自由と勝手が混同される時代である。と書き始め、そろそろ佳境に達したころ、パソコンが固まってしまった。何とも情けなくなる瞬間である。人それぞれだろうが、同じ文章を何度でも書ける人がいたら、ぜひその極意を授かりたいものである。兎に角、二度と同じことは書けない。同じ台詞も言えないし、同じことも出来ない、そんな人間なのである。
と、何とも言い訳染みた始まりになってしまったが、今回は、自由と勝手の繋がりから、子供たちの行動の話に向かい、最近の食べ物や飲み物に対する考え方へと話を発展させていた。特に、昔と今を比較して、冷たいものが手に入らなかった時代の、夏の飲み物や食べ物に対する考え方に話を向けていったのだが、途中の漢字変換で何度も経験したことだが、何やら訳の判らぬ袋小路に追い込まれて、パソコンが動作を止めてしまった。いやはや、いつものことながら腹の立つ話で、何とかして欲しいと思うことが屡々だが、こちらからは何とも出来ない。普段の文書作成で同じ目に遭ったことはなく、おそらくブラウザと漢字変換ソフトの間の不仲が原因なのだろうが、こちらには選択の余地はない。腹を立てつつ、結局のところ、もう一度同じ考えに基づくけれど、まったく違う文章を書くことを強いられるわけだ。兎に角、夏の暑い盛りでも、昔は今のように冷たいものを手に入れることは出来なかった。だから、鰻を食べて精をつけようとか、熱いお茶を一服飲んですっきりさせるとか、兎に角体の感覚というより、心理的な作用を基にしたものが多かったように思う。それがいつの間にか、氷が簡単に手に入るようになり、冷たい飲み物が道端の自動販売機で簡単に買うことが出来るようになった。そうなると、大人たちが子供たちに冷たいものは体に悪いと注意しても、何の効果も及ぼさなくなる。身近な大人の行動より、何処かの偉そうに振る舞う大人の行動の方を、正しいと思う気持ちを持つ子供や大人が増え、更にそんな風潮に拍車がかかる。その上、夏に熱中症にかからないためには、こまめに水分を補給してと来れば、清涼飲料水をがぶがぶ飲むのも健康のためのように誤解される。あの中に含まれる、大量の糖分や様々なものが及ぼす悪影響を注意しようにも、反論が返ってきてしまう世の中なのだ。水分補給とは水分のことであり、ああいう飲み物のことではないし、何も冷やしてある必要もない。何でもかんでも冷やしてあればいいといった食べ物事情も、おかしな方向に向かっている気がするが、そんなことを言ったら、食べやすければいいじゃないかと言われそうだ。大人たちが経験を基に話していた事柄が、全て正しいとは思わないが、その中には確かに一理あるものはあった。それが今では一時の快楽を求めるあまりの話が多すぎて、なんともはやと思えることばかりである。暑いときこそ熱いものを、なんて、馬鹿にされそうな時代である。
自分の生まれ育った場所の風景を思い出してみる。車がまだ少なかったころには、舗装された道もほとんど無く、少し雨が降ると川のようになっていた。今とは違った形の洪水だが、他にも色々流れていて、遊びに出ようとするのを止められたこともある。下町ならば建物の雰囲気が変わったくらいで、道の走り具合は変わらない。でも、激変したところもある。
ちょっと郊外に出ていくと、昔は木が生い茂っていた丘や山が切り崩されて、住宅地が作られている。列島改造論からバブルがはじけるまで、次々に開発された分譲地にはよく似た家々が建ち並んでいる。開発当初に移り住んだ近所の友人を訪ねたとき、住宅地から見えた池とその向こうに広がる雑木林の丘は、しばらくすると禿げ山に変わり、様相が一変した。更に後になって、自分がその近くに住んでみると、その頃何処を眺めていたのかさえ思い出せなくなる。山の形さえ変えてしまうほどの開発であり、それだけの需要があったのだと思い知らされる。経済が停滞したとき、一時的に止まっていた勢いはまた再び盛り返し、開発の波が訪れている。但し、数十年前と違っているのは、その場所が郊外や地方ではなく、都会のど真ん中だということだろう。それまでほとんど変化がなかった風景が一変し、昔から住んでいる人々はその変わりように驚いているに違いない。風景の話だけで終らせれば、懐かしいとか、昔はよかったとか、そんなことになるのだが、この開発の波が招いたものを別の角度から捉えると、そんな気持ちは何処かに吹き飛ばされてしまう。雑木林が残り、交通の便が悪かった場所に、鉄道を通したり、道路を通すことによって、開発の波を引き寄せる。多くの鉄道会社が宅地開発にかかわる理由はここにあった。持ち家を望み、豊かな暮らしを手に入れようとしていた人々にとって、少しくらい遠くとも、終の住み処を持つことは重要で、収入が増える期待と相俟って、一気に人々が押し寄せることになった。そういう開発地が全てそうだとは言わないが、自然災害が起きるたびに報じられる地域の多くは、昔そんなところだったのではないだろうか。特に、洪水や崖崩れが起きた地域には、人間の手が入ったところが多く、以前のように災害を防ぐために手を入れるのではなく、手を入れたために災害を招いたと思えるところも少なくない。昔話を語る人々がいなくなり、その土地がどんなところだったかを知る古老もいなくなった。そんなところに開発の波が押し寄せ、近代的な住宅地が拓かれる。ひょっとしたら、そこが手付かずのまま残されていたのは、祟りやら迷信やらによるものなのではないかと、この頃の災害の報道を見て思ってしまうのは、あまりにも非科学的なのだろうか。それとも、経験に基づくものは科学で説明できなくても、意味のあるものなのだろうか。
色々な事件が起こると、神経が麻痺するというか、その重大さに気がつかなかったり、あとに起こったことに気を取られて、前の出来事を忘れてしまったりする。渦中の人々にとっては、矢面に立たされる時間の長さがそんな状況によって決まってしまうから、同じような事件やもっと重大なことが起きてくれないかと、願いたくもなるのではないだろうか。
こういった展開が当り前になったのはいつ頃からか、思い出すことも出来ないが、たぶん、新聞が情報源としての主たる役割を失い始めた頃なのではないだろうか。多面的に事件を捉えるためには、どうしてもかなりの情報量が必要となる。しかし、そんなことより速さの方が問題とされ始めた頃から、電波が媒体としての重要性を大きくし始めた。特に、音声のみに頼るものより画像で訴えかけるものの方が情報量も正確さも勝ると受け取られると、一気にその地位を固めてしまったようだ。しかし、速度だけでは不十分なところもあり、今一度多面性に戻るべきという判断があったのだろう。そんな役割を負う番組が各局で放送されるようになった。はじめは大人しく、冷静な分析がなされていたものの、所詮は客商売であり、注目を浴びるために騒々しく、極端な分析が持て囃されるようになってしまい、今の状態が確立されたように思う。こうなると、国の進路までも握っているような幻想を抱く人々がその権利をつかもうと躍起になり、注目を集めるための手段を選ばぬ行為が目立ってくる。そんな風潮の波にうまく乗って船出した政権もそろそろ終末を迎え、主人の傍若無人ぶりも常軌を逸していると思えるほどになっている。終わりの設定を自らすることは、如何にも潔しといった印象を与えたようだが、果たしてそれでよかったのだろうか。その後の展開を見るかぎり、身勝手な行動ばかりが報道されるようになり、まさに後先を考えていないのが明らかなように思える。この時期に何かの約束を取り付けてきても困る話だが、辞めるという潔さと、自分勝手と思えるほどの遊びの間を結びつけることは難しい。要は、どちらも勝手な行状と見做せば、事は単純になりそうな気もする。それにしても、あれもこれもと改革を繰り返し、後始末には目もくれず、先のことしか目に入らないのは、どういった心理から来るものなのだろう。ある意味、改革という事柄を除けば、他のことには無頓着であり、自分の趣味以外に気になることはないのだろう。もっと不思議に思えるのは、そういう人間に対する人気が衰えないことであり、役職のことより、人間性に感心する人間がいることだ。どちらもどちら、何とも平和な国である。
子供たちが悪さをしたとき、子供のやることだからと大目に見てやる人が多いだろう。しかし、一方ではじめに厳しく対応しないといけないという意見もある。ここだけを捉えて話をすると、どちらにしたら良いのか判らなくなるが、実際には、悪さの質とか中身によって使い分ける必要があるだろう。子供っぽければそれでよしと済ませば良いのかもしれない。
ところが、最近の悪戯を見ていると、子供だけでなく大人までもが非常識極まりないことをしている。子供だからと見て見ぬふりが出来ないほど、悪質であり、大きな被害を及ぼすものも目に付く。たとえば、神社仏閣に修学旅行で訪れた生徒たちが、柱に自分たちの名前を彫って帰ることは、文化財保護の観点から非常識であるだけでなく、自分の家の柱に同じことをしたらどうなるかを考えるだけで、十分に理解できる範囲のことだと思う。こんな程度のことでも、取り立てて注意をしないといけないのは、一体全体何処がどうなってしまったのかと思う。小さい頃鉄道のそばに住んでいた子供たちの多くは、線路の上に硬貨を置いて、列車に踏み潰させた経験を持っているだろう。紙幣や硬貨は、いかなる変造も許されていないから、こういう行為も法律上は禁じられているはずだが、まあ、そこは大目に見てもらっていたのではないか。それが高じて、というわけでもあるまいが、硬貨を石に換えて、どんなことが起きるのかを楽しみにする子供が出て、その大きさがある範囲を超えた途端に事故を招いてしまった事件があった。彼らは、単なる悪戯心からこんなことをしただけと、自分たちで思っていたのかもしれないが、世間はそう見てはくれない。同じような気持ちからか、高速道路の上を通る橋から通過車両に向けて石を投げつけて、事故を起こした事件が何度も報じられている。他人が困るのを見て愉快さを感じるといった悪戯も、度が過ぎた時点で立派な犯罪となるわけだ。結果がある程度予想できると仮定されてしまえば、未必の故意などという言葉が使われてしまうかもしれず、重罪とされることもありうる。悪戯という言葉は、もっと軽いものに当てはめられていたはずだが、最近は本人の気持ちだけを問題とし、結果の軽重を問わないことが多くなったような気がする。そうなってみると、価値判断の未熟さが重大な問題となり、子供だろうが、大人だろうが、あまりの酷さに呆れるばかりの人間が登場する。自分の気が晴れればそれで良いと思う心を、相手から押し付けられたらどんな気持ちがするのか、少し考えれば判る気がするが、そういった想像力はほとんど無いに等しいようだ。こうなってしまうと、やはり子供とはいえ、きちんと叱るべきという考えが筋の通ったものに思えてくるが、でも、その一方で、もう少しこの辺りも考えたほうがいいような気もする。何しろ、自分の気を晴らすために折檻を繰り返す親がいるわけだから。
どちらかといえば、真ん中にいることを好む国民性は、何処からやって来るのだろう。上にも下にも余裕を持っていれば安心、という気持ちが働いているからか、はたまた中庸という言葉に親しみを覚えるのか、何故だか判らないが、この位置を好むようだ。逆に見ると、自分がそこにいないという意識が何処かで働いているから、そう思いたいのかもしれない。
国全体が成長を続けていた時代には、何処に位置していようが、それなりの成長の波に乗ることが出来た。しかし、成長が止まり、いつの間にか後退しているような印象を持つようになると、話はがらりと変わる。勝ち負けを明確にすることが重要となり、中途半端はどういうわけか好まれなくなる。勝っていれば満足できるのはすぐに理解できるが、負けたことをはっきりさせて、何が得になるのかはすぐには理解できない。しかし、白黒はっきりさせるという立場からすれば、これを避けて通ることは出来ないわけだ。それにしても、中庸が好まれる時代から、両極端に向かう時代に変化して、何が大きく変わっただろうか。好みという見方からすれば変化は明らかだが、現実に生活の仕方や考え方に大きな変化があったようには思えない。確かに、どの位置に居るかで気分が大きく変わり、優位に立つことの重要性が強調されるようになったのは事実だが、それらが普段の生活に変化を及ぼしたかといえば、そうでもなさそうだ。結果のみを重視する傾向はかなり大きくなったようで、経過とか努力とかとは別に、結果の良し悪しを気にする人々は多くなった。面白いと思うのは、結果に一喜一憂するけれども、それを招くための方策への関心はほとんど無く、ただ漫然と結果が出るのを待つ人が増えたことだ。その割に、どんな結果が出たのかについては恐ろしくうるさいから、その格差にごく普通の人間は驚かされる。そんなに気にするなら、それなりの努力や工夫をすればいいのに、という考えは、彼らからすれば的外れな指摘であり、そういう無駄なことをせずに、如何に良い結果を手に入れられるかが問題となる。この話を読んで、そんな馬鹿なと思う人は、一時代前の人間なのかもしれない。いくら時代の流れがそうなっていたとしても、地道に努力する人間がいなくなったわけではないから、この考えは全ての若者に当てはまるわけではない。しかし、当てはまる人間の数は明らかに増加している。そんな中で、地道に努力する人は成功しようが失敗しようが、どちらにしても冷たい視線を送られる。生き方が下手くそだというわけだ。勝ち負けを重視するのに、その為の努力は軽蔑の対象となる。何とも不可思議な状況なのではないだろうか。懸命に生きる一部の人だけを見るようにすればいいのかもしれないが、これだけ多くの人々が易きに流れるようになると、流石に見て見ぬふりも出来ない。そろそろ、次の時代の変化が現れるのを期待すべきだろうか。
誰だって、楽な生活がしたい。でも、その為に先立つものは、と考えると、悩んでしまう人が多い。楽な生活は楽な仕事と繋がり、その中で沢山の収入を得ようとすると、それほど簡単ではないことが明らかだからだ。少ない収入でもそれなりの生活が送れれば、と思う人も多いが、たまには贅沢をしたいだろうし、兎に角楽な生活がしたいとなる。
一時ほど深刻ではなくなったとはいえ、失職の危険性がある中で、収入が徐々に減り、生活が厳しい状況にある。そんな中で、将来には期待が持てず、現状でさえ悪化の一途のように見えるのでは、何とも情けない気持ちになってくるだろう。自分が出来ることをまずしておいて、それから周囲に何かを求めるというやり方も、依存度だけが高くなった世の中では実行できそうにもない。援助に頼るばかりで、自分から何もしないといった図式が当り前に見えてしまう。しかし、実際には何をしたら良いのか、判っていない人の方が多いのではないか。そんな人々に、朝三暮四のような一時凌ぎの政策を投げ掛けては、場当たり的な人気取りをするようでは、政を行う人間として失格なのではないかと思える。選挙を控えた人々にとって、人気取りは最重要の項目だろう。それに負の効果を及ぼすものがあれば、なるべく脇に寄せておきたくなる気持ちも判らなくもない。しかし、現実に将来に歪みを残すようなことをするのは、そういう立場にある人間として恥ずべきことなのではないだろうか。確かに、役所には人が溢れ、無駄な工事が其処彼処で行われているが、たとえそれらを全て整理したとしても、収支の均衡は崩れたままである。ある程度ものを考える人々からは、税金を増やすならば、まず組織の整理を、という意見が聞かれるが、その必要性を思う人は多いのではないだろうか。しかし、増税を許すと、何が起こるかもすぐに判るから、ここでの交換条件は大切なものと考えられる。もう一つ、個人的に気になっているのは、増税が消費税に限られた形で議論されていることだ。皆、平等に負担することが重要だという主張から来ているらしいが、何をもって平等というのか理解できない。個人格差の拡大を問題視しておきながら、それを助長する仕組みを更に拡大させようとするのは何故か、ここにも選挙戦略が影響を及ぼしているのだろうか。収入の多少は個人の努力の結果であり、それを促すために過度の税負担は避けるべきという考え方は、いつ頃から始まったのか判らないが、社会的責任という考え方とは相容れない感じがする。様々な矛盾を抱えながら、即席芸のようなことを繰り返していくと、どんなことになるのか。既に、かなりの歪みが表に現れ始めているだけに、ここからの舵取りは容易ではないだろう。
あれもこれもとやることが溜まってくると、にっちもさっちも行かなくなる。右から左に流してやるのが一番簡単なのだが、その肝心の流れがどうも滞り始めている感じだ。そうなってくると、他のものにまで影響が及び始め、こちらの筆も進まなくなる。何か、と思って考えても上手くまとまらず、どうも焦点に集まりそうにもない。こういう日もあるか。
始めの頃は、色々な考えを書き留め、それを基にして書くようにしていたが、そのうち面倒になり始めた頃には、精々話題となる言葉を書き留める程度になった。あとで読んでも何のことやらさっぱり判らないものもあり、そうなれば当然のごとく没となる。それでも複数個を貯め込んでおけば、こういった事態にも何とかなったのだが、最近はそれさえもやらなくなった。同じような話題が何度も出て来るようになっているし、基本となるのは同じ姿勢なわけだから、そんなに大きな転換を図ることも出来ない。そうなれば、限界は近いと言うべきなのだろうが、まだその気にはなっていないから、何とか続けようと無い知恵を絞ることになる。それで出て来ればしめたもの、そこから始めればいいわけだから、何もなかったように振る舞えばいい。しかし、時にはちょっとやそっとでは思いつかないこともあり、たまにこういった言い訳じみた文章を書くことになる。それなら休んでしまえばいいのではないかと言われそうだが、なかなかそうも行かないもののようだ。何となく、ダラダラとでもいいから書き綴っておこうとしてしまう。そんなことに付き合わされるほうはたまったものではないのかもしれないが、まあそんなことを言わずに少しの間のお付き合い、まるで落語の枕のようなものだ。このところ、考えさせられることが沢山起きているが、どうもどれもこれも同じ根っこを持っているように見えて、何度も書く気が起きない。何故、人間はあんな考えをするのか、あんな行動をするのか、と分析してみても、結局のところ、自分とは違うところにいる人間のことなどは、どうでもいいのではないかと思えてくるわけだ。普段接している人間、付き合いのある人間、近くにいる人間、そういった人々に対しては、何らかの働きかけが重要となるが、そうでない人間に対して、少しくらい批判的な見方を披露しても、ほとんど効果がないように思う。その壁を乗り越えた人々が、ごく当り前のことまで本に記すようになったのは、それこそ危機的な状況が露になったからで、このまま放置してはいけないという思いがあるのだろう。しかし、世の中全体にみれば、諦めの境地ばかりが目立ってしまい、無駄な努力の意義など評価する人さえいない。はてさて、何処も彼処もそんなになってしまっては、どうにもならない。