パンチの独り言

(2006年8月21日〜8月27日)
(型枠、凋落、才能、偏向、求人、多病、暗愚)



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8月27日(日)−暗愚

 私利私欲に走る人々を眺めていると、人間はもっとちゃんとしたものなのでは、と思えてくる。本当は、漢字を使って表現したいのだが、どの言葉も鼻白む感じで、使う気が失せてしまう。それほど、心の中から腐っている人々が世の中に溢れてくると、何処が間違っているのかと思えるが、昔からありそうな話のようで、人間の性質なのかもと思う。
 欲に走る人々の特徴は、おそらくいつも足りないと思うことだろう。満足感があれば、そこには欲は出てこない。それは食欲のことを考えてみればすぐにわかるだろう。しかし、満腹中枢の壊れた人々はいつまでも食べ続けられる。ひょっとしたら胃が破裂してもなお、なのかもしれない。金欲や物欲には胃のような限られた容積はないだろうから、欲に取り憑かれた人々は何処までもそれを追い続けるのだろう。これは、それに乗じて利用しようとする人々には格好の対象であり、別の私利私欲が絡んでその塊は増殖を続ける。何とも情けない姿であり、それを窘めるために昔から天国と地獄の話が作られていた。しかし、現実のみに走る心には来世もへったくれもないし、ましてや死んだ後のことや遺族のことなど何の関係もない。ただ、今の瞬間、自分の人生が楽しければいいというだけなのだろう。限りない欲望を満たすことは不可能だけれども、そこまで極端ではない幾らかの人々に対しては、何かしら対処の方法がありそうに思える。金に手を出す人々の多くは、その時の実入りの少なさに不満を持っているのだから、それを何とかするのも一つの方法だろう。将来に対する不安ばかりが目に付き、現在の収入では設計も成り立たないとなれば、甘い言葉に吸い寄せられるだけでなく、自分から欲することまでするに違いない。魔がさしたという言葉がよく使われるが、その割には何度も繰り返す人が多いし、注文をつける人もいる。そういう意味では既に腐っているのだろうが、そこに至るまでの過程の中で、少しは抑止力がありそうなのは、収入の保証なのではないだろうか。効率化の波が押し寄せたとき、失職の憂き目を避けるために渋々受け容れたものに減給がある人も多い。この効果は絶大で、見た目の支出を抑えるわけだが、それどころか、意欲が無くなるばかりか、別の欲に走る人々を増やす効果もかなりなものである。これを全てとするのは倫理を考えるうえで矛盾に満ちていることだが、だからと言ってどうでも良いこととは言えない。会社が誰のため、といった議論の中で株主に対する配慮が強く求められているようだが、収益を上げるために働き手に支払うものを少なくして、それを配当に回すとしたら、どんなことになるのだろう。効率を求めることを悪く言うつもりはないが、全体を見渡すことのないまま、一部の効率だけを考えるのは愚行と言わざるを得ない。

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8月26日(土)−多病

 老後の心配をする人は少なからずいることだろう。最近は、年金制度の歪みが露になり、生活の心配も増えているが、やはり最も悩むところは、病気に関することではないだろうか。病気になったらと、体の心配をすることもあるが、その一方で、生活費を圧迫するに違いない医療費の問題も大きい。確か無料になるはずだったのに、と思う向きもあるだろう。
 年金制度と同じように、国が補償する制度のもう一つの柱となっている健康保険制度は、今や過日の面影もなく、構造欠陥と矛盾に満ちたものになってしまった。そんな中で、国民全体が支払う医療費は上昇を続け、それと直接結びつけてはいけないのだろうが、医療に関係する企業の収益は伸び続けている。この背景にあるのは、高齢化の問題であるとするのが統一見解のようだが、果たしてそれだけなのか、異論を唱えてみようと思う。医療が必要となるのは病気に対してだから、病気に罹る人の数が増えれば当然それにかかる費用も増える。高齢者が増えれば病気になりやすくなるはず、というのが見解の根拠だと思うが、それだけで、ここしばらくの伸びが説明できるものか疑わしい。病気関連のことで言えば、年齢によるものも大きな要素となるだろうが、もう一方で、何を病気とするのかという定義が重要な要素になるのではないだろうか。そんな定義など聞いたことがないというのも無理のないことだが、たとえば精神疾患について、何処から何処までを病気とするのか、ずっと一定の基準が守られているだろうか。鬱病を心の風邪と呼んだ人もいるが、風邪薬のように町の薬屋で治療薬を買うことは出来ない。医療という形で治療を受ける必要がある、立派な病気という解釈なのだ。飲酒や喫煙に関しても、度を過ごせば問題となるから、止める必要が出て来るが、それも心の病気の一種と見做すことで、治療を施す動きがある。心の病気はかなり多くのものが、以前よりも増えているが、これも社会生活のストレスによると解釈されている。しかし、抑圧がそれほど変化したとは思えない部分もあり、そこに疑いを持つべきなのではないだろうか。体の病気についても、生活習慣病という括りで、それまで成人病と言われた病気を呼ぶことになったが、ここにも予備軍なる病気の一種が登場して、頻繁な検査と治療が施されている。誰しも重い病気には罹りたくないし、思い通りの生活ができない羽目には陥りたくない。だから、こういう流れに逆らうことは難しく、兎に角何とか健康でありたいと思って、本当の病気になる前に治療を受けることになる。予防は非常に重要なものと考えられているが、それが投薬を伴う場合には逆の危険性を考慮しなければならない。そんなことを色々と考えてみると、このところの医療費の上昇には、これらの要素がかなり大きく関わっているように思えてくる。明るく元気に過ごせばそれでいいはずが、病気の恐怖におののき、不安が増大すれば、病に襲われるのは当り前かもしれない。

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8月25日(金)−求人

 経済状況の変化の話は今更するまでもないが、その現れの一つに、就職戦線の状況変化が挙げられる。数年前までどん底をついていた就職率は、経済の状況の変化を反映して、かなり上昇している。狂乱の時代を彷彿とさせるような数字が踊るようになったが、それでも懐疑主義者は表面的なものに過ぎないと断言する。学生は歓迎するだけだろうが。
 何でも疑ってかかる人々でなくても、今回の状況変化には一概に歓迎できないものがあるのはある程度わかるようだ。求人倍率や求人数の変化が次々に発表されるのに、バブルの頃のような浮ついた雰囲気は漂っていない。どんな人間でも大学さえ出ていれば大歓迎、といった風潮が蔓延した時代には、とんでもない就職活動が行われていたようだが、そんな空気は微塵も感じられないのだ。それより、どん底の時代とほぼ変わらない状態で企業は人を選ぼうとしているし、選ばれる側も油断大敵とばかり準備を怠らないように努力している。この状況では依然として悲壮感が漂っているから、とても改善されたように見えず、疑いの眼が向けられるのも無理はない。しかし、馬鹿げた騒ぎをした張本人達は、違った見方をしているようだ。騒ぎの最中に採用した人間は、今や中堅になっているはずなのに、役立たずが目に付き、不都合が生じているからだ。結局、買い手市場の時代に地道に採用活動を行ったところは、そういう手順の重要性を再認識し、状況が変化したからといって、安易に方針転換することを避けた様子なのだ。結局、そんな流れの中にあって、売り手市場になったとしてもいい加減な青田買いや相手を見ないままの採用といった愚策を復活させるわけには行かないのだろう。厳しい状況が続く中で、一人苦しんでいるのはおそらく求職者であり、この状態を打破するための妙案はないかと思っているに違いない。しかし、その辺りは如何にも現状把握が出来ておらず、未だに傾向と対策に振り回されている姿が見え隠れする。自分の資質や能力を省みることなく、ただ一般的な考えに流され、同調しようとするのは、こういう時代にはあまりにも危険なことなのにである。もう少し、様々な状態が整理されてこないと本人たちの頭で理解できるような状況にはならないのかもしれないが、既にそういった状況にあることを認識できない人間を採用したくないという企業の論理は理解しやすい。この先、どんな展開が見られるかわからないが、暫くの間好況が続くとすれば、職に就くこと自体は難しくないままだろう。とすれば、その中で自分のやれることをどう実行に移すかといった考え方が重要になるのではないだろうか。やりたいことは何か、ということばかりに心を奪われていると、そこだけにバブルが回帰してしまいそうだ。

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8月24日(木)−偏向

 毎朝、安売りの広告を見ながら、買い物のルートを検討する。そんなことをする暇があったら、と思う人もいるが、それを大事と考える人もいる。同じ商品なら少しでも安いところを、と考えるのは当然のことのように思えるが、店を回るのに車を使っているのでは変だし、この暑さの中を自転車で走り回るのも大変である。何を効率とするのか、難しい。
 そんな狂騒曲を奏でている人がいる一方、近くの商店で少しくらい割高でも、毎日おしゃべりをしつつ買い物をする人がいる。一つには考え方の問題なのだろうが、実際にはそれよりも満足感の源の問題のようにも見える。つまり、出費を抑えたことに対して満足を感じる人と、人との関わりを大切にしたことに対して満足を感じる人の違いというわけだ。どちらも極端に走ってしまえば何処か均衡のとれていない生活になってしまうが、精神的に安定している間はまあ何とかなるものなのだろう。日々の生活、個人の生活であれば、それはそれでどちらでも良さそうな気がしてくる。しかし、同じような効率の問題を社会全体が捉えるとなると、問題はそれほど単純にはならないようだ。経済停滞から下降の時代に、特に効率化が重視されたが、それが全体論として採り入れられたときに、一気呵成の攻勢に対応しきれなかった問題が、今頃になって噴出している。社会が欲していることだから、その流れに乗って推し進めることは様々な立場で見ても重要なことだった。ただ、掛け声だけで済む問題とそうでないものがあったことについて、今となってみて気づかなかったことに批判の声が上がっている。効率化は全体の状況から見ても必要不可欠なことであり、それが経費削減に繋がることは経済効果という観点からも肝要であった。しかし、ただ安ければいいという考え方に陥ることを誰も予想しなかったとしたら、政を司る人間としては無能といわれるに違いない。経費を抑えるために、民間の活力をという取組はそれだけを取り上げれば何も間違ってはいない。しかし、効率化のために何を切り捨てるかという選択において、間違った方向に進む可能性は十分に予想できたのではないか。にもかかわらず、ある意味の掛け声だけに終始して、そこから生まれるだろう矛盾を上手く回避する仕組みの整備を怠ったのは、何とも視野の狭い考え方ではないだろうか。一つのことを強く主張する重要性は十分に認められるが、その先にある歪みを予見できないのでは、何も考えていないのと同じだからだ。さて、これだけ山積みになった課題を整理するのは誰なのか、先送りの名人がまた現れたとしたら、どうなるのか、あまり考えたくないところだが、もうすぐそこに迫っているようだ。

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8月23日(水)−才能

 先日読んだ本には、ちょっと変わったことが書いてあった。といっても、それをあからさまに書くのではなく、少し婉曲な表現で表していた。だから、読み手によってはその真意を測りかねて、腑に落ちない気持ちが残っただろう。しかし、同じ著者が記した書物を並べてみると、どうも同じ線上にそれらが並んでいるような気がして、そこに意図が感じられる。
 そんなことを思いつつ、まあ、ある意味同意にも似た、そんな感覚を持ちながら読み進めていったのだが、実際には最後まで直接的な解釈は提示されなかった。結局、読み手に任せてしまったのか、それとも翻訳だから、それを行った人が何かをしたのか、原典に当たっていないからわからない。いずれにしても、現代社会の抱える問題をそれまでとは違った角度から捉えようとする意図が見え隠れしていたことだけは事実だろう。何度も取り上げていることだから飽きられてしまっているかもしれないが、人間の才能と教育の結びつきといった類いの問題だ。才能とは持って生まれたものと解釈していたのが、いつの頃からか、人は皆無垢なものとして生まれ出て、それが教育という彩色法によって形作られていくと考えられるようになった。可能性を秘めたものという魅力的な言葉に、誰もが反対せず、その可能性を引き出すための秘術の編み出しに力を注いだ時期があった。しかし、その時期が長く続いてくると、流石に疑問を挟む余地ができてくるようで、現実に、以前よりも教育水準は向上しているのに、育ってくる人間の才能は曇りガラスの向こうのようにぼやけてきている感じがする。実際には、より高い教育を受けさせることを命題とするのではなく、最低水準を上げることが命題となったから、余計にそういった様相が目立ち始めたのではないだろうか。どちらにしても、まともなことをまともに考える人間の数が減り、決った道筋を通ることを唯一の選択肢と受け取る人間が多くなった。答えが一つしかない世界に生きる人間にとっては、あまり大差のない話かもしれないが、現実の社会ではそういうことはほとんど起きないから、上手く対応できない人と見做されることが多いようだ。こういう現実を前にすると、全ての人間には同じ可能性があるのだという話は、まるで作り物の世界の話のように思えてくるが、それを強く主張することは憚られるようだ。特に、大戦中にある権力者が取り上げた民族の違いという問題との結びつきが、悪い印象を強く押しだすことは、こういった考えを冷静に語ることを難しくさせている。更には、それ以前から主張されていた学問体系に至っては、人間を根拠なく区別するものとして今でも忌み嫌う声が大きい。これらの繋がりにおいて、本質的なことは覆い隠され、その代わりに狂信的な人物たちが作り上げた話だけが表面に出されたことは、全くおかしなことなのだが、その状況は変わっていない。そんな背景から本の中の表現も、誤解を招かぬように注意深く作られているような気もする。でも、薄々感じている人もいるのではないだろうか、違いがありそうなことに。

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8月22日(火)−凋落

 まるで人気の絶頂に達した俳優のような雰囲気が流れてくる。あまりの人気に、全ての依頼に応えることが出来ず、結局一つ一つの仕事に集中できないまま、芝居の質が落ちていくという、そんなかつての名俳優の姿が重なる気がするのだ。唯一の違いは、これから舞台を去ることを自ら公言して憚らないことだろうか。それとて、大した違いはないが。
 それにしても、三文芝居がこれほどまでに受けるとは思わなかった。大見えを切る姿に憧れる人々には、田舎芝居ほど感激するということなのだろう。話の筋には目もくれず、ただ彼の人の登場を待ちわびる、そんな場面が設定された感じだ。大衆の人気は衰えないが、そろそろその筋の人々は自らの身を守るべく、声高に批判を始めた。それとても、勧善懲悪の芝居の悪役のようにしか見えない観客にとっては、彼を輝かせる脇役にしか見えないようだ。いつまでこの調子が続くのかは誰にもわからないが、舞台から下りた途端に忘れ去られてしまうのだとしたら、悲しいものがある。少なくとも、その悪政を指摘する声が上がり、最悪の宰相の一人として後世に伝えられるようでなければ、本人も浮かばれないだろう。始めの頃の勢いは、今でもマイクの前では衰えていないものの、現実の政策では全てが骨抜きにされ、先送りという誤魔化しを施されている。骨太という触れ込みも、あれほどすかすかのカルシウムが足らないものでは、張りぼてとしか言えないだろう。そんな張りぼてを前に、自画自賛を繰り返している人を、役者と呼ばずして、何と呼べるのか。それくらいのことを目の前で呟いてみせるくらいの芝居を、悪役共も演じてみせればいいのだ。既に、画面の前の人々は、どんな田舎芝居でもうっとりとしてしまうほど惚けているのだから、その程度のことをしてもしなくても、兎に角敵対視されるに決っている。そんな状況ならば、少しぐらい毒づいてもどうということもないだろう。そんなことを書いているけれど、実際にはあの観客たちの考えていることは想像できない。支持する理由もさることながら、何をどう評価しているのかさえ、まったく見えてこないのだ。立ち位置が違うからと言ってしまえばそれまでだが、果たしてそれだけのことなのだろうか。政権に関する質問だけでなく、彼らの生活観や人生観についての質問が並べてあれば、少しは様子がわかると思うのだが、そういった調査をする気持ちはそれを担当する人々にはないらしい。まあ、どうせこんな連中の心の中を知っても大したことはないと思っているだけなのかもしれないが、それにしてもここまでの思考停止を誰が予想しただろう。

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8月21日(月)−型枠

 その昔、教育県と呼ばれたところがあったのを知っているだろうか。一流大学への進学率を自慢する私立の学校があるところ、という今の状況とは違って、当時は県民自体が教育を重要なものと捉え、それに対して力を入れたというものだ。たとえば、農作業の手伝いを当り前とする時代に、なるべく勉強の時間をとってやるといったこともその一つだ。
 教育が人間形成の基本と考えられていた時代には、そこで金儲けをするのはとんでもないといった風潮があっただろう。しかし、大学進学率がうなぎ登りとなり、受験戦争なる言葉が飛び交うようになると事情は一変した。あっという間に、受験産業なるものが打ち立てられ、凄まじいほど金が取引される。いつの間にかそれも当り前となり、拍車をかけるように若年化が進んだ結果、生後間もなくからの教育どころか、胎教までが商売の対象となった。勉強は技術の一つであるから、教え方はあるはずという信念の下、これらの産業は成長を続け、乗り遅れによる損失を煽ることによって、多くの人々がその踊りの輪に加わることになった。その結果はどうなったのか、周囲を見渡せばわかるだろうが、どうもある能力を欠いた人間が増えているように思える。知っていることはすんなりこなせるのに、知らないことが出て来ると立ち往生する。単純作業でも、初めて教わることには中々対応できない。少し上の水準でも、課された問題に対しては十分な解決能力を発揮するのに、目の前に山積する問題を探しだす能力はほとんど無い。書きだせばきりのないほどだが、おそらくそんな例はごまんとあることだろう。人間の能力は無限であると主張する教育研究者達から見れば、これは彼らの能力を殺してしまった結果のはずだが、そういった意見はあまり聞こえない。どちらかといえば、こういう手法で能力を伸ばした結果と解釈するらしい。しかし、技術だけを身につけても、それを制御する頭がついてこなければ何にもならない。何故、こうなってしまったのかを今更考えても仕方がないのであって、その罠に嵌まらないような工夫は何かを考えるべきだろう。その意味で最近気になったことがある。自由研究の題材を提供する本や番組が世の中に溢れていることだ。確かに、無難なものを仕上げるためには適切な題材を選択する必要がある。しかし、元々、子供たちが抱く疑問が下地となって現れたのが自由研究なのではないか。ここにまで、こういう問題を疑問としましょうとご親切なる指摘がなされているわけだ。もっと小さい頃に、うるさい子供の相手をせず、自由研究ではこれを課題にせよと命令する。そういう親が子供を罠に嵌めているのではないだろうか。教育熱心と自画自賛しつつ、はてその子の人生の邪魔をしているのは誰なのだろう。

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