パンチの独り言

(2006年7月17日〜7月23日)
(休日、惑乱、避難、反面、筋書、維持、放任)



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7月23日(日)−放任

 他人任せ、無責任さを表す言葉として頻繁に使われるが、果たしてそういうことなのだろうか。自給自足も難しい世の中にあって、何もかも自分でやり遂げる人は一人としていない。どこかで他人に頼るしかないわけで、それを否定することは出来ない。しかし、その一方で、責任を負わねばならないことまで、放り出してしまうところを指して使われる。
 責任を負うことと、自分で手を下すのとは、時と場合によって違ってくる。組織が大きくなればなるほど、一人ひとりの負担は割合としては小さくなり、その代わり、一部の人間が全体の責任を負うことになる。当然ながら、責任を負わされる人々は全体に気を配り、間違いが無いようにしなければならないが、時にはそこに綻びが生じることもあるだろう。そういったときに、責任の所在が問われ、結果的にそういう人々がその対象となる。実際には、一部の人間の不注意が原因である場合でも、そこに監督責任なるものが生じるからだ。組織で考えると、こういった図式は如何にも単純に見えるものだが、現実の社会では責任逃れの人々が横行し、組織内での希釈効果によって、一人ひとりに課せられるものは驚くほど小さくなることもある。しかし、一方で、そういった囲いのある集まりではなく、社会全体が対象となった場合には、その曖昧さが更に際立つことになるようだ。日々の生活を自分の力だけで支えている人は、おそらくこの国の中に一人もいないだろう。都会で生活すれば、そこに供給される何かがあるし、その環境を作り上げる誰かの存在がある。だから、他人に任せないでいられる人は基本的には一人もいないわけだ。にもかかわらず、他人任せという言葉が殊更強調されるのは、そこに責任感の欠如が問題視されているからだろう。実際には、誰かに任せるところには、そのことへの責任が伴うわけで、たとえば選挙などでもそういう人間を選んだ責任が生じる。基本的には、何の責任も負わずに済むような状況はなく、どこかで何らかの繋がりがあれば、それに対する責任がたとえ小さなものでもあるわけだ。ところが、世の中を見渡してみると、そんな感覚があるようには見えない。その代わりに、責任の取り方ばかりに心を奪われ、その標的選びに躍起になる。自分に矢が飛んでこないようにするためには、別の標的を目立たせればいいといった論理のようだ。そんな社会だからこそ、本人の責任を強く主張するわけで、それは逆に見れば、そういった感覚が欠けているからにほかならない。安心して暮らせる社会とは、与えて貰えるものではなく、自分自身が参加して、初めて築けるものに違いない。そんな気持ちがないまま、ただ誰かがやってくれるという他人任せは、まさに究極の無責任というべきなのだろう。

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7月22日(土)−維持

 ある日突然、仕組みややり方を変えると言われたら、どう感じるだろう。それを望んできた人にとっては大歓迎のことなのだろうが、そんな意識のない人はどんな受け止め方をするのだろう。人それぞれなのは確かだろうが、果たしてそこに年齢による傾向は見られるだろうか。一般的な認識では差があることになっているが、実際にはその様相が認識とは違うらしい。
 制度の破壊、改革、そんな言葉が頻繁に飛び交ったが、その後の展開から効果のほどを見つけるのは難しいと言われる。言葉だけが飛び交い、それがどこかに飛び去ったとしか思えないものまであり、まさに骨抜きにされたと言われるものまである。昔の学生運動や住民運動が盛んなころの、思いを込めた言葉による訴えが、その後どこかへ消えてしまった、そんな姿と重ね合わせている人もいるのではないだろうか。人は変化を求めるものと思っている人がいるかもしれないが、実際にはそうでない人の方が圧倒的に多いことを、こういう歴史の流れは表しているのかもしれない。それにも関わらず、何かあるたびに変革の提案がなされるのは、現状の打破には必要なことなのだが、その多くが思い半ばにして頓挫してしまうのは、不思議なことのように思える。その原因の多くは、計画そのものの杜撰さなのだが、それとは別の要素があるように見えることがある。小さな組織の中での出来事だから、必ずしも全てに当てはまるとは限らないが、展開そのものが意外なために印象に残った。現状の打破を提案するのは、最近なら下からの突き上げがきっかけとなる場合もあるだろうが、多くの場合、上に立つ者がその任に当たることがある。提案そのものは、打破を目指したものだから、何らかの仕組みの変化を主体としており、それが目玉となっているわけだが、そこに対する不安が膨れ上がることが多いようだ。こういうところの頑なさは年寄りの常のように思う人がいるが、現実には若い世代からそういった声が上がることが多い。彼らにしてみれば、やっとのことで軌道に乗り、このまま進んでいくことで先の見通しが出来るはずの状況で、急に軌道修正を強いられるからだ。現状がいかに悪くとも、その中での道筋を理解できるほうが、更に良い状態を築くための急激な変化に巻き込まれて、行き先のわからない道を歩まされるよりも、ずっとましだというのだろう。先の見えてしまった年寄りにとっては、そんな変化があろうがなかろうが、大した変化が無い分、気楽に構えられるのに対して、大きな振動に耐える時間が長くなる分、若い人々には堪えるということらしい。大きな変化が招く大変動に対応するのは難しいが、小さな変化には何とか備えられる。そんなことが、様々な組織で起きてきた結果、今のような状況が生まれたのかもしれない。いずれにしても、変わる気が起きなければ、変わらないということなのだろうが。

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7月21日(金)−筋書

 集団心理とでも言うのだろうか、様々なことが伝えられるたびに、そこに何らかの意図を感じる。心理を先に出しているのは、操作のようなものが感じられるからで、伝え方に特徴があって、それが事実を伝えることより、別の効果を狙ったものに見えるからだ。そんなものがあるはずはないと思う人がいるかもしれないが、少し冷静になって眺めてみれば、何かしら怪しげなものがおぼろげながら見えてくると思う。
 このところ、巷に流れる事件の報道の中で特に気になるのは、事件そのもののことより、そこに登場させられる関係者がどう扱われているか、ということだ。たとえば、犯罪に関するものの中で、ほんの一部に過ぎないのだろうが、印象に残ったものの中に、後日犯人と特定された人物を殊更取り上げているものがある。当時は悲劇の主人公であった人が、あとからそれを起こした張本人であったことがわかったとき、取り上げ方の不自然さに気づくこともあるし、もっと極端な例では、はじめの流し方からして、既に疑いの渦に巻き込まれていることが明らかな場合もある。情報を受け取る側には予備知識は全くないわけだから、即座に不自然さを感じることもあるし、そこから意図を読み取ろうとすることもある。いずれにしても、仕掛け人としては所期の目的を果たしているわけで、それなりの効果を上げたと言えるのだろう。送り手からみると、これで満足を得ることになるのだろうが、受け手にとっては何とも言えない不条理を感じることになる。確かに、解決をみた事件の場合、それで何も間違いはなかったと結論づけられるのかもしれないが、一部を除いて、勇み足となることがあまりにも多いからだ。予見をもって行動してはいけないとよく言われるが、まさにそのことを表しているかのごとく、はじめから決めつけがなされ、そこへ結論を導くための筋書きが用意される。これでは、事実を忠実に伝えていることには決してならないし、それが極まれば空想にしか過ぎないことが溢れ出ることになる。先日のある企業の製品に関する報道についても、まだまだ次から次へと「新事実」なるものが飛び出してくるが、当初から道筋が決まっていたかのごとくの流れになっている。何処で誰が決めているのかが最も気になることだが、それを観ている人々がどんな印象を持つのか、そちらの方が更に気になるところだ。何故なら、場合によってはこれが操作の効用を際立たせることに繋がり、それを理解した人々は更にそちらに進路を向けることになるからだ。群集の愚かさを理解したうえで、様々な対策を立てることはあらゆる面での応用が期待できるが、それに煽られている人々の一員になっていることに人々が気づいてしまうと、この図式は脆くも崩れ去る。本来は、そういった流れである意味での調整が図られるのだが、このところの動きを見るかぎり、制動の利かない車のように爆走しているように思える。情報を持つ者に勝利が与えられるとでも言うかのように、そんな動きが目立っているように見えるのだ。こんな状況だからこそ、施しを待つのではなく、それぞれを自分なりに吟味しながら見つめることの重要性が改めて高まっているのではないだろうか。

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7月20日(木)−反面

 ある事柄に関して、賛成か反対かの立場を設定され、それに基づいた議論を展開する。議論の苦手な人々を訓練する手立てとして注目され、一時は随分と持て囃されたが、最近は往時の勢いはない。debate、討論の技術という訳語もあるから、元々そういった意味を備えたものなのだろうが、適切な言葉が見つからず、ディベートということになった。
 議論とは、互いの意見を交換するわけで、戦う場ではない。しかし、慣れない人々が議論に熱中すると、まるで喧嘩をしているようになり、場が閉じてもその勢いが収まらないことが多い。そんな状況ばかりが目立つところでは、当然ながら言い争いが絶えず、それを避けるために口を閉ざす人の数が増える。となると、声の大きな人が優勢となり、ついには一部の人々の好き勝手が通る場が出来上がる。流石に、そんな状況を続けていては駄目と思う良識の持ち主は、時期を選んで議論を持ちかけるが、慣れぬ人の反応は熱狂というか、場合によっては狂気を思わせるものとなる。それでも何とか軌道に乗ったところは良いのだろうが、失敗したところはどうにもならない混乱状態を続けるしかない。そんな様子が色々なところから伝わってくると、何処に問題があるのかと考えてしまう。一つには以前から言われているように話し合いを苦手とすることが原因だが、それだけでないような気もする。ディベートの基本を考えてみると、賛否両論のある中で、自分に有利なほうに導く論理展開が求められている。つまり、両論を良く理解したうえで、それぞれのもつ良いところ、悪いところを炙り出し、その上に戦略を編んでいくことが必要となるのだ。そう考えてみると、あまりにも多くの場で、両面からの分析がなされていないことに気づく。自分の主張を通すために、それだけに力を入れ、対比といった手法を採らないことが多いからだ。はじめのうち、それらを巧みに扱ったとしても、熱が入ってきた途端に、冷静な判断が失われ、結果的に叫びにも似た演説を繰り返す人がいる。真剣に議論するというのは、考えることに集中することであり、喚きあいをすることではない。その辺りを誤解している人が多いのかも知れない。そう思うと、事前の分析において、多方面からの見解を調査し、その中から一つの考えを導くといった流れをもつ人はほとんどいない。実際には、考えが先に立ち、それを補強するための調査、分析が準備されるわけだから、このやり方は少し違っているのだが、現実には、一つの考えを一つの見解で論じることが多いわけだから、明らかにどこかがずれているように思う。議論好きな人々にとって、こういう見方は大変重要であり、それを身につけているかどうかが肝心なのだ。その意味でのディベートは役立つものだろうが、口先三寸のみに走るのでは逆効果になってしまうだろう。

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7月19日(水)−避難

 前線の北上に伴って、凄まじい蒸し暑さに襲われた地域も少なくなかった。そのまま明けてしまうのかと思われた梅雨は、しかし、前線の南下とともに戻ってきた。ただ戻っただけでなく、以前よりも勢いを増した雨降らしの雲は各地に豪雨を運んでいる。梅雨明け間近に特有の局地的豪雨ではなく、かなり広域に渡るものだから、被害も大きくなりそうだ。
 珍しく洪水警報が発令された河川は、いつもの三倍ほどに川幅が膨れ上がっており、不気味な雰囲気が漂う。平生でも流れには勢いがあり、川遊びには向かないところだが、この時期そんなことを試みる人もいないだろう。河原に生えている木々は半分以上水に浸かり、空気の流れよりも遥かに強い水の流れに耐えている感じだ。下流の河川敷に設けられた駐車場はどんな状態なのだろうかと、少し心配になる。朝のニュースでは全国各地の被害状況が次々に伝えられる。数日前に車で通った地域でも、川が氾濫して家が流されたとあり、高速道路も通行止めになっているようだ。崖崩れや川の氾濫に巻き込まれそうな地域に住んでいる人々にとって、自分の身を自分で守ることは当然のことなのだろうが、その一方で自治体などが発令する避難に関する情報は態度を決める際に重要な要素の一つになるだろう。その割に、伝えられるその呼称には今一つ迫力というか、強制力が感じられない。避難準備勧告、避難勧告、避難指示、という順に、事態は切迫していくそうだが、命令という言葉が無いことを気にする人もいるだろう。命令には強制的な意味が込められていて、自己判断の余地が無いことは明らかに見える。それに対して、指示という言葉にはそこまでの力はなく、嫌な人は無視しても良いと思える。自治体が出している説明によると、昔は避難命令となっていたものを今は避難指示としているように思えるが、その経緯ははっきりしない。いずれにしても、自己責任という言葉がここにまで登場しそうな雰囲気で、いい加減にして欲しいという気持ちになる。現実には、住民の心理として、指示待ちの姿勢が強く、とにかく情報集めに躍起になる人が多い。津波の怖れがある時でも、自分で判断するよりニュースで確認といった傾向があるらしく、一分一秒を争う事態では対応しきれない心理体制ができているように見える。その辺りの事情が飲み込めたせいか、特に崖崩れなどの危険性を察知するための知恵が紹介されるようになり、自らの判断を優先させるように促す動きが盛んになった。それでも、一部の災害からは逃れることができないのだろう。逆に、たとえ何度予想が外れても、次こそはと思う気持ちが大切なのではないか。他人任せに慣れてしまった心を動かすのは容易ではないが、自分の命を守るためというくらい大袈裟に構えたほうが良さそうだ。

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7月18日(火)−惑乱

 相手の手の内を読むとか、心を読むとか、そんなことができたら良いと思う人は多いだろう。先を行くとか、裏をかくとか、そんな表現も同じ考えから来ているようだ。とにかく、人間の考えることは単純ではなく、自分自身の行動も予測できないのに、他人のことでは当然無理と考えたくなる。これに対する反論はあると思うが、実行できる人はいるのだろうか。
 心理学という学問分野があり、心の動きを解き明かそうとするものと思われている。しかし、実際に話を聴いてみると、行動を起こしたときの心の動きについての解説や、何かとんでもない行動を起こす際の心理の話が多く、実際に、相手の心の動きを予測するより、起きたことの説明に費やされているように思える。その点、経済学とは似たところが多く、科学的な分析を用いる割に、文系の学部に属している点も、そっくりに思える。更に、これらの二つが融合してできた分野があるようで、そこから様々な分析が出されているようだが、やはりどうにも後付の解説に見えてしまうことの方が多い。但し、最近はそういった傾向を心理的な視点から分析した結果を、新しいことに当てはめようとする試みがなされているようで。ある出来事が起こりそうな状況になったとき、そこでの関係者の心理を予測したように振る舞って、経過を予言する人々がいるようだ。厳密な分析にかけられたときには、どうにもいい加減なやり方が暴露されてしまうのだろうが、そういう目に遭わないように工夫している人たちは、巧くすり抜けて、的中率を向上させているように見せる。冷静に考えれば、心理的なものはかなり一過性の動きが大きく、一時的には的中しても、長期的にはあてにならないものが多い。心の動きが特に目立つのは、焦りとか後悔とかが出てきたときであり、それが勢いを増すことによって、取り返しのつかないところに向かってしまうことも多い。経済状況が改善されているにも関わらず、株式市場が停滞気味なのは、色々な要素が重なったせいもあるのだろうが、毎度のことながら聞こえてくるのは投資家心理のことだ。確かに、ああでもないこうでもないと考えることや、よからぬ噂に振り回されることは、心の動きによるものだし、その結果として、ある方向への動きが誘い出されたのであれば、仕方のないことのように思える。しかし、短期的にはそういった動きがあったとしても、長期ではそんな雰囲気は微塵もない、ということも多いのである。この違いが何処から来ているのか、分析はなされているが、解決の絶対的な手段は見つかっていないようだ。とにかく、不特定多数の人々が関わる場では、それが当り前の現象であるとして、巧みに利用する方法を考えたり、上手く無視する手立てを講じる必要があるのだろう。

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7月17日(月)−休日

 休暇の過ごし方は人それぞれだろう。とにかく、休むことが大切と、何処にも出かけずゴロゴロする人もいれば、せっかくの休みだから、何処かへ出かけたいと思う人もいる。体を休めることと、精神を休めることは、同じではないから、こういう違いが出てくるのだろうか。普段経験できないことをするのが一番の休養というのもその所為だろう。
 思惑は思惑として、そのつもりも無いのに、無駄なことをさせられるのは、連休のような全国誰にとっても同じような休日が続くときだろう。特別な思惑のある人であれば、誰とも会わず、自分の調子だけで時間を費やすことができるが、何処かで宣伝されていたものに引き寄せられる人々は、まさに混雑した中に突っ込むことになる。それでも構わず、その場所を楽しむことのできる人がいる一方で、楽しみしか目に入らず、同じ思いの人が集まることには想定外であるとする人もいる。どちらにしても、楽しみは楽しみなのだからと言える人はいいのだが、やはりせっかくの休日くらい精神的にだけでなく、肉体的にも休みたいと思っていた人には、この状況は必ずしも良いとは言えないだろう。遊園地や動物園等の行楽地に出かけた人々は、動くことを目的としているわけではないから、あまりにも長い距離を歩かされたり、炎天下で行列に加わるのは、なるべく避けたいところだ。一方、山歩きを目的としている人々は、元々歩くことが主目的だろうから、動くのは当たり前のことだ。しかし、これもまた、あまりに大勢の人が集まり始めると、思うように歩けなくなることもある。どちらにしても、多くの人が集まるところに行くのは、あまり良いことではないように思える。でも、何故だか、あんなに多くの人が何処からともなく集まってくる。道路や電車の混雑も大きな要素の一つだろうし、とにかく様々な障害がある。にもかかわらず、皆こぞって出かけるわけだから、不思議なものだ。この国独特のものと扱う人もいるが、隣の国々でもある次期民族大移動になっているし、欧米でもそんな様子が伝えられることがある。とにかく、皆で休もうと言い始めた頃から、こんなことになってしまったのだろう。そんな所まで横並びにしなくてもいいと思いつつ、出かけている人が沢山いるようだが。

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