。

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7月14日(金)−扶助

 女性を特別扱いにする。色々な意味が生まれそうな話である。しかし、現実にはそんな話が世の中に溢れている。長年冷遇されてきたから当然の措置だという意見がある一方で、逆差別ではないかという声も上がり始めた。どちらが正しいといった類いの話ではないのだが、それにしてもこの手の話はここ当分物議を醸し出しそうだ。色々な意味で。
 ある企業が女性に対して色々な手助けをしていると話が聞こえてきた。商品の買い手が女性に限られていることも理由の一つだろうが、更には全世界的な不平等が背景にあるのだろう。業界によってその様相は様々であり、一概にこれと決めつけることはできないだろうし、それぞれに異なる経過を辿っているとはいえ、徐々に変化していることは否定できない。それでも、横一線に並んでの変化ではないから、速いところと遅いところがあり、遅いところに対する風当たりは当然厳しくなる。ということで、企業の広告戦略の一環として、様々な国で展開しているものらしいが、それぞれにそのやり方には違いがあるそうだ。確かに、業界毎の違いよりも、国毎の違いの方が、男女間の不平等には大きな問題が横たわっており、それを解決すべく国際機関は力を尽くしているらしい。しかし、それぞれの国が持つ独特の文化的背景を無視することはできず、無理難題を押し付けるやり方は避けたいのだろう。それにしても、こういった運動が盛んになると、必ずと言っていいほど、逆差別的な話が出されるようになる。つまり、ある不平等を解消するために特別な仕組みを導入すると、それが別の不平等を産みだすということだ。確かに、その傾向は否定できないし、おそらく多くの場合、それが現実に起きている。しかし、その一方で、何もしなければ元々の差別が解消されることは期待できないから、何かをすべきという点については、反対する人は少ないようだ。そのやり方、進め方に、色々な欠陥があり、そこに様々な注文が出されるのだろう。問題の解決ばかりを気にすると、結局何も始められないことになり、何も進まないことになるから、それだけは避けたいわけで、関係者は何でも良いとは言わないまでも、それなりに考えられ、少しくらいの不具合があるものでも、まず動かしてみようとするらしい。しかし、こういった話が流れてくるときに、いつも気になることは、その制度などの導入がどんな変化を産むかについての検討が如何にも不十分と思えることだ。大きな問題の一つは、制度の導入がきっかけになるはずということばかりに気を奪われ、それを利用して、更に先に進む人間にとって、もっと重要なことに関しての配慮が欠けていることである。いずれにしても、男女を問わず、何か自分のしたいことを続けるためには、そこに強い意志が必要であり、それを持つことと社会制度の有無の間にはほとんど関連がないということだろう。助けて貰えるから続けるという受け身の人々に、大したことはできそうにもないと思うがどうだろう。

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7月13日(木)−近隣

 相場の低迷が続いている。そんな中で流れてくるニュースにはろくなものはなく、回復の兆しは見えない。それに同調するように、このサイトのアクセス数も低迷している。一時は、六十程度のアクセス数、頁閲覧は二百を超えていたのだが、最近は三割か四割減っているようだ。直接的な関わりはないとはいえ、やはり相場に左右されるものなのだろう。
 流れてくるニュースの中でも、毎度のことながら理解に苦しむのは中東の情勢である。兵士の拉致がまた起こり、隣国への進攻が始まったようだが、その場にいないとこの辺りの事情は理解できないように思う。ずっと昔、独り言を書き始めたころに取り上げた話題に、あちらの事情に触れたものがあったが、あの地域に住んでいる人々にとって、どんな関係が築かれ、どんなことが行われているかは、毎日の生活を脅かすものとして、常に気になるものである。それに対して、大国と呼ばれる国々の考えることは、全体の関係をどう保つかということであり、そこにだけ気を配るやり方では、毎日の脅威を取り除くことはできないというものだった。今起きていることも、おそらくそんな状況にあるわけで、遠くの方から眺めて、何故冷静に対応できないのかと思ったとしても、それだけに終ってしまう。当事者間でこれまでに積み上げられた信頼、裏切り、その他様々な模様が、こういったときに大きく影響を及ぼすことについても、騒ぎの中にいたことの無い人間には理解しがたいところだろう。非人道行為として取り上げられる拉致事件にしても、それぞれに事情があるのだという主張に対して、絶対的な効力を及ぼすことはできないし、外から見ればどっちもどっちという様相にしても、当事者にはそれぞれの立場からの解釈しか存在しない。本来は、外からの冷静な分析が正しい答を導く最善の道のはずなのだが、人と人との関係については、一概にそうとも言えない雰囲気がある。大国自身あるいは大国同士の特別な事情に関しても、外から見て何とも不可思議に思えるものも沢山あるようだが、それを論理的に片付けることは難しいらしい。宗教の問題、民族の問題、その他様々に、人と人との間に築かれた関係に関わってくる問題には、簡単には片付けられないものが数多くあり、外野席から声を飛ばしても、聞こえないのか聞こえぬふりなのか、何ともならないことが多い。今のところ、他人事として扱われているが、隣国で何かが起きれば、同じような状況が発生する可能性がある。そう考えると、いくら声が届かなくても、無視をするのではなく、様子を窺いながら分析することは重要なのではないか。

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7月12日(水)−工夫

 梅雨真っ盛り、蒸し暑い天気が続いている。といっても、南北、東西に長い列島だから、とにかく天気概況をみると、全く違った様相が展開している。特に、この時期はその違いが際立っているようで、それを眺めては溜め息を漏らす向きもあるのではないだろうか。もう少しすると、何処も彼処も真夏の暑さに襲われることになるから、違いは今のうちだ。
 暑さ寒さの極端な場合に、体調を崩すこともあるが、湿度も大きな要因の一つに数えられる。この国では何処にも逃げ場はなさそうに見えるが、もっと大きな国になると場所によって様々だから、人によって住む場所を選ぶこともできるようだ。但し、問題の深刻さにもよるのだろうが、働く場所との兼ね合いがあるから、多くの場合、老後の住み処を決めるときに、この問題を考えるらしい。理由はわからないが、どういうわけだか、住む場所としての快適さと働く場所としての必要性に大きな違いがあるらしく、ばりばり働いているところでは、日常生活の便利さは重要な要素となるが、気候は二の次にされてしまうようだ。夏冬の温度差も大きな要素に思えるが、それ以上に問題とされるのは湿度のようで、特に老後の住み処の条件として重視されるのは、その点であるらしい。冬の寒さは確かに問題になるが、たとえ、冬が無いような場所でも、湿度が高い場合には敬遠される。関節の痛みを訴える人々にとっては、寒さと湿気が大敵のようで、それを考慮に入れて、終の住み処を選定しているらしい。面白いのは、そういうところに限って、夏の高温は凄まじく、その代わり湿度が低いために、汗がすぐに塩になってしまうことである。高齢になるまでは、動きが激しいこともあって、この暑さが直接影響するようだが、あまり動かなくなると、気温の暑さは大して気にならないものらしい。とはいえ、水分補給などに気を配り、直射日光を避けるなど、それなりの対策はするのだろうが、じっとりとまとわりつくような暑く湿った空気よりは、ずっとましということなのだろう。そういう逃げ場が持てる国に住んでいるのならともかく、そんなものは何処を探しても見つかりそうにもない国にいると、とにかく少しでも快適に過ごそうと工夫するしかない。昔都だったところは、夏は蒸し暑く、冬は冷え込む土地で、現在の大都市同様、ある意味住みにくい。その中で、色々な工夫がなされていて、先日取り上げられていたのは、家全体の障子を全て簾を使ったものに代えるそうだ。他にもあったと思うが、印象的だったのはこれで、奥に長い伝統的な家屋では、風を通すことが一番大切だというのだろう。手間のかかり方やそのための準備などからすると、大したものだと思うが、そうしてでも快適さを手に入れることが重視されているのだろう。広い国とはちょっと違った対応に面白さが感じられる。

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7月11日(火)−利殖

 何年も前、お金を銀行や郵便局に預けておくだけで、殖やすことができた。今のように、資産運用を真剣に考えている人ならともかく、そんなことを微塵も考えない人には道は無いという雰囲気ではなく、誰でも何処ででも間違いの無い運用ができた。いつ頃からか、調子が悪くなり、そんな話はあり得ないと言われるようになると、今が当り前に思えてくる。
 経済状況の悪化が始まるよりも随分前から、こういった状況の変化はあった。徐々に預貯金の利率が低下し、老後の生活への心配が大きくなる人も多かった。年金制度がまだ十分に形を保っていたけれども、心配の種は次々に見つかり、何となく不安だけが膨らむような世の中になり、一部の人々だけが狂乱しているうちに、風船がはじけてしまった。そこまで極端なところに至らなければ、まだ回復の可能性はあったのだろうが、勢いづいた車を止めることは誰にもできず、結局気がついていた人がいたのかもしれないが、惰性でそのまま壁にぶつかってしまったようだ。そんな中で、経済の回復には資金の調達が重要であり、その為には借金の負担を軽くするべきという考えが、当然のように出され、金利がついには底に達するのさえ、妨げることはできない状況に向かってしまった。政策的には、両方向の動きを可能とするために、常に中間的な立場に身を置くことが重要なはずだが、極端な状況に追いやられた結果、その余裕をも捨て去るある意味無謀な決断をするしかなかったのだろう。結果として、依然として続いている状況が生まれ、おそらくその影響もあって、ある程度の上昇が報告されるようなところにまで戻ることができた。ある大きな決断によって決定されたことを、次の機会に覆すのも、これまた一大決心が必要なわけで、徐々に準備が進められているとはいえ、その段階に至るまでにはまだ紆余曲折がありそうだ。ゼロ金利を解除すると、何がどう変わるのか、直接的な部分に関しては分かりやすいのだろうが、その波及効果となると、簡単にはわからない部分も多い。にもかかわらず、預貯金の問題と借金の問題だけを気にする人が多く、政策というものが庶民の日常生活にとって、大した意味を持たないことがわかる。金利の多少が金を貯めるか借りるかの違いを産むと考える人はいないと思うが、この辺りの意見はまるでそういう繋がりがあるように見せている。海の向こうと比べれば、生活設計の基本的な考えの違いが、その選択を決めているわけであって、資産運用にしても、借金にしても、率が第一に来ているわけではなさそうだ。じゃあ、この先、こちらではどう動くのか。方向だけは決まったようだが、時期や程度はまだまだのようだ。

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7月10日(月)−無比

 ペットを飼っている家、特に、猫や犬を飼っているところでは、時々話題に上っているかもしれない。彼らが家族に順位をつけている、という話だ。餌を貰える人を最上位にする犬もいれば、人間たちの付けた順位に従う猫もいて、一概にこれというものは無いように見える。一つだけ確かなことは、順位付けが厳然と行われていることだろう。
 動物たちの社会では、順位付けはとても重要な事柄の一つに思われる。猿の群れの中の順位、ライオンや狼たちの順位、取り上げられるたびに、そこにある強固な規則に驚かされる。但し、力関係で築かれたものは、力を失ったときには崩れ去るわけで、そちらの厳しさもかなりのものだ。順位が何によって築かれるかは、それぞれの社会で少しづつ違っているのだろうが、基本となるのは比較だろう。誰と誰を比べて、どちらが上かを決めるわけで、それをとことんやれば、群れ全体での順位は明確になる。何処かに絶対的な指標があるわけではなく、当然絶対的な存在などというものは存在しない。常に何かしらの比較要素を用いて比べられ、その結果が順位に反映されるわけだ。相対と絶対の違いは明らかだが、どうも、後者の方が優勢に思われているようで、そういう指標を求めたがる傾向がある。しかし、現実にはそんなものは幻想に過ぎず、相対比較の結果として構築された指標を絶対のもののように扱うことで、それを維持しようとする思惑から出てきたものなのではないだろうか。いずれにしても、複数の個体が集まるところでは比較が必要となり、その結果として順位がつけられる。このことについて、人間だけが特別な集まりではないし、そこにも当然のごとく何かしらの比較がなされ、順位がつけられるわけだ。ここで問題となるのは差別の扱いであり、順位付けを差別と結びつける人々には、比較そのものが危険なものと映るらしい。確かに、本筋と無関係なものを指標として比較され、それによって順位をつけられたのでは、そこに差別的な思惑が感じられるだろうが、様々なことを比較の要素として、それを利用して順位をつけるのであれば、それは単に違いを際立たせるための手法に過ぎない。この辺りの違いは、受け手と関わる人々の関係によるのだろうが、差別の温床となる比較は回避すべきとするのは、少々行き過ぎの感がある。家族内での比較、教室内での比較、更には組織の中での比較など、それぞれに意味のあるものだと思う。それが絶対的な存在となり、そこから逃れられないような状況に追い込むのは間違いと思うが、比較そのものには様々な意味があるはずなのだ。人間の成長において、これだけに気を奪われるのは間違いだが、かといって、全く比較の無い状況を作るのも危険である。扱い方に気を配ればどうということもないはずのものが、悲劇的な事例を基に極端な扱いを受けるのはどうかと思う。

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