この国はやかましい、とよく言われる。昔は違う意味でのやかましさであり、他人の目を気にすることが重視されたが、最近はその正反対にある雰囲気で、喧騒の意味の喧しさであり、互いの存在を無視したかのような行動が見られる。電車内の喧騒に耐える代わりに、自分専用の音源を使って、そこから漏れ出る大音量に気づかぬのはその典型だろう。
初めての町を訪ねたとき、車内で流れる情報に助けられることも多い。事前に下調べをすれば済むことかもしれないが、それでも不安は残るわけで、目的地の名前が聞こえてくると安心する。そんな経験を持った人も多いのではないだろうか。しかし、その一方で、それらの交通機関を利用するのはほとんどが地元民であり、聞き飽きた車内放送は何の役にも立たないばかりか、騒音としか思えなくなる。その点が厳しく指摘されているのであり、この国の持つ悪習の一つとして伝えられることも多い。どちらの側に立つかであまりにも違う解釈は、これだけではないのだろうが、ある種典型的な例として伝えられる。必要最低限のもので十分という指摘があるのも事実であり、その判断が妥当と思われることも多い。でも、彼らの主張でも全てを無くせというわけではない。その一方で、車内での行動を見るかぎり、止めて欲しいことも多々あり、誰か運行する側が注意せよと思う人もいる。これとても、放送がその効果を発揮するならまだしも、ただ流れているだけに終わり、聞く耳持たぬ無法者が野放しになるのでは、やはり反対の声が上がるのも当然だ。こういう中で、マナーの問題を取り上げ、欧米との違いを指摘する声も聞かれるが、さてどんなものだろうか。ある日、百貨店の食堂街で食事をしたら、案の定待たされる羽目になり、その時別の客の行動に呆れてしまった。内容は兎も角、どうにも自己中心的な雰囲気があったが、食事を終えて帰るときには、彼らの席から着信音が店内に鳴り響き、当然のように席で会話を始めた。家族連れということは、子供の前での行動であり、それが見本ということなのだろう。これだけで、この国の人間はなっていないと結論づけるつもりはないが、その後の電車の中では、外国人達の傍若無人ぶりが目に付いた。最近の優先席の注意書きには面食らうところもあるが、その中で携帯電話と思しき機械から音楽が流れ始めた。注意書きは国際化という事情から英語で書かれてもいたが、まずは見えない様子である。こちらからの視線に気づいたらしく、途中でしまい込んでいたが、この一例だけでも欧米云々の話は消し飛びそうだ。たぶん、崇拝する人々からは、欧州は良いが、海の向こうは子供だからという声が返ってくるだろう。しかし、今のこの国は、その子供の真似をしているのではある。実際に見てみれば、欧州崇拝も怪しいものとわかることで、それぞれの国の成り立ちに見合ったものを見つけるべきなのだろう。
人の注意を引くことは、人を相手に商売をする人間にとって重要なことだ。広告はその代表格であり、全体の動向を見るうえで非常に重要な要素の一つである。垂れ流し同然の状態とはいえ、四六時中流されているものには、それをたまたま見るかも知れない人の心理を揺さぶる要素が含まれていて、何とか誘い出そうとしているに違いない。
広告そのものに分析がなされているかはわからないが、おそらく三十年ほど前の状況と大きく違っていることは想像に難くない。何処が違うのかを一言で言い表すのは難しいが、一つだけ言えそうなのは、他との違いを歴然とさせるものより、他とも同じであることを意識させるものが増えたことなのではないか。宣伝とは、違いを明確にさせ、そこに商品の価値を見出させることが主たる目的のはずなのだが、どうもその辺りの事情に変化があったように思う。比較宣伝は基本的に禁じられていたから、同じであることを謳ったうえで、価格の低さを強調する戦術はとれなかった。だから、商品価値は商品そのものの特徴にあるはずといった形の進め方が主体となっていたのだが、まずは他に無い特徴を次々に提出することの難しさが顕著になり、次に新しいものは喜ばれるが新奇なものは敬遠される風潮が出てきたことが、こういった進め方を投げ出した原因に挙げられるのではないだろうか。工業製品は需要があればこそ価値が出て来るわけだから、何とか購買者の気を引かねばならない。しかし、毎年毎年新製品を出そうにも、その為の新企画が出てこなければ何ともならない。ある程度成熟した社会ではこんなことが起きるのは当り前なのだろうが、現状はまさにそんなところにある。更に、商品の特徴より価格が重視されたから、大型テレビでさえ異常なほどの低価格での販売を余儀なくされている。この状況は以前では考えられなかったことであり、新しく珍しいものがそれだけで喜ばれることが無くなったという意味なのだろう。そういえば、最近の若者の旅行事情が新聞に取り上げられていたが、皆が行かないところより、皆が行くところの方が人気が高いとのこと。他人と話題を共有できることが最重要であるというのがその理由なのだそうだ。無難なものを手に入れ、大衆の話題に乗り遅れないようにする。これから先に様々な試みをしなければならないはずの人々が、そういう落ち着き先をまず考えるというのは何とも不思議な感覚である。そういえば、話についてこられない人を排除するという仲間意識が非常に強くあるとの指摘もあり、これも成熟し閉鎖的になった社会で生き抜くための知恵を身につけた結果というべきなのかもしれない。
問題が起きるたびに、何が悪かったのかが検討される。それを次の問題が起きるのを防ぐために使うと言われているが、さて、現状を見るとそうではないとしか思えない。兎に角、問題が起きたら原因を探るという手順がただ漫然と繰り返されているだけで、それ以外のことは起きない。今後のためにと協力した人には、何とも虚しい思いが残るだけだ。
このところ起きている社会問題に共通することは、守られるべきことが守られていないというあまりにも単純な話である。契約書に書かれていることは文字にしかなっておらず、行動に結びついていない。これは明らかな違反行為だが、誰もそんなことをするとは思っていないから、確かめることさえしないらしい。互いに信用するというのは長い期間関係を継続するために重要なことと言われるが、それが空振りになっているとしか思えない。その原因は、と考えてみると、ほとんど全ての場合にあるところに行き着く。民間という言葉が踊った時期、経費削減だけでなく、仕事の中身にまで効果があるという主張が強く出されていた。仕事として真剣に取り組むのが民間の基本であるから、公の機関とはまったく違った効率的で、効果的な業務履行が可能となるという話だったと思う。しかし、現実には何が起きただろう。経費削減は確かに実行されたが、そこに出現したのはまさに「安かろう、悪かろう」という代物だったのだ。信頼とか信用といった言葉が表面的なものにしか思えなくなった時代に、そもそもこういった考えが通用しないことは強く主張していた本人たちにもわかっていただろう。しかし、それを承知の上で、まさに劇場を運営するためには欠くことの出来ないものといった納得の上で、こんなに馬鹿げたことが行われたのである。予想外のこと、本来あるべき姿でない、といった言い訳が並んでいるようだが、最近ではそんな意見さえ聞かれなくなった。今ある結果が当り前のものであり、それを例外のように振る舞うことは得策ではないと判断したのだろう。馬鹿騒ぎの張本人が逃げ出してしまったから、もう歯止めがかからなくなった。兎に角張本人を攻撃しようにも、大きな顔をしていた人々はもういないのである。結局、それぞれの業務を委託した役所などの組織が、構造欠陥とも思える話の始末をつけねばならないわけだ。そして、そこにかかる経費はさて何処から出されるというのだろうか。経費削減は、こんな展開で雲散霧消するだけでなく、更なる出費が強いられることとなる。あの時、あんなに強く、自慢気に話していた人々は、何処に行ったのだろう。まさか、卒業旅行に出かけてしまったというわけでもあるまいに。
情報の流出が問題視され、杜撰な管理体制と管理する人間の倫理観の欠如が取り上げられることが多くなった。既に、様々な組織で名簿の配布を廃止しているようだが、未だに訳のわからない勧誘電話が鳴り止まないところを見ると、何かしらの情報が漏れ続けているようだ。こんなことで小銭を稼ごうとするさもしい心を理解するのは土台無理なことなのか。
経済状況の悪化をきっかけとして、都市集中に更なる拍車がかかり、バブル期かと見紛うほどの建築競争が続く中、そろそろ怪しい空気が漂い始めている。確かに、高価な高層住宅の一室を先を争うように購入する成金たちや荒稼ぎの対象を漁っている人々がいるが、その一方で、予想外の売れ行きに焦りを見せ始めているところもある。ちょっと見渡しただけでも、常軌を逸した数のビルが建設されているわけだから、出遅れたところは苦しいに違いない。特に、先頭を走る人間たちはそれなりに要所をおさえているから、購買欲をそそられる人もいる。しかし、二番手、三番手になる人々は、所詮人真似に過ぎないことを繰り返すだけだから、何の特徴も持たない物件を粗製濫造するだけになる。こうなると騙されやすい人を見つけるのが近道とばかり、電話攻勢に出始めるようだ。その時役に立つのは、そういう人々が沢山含まれている名簿であり、おそらく業界ではその手のものに順位付けがなされているのではないだろうか。普段から市場調査を行い、自分なりの分析をしたうえで、物件を漁っている人々は、そんな誘いには乗ってこない。それほどの魅力もないものを売りつける相手としては、兎に角騙されやすくないといけないのだ。自分たちがそれに当てはまるのかは知らないが、こういった勧誘電話ではどちらかといえば列の後ろに回される人間たちが、今標的となっているように思う。あちらから見ればそうなのだろうが、おそらく現状はまったく違っていて、以前のような世渡り下手は少なく、兎に角巧みにすり抜けることに長けた人間が多くなっている。当然、こんな電話攻勢に揺れる人も少なく、おそらく無駄な時間ばかりが過ぎているのだろうが、それとて商品の単価を考えれば、少しくらいの時間は惜しくないのだろう。いやはや、仕事の邪魔にしかならない行為をどうにか防ぐ手立てはないのかと、思う人は沢山いるのだろうが、恐ろしい数の人間が相手ではどうにもならない。そんなに美味しい儲け話なら、自分で投資しなさいと説教しても無駄だし、興味が無いと言っても聞く耳を持たない。無言で受話器を置くのが関の山である。何ともはや、この暑いのにご苦労さんという声は何処からも聞こえそうにもない。
立秋が過ぎたから、残暑見舞い。知らないと常識を疑われる、と今どきの人に言ったとしても、何のことやらといった反応が返ってきそうだ。引きこもりという言葉が悪印象を与えるということで、別の言葉が次々に考え出されたが、いずれにしても同じこと、そんな連中だけでなく、季節感を失った人々は内なるものに楽しみを見出すしかないのだろう。
畜生とか虫けらとか、ああいう生き物を蔑んだ表現は多々ある。しかし、人間に飼われているものを除けば、彼らの方が季節感を残していて、自然と関わって生きている。人間に飼われている連中は、これまた飼い主同様、何とも情けない生活を送っているが、飼い主から見れば豊かな生活となるのだろう。夏といえば蝉の声がその移り変わりを示してくれるが、何故だか勢いがない。長雨の影響なのか、急に訪れた猛暑のせいなのか、はたまた周期の波の底にあるからなのか、まったくわからないが、確かなのは恒例の大合唱が聞こえなかったことだ。そうこうしているうちに、秋は確実に訪れているらしく、先日ツクツクホウシの声を聞いた。そういえば、トンボも飛んでいたなあと思いつつ、季節は確実に変わりつつあることを実感させられる。しかし、人間はといえば、相変わらず夏だ夏だと騒ぎながら、バタバタしているようだ。暑さで惚けたためでもあるまいが、想像しがたい事故やら事件が起きているし、子供の約束みたいな行動を堂々と行う人もいる。初志貫徹、公約履行、などといった言葉が並ぶのだろうが、その一方で、唯我独尊、我田引水、などといった言葉で表現される行動とも解釈される。今どきの人々には、自分を見失わないで、主張を貫き通す人は、尊敬に値すると映るようだが、それがまるで戦前のあの人々のように見えると思う人もいる。どちらが正しいといった問題ではないが、それにしても前者の捉え方の貧弱さに呆れるしかないのは確かだ。彼らを操縦することが出来れば、世の中の流れを作れるという証明がなされた今、その技術の向上ばかりに心を奪われている人が増えるのは仕方のないところだろうか。しかし、少し冷静になって見渡してみればわかるように、そんなうわべだけの技術論は所詮中味の無いものであり、行き着く先は混乱でしかない。既に先行きの見通しがつかなくなっているところで、更に濃霧発生装置でも稼働させたかのごとくの流れは、当分の間迷走するしかないのだろう。引きこもりでも生き延びられる世の中は豊かであると評した人もいるが、現状を受け容れるという意味ではそれも必要とは言え、このままそちらに向かうのでは崖っぷちに出るだけに思える。ちょっと考えればわかることを、考えようとしない人が増えているのはおぞましいかぎりで、暗さが増すばかりとも思える。でも、まあ、自分だけでも暫く立ち止まって沈思黙考するのもいいのではないだろうか。
悪い予感がした。九死に一生を得た人の中に、こんなことを言う人がいる。特に、事故などの現場にいるのではなく、その列車や飛行に乗るはずだったのに、何らかの事情でそれを見送った人々の言である場合が多い。それを聞いて信じる人もいれば、信じない人もいる。そもそも表に現れた感覚でない、誰にでもわかる代物でないから、説明しようもない。
第六感と呼ばれる六つ目の感覚は、特別な人のみが持つと言われるが、その真偽のほどは確かではない。ただ、経験的にその存在を信じる人がいるのは確かなようだ。心理的な印象はその出来事の結果によって変わるから、特に印象に残るような事象の場合、後々まで記憶に残り、それが第六感だったと信じるようになる。それでも、そういうものの起こる頻度はさほどもなく、実証できるほどの水準に達しないから、科学的な分析は不可能となり、説明不能となるのだ。目に見えない力によって操られるというのはあまり気持ちの良いものではないが、それが事故を免れる結果を導きだすなら、嫌っているわけにもいかないだろう。そこまで特殊なものでなくても、人はそれぞれに危険を察知する力を持っていると思う。予知能力となると怪しくなるが、状況を把握して、次に起きそうなことを予想するくらいのことなら可能だろう。時々引き合いに出されるが、野生動物に比べると人間のこの手の力はかなり劣っていると言われる。安全を高める仕組みの中に組み込まれているから、危険を察知しなくても大丈夫という心が、そんな油断を招いているのかもしれないが、それとても人による違いが大きいように思う。小さい頃、興味に引かれて危険な目に遭った人は沢山いると思う。たまたま運良く、難を逃れた場合も多く、その経験があとで役に立つ場合もある。子供たちは興味という魔物に憑かれてしまうと、中々逃れられないものだが、大人になるとそういった衝動はかなり小さくなるようだ。にもかかわらず、危険な目に遭う人々は単純にそれを察知する能力に欠陥があるとしか思えない。これが先天的なものか後天的なものかはわからないが、いずれにしても、そういう人々がうろうろしている中では、加害者にされてしまいそうな人の方が更なる警戒をするしかないようだ。自転車で脇道から脇目も振らずに突っ込んでくる老人がいると思えば、交差点で車道に出て信号待ちをする歩行者がいる。どちらも、気をつけなければならないのは本人なのだが、それが出来ない人には車を運転する側が何とかしなければならない。事故が起きれば、責任はほとんどの場合運転者に下りてくる。ある感覚の鈍い人を保護するために、他の人々が努力するというのは、社会では仕方のないところかもしれないが、それにしてもこういう人々が次々に登場するのは何故だろう。大昔ならば生き延びることの出来なかった人々が闊歩している世の中では、当り前かもしれないが。
子育てグッズと呼ぶべきものかどうか知らないが、たぶんその時期以外には使いそうにもないものが世の中では売られている。壁のコンセントに差し込む蓋とか、食器棚の引き出しを開かなくする留め金とか、更には階段の下り口に設置する扉などである。どれも子供たちを危険から遠ざけようとする配慮から生まれた品物で、優れ物と言われている。
好奇心は生まれつきあるものらしく、何にでも手を出す子がいる。その一方で、興味があるのかないのかさっぱり判らない子供もいて、よくいえば聞き分けのいい子となる。もしも遺伝性の資質ならば、親が自分のことを思い出したり、自分の親に聞けば参考になる。友人で、小さい頃にコンセントにねじ回しを突っ込んで感電した経験を持つ人がいたが、彼は子育てグッズをせっせと買い込んでいた。何となくそんな気がしたのだろう。ただ、乳児の期間は余程のことが無いかぎり、危険を察知することもなく、手を出すことに躊躇することはないのに、幼児期になると少し様子が変わってくる。危ないと思う心が芽生える子供も多く、怖がり行動を示し始める。何が変わるのかは判らないが、兎に角色々な失敗をした挙げ句身に付くのではないかと思う。だから、危険なことも試させなければならないと言ってしまうと言い過ぎになるだろうが、ある程度のことは単純に遠ざけるのではなく、見守りつつ試させる必要があるように思う。そんなことを思い出したのも、子供の事故が絶えないからで、その多くの背景に好奇心があるように思えたからだ。回転扉の事故にしても、子供なりの注意では不十分であることを親は当然知っておくべきだったろうし、吸水口の事故にしても、何か別の要因が潜んでいるように思える。確かに、未然に防ぐような方策は必要であり、それを怠った人々の責任は免れないだろうが、特に今回の吸水口の事故は、あまりに一方的な分析ばかりが目立って、どうにも解せないところがある。最近そんなところへ行ったこともないから以前とは状況が変わったのかもしれないが、ああいうところがまるで掃除機の口のように周りにあるものをすごい勢いで吸い込んでいるとは思えない。もしもそうだったら、皆がそこに吸い寄せられてしまうからだ。しかし、現実には水が吸い込まれていて、その為に流れが作られる。ここでの大きな違いは勢いであり、川幅が狭くなったときの流れを思い出せば理解しやすい。つまり、皆が泳いでいるところでの流れくらいでは、吸水口から吸い込まれるほどではないが、もしもその中に入ってしまうと、急な流れに吸い込まれてしまう。そんなものに、何だろうと興味を持つ子供を近づかせないためにあの網は必要だったのだ。では、何故、開いている口に近づいたのか、という点は話題になっていない。たまたまだったのかもしれないが、気になる点ではある。被害者を責めてはいけないといった感覚が強くあるためなのだろうが、本来の分析はそうではないはずだ。安全対策を講じるだけでは不十分なこともあることを知っておかないと、将来困ることが起きるのを親は認識しておく必要があるのではないだろうか。