パンチの独り言

(2006年7月24日〜7月30日)
(陳謝、世智、熱波、心力、筋違い、卑見、薄明)



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7月30日(日)−薄明

 長梅雨は中々明けず、しかし、きっちり蒸し暑さは戻ってきて、どうなっているのかと思う。気象の情報を管轄する役所が宣言するかしないかによって、何が変わるわけでもないのに気にしているのは、如何にも情報氾濫時代の現れかもしれない。どちらにしても、自分の体が何を感じているかが大事で、数字に表れたものに左右される必要はないわけだ。
 とはいえ、宣言がないとどうも言い出しにくいのは仕方のないところだろうか。夏本番と言って、何処かから反論が戻ってきそうな雰囲気もある。人間どもの考えることはどうでもいいと思っているかどうか判らないが、動物たちはそれぞれ自分たちの判断で動いているようだ。夏といえば蝉となるが、地方によってその分布はかなり違っていて、温暖化が進んだ証拠として取り上げられる種類もあるが、それでも一部を除けば昔から同じ種類が鳴いている。先駆けはニイニイゼミと決まっていたが、これは随分少なくなったようだ。次にミンミンゼミが鳴く地方もあれば、アブラゼミが現れるところもある。今、丁度そんな時期にあるのではないだろうか。クマゼミはまだ姿を現していないようだが、南方系だからそちらの方に行けばうるさく鳴いているのかもしれない。街路灯が増えてしまったせいもあって、朝、昼どころか、夜まで鳴くものが現れてしまい、ちょっとした騒音になりかねない。大合唱が聞こえ始めるのはもうすぐだろうが、そんな中で特徴的なものがいる。ヒグラシと聞いても、南の方の人々には馴染がないかも知れないが、カナカナカナと鳴く、あれである。真ん中辺りでは山に行けば声を聞くことが出来るが、ほとんど夕方、少し涼しくなりかけてから鳴き始める。そんな様子を見ていて気がつくべきだったのだろうが、一日の間で、もう一度鳴く時間があることにこの間気づいた。早朝、まだ日が昇る前にふと目を覚ましたら、遠くでカナカナカナとやっていたのである。夜でもなく、昼でもなく、薄暗い時間に鳴くのが習性なのだろう。日の出とともに、その声は聞こえなくなった。そういえば、この声は街路灯の近くで聞こえたことはない。光の強さに反応しているのではなく、やはり時間そのものに対して反応しているようだ。朝早く起きる人ならば、すぐに気がつくことだが、夏場、東の空に太陽がぎらぎら輝いているころに目覚める人間にとっては、気がつきようもないことだった。始めは、おやっと思っただけだが、頭が回転するようになってふとそんなことが浮かんだ。長雨だろうが、冷夏だろうが、猛暑だろうが、虫達にとっては関係ないのかもしれない。

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7月29日(土)−卑見

 毎日、パソコンに向かってああでもないこうでもないと、無い知恵を絞りだしているが、それでもやってはいけないことについては理解しているつもりだ。先日も、スポーツの祭典についての報道で、現地の新聞からの剽窃という情けない話があったが、記者だろうが、有識者だろうが、そんなことをする人間にはプロとしての自覚が無いと言われる。
 しかし、毎日、拙い文章を書いている人間からみると、こういった批判は的外れとしか思えない。書くことを職業とする人間だから、人の文章を借りてはいけないのではなく、人間として恥ずべき行為をしているのだ。何か他人のものを盗む行為は、それが何であれ罰せられるのに、こういうときだけ、それを特別扱いにするのは、批判をする人間がそういった職業を特殊に扱いたい気持ちの現れなのではないだろうか。著作権は、個人的な使用に対しては例外を設けているが、不特定多数を相手にしたものやそこから利益を得るためのものの場合は、総じて厳しく規定されている。以前は、活字にしたり、電波に乗せたりするために特別な立場が必要だったが、最近は、そんなものは必要でなく、ただ自分の好き勝手に考えや情報を発信できる。上手く事が運べば、書籍という形で世に名を売ることも出来るわけで、随分と事情が変わったものである。同じように、こういった環境は一般の人々にとっても情報を手に入れるための有用な手段を提供しており、そういった恩恵に浴している人もいる。しかし、これらが二つ繋がると話は権利やら盗用やらの話に展開してしまう。自分の意見を書くことに必死になる人はそれはそれでたとえ内容が拙くても、問題を起こすわけではない。確かに、議論の過程で個人の権利を侵害するなどといったことをすれば話は違ってくるが、兎に角妥当な範囲内では何も問題とはならない。それに対して、人の意見をちょいと拝借してくる人や何処かにあった資料を丸写しにする人は、大きな問題を抱えていると言わざるを得ない。ある程度の引用は、それを明記しておけば許されると規定されているが、大体において、そんなことをする人々の多くは、まるで自分の意見、考え、知識のようにそれらを扱うから、そんな添え書きなどするはずはない。でも、これは立派な剽窃、盗用なのである。本人は、ネット上での個人的な使用と解釈しようとするが、現実には誰にでも読めるものであるから、その解釈は成り立たないわけだ。この間も、ちょっと覗いたサイトでそんな文章に出くわした。ネット上の辞書としてかなり名の通ったところにある単語の説明をほぼそのまま自分の意見として掲載していた。個人の責任として色々と書いている文章だから、結局個人が責任をとるしかない。こういうことが読み手にばれれば、それだけで信用を無くし、折角の読者を失うことになるのだ。そんなことを気にする人間はこんなことをしないと思うかもしれないが、たぶん全く逆の心理が働いていると思う。さもしい人間とはそんなものだろう。

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7月28日(金)−筋違い

 二度あることは三度ある。流石に、これは死語にはなっていないだろう。偶然の重なりを指したものに思えるが、実際には偶然が重なることは少ないから、重ねて起きたことは単なる偶然ではなく、何かの要因から起きる必然ということだ。人為的なものについては、偶然はほとんどなく、どこかに潜んでいる原因によって起きるわけで、注意せよということだ。
 まだ、一度きりしか起きていない。だから、心配する必要はなく、次は万全の態勢で臨むから問題ない、という主張が聞こえてきそうな時期である。そんなにしてまで、何処かの丼が食べたいのか、と思う向きもあるだろうが、好きな人間にとっては忘れられない味なのだろう。前回の再開では、事前に動きが伝えられず、訝る人もいたようだが、今回は再開時期を公表している。何だかおかしな具合に見えるが、業界の他の店や小売りの大手が総じて様子見を決め込んでいることからすると、これまた何かしらの思惑を感じる。ただ、前回のお粗末さからして、今回も期待薄と見る数は多く、全体としては低調な中での再開宣言となっている。この流れの中でも、政府はおかしな行動を示しており、決定後に国民に理解を求める集会を開くという。苦渋の決断として再開が始まるのだから、その気持ちを理解して欲しい、というのなら判らなくもないが、単に説明に走るだけのことで、理解されようが何でも構わないという姿勢は見え見えである。相変わらずの上からのものの見方だと思うが、変えようもないのだろう。一方、海の向こうでも、場の雰囲気を読まずに相変わらずの強気の弁を繰り返す人々がいるようだ。誰にも保証が出来ないものがあると、如何にも「科学的な」意見を出し、不安を煽る政府高官がいると思えば、国際基準を守るべきと、筋論を展開する業界代表がいる。前者はその傲慢ぶりに付き合う必要もなく、保身に走る人間の末路と無視すればよいが、後者は頑固に同じ言葉を繰り返すだろうから、いつまでも無視するわけにもいかないだろう。しかし、再開に際して、ある同意をみて、それに従って組まれた検査体制が全く機能しなかったことが、海のこちら側の検査で暴露されたことが、今回の最大の関心事になっていることを棚に上げての筋論は、全く子供の駄々のようなものである。こういうとき、理屈が通るか通らないかに議論を向けてしまうと、相手の思うつぼであるからして、こちらに関しては、現状での筋論をお返しするのが肝要だろう。そして、二度目が起きないことが確認されてから、この体制の存続を決めるのが筋というものだ。と言っても、台所ではそんな怪しいものは必要とされないとなれば、また、別の話が降ってくるだろう。必死になった業界が、南の方からやって来る肉に細工をするなんて、とんでもないスパイ工作を仕掛けたら、それこそ本の一つでも書けそうなのだが。

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7月27日(木)−心力

 蝉の声が聞こえ始めた。愈々、本格的な夏の始まりである。しかし、空はと見上げると、どんよりと曇っている。この季節、梅雨が明けたかどうかで雲泥の差があるから、地方によって違うのだろうが、長梅雨はまだ居座るつもりらしい。季節の変わり目、予想外の展開が起こると、どうも体調を崩しやすくなる。さて、この夏は猛暑か、冷夏か、どっち。
 体の調子は、まるで機械のように手入れをしておけば大丈夫、といった感覚で論じられていた時代もあるが、最近はどうもそうではないらしい。気持ちの持ちよう、心の問題、単純に体調の話をするときでも、そんな話題が付け加えられるようになったし、大病を患った人に対して、心理的な効果を取り上げるようになったのは、何かしら、心と体の繋がりを意識させる要素が出てきたからなのだろう。体の仕組みでさえ、複雑怪奇であり、表面的なこと以外には中々明らかにならないのに、それよりも更に奥深くに潜んでいて、何が何だか解らない代物である心がそこに関わりを持つとなると、問題は解決不能にも見えてくる。しかし、それ自体を理解できるかどうかに関係なく、目の前に山積している問題を解決する糸口が見つかるのであれば、真実を見極めることよりも、効果を上げることの方が優先されてもいいのだろう。そんな成り行きからだろうか、医療に携わる人々が単に医療行為にのみ力を注ぐのではなく、それに加えて、環境を整えることに様々な試みをするようになっているようだ。有名画家の絵を掲げておくことは、自らの絵画に対する知識の豊かさを主張するためということではなく、患者がその絵を眺めたときの心の動きが、健康を回復するために重要な要素となる、といった考えもあるようだ。確かに、病院の、特に入院施設はそこにいる人々が病を患っているという特殊事情もあって、殺伐とした雰囲気を作り出してしまう場合が多い。その中で、何かしら明るさを導き出すことが出来れば、単に雰囲気の問題だけでなく、人の気持ちにも変化を生じることが期待できる。そんなことからか、病院内の壁に様々な絵画が掲げられることが多くなった。有名画家や地元の画家達の絵を飾るところもあれば、何処の誰が描いたのかさっぱりわからない抽象的な絵を飾るところもある。後者の中には、心理的な作用から選ばれたものもあるようで、明るい配色が明るい雰囲気と心の落ち着きを引き出す作用があると考えられているようだ。ある時代の研究者達は、生き物を機械と見做して、そこにある仕組みを見つけようと努力した。その後、生き物の複雑さが単純に仕組みの複雑さからだけでない、何か別の要素がある気配が意識されるようになり、別の考え方が現れ始めた。まだ、その実体は攫めていないようだが、設計通りに動く機械とは違った何かがあることは確かなようだ。

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7月26日(水)−熱波

 情報収集能力の高さが問題になる時代である。しかし、高ければ良いというわけではなく、その使い方を誤れば、御用となる。誰もが手に入れられる情報をいち早く手に入れる、それが大切だと言われるが、実際には、時間的なずれがあまりにも大きければ、それはそれで違法行為と見なされる。中々難しいところだと思うが、法律上の規定である。
 誰もが手に入れられる情報は、今や世の中に氾濫している。正しいものがある半面、間違ったものも多く、それに躍らされれば、大きな痛手を負うこともある。何人もの目を通して発表されるものでも、時には間違いがあるのに、一人の人間が書いた記事では、間違いである可能性はかなり高い。インターネットで流れている記事の多くは、そんな状況にあり、大した検査も行われずに、多くの人の目に触れることとなる。だから、と言ってしまうと言い過ぎになるかもしれないが、ネット上の情報については、疑いの目を向けつつ接する必要があるのではないだろうか。特に、あまりにも予想外のものだった場合、つい疑ってしまうのが常なのだが、この間の記事についてはいまだに信じられない気持ちだ。海の向こうの異常気象に関する報道だったが、史上最高の電力消費量を伝えるものとともに、異常な高温が伝えられ、死人も沢山出ているようだ。しかし、国内では経験したことのない温度について、果たしてどの程度のものなのか、想像できないところが辛い。温度の単位が違っているから、ひょっとして計算間違いなのでは、といった疑いがまず頭に浮かぶほど、異常な温度、48℃だそうだ。一体全体、何が起きたのかと思えるが、こちらの豪雨の異常さも、おそらく世界的には驚きの対象となっているに違いない。これでまた、異常さを表に出した一種の宣伝が世の中に流布されるのだろうが、今度はどんなものが現れるのか。奇想天外という表現がピタリと当てはまるものが出てきそうで、歓迎はしないが、楽しみも少しはある。果たして、この異常さが何を原因としたものなのか、誰かが説明してくれるのか、はたまた、単なる変動の一種と結論づけられるのか、さっぱりわからないが、いずれにしても、一部の地方でとんでもない被害が出ているのは確かなようだ。こんなことを書きながら、しかし、いまだに信じられない身としては、さて、確かめる術は何処にあるのかと、改めて考えることになる。情報源が一つだけでは何とも心もとないから、ネット上のものだけでなく、活字になったもの、電波に乗せられたものと、確かめるわけだが、これとて実際には大した情報の流れがあるわけではない。そんな形の疑いを抱き始めると、今の時代もやはり情報氾濫とはいえ、本当に信用できるものは何かを見極めることは難しいようだ。

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7月25日(火)−世智

 兎に角、世智辛い世の中になったものだ。これを読んで、はてと思う人がどれ位いるだろう。そんな時代ではない、という意味ではなく、「世智辛い」って何、と思う人のことだ。辞書によれば、暮らしにくいという意味で、ここもその用法だが、もう一つ、ずるくて抜け目がないという意味もあるそうだ。微妙なずれに戸惑うが、まさに微妙なのだろう。
 時折登場させるが、死語とも思える言葉には色々複雑な意味が込められている。その複雑さゆえに、相手に真意を伝えられず、相手の真意を汲み取れず、そんなすれ違いを避けようと、使うのを避けた結果なのだろう。何でも西洋化するのが良いと思っている人たちには、伝達手段としての言語も簡単、確実なものが良いと思えるらしく、その勢いは留まるところを知らない。しかし、一方でそこに込められた意味の汲み取り方が、人それぞれ独自に持つ背景によって異なってくるのは、多様性を保つために重要なことに思える。それはそれとして、世の中は言語の話同様に効率第一となり、何とも暮らしにくくなっているように見える。金を持った奴の勝ち、成功者の礼賛、そんな話題が出るたびに、どこか釦の掛け違いに思えるものが氾濫することに違和感を覚える。効率と考えられないものは何かの形で切り捨てられるから、そうならないような言い訳を考える。そこにも無理があるものは、何かしら別の指標を当てはめようとするが、効率第一主義の人々にはまるで聞こえないものとなる。そんなものが実際には世の中に溢れていて、それが実際には人を動かす原動力になっていたとしても、数値で表現できなければそれでおしまい。あっという間に切り捨てられてしまうわけだ。人づきあいはその一つで、大切さを認識しながらも効率化の波に流されてしまった。転機が訪れたのは、それこそ、人間関係そのものが様々な事件の背景にあることが指摘されたからで、その後は一見安泰に見える。ただ、数値にしなけりゃならない付き合いとは何だろうと傾げられた首は元に戻っていない。もう一つ、この波に巻き込まれているのが教育なのではないだろうか。大学のかなりの数が定員割れという報道には、様々な意味が込められていたのだろうが、企業の教育進出の解禁からすると、効率化の波が色々な形で押し寄せそうに思える。その一方で、この報道に、赤字企業は倒産するのに、何故学校はと思う向きもあるだろう。そこがまた、責め所になりそうで、嫌な感じがする。昔から、教育に力を入れる地方の話題があったと思うが、その理由は明確だった。しかし、今、果たして教育とは何を目的としたものか、答えられる人がどの位いるだろう。まさか、紙切れ一つのためと断言する人は、これを読む人の中にはいないと思うけれども。

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7月24日(月)−陳謝

 画面に頭を下げる人の姿が映し出される。もう日常的になってしまったが、とにかくカメラの前で頭を下げることが重要なことらしい。それを映し出して、更に畳みかけるように批判的な言葉が継がれることもある。何だか儀式の一種のように見えて、画面のこちら側で冷めている人がいる一方、別の場所では被害者と思しき人が悄然としている。
 こんな流れが定着したのだろうか、しばらく収まったと思ったら、また誰かの頭が下がっている。しかし、それで批判の矛先は緩むことなく、更に勢いを増していくのが印象的だ。謝罪という行為が何の効果も示さず、ただの演技のように見え始めたのは、いつ頃からだろうか。この国の文化特有のもののようで、郷に入れば郷に従えとばかり、外国人の重役達も揃って頭を下げる。あんなことをしても何も変わらないはずと思えるが、国によっては謝罪の方法によって経過が変わるから、あそこまでするのを見たことはないように思う。ただ、どんなやり方をしても、被害者と言われる人々の怒りは収まる気配を見せない。一時的な興奮状態にあることも理由の一つなのだろうが、カメラの前でなく個人的にやって欲しいという感覚があるのだろう。芝居を見に来たわけでなく、誠意の有無を確認したいのだろうから。こんな場面を見飽きた人間にとって、先日の野球チームの解散に関する報道は、全く違ったものに映ったようだ。構成員の不祥事を受けて、影響の大きさを考えての決意とのことだったが、その後の反響の大きさは予想外のものだったらしい。結果として、存続を望む声が大きくなり、批判の声はほとんど上がらなくなった。責任者が誠意を見せたというところもあるのだろうが、どうもそれだけではないように思えるところもある。予想外という分析も、ある人々にとってはその通りだったのだろうが、一部の人には思惑通りと映ったのではないだろうか。結成の頃から、その立ち回りの巧みさに感心しきりの声が上がっていたが、今回の処し方にもそんなところが現れているように見える。人を騙そうとしてやっているのではないにしても、こんな展開を予想した人がいたとしたら、やはりそこには思惑なるものがあったと言うべきだろう。大衆の心をつかみ、人気を集めた人間には、ごく自然にどういう対処が適切かがわかるのかもしれない。心の底から思っていることをぶつけているだけなのだろうが、自分の責任を意識することなく頭を下げている人間の行状に慣れた人々には、全く違った印象を与えたのだろう。今回の流れは、特にそういった大衆の心理の変化を感じるには適したものだと言える。でも、それを自分たちの不祥事の際に使ってみようと思う人が出るかどうかはわからない。

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