パンチの独り言

(2006年8月7日〜8月13日)
(交代、体調、陽光、逆転、虚構、落雷、畜生)



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8月13日(日)−畜生

 暗い未来しか見えないとか、将来に不安があるとか、先々のことについての障害ばかりが指摘されているが、今この時を生きるにはあまり障害が感じられていないように見える。問題を抱えている人や苦しんでいる人にとっては、あまりに無責任に映るかもしれないが、定職に就かずのほほんとしていても何とかなってしまう時代なのだ。
 保証と呼ぶにはあまりにもつましい生活かもしれないが、なんだかんだと言いつつも、それなりに暮らしていける。その上、便利さを享受することが出来て、楽しみを簡単に手に入れられる。爛熟の時代と呼ばれるかもしれないが、将来のことさえ考えなければ、これほど気持ちに余裕のある時代はないのではないだろうか。だからこそ、ここから下り坂の可能性が指摘されるわけだが、まあ峠の頂上にいる人々はこれ以上贅沢を言わないほうが良いのかもしれない。楽しみといえば、今ここに書いている代物など、昔なら誰の目にも触れさせることの出来ないものだった。それがほんの少数とは言え、何人かに読んで貰えるわけで、以前とは状況が大きく変わった。その上、ブログなるものが作られるようになると、誰でも簡単に思いを吐露することが出来るわけだから、人によっては至上の喜びと感じているのかもしれない。一般には公開を原則としたものであり、不特定多数の読者を獲得することが出来る。その上、記事に対する意見を簡単に投げ掛けることも出来るから、一方的というより、双方向の情報交換と見做せる。しかし、その一方で数人の人だけを相手にする閉じた形のものも出てきて、単一の選択より、複数の選択が歓迎される時代ということがよく判る。ただ、そこには別の事情もあるようで、便利さと面白さを手に入れた人々の一部が抱えている問題があるようだ。一つは、公開性から来る弊害のようなもので、一部の愉快犯が中心となっているようだが、意見に対する痛烈で粘着性の批判を繰り返されるものがある。執拗な攻撃はたとえ謝罪などの対応をしたとしても止むことはなく、そのブログそのものが無くならないかぎり続くと聞く。議論の基本とされているとはいえ、気軽な気持ちで始めた人にとっては厳しい状況を迎えることになるのだろう。ただ、場合によっては本人と攻撃者の図式ではなく、擁護者が登場することもあり、状況が好転することもあるようだ。もう一つの問題はブログに限ったことではないが、違法性の強い広告の投稿が始まることである。こちらは、ネット上の犯罪取り締まりが追いついていないとされていることもあるし、管理が容易である仕組みから基本的に制限が緩いせいもあり、野放し状態にあるといわざるを得ない。これも一部の人にとっては辛いものらしく、反応を心待ちにしたのに、無関係で下品な代物が貼り付けられていくわけである。全体の仕組みがどうなっているのかは知らないが、楽しみを手に入れるためにはそのくらいのことは覚悟しなければ、といった意見もあるという。どちらが正しいというのではなく、道徳や倫理というものを知らない畜生以下の人々をどうするかが問題なのだろう。

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8月12日(土)−落雷

 竜巻、この間その撮影を試みた記録が放映されていた。命懸け、と表現された試みは、結局失敗に終っていたが、竜巻の力を実感させるものだった。それにしても、その力を表現するのに、通常の爆弾や原爆を引き合いに出すのは何故だろう。自然の驚異を実感させたいのか、はたまたあまりにも突拍子もない力に比較の仕様がないと言いたいのだろうか。
 海の向こうの内陸部で発生する竜巻の威力の凄まじさは、毎年のように伝えられる被害の甚大さから想像できる。しかし、何故家が巻き上げられるのか、どんな力が働いているのかを想像することは出来ない。こちらでもたまに竜巻の被害が伝えられるが、あちらに比べたら大したことはない。被害に遭った人たちから見れば、程度の違いは大きいとはいえ、被害は被害と言いたくなるだろうが。夏場、特に警戒されるのは、台風、豪雨などだろうが、被害が局所的なためにあまり大きく伝えられないものに、雷があるだろう。落雷で命を落とす人は毎年数人出るけれども、その場所だけのことだし、たまたまとしか言えないことも多い。だから、数日間は話題に上ることがあっても、そこまでの場合が多い。それも、被害を受けないための知恵を伝える目的が主であり、被害の甚大さを伝えることはほとんど無い。何しろ、死者が出ると言ってもほとんどの場合一人だけなのだ。知恵を授けるつもりがどの程度かは知らないが、個々の場合であまりにも状況が違うので、本当に役に立つかどうかは判らない。黒雲が出て、大雨が降りだした直後の落雷という場合もあれば、かんかん照りの真っ昼間に突然ピシャッと来たという場合もある。前者は、雨を避ける場所の選び方という知恵が、避けるために重要になるだろうが、後者は、避けようの無いものに思える。雷が恐れられるのはこういったところに理由があるのだろうか。それとは別に、雷を怖がる人も沢山いる。あの光の強さと、音の不気味さから来るのだろうが、一部の愛好家にとってはあれこそがたまらない魅力となっているようだ。遠くで光り、時間をおいて音が来る。伝わる速度の違いによるものだが、その感覚が徐々に短くなってくると、怖がる人はそわそわし、一方で喜ぶ人がいる。こういった流れになることが多いのだが、時には大きな雷雲に覆われてしまうこともあるようだ。こうなると、四方八方で光り、ゴロゴロとやって来る。距離の変化も何も、あっちこっちでピカッ、ゴロゴロピシャッ、てな具合になるから、かなわない。しばらく、自然の演出を楽しむしか方法が無い。一つだけ忘れてならないのは、そうなったらネットは諦め、電源を落としておくことだ。停電、落雷で、コンピュータが死んじゃうかもしれないから。

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8月11日(金)−虚構

 ドキュメンタリーという名のドラマや、ノンフィクションと銘打った創作を目にすることが多くなった。送り手の思惑がどうかを知る由もないが、決った時間内にめでたし的な話を終らせようとしたとき、そんな細工がなされたとしても仕方のないところか。あるいは、受け手の注目を集めるためには、少々の嘘は構わないといったところか。
 楽しければいい、もし嫌なら、見なければいい、という声が聞こえてきそうだが、そんな雰囲気に満ち溢れた番組が一杯ある。元々、真実を伝えるために映像を使うといった受け取られ方がしていたが、最近はレンズの後ろに何があるのか、気になるものが増えている。娯楽番組だから、真実かどうかは関係ないという主張もよく聞かれる。確かに、それがドラマとして演じられているのなら、それで構わないのだろうが、多くの場合はそれがあたかも事実だったように流される。そんなことで騙されるのは、騙されるほうが悪い、という主張もよく聞かれる。所詮は虚構の世界であって、何処にも事実はないとまで言い切る輩もいるくらいだ。しかし、本来の役目は何か、それを忘れてもらっては困る。今更こんなことを書くのは、ドキュメンタリーだろうが、ノンフィクションだろうが、娯楽番組として配信されるものについては、観る側にもそれなりの心構えがある。しかし、報道番組ではどうだろう。そこに流れているのは、事実に基づくものであり、嘘や脚色は入っていないと思うのではないだろうか。たとえ受け手がそう思っていたとしても、送り手が上に書いたような感覚をもって制作していたら、どんなことになるだろう。受け手が情報を得てから、そこに自分なりの解釈を採り入れて、思い込みを描くのは、一個人の問題に過ぎない。しかし、送り手が、自分なりの解釈を採り入れて、情報に手を加えるとしたら、さてどんなことになるのだろう。確かに、画像で流されるものには嘘が無いと言えるのかもしれないが、画面に入りきらなかったものについては、情報が皆無なのだから、作為をもって切り取られた情報を受け取ることになりかねない。その場にいれば、自分なりの視線でそれらを吟味することが出来るが、レンズを通してしまったら、その自由はなくなるわけだ。このことは、活字だろうが、音声だろうが、情報として流されるものになれば、同じことである。しかし、大きな違いはそれに対する感覚にあるのではないだろうか。画像は誤魔化せない、という思い込みに引きずられる人が沢山いる状態では、違いは大きく、明らかなのだ。それを利用して、様々な操作を繰り返し、思い通りの誘導を行う。それが有効かどうかは、報道番組ではなく、ドキュメンタリー番組でやってみればいいわけだ。有効性が明らかになったら、いざ本番。そこまで酷いことをしているかどうかは判らないが、このところの成り行きはそんなことさえ想像させるものになっている。

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8月10日(木)−逆転

 温暖化とか、資源の枯渇とか、そんな話題が出て来る度に、車を頻繁に利用する人間として、肩身の狭くなる思いをする。公共交通機関が使えるのならば、なるべく使いたいところだが、そういう場所に住んでいないとそうもいかず、結局、便利なほうに向かってしまう。それでも無理して人力で頑張るという人もいるのだろうが、そこまでする気はない。
 車を運転する人にとって、そういった思いとは別に、何となく生活しにくくなったと感じさせられることがある。燃料の値上げで、以前から話題にしているが、原油の高騰によるものとされている。経済の仕組みの中で、需要と供給の均衡がものの値段を決めると聞いたつもりだが、この流れはどうもそれとは別の思惑に操られているところがあるように思える。仕組みの中でも別の立場からすれば、何かに投資することで資金の運用を行う人々にとっては、それによって利益を上げることが命題であり、その為に一部の人々が不利益を被ったとしてもやむを得ないという考え方だ。現実には、一部の人々の利益の為に、大多数の人が被害を受けるという図式になっているが、兎に角そんな流れの結果として、今の状況が生まれたのだろう。デフレの流れに乗って値下がりが続いていた燃料価格も、このところ徐々に値を戻しており、それに更なる拍車がかかった形になり、最高値を更新するまでになっているという。原油価格が高騰しているのだから当り前とする考え方もあるが、どの程度こういったものが反映されるのか、一消費者には理解しがたいところがある。ただ、ガソリンの価格にはかなり多くの税金が含まれているから、これは税収を増やすことに繋がり、政府関係者にとっては歓迎すべきものかもしれない。いつの間にかそんなことまで手伝わされているわけで、何だか腑に落ちないところもあるが、明らかな増税よりは気分的に楽なのかもしれない。そんな中で、それまでの状況が一変したところがある。高速道路を使う人々は沢山いるが、余程の長距離を走らないかぎり、途中で燃料補給をする人はいない。何故なら、一般の道路にあるスタンドに比べて一割ほど高いからで、同じ油をわざわざ高い価格で買うことはないと思うからだ。ただ、何故高いのかについては説明されたことがないから誰も気がつかないだろう。どうも、全体として価格の上限を設定しているようで、ほとんどのところが上限にするからそうなるわけだ。ところが、このところの急激な高騰に対して、対応が追いつかなくなったようで、今回の値上げで逆転現象が生じた。当り前のことながら、宣伝はしていないから、気づかぬ人が多いのだろうが、以前よりは客の数は増しているようだ。一時的な現象とはいえ、こんなことも起きるわけで、まさかもっと車を使えというわけじゃないだろうが。

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8月9日(水)−陽光

 梅雨が長引くと水害にばかり話題が集中するが、もう一つ忘れてはならないことがある。農作物への被害、それも今話題になっている野菜や果物ではなく、もう少しあとになってから話題になるものへの影響である。恵みの雨と少雨の年には言われるが、それと同じように恵みの太陽とでも言うべきだろうか、日照時間がそろそろ話題に上りそうだ。
 作物によっては、実を付けてからの日照が重要とされるようだが、この国の代表的な穀物にとっては、その前に太陽の光が必要となるらしい。田植えの時期は地方によって様々だから、まだまだ背丈が伸びていない田圃も多いだろうが、特に、北の地方では田植えも早く、その為稲の背丈もだいぶ伸びているようだ。青々と茂った田圃に日の光が差し、きらきらと輝く葉が風になびいているのは、田舎の風景といった感じだが、年によってはこんな雰囲気のでないときもある。日照時間が短くなるだけでなく、気温も低いままで、葉の色も冴えない状態にある時、その年の収穫はあまり期待できない。夏場の日照によって花の付き方が変わるだけでなく、病害虫の被害の程度も大きく変わるからだ。品種改良によって適応性のいいものを選び出しているとはいえ、結局は元来南方の植物だから気温や日照の影響は大きい。今年は長雨である時期厳しい状態にあったのかもしれないが、それでもそろそろ背丈が伸びてきて花をつけ始めようとする時期に、太陽が戻ってきてくれたことは大きいだろう。気温も例年以上に高くなっているようだから、今のところいい方向に向かっているのではないだろうか。それに比べると南の方はあまり芳しくないのかもしれない。長雨の影響も大きく、早く収穫しようとしていたものについてはどんな状況にあるのか心配なところだ。それに比べると少し遅めに植えて、収穫も秋が深まってからといったところは、そこまで大きな影響を受けないかもしれない。いずれにしても、秋を迎えたこれからの日照時間や気温が大切になるのだろう。異常気象と言われているものの、それなりの天候は維持されていて、ある程度予想通りの収穫量が得られる。主食として重要な穀物だけに、異常があれば、経済的な影響だけでなく、心理的な影響も大きいようだ。これからの天候に左右されるだろうが、今までのところは、まあ無難に過ぎたということだろうか。作況指数の発表はいつ頃だったか思い出せないが、雨の影響からしても地方ごとにかなり違ったものが出るように思える。こんなことを言っても、そんな主食は食べなくても大丈夫という人には、何も関係のないことだが。

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8月8日(火)−体調

 夏の盛り、色々なところから熱中症への対策が流れてくる。そういう話に触れるたびに首を傾げたくなるのは、はて、この症状、いつ頃から話題になり始めたのか、ということだ。病気の名前はその症状を言い表すために考え出されたものであり、名前がついていなかったからといってその症状が無かったとは言えない。そのせいかとも思うが、しかし。
 何十年も前には、この呼び名はなかった。その代わり、日射病という言葉が多く使われていたと記憶している。夏の陽射しの強い時期に、外に出ていると頭がくらくらしてくる、そんな症状だったろうか。酷くなると、血圧やら脈拍やらに変化が現れるということだったが、いつの間にか聞かなくなってしまった。その代わりとして登場したのが熱射病だったような気がする。この辺りは記憶がいい加減だが、熱に曝されてなるのと、太陽の光に曝されてなるのとの違いだったか、兎に角、日陰でいても体調を崩す人が沢山いて、そんな呼び名が使われるようになったと思う。その後だったか、熱中症なる言葉が出てきて、ある特定の病気を指すのではなく、ある特定の症状を指すために使われ始めたのだろう。その後は、専らこれに頼っているようだ。経緯は兎も角も、こういった症状が一般的だったかどうか、ちょっと考えたくらいでは断言できない。しかし、今ほど話題になっていたとも考えられず、あの頃日射病になってしまった人を日陰に運ぶといった注意がされていたくらいのことで、今の熱中症とは少し違っていたようにも思う。それに、今や家の中だろうが、何処だろうが、何処でもそういう症状を示す場合があるといわれるから、明らかな違いがあるように感じられる。となると、一体全体、この違いは何処から出てくるのだろうか。そんな疑問が出始めて、未だに結論は出ていない。温暖化に絡ませて気温の上昇が原因と言いたくなる人もいるだろうが、しかし、最高気温の記録はかなり昔のものだったりして、今最高気温が高くなっているように感じられるのは観測点の増加によるものにも思える。住環境の変化という点を指摘する向きもあるが、確かに冷房の無い家は珍しくなったとはいえ、これは逆に快適さを整えるほうに働きそうだから、違っているように思える。普段、怠けた生活をしているからたまに外に出たときに適応できないと考えられなくもないことだけれども。いずれにしても、環境の変化が大きな原因でないとすると、体の問題とするしかなくなる。しかし、そんなことがそう簡単に起こるとも思えず、この辺りで考えは頓挫するわけだ。水分補給の重要性を強調している話を聞くたびに、昔、そんなことがあったのかどうか、また、人それぞれにそんなことを身につけていたのかどうか、考えてみるのだが、これもまたはっきりとしない。そんなことを考えて、夜も眠れないというオチもあったが、熱帯夜でまた眠れない人が出そうだ。

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8月7日(月)−交代

 慣習に囚われない、斬新な手法、といった言葉が踊ることがある。何かを売り込むとき、それ自体にあまり特徴が無かったり、これといった売り言葉が思い浮かばないときに使われるようだ。慣習とか伝統といった言葉は、長年培ってきた信用という意味もあるが、その一方で古臭く、何かに縛られているといった印象も与えるから、こんな表現になる。
 深読みをしたら困るのだろうが、つまりは人に与える印象として、旧来の古い、けれども信頼できるものより、新規で将来性のある、けれども一抹の不安を抱かせるもののほうが、いいように思えるところがあるのではないだろうか。ちょっと試してみて駄目だったら、修正するなり、捨てるなりをすればよいという程度の軽い気持ちがあるのだろう。それに乗じて客を集め、次々に新手を繰り出して目先を誤魔化し、吸えるだけの汁を吸い取るといった商売も巷には溢れており、被害者が無くなることはない。人間の欲望が絶えることが無いのと同じように、それに乗じる行為も絶えることはないわけだ。はっきり言ってしまえば詐欺となるこういった商売をする人々は、目先を変える手法にかなりの能力を示し、一部とはいえそれなりの数の人々が騙される。しかし、そこには単純な嘘だけでなく、嘘でもいいから儲けたいと思う人の心がある。だから、簡単に騙される人がおり、一方で簡単に見破る人がいるのだろう。しかし、もう少し手が込んでくると、学者と思える人々が登場したり、有名人が登場することで、信用を得る手段が講じられる。人の信用とはそれほどまでに軽いものかと思えるが、こういった名前の価値のみで信じ込む人も世の中にはいるわけだ。社会的地位が高ければ、早々簡単には悪いことはしない、という思い込みも手伝って、こういったやり方で騙される人は更に多くなる。でも、最近の動向を見ていると、地位の高さが悪業の歯止めになるとは思えず、欲望の塊と化した人々には冷静な判断が無くなることを示しているようだ。儲け話には欲望が付き物だが、出世にも同じことが言えるようで、その為ならば何でもするという人もいる。その代わり、一度登り詰めてしまえばあとは思い通り、好き勝手なことをするわけだから手に負えない。本人の強欲さはその時点で明らかになるように思えるが、現実には登用する側から見たらそんなことは承知のことなのではないだろうか。欲と欲がうまく結びつき、それが結実した結果が現状だとすれば、本人の責任より、かえってその人を担ぎ上げた人々の罪の方が重いような気もする。企業にあるそんなことが、政治の世界にもあるようだが、こちらは選挙という仕組みのお陰で少しましな状態にあるようだ。次の人も同じようなものとは思いたくないけれども。

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