虐めが深刻化していた頃、その原因を競争と断定し、様々な競争因子を教育現場から排除することを強制した人々がいた。あの連中が今頃何を論じているのか知りたくもないが、どうせまた違う犠牲者をせっせと紡ぎだしているに違いない。懲りない人とはまさにこんな人のことを言い、自らの優位性を保つための生け贄を日々探し回っているのだろう。
彼らは教育現場から競争を取り除くことに成功したように見えたが、実際には社会における競争を同時に除去することはかなわず、結局中途半端で狂った感覚の持ち主を量産することに加担しただけだった。その後、その揺れ戻しとでも言うべきものが巻き起こり、様々な所に競争が採り入れられるようになったのは、何とも皮肉なことに違いない。特に興味深いのは、競争の基盤が存在しているところに、更なる争いを導入したことで、その目的は全く別のところにある。そこのところが面白いわけで、競わせるのはその対象を活性化させ、より高いところに上らせるためのはずが、余計な作業を増やすことで、かなりの疲弊を招いてしまった。営業が売り上げを競っているところに、更なる向上を目指し、それに必要となる予算の要求を促した場合、どんなことが起きるのだろう。上位の連中は当然結果を伴っているから、予算要求も通りやすく、更に良い環境を築けるが、下位の連中は、全く逆の結果となり、更に落ち込むことは必至である。結果的に、格差を拡大することだけが目的となっているわけで、予算分配の正当性を主張するための方策でしかないことは、目的に適わない話としか言い様がない。実績に応じた分配なら、実績を分析すればいいことであり、わざわざ要求させる必要はない。特別な場合に限って実施すればいいことを、全てにやらせるのは時間と労力の無駄でしかない。この仕組みにはもう一つ重大な欠陥があって、それがある所からの問題噴出で明らかになった。研究者の倫理観の話が話題になり、研究そのものも問題となったことは記憶に新しいが、競争が別の不正を産みだしたのに驚いた人は少なくないだろう。競争によって獲得した研究資金を不正流用したという事件は、彼らの非常識さを世に知らしめることになったが、その原因が私利私欲だけと思うのはおそらく間違いだろう。こういう資金は獲得した予算の期限が来れば、またゼロからの出発となる。つまり、金持ちが一夜にして貧乏人になるかもしれないのだ。それが予想されるとき、表向きは平静を装っていたとしても、もしもの場合に対する不安は拭えず、何とか備えようとする。その結果が不正流用だとしたら、それは個人の問題として片付けられるべきなのだろうか。闇雲に競争を導入しておいて、それによって引き起こされる歪みに備えていないとしたら、それに関わる人々は無能と呼ぶべきだろう。まさに、そんな状況を次々に作りだして、こんな疲弊や不安を引き出しているとしたら、大きな間違いを繰り返しているということになる。
「すいきんちかもくどてんかいめい」、こうやって覚えたものが変えられようとしているという話がある。折角覚えたのに、と思う人もいれば、そんな昔のことはどうでもいい、と無関心な人もいるだろう。覚えるための手立てには色々とあり、九九をはじめとして、様々なものが浮かんでくる人もいるだろう。歴史の年代はたぶん語呂合わせの極致か。
これとは別に今でも出て来るものに、「かかなまあてにすなひどすぎはっきん」というのがある。こちらは文系理系、どちらに進んだかによることだが、これに悩まされた人も多いだろう。そんな語呂合わせや言葉遊びの導入で、何とかものを覚えようとする人もいれば、そんなものには縁がなく、すらすら覚えられる人もいて、能力の違いに驚かされた。いずれにしても、後年役に立ったものはほとんどないから、教育は役に立つものとする考えから大きく外れていることは確かだ。しかし、日常生活に役立つものだけであれば、学校という存在は必要なく、親から教わるだけで十分である。その証拠に、昔は就学率が低く、田舎へ行けば、家の手伝いを最重要とする所が多かった。しかし、別の考え方が導入され、義務教育が登場すると、教わることも多岐に渡り、直接的な効果だけでなく、間接的なものが採り入れられるようになった。知る喜びを味わったことのある人は多いと思うが、最近は教わる苦しみの方が注目を浴びるようになり、その量を減らすことに躍起になる人々が出ている。これは逆に言えば、教わったことは全ての子供が完璧に理解していなければならないという縛りが存在するからであり、人それぞれ、子供たちそれぞれに理解度が違っていてもよいとすれば、随分様相が異なってくるに違いない。こんな考えからすると、「すいきんちかもくどてんかいめい」が「水金地火木土天海冥」のことであり、太陽系の惑星の名前である、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星のことを示すことなぞ、知ろうが知るまいが、日常生活には関係ない。おそらくこのところの話題についていけない人も多かっただろうが、話題としては重要だったらしく、色々なメディアが取り上げていた。主題は惑星の定義とは何かという、ごく専門的なものだったはずが、冥王星の運命や如何に、といった取り上げ方ばかりで、酷いものになると教科書の改訂ばかりに集中していた。一方で、文化的な意味合いから、専門集団の判断は尊重するとしても、歴史的な観点から現状を維持すべきという意見もあり、興味深く思った。しかし、これで覚えなければならない惑星の数が減ったから、子供にとっては歓迎だろうなどと言う人がいたら、もうお手上げである。このところの流れからは早晩そういう発言が何処からか出てきそうだが、こんなことを言う人ほど教育の力を盲信しているように思う。興味を引き出すことより、無理強いすることが教育だとしたら、不幸以外の何ものでもない。
ここを若い年代の人が読みに来ることは少なくなった。以前は大学からの接続があったが、最近はめっきり減っている。自分の入室の数を点検してみたら、常連さんたちにはよくわかるだろう。このところ、一日5から7くらいの増加しかない。大して共感が得られるわけではないし、ブログのような仕組みでもないから、まあこんなものなのだろう。
自分のやりたいことをやりなさい。こんな言葉を若い世代にかけたことのある人は多いと思う。もし、これを若者が読んだら、逆にそんな言葉をかけられた経験のある人は多いだろう、となる。生活が豊かになり、毎日の暮らしへの心配が少なくなると、人はそれぞれ、それ以外のことに思いを馳せる。その中の一つが、自分の一生でやりたいことは何か、という設問だろう。生活費を稼ぐためだけの仕事でも、それに気持ちを向けて、一心不乱に働いた時代が遠いものとなり、生活にゆとりが出て来ると、そこに矛盾を感じ始め、何かしらの目的意識を持とうと努力する。そういう時代の流れに生きてきた人々から、こんな考えは若い頃から持つべきだという思いが出てきて、次の世代に受け継ごうとした結果が、今のやりたいことを強調する風潮に発展したのではないだろうか。如何にも道理に見合ったもののように見えるが、将来の結果を予想して、それを望ましい方向に向ける為のものだとすれば、自分の将来を見極める力が必要となる。しかし、そんなことは一部の成功者が成功物語として語るだけであり、大部分の人々は自らの歩んだ道を振り返って、そこに見つかる過去の失敗を悔やむのが精々である。にもかかわらず、若い世代に向かってそういう言葉をかけるのは、あまりにも無責任と言えるのではないだろうか。最近の状況はこの風潮の歪みが表に現れた形となり、やりたいことが出来ないからと落ち着きなく転職を繰り返す人々や、就職浪人を続ける夢追い人が増えている。更に深刻に思えるのは、それらの人々に対して厳しい言葉が浴びせられるのではなく、何の責任も持たない応援が飛ばされることだろう。誰も彼もが、自分の責任を感じず、親までもが子供の好きなようにと胸を張って応援する時代である。そのそばで、社会的には何の役にも立っていない大の大人が嬉しそうにする光景は滑稽としか言い様がない。滑稽は、反対側から見れば深刻なわけで、笑うしかないからそうするまでのこと、といったところだろう。やりたいことを見つけるための努力は程々にして、大した思い入れもないやりたいことを自己主張として周囲に向けて発信する。如何にも、といった連中が世の中に溢れているのを見ると、自分の老後の心配をそちらに向けるべきなのかと思えてくるのだ。これを一言で言うなら、しっかりせよと。
このところ、株価の動きが落ち着かない。方向感は見えず、個別の銘柄を物色するでもなく、その代わりに、操作されているような動きが目立ち始めている。前年の勢いは何処へ行ったのか、今改めて考えてみると、何処かの誰かが帳尻合わせをしたのでは、と勘繰りたくもなる状況だ。活力は確実に高まっているのに、出口がこれでは情けなくなる。
不安定にさせる要因の一つはおそらく交代劇に対する不安があるのだろう。確定したものとはいえ、それがどんな影響を及ぼすことになるのか、交代そのものの盤石さと比べて、指導力などの要素の脆弱さに先行きに対する一抹の不安が付き纏う。特に、斬新さのみを売り物にした人の後では、その尻拭いが主たる役割になる可能性は大きく、魅力的な売り物を出す前に店仕舞いに追いやられる場合が多い。そうなれば、混乱を来すのは必至となるから、どうしても様子見気分が抜けないのだろう。主たる参入者が株価操作による利食いを目論んでいる中では、個人投資家がつけ入る隙はほとんどなく、どうしても市場は冷え込む方向になるようだ。どれもこれも確定したわけではなく、想像の域を出ていないものだが、そんな背景があるのではないかと思いたくなる。暫くの間、手控えようとする人が多くなれば、更に株価の変動は激しく、大きなものとなるから、一部の人間たちにとっては恰好の場となるのだろう。ただ、最も大きな要素と考えられているものにも期日があるわけだから、それを迎えればそれなりの対応の変化が現れるだろうし、不安などといった心理的な要素だけでなく、実態を表す要素が改めて見直されるようになることが期待される。とはいえ、現状はどっちに向いているのか、株価は適正と言えるかどうか、どれを見ても方向が定まっていないようだから、その時になってみないとわからないというしかないだろう。では、保有したまま様子を見続けるのがいいのか、資金を引き上げるのがいいのか、などと考えても、答えが見つかりそうにもない。要するに、それぞれの個人の戦略がどちらに向いているかによるわけで、長期保有を基本とする人々にとっては、こういう時期も何するものぞと、無視を決め込むわけだろうし、短期売買を主体とする人たちは、おそらく暫く傍観する形になるのではないか。こういう時期に上手く利鞘を稼ぐ人たちがいるとしても、それを追いかけるのは難しいことだろうから、まずは距離をおいておくのが一番、ということなのだろう。後になって考えてみたらこうすべきだった、という話はいつでもあることで、慌てて間に合わない手を打つよりは、次のことを考えるのが良いのだろう。まあ、こんなことは各人それぞれによく解っていることなのだろうが。
何処か変だ、と思い始めたのはいつ頃だったのか。若い世代と話をしていて、違和感を覚え始めた時期がある。仲間と共通の話をしているときの雄弁さに比べて、違う世代と不慣れな話題を交わすときの無口が異様に見えた。話し上手か話し下手かではなく、話の内容による違いとしか思えない状況で、始めのうちはその原因が全くわからなかった。
ある時、ふと思い浮かんだのは、彼らの篩は知っているか知らないかによるものなのではないか、ということだ。仲間との共通の話題では、お互いによく知っていることだから、事前の説明を抜きにして、どんどん話を進めることが出来る。知っていることだから、相手の言葉を全部理解できなくても、何となく自分がしていた理解で事が済むというわけだ。よく見ていると、そういう彼らの会話でも時々滞ることがある。互いの共通理解がずれていたり、一部にだけ周知のもので、知らない人間が話題についていけない場合だ。ここで重要になるのは、事前説明とその理解だが、それまでそういった作業を抜きにして話を進めていただけに、凸凹道を歩むことには慣れていない人々は、そこで戸惑ってしまう。簡単な解決法は、その話題を断ち切ることで、同じ世代が茶飲み話をするだけなら、それで済むことだ。違う世代との話で意志の疎通がなされなかったのは、実はこれと同じような状況が生まれていたからで、上の世代の知らないことをわかるように説明する忍耐力も、上の世代が知っていることを理解しようとする忍耐力も、持ち合わせていない人々が現れたのである。知っていることしか知らない、というのはごく当り前のことなのだが、これと似て非なるものに、知っていることしかわからない、という言い回しがある。この「わからない」というのは、知る知らないのことではなく、単純に理解できるかどうかという意味で、もう少し踏み込んで言えば、知ろうとしない、理解しようとしない、ということになる。知っていることには積極的に取り組むのに、見たことも聞いたこともないものには逡巡する。そんな様子を見ていると、そこにあるのは知識の豊かさといった問題ではなく、知ろうとする気持ち、積極性といったものにあることがわかる。では、何故そんな状況が生まれてしまったのか。一つの可能性は、徹底した限定主義のようなものにある。巷に溢れている言葉の一つに、「これだけで・・出来る」というものがある。きちんとした枠を設けることで、それに取り組む人々の負担を軽減し、目的意識を明確にさせるものだが、何でも知ろうとする意欲を持つ人々には、大した影響を与えない。しかし、失敗を恐れる消極的な人々には、安心を与えると同時に、将来的に大きな悪影響を及ぼすことがある。そんな流れから生まれたのが、知っていること以外理解できない人なのではないだろうか。
どうしてあんなものを欲しがるのだろう。ブランド品に群がる人々に対して、そんな気持ちを持つのは、こちらがずれているからかもしれない。それにしても、わざわざ飛行機に乗ってまで買い漁りに出かける人には呆れるしかないし、手近で手に入るからと列をなしてまで買いに来る人々の気が知れない。何が良いのかわからない人には理解しがたいものだ。
その昔、まだ、そういう品物を手に入れるために長旅をする必要があった頃、近場で手に入れられる所があるというので短距離飛行を楽しんだ人もいた。しかし、そこで売られている物の多くはいわゆる偽物であり、遠く離れた土地で目が届かないのをいいことに荒稼ぎをしていた。流石に被害が大きくなると、様々な規制がかかり、国内持ち込みが不可能になるとともに、多数の摘発が報道された。真似をするのが得意なのは何もこの国の人々に限らず、この辺りの国の人々はそれを生業にすることが多い。西洋で商品化され、市場での地位が確立された途端に、偽物が出回るのは日常茶飯事である。騙されるほうが悪いのだと言われても、欲望に駆られた人々にはそんな声は聞こえない。何処か不自然なところがあっても、すぐに騙されてしまうのは、欲が目を曇らせるからだろう。流石にバッグや時計などのブランド品は規制が厳しくなったが、最近別の商品にその兆しが現れており、趣味に走るのとは違う事情から、心配する声が出ている。塵芥メールの多くには性的不能の改善薬の宣伝があるが、その多くは偽物という話だ。商品名から、錠剤の形まで、全て真似たものだが、中身はおそらく何の効用もないものなのだろう。この状況はまさにバッグで騒がれたときのこととよく似ている。そんなものには引っ掛からないから、という声が返ってきそうだが、確かにそういう方面の薬を必要とする人々はそれほど多くない。しかし、国内の処方薬の状況を考えると、この先本当に大丈夫なのかと思えてくる。ジェネリックと名付けられたそれらの薬は、今のところ国内の製薬会社が製造しているが、同じ効用で安価であることが特長だ。ところが、この頃の社会状況は安いことが何よりも重要と見做す感じがあるから、ここでも他の偽物同様、訳のわからない輸入品が出回り始めないとも限らない。そう考えると、もう既にその下準備は出来ていると思われ、余程厳格な規制をかけたうえでないと、危険な状況を招いてしまう可能性が大きい。どんな形で認可するのかは監督官庁に任されているが、もし万が一にもそういった偽物が出回ってしまったら、ことが治療薬であるだけに影響は甚大になる。このところ、医療費問題の議論の的が額の多さばかりに集中しているだけに、うっかりするととんでもないことになりかねないように思える。
格差拡大が深刻化していると言っても、まだまだ海の向こうの自由な国の足元にも及ばない。次々に出される施策はどう見てもその国の真似と思えるものなのに、格差が生じることを問題視するのは何処かおかしく、滑稽というべきものかもしれない。ああすればこうなると理解したうえでの制度導入のはずが、反対論が出ると予想外を装うわけだから。
貧富の差が大きくなったと言っても、おそらく心理的な調査が中心だろう。実態としてそれより大きな差は昔からあったとはいえ、それを気持ちに表す人が少なかったのが、最近はその数が急激に増しているように、調査結果からは感じられる。気持ちまでがそちらに向かい始めると批判の声は大きくなるわけで、そろそろ放置しておくわけにも行かないと意見を述べ始めたようだが、依然として的外れで矛先をかわそうとする意図が丸出しの話ばかりだ。このまま行って、歴然とした差が意識の奥底にまで染み込むようになると、まさにあちらと同じ状況が生まれる。しかし、そんなことを言われてもそういった差に実感はなく、報道されるのが上の階級層の話ばかりとなれば、何をどう考えていいのかわからないのが実情だろう。そういう中で、恐怖を煽る人々がいて、あることないことを繰り返し主張し、心理的に揺さぶる行為に出る。確かに、そういう結末を迎える可能性がないわけではないが、現状の最悪の状況を台本に仕立てても、何だか異様さばかりが目立つ。とはいえ、そういう話に乗せられやすい人々は、騒ぎを大きくし、過剰な反応が世論をあらぬほうに導くことがある。たとえば、将来的なことで気になるものとして、年金や医療費の問題は避けられないものだが、こちらに比べて遥かに高額の医療費が請求される海の向こうでは、実情に合わせた制度が確立しているようだ。金持ちは金持ち用の十分な医療を受けられるような仕組みを作り、医療保険制度としてもかなりの高額な保険料を設定している。これによって、高度な医療を受けられる人は限られた富裕層だけとなるが、現実的なものだろう。これがよくわかるのは、臓器移植に向かう人々が用意すべき金額のべらぼうさで、最先端とはそんなものということだろう。一方、最低限でも良いから必要なときに治療が受けられるように、と用意された仕組みもあるようで、こちらは貧困層を相手とするものらしい。面白いのはそこに使われる名称で、前者はmedicare、後者はmedicaidと呼ばれる。元来、高齢者を対象としたもののようだが、careが心配とか世話という意味で、自ら行うのに対し、aidは援助とか助力といった意味で、施しを受けるという違いがある。制度自体がそういう幅を持たさなければならないほど、全体の格差が大きくなったというわけだが、はたしてこの国はそういうものまでも真似することになるのか、どうだろう。