車を走らせていると、道路案内に目が行く。見知らぬ土地なら、聞いたこともない地名が出てきて、混乱させられることも仕方ないと思うが、最近はそうでないことで混乱に陥る。何処で誰が思いついたのか真相は明らかではないが、表向きは自慢気に話していたあの人が全責任を負うことになっている大合併の弊害がこんなところまで及んでいるのだ。
生まれ育った町の名前が消えるとなったとき、整理のためという理由はその土地の人には通用しなかった。新しい町では如何にも思いつきとしか思えない子供の名前と同様に、その土地の歴史とは無関係な名前が乱立することがしばしばあったが、それぞれの町名が何かしら歴史的な背景に基づく形で定められたものだと、その歴史さえも否定するような暴挙と思う人もいるだろう。それが利害関係丸出しの作業の連続で、上下関係、優劣関係を明確にするような形式がとれなかったとき、まるで無関係とも思える名前が浮上することになる。喧嘩両成敗で、勝負を決しないようにした結果、誰もが混乱する名前が登場するわけだ。ただ、自分たちの思いつきとは思われたくないから、住民の提案によるとか、投票によるとか、そんな方法を思いつくことになる。その実、最多票を集めたものが選ばれず、選考委員会の検討からと、訳のわからぬ理由を並べられると、おやまあ、どうしたものかと思いたくなるのではないだろうか。よそ者と言えども、ある程度昔の地名を知った人間にとっても、この経過は納得いくわけもなく、たまたま訪問したり、通り過ぎれば、それだけで異次元の世界に迷いこんだ気がしてくる。こんなことで何か効果があるのか、毎度その動きを見るたびに不思議に思えてくる。経済効果は、看板やら表示やらの変更による、地元産業への金の流れとしてあると思うが、そんなものは単なるむだ遣いでしかなく、できれば避けるべきものだろう。企業の合併の度に一体どれほどの経費を浪費するのか知らないが、それがある業界のように数年ごとに起こるようでは、無駄以外の何ものでもないことは明らかだ。自治体の合併もそれに近い形をとっていて、急かされて慌てて行ったがために調整がつかず、結果的に数度に分けて実施するところもあるから、その度に何かしらの運動をすれば、それが全て無駄と言えなくもないだろう。大々的に宣伝をすることで、知名度を上げ、効果を期待することも、最近では無駄としか受け取られなくなってきた。地図の変更もさることながら、案内板や道路標識など、一体全体どれだけの税金を無駄にすれば気が済むのか。そういえば、この合併は何のためのものだったか、実際には、省庁の話と同じことなのだろうか。
責任の取り方は人それぞれである。自由と責任の問題を問われたとき、答えに窮する人が多いのにも驚かされるが、それが世間知らずの若者でなく、彼らに意見する世代の人だと飛び上がりそうになる。世代間の違いを論じることもあるが、こういう話題の時、単なる個人の問題として扱うべきか、はたまた世代特有の問題とするべきか迷うところだ。
組織の中で新たな企画が討議されるとき、専ら批判する側に回る人がいる。その多くは正論を述べているようだが、実際には大前提のところで乱暴なことをやるばかりで、そこから先の議論は大した意味を持たない。一つ一つの論理は一見正しく成立しているように見えるが、その前提となるものが明らかな間違いであれば、論理もへったくれもないわけだ。こういう立ち回り方をする人々は、組織のためとか社会のためといった一種正義のようなものを振りかざすが、多くの場合、自分自身の満足のための行動である。そういった正義感に満ちた自分の行動に、自ら酔いしれているわけであり、それによって周囲が受ける迷惑は目に入らない。更に始末に終えないのは、彼らの論法の中に、自分たちの寄与はほとんど期待できないが、他の人々はもっと頑張るべきといったものがあることで、激励のように振る舞っているものの、現実には批判に終始しているに過ぎない。自分の寄与が無くなれば、組織の中での存在意義は無くなり、当然身を引くことが次に出てきそうなものだが、本人の口からそういう潔さが表現されたことはない。結局は、自分の存在を他と違うものという前提を自ら置き、その特殊事情に当てはまらない人々を標的とするわけだ。こういうものの見方は、優位性の現れに違いないのだが、本人の心の中では全く違う回路が働いていて、ごく自然な論理が展開されている。昔から言われている「棚に上げる」行為を地で行くようなものだが、これをある程度の発言権を持ち、ある程度の権力を有する人が行うから、周りは困り果ててしまうわけだ。ちょうど、そういう人々が周囲を巻き込みながら自分の地位を築き上げ、ある混乱に社会や組織を陥れたころから、彼らに対する見方がかなり変わったように思う。盲目的に従うことが少なくなり、もし、本人が役立たずと自分を呼ぶのなら、その通りの立場に追いやればいいとする動きが出てきた。本人は自分の思いと違う方に向かうことに対して、嫌な思いをしているかもしれないが、積年の何とか、周囲も今更考えを変えることはない。それでもなお、掻き回す行為は留まるところを知らず、振り回されて無駄な時間を過ごさねばならない犠牲者が出る。はて、彼らが退場するのはいつのことか、心待ちにしている人が多いだろう。
若者の特徴を巧みに言い表した本が幾つか出ている。読んでいるわけではないが、それなりに話題になっているようだから、観察する側、される側の両方にとって、頷けるところがあるのだろう。最近話題になっている、若者たちの傍若無人ぶりの説明として、心の動きを引っ張り出し、其処に存在する優越感を鍵として紹介したのは確かに面白い見方だ。
自分以外は全てバカと見做す、という見方が基本となっているとの解釈は、客観的な見方の訓練をされた人間には、信じがたいものである。誰が見ても、優劣には様々な基準があり、常に相手を見下すことは不可能に思えるからだ。しかし、そこには大変な絡繰りがあるというのだ。つまり、相手を見下すための条件を探しだし、それだけに着目して評価を下す。そうすれば、どんな相手が来ようとも何とか都合のいい結論を導きだせるという。こりゃあ、すごい感覚だと思うと同時に、周囲を見渡して、確かにそれが当てはまりそうな人間が沢山いることに気づく。ただ、よく見ていると、それが単に若い世代にだけ当てはまるのではなく、意外に思えるほど多くの人々に当てはまるから面白い。但し、全てを、という括りはここでは当てはまらず、流石に無理を承知で押し切ることはできないと思うのだろう、一部の事柄に関してだけだが、自分に都合のいい基準を設けて、優位性を保とうとする人々が年齢を重ねた人にもいるのだ。件の著者もその点に着目しているようで、若者の行動の基本となっているのはその親の世代であり、おそらく其処に元凶があるのだろうとしている。箍が外れてしまったのか、はたまた拠り所を失ってしまったからか、どうも最近、そっちの世代の傍若無人ぶりも目立つようになってきた。自信をもって歩んできた人生を、経済の大波によって打ち砕かれてしまった結果、そんな行動、実はそれまでは覆い隠してきた深層心理に基づくものだろうが、が表に出てきたのだろうか。一方で、そんなものを築く前の若者たちは、自信の無いままに身勝手な解釈を繰り返すから、信用もされず、機会も与えられないままである。彼らにとっての自信を考えてみると、失敗を恐れる性向があり、確実なものを好むわけだから、絶対確実なところに達してこそ、自信が芽生えるのではないだろうか。もし、そうならば、永遠にその域に達することはないだろうし、ならば見下しのみが生きる糧となるのも仕方無さそうだ。根本的な考え方の間違いを正すのは簡単ではないし、それを修正できたからといって、成功が降ってくるわけでもない。そうなれば、やはり、自分の道を信じて生きるしかなく、人を見下すことによって生じる自信が唯一のものになるのだろう。すごい考え方だが、それが当り前の時代が来るのだろうか。
同じ品物を六つ買うと、五つ分の値段になります、と書かれていたのは、ある空港の土産物屋だったろうか。一つが二割引になるのとどちらが得か、と聞かれてすぐに答えられる人はいないと思うが、とにかく人は値引きに弱いものである。大安売りにいくと、つい要らないものまで買ってしまうという人もいるくらいで、まんまと乗せられているのだろう。
外食産業が値下げ競争を始めた頃、たぶんそれより少し前くらいだろうか、とにかく品質云々を論じるより先に、安さが問題にされ始めた。価格が問題なのではなく、安さであることが重要で、適正価格などといった感覚はそこには存在しない。ただより高いものはない、と戒められた時代は遠く過ぎ去り、ただより安いものはない、とそのままの表現が通用するようになった。間違った解釈ではないが、様々な要素を考えると、単純に値段だけで考えていいものなのか、疑問が次々と湧いてくる。そういう時期が過ぎ去ったように見える現在は、価格の適正さが再認識され始めた。しかし、やはりと思える部分もあり、逆に高いことが評価されるようになったのは、大衆の心理の面白さなのかもしれない。結局は、信頼とか信用があってこそのものなのだが、どうにもうわべだけしか見えない人がいて、その上流行に流されてばかりいるから、賢い買い物ができるはずもない。価格が変わらないのなら、何かおまけは付いていないかと、本来買おうとしているものよりも、そちらに気持ちが移ってしまう人もいて、見事に相手の仕掛けた罠に嵌まってしまう。何を買おうとしたのかを忘れてしまうくらいだから、おまけのこともすぐにどうでもよくなり、結果的には無駄な買い物をしただけとなるわけだ。品物がどんどん溜まっていく人々の一部には、こんな遣り取りを経験した人もいるのではないだろうか。しかし、買い物は何か品を買うばかりとは限らない。お金を払って何かを手に入れるだけでなく、手続きとかサービスとか形にならないものに支払うものもある。こちらに様々な倹約主義を持込み、たとえば公的なサービスを安く、場合によってはただで受けるために、引っ越しまでする人がいたのには驚いた。一見賢い生き方に思えるかもしれないが、自治体が決めたこととはいえ、元々税金で賄われている事業である。それまで、その土地とは無関係だった人が突然そこに現れ、恩恵を受けることは、当然の権利があるとはいえ、何やら矛盾がありそうに思える。特に、昔問題になっていたのは高齢者へのサービスであり、退職して税金を納めることのない人が、それを受けるのは何だかおかしな気がしたものだ。これ以外にも税金やら、他の収入をあてにした事業で、こんな現象が起きているのではないだろうか。倹約といえばいえないこともないが、しかし誰かに過度な負担がかかっているものが。
「おまえもか!」と言いたくなる。最近テレビを見ていると、各局それぞれに独自の番組を流しているようでもあるが、その実、人気番組の焼き直しだったり、よく似た企画に基づく構成だったり、独自性が失われてしまったように感じられる。視聴率なるものが絶対視されるようになってから久しいが、まさにそれに振り回されているような状況なのだろう。
その中でも、広告収入を気にするあまり、視聴率だけを追い求める必要のある民放と違って、天下の何とかと評される局だけは孤高と呼ばれようが、何とか独自の路線を築いてきていた。それがこのところ、様相が一変しているように見える。不祥事が相次ぎ、視聴者が離れていく勢いを止めることに躍起になったとき、その動きが始まったのではないだろうか。孤高ではなく、相手にすり寄る誰かのような、そんな存在に成り下がったように感じられるのだ。まずは、他局の人気番組の類似版が幾つか登場し、それぞれかなりの批判を浴びせられたが、我関せずを装っている。確かに、構成力や撮影技術などに長けている分、出来上がりが見事なものになるのは当然だが、それにしても独自の企画力は何処へ行ってしまったのか。そんな中、これまた他局にはない特徴の一つだった報道番組の構成まで、右にならえといった雰囲気が漂うようになってきた。下世話な話にまで首を突っ込み、沈着冷静ぶりが売り物だった報道姿勢が大きく崩れ始めた感じがする。これはこれで、情報収集力や分析力に一日の長があるのだろうから、他局に先んじることは可能なのだが、それにしてもこんな話に首を突っ込むようになっては、わざわざ金を払う必要があるのだろうかと、逆効果を心配する声も上がるのではないだろうか。一般大衆の嗜好に合わせて、番組の企画を進めており、皆の放送局になることを目指しています、といった宣伝文句が並びそうな勢いだが、これでは下品な視聴者にばかり目が向いているとしか思えない。確かに、多数派は下品な方だという分析は正しいのだろうが、たとえ大衆からの支持を欲しているとしても、そこは守るべき線があるはずだろう。こんな調子で転がり落ちていくと、はたしてどんな末路がやって来るのか、あまり想像したくないところである。少なくとも、報道番組だけは民放のようなやり方ではなく、ただ単に事実を伝達することに専念して欲しい。芸能番組化まではしていないとしても、それに近いところまでやって来ているのは確かで、そこまで堕ちてしまったら、本当に見放される日は近いということになるだろう。
当事者以外は皆苦笑いで聞き流してくれる裏金、家庭でへそくりと呼ばれる代物だ。微笑ましくも思え、涙ぐましい努力で貯め込む人もいるだろうが、そういう人から見て最近の報道はどんな風に映るのだろう。貯め込む努力はかなりのものだったのだろうが、発覚しそうになったときに、常識外れの始末を思いつく頭にも脱帽するしかないところだ。
企業の不正が話題になる一方で、自治体などの公の機関の不正も跡を絶たず、とにかく当事者たちの何でもありという考えに呆れるばかりだ。自分の金をどう工面して貯め込むかが問題となるへそくりと違って、所詮は他人の金であり、様々な事情から以前のように思い通りに使うことが出来なくなったものである。慶弔費を公費から捻出していたこと自体不思議に思う人もいるだろうが、慣習化していたというだけで、そこに確固たる理由はなかったに違いない。だから、それはいけませんよと指摘されたら、あっさり引っ込むしかなかった。更には、飲食費についても、企業における交際費のような感覚は官公庁には馴染まないと言われれば、これまた何とも反論のしようはない。結局、次々に駄目出しを食らって、懐を痛めなければいけない状況に追い込まれる。特に興味深いのは、裏金のかなりの部分が自分たちが楽しむ飲食、遊興に使われたことだろう。本来、接待費などの目的は便宜を図るためのもののはずだから、相手が必要となるが、互いに仲間を相手にしてといった言い訳としか思えない目的を抱いていたようだ。それにしても、出入りの業者を倒産に追い込んでまで、何がそんなに必要だったのだろう。本当に必要ならば、戦いを挑んででもそういった予算を獲得しようと何故しなかったのか。その辺りにこの問題の発端が見えてきそうな気がする。つまり、こういった裏金の使用目的は明らかに社会一般で非常識と思われることを本人たちが認識しており、日の当たる場所には持ち込めないことを知っていたわけである。にもかかわらず、こういう活動が必要悪として存在し、そのお相伴に与りたいと思う人が沢山いたに違いない。当然ながら、必要と認識していたとしても、身銭を切ることなど露ほども思わず、何とかその為の資金を工面しようという動きに対して、反対する気など毛頭なかったのだろう。そういうことが積み重なり、更にはこういった支出品目の制限が始まる前から、既に実行していたに違いない裏金捻出を更に拡大しようとしたのではないだろうか。まあ、そんな流れの中で誰もが大した罪の意識もなく、伝統を守り続けたとしても、それ自体は不思議には思えないことかもしれない。しかし、今もう一度考えて欲しいのは、裏金工作の問題そのものではなく、本当に必要な金の使い方についてなのだ。遊興、飲食、慶弔、何でも良いが、必要ならばきちんとすべし。当然、今当り前のように使われている予算についても同じことなのは言うまでもない。
今どきの仕事選びは、自分のやりたいことをやるのが基本らしいという話を書いた。就職氷河期に、企業から蹴られ続けた人々は好きなことも出来ず、溜まる鬱憤を晴らす場所も見つからず、たまたま訪れた好景気を機に転職するらしい。これも、根底には人生の生き甲斐を見つけようとする気持ちがあるようで、個人主義の象徴と言えるのかもしれない。
ほとんどの人は経験のないことに対して正確な判断を下すことは出来ず、なるべく自分の経験に当てはめて考え、他人のことなら助言をする。今の社会状況はこれまでの自分の経験とはかけ離れたところにあり、誰もが先を読めないのだろうが、しかしその一方で一種安定した時代であり、自分たちが育った頃のような大規模な変化は起こらない。そうなれば、慎重に構えるのが得策というのだろうか、様々なことにゆっくりと対応し、時間をかけることを悪と見做す雰囲気はない。親の世代がそう考えれば、子供に対して先回りをしてやることの次に来るのは、本人のしたいようにさせるとなるのも仕方のないところだろうか。これもまた、別の形の個人主義の現れであり、上手く運べば皆気持ち良く生活できる。しかし、逆の目が出れば、一気に停滞、沈滞といった澱みの中に吸い込まれてしまう。時間をかければ全てが上手くいくと信じる人がいること自体に疑問を抱く人もいて、多くのことは判断を下してから微調整をすることで成立すると主張する。確かに、自分の経験からしても、自信があって何でも準備万端にこなすなどといったことが起きた試しはなく、とにかくまずは動いてからといったことばかりだった。それに比べると、安定期に入った現在では、やりたいことをやるにしても、まずはやりたいことを見つける必要があるという何とも悠長な言い訳が罷り通り、まるで政治の世界のような先送りの人生を選択する人が増えている。その一方で、下準備もなくやりたいことを列挙し、全てが可能であるように振る舞う人も増えていて、下積みや経験の大切さが蔑ろにされているのがよくわかる。成功者のことばかりが取り上げられ、ほんの一握りの特異な経験が成功の秘訣のように扱われるから、怖い物知らずの若者たちは一見容易に見える方に引き寄せられる。全てのことが結果論でしかなく、その最中にどんな展開があったかを細かく分析することもないから、無知な人々が騙されるのも無理からぬことだが、それにしてもあまりにも世間知らずなのではないだろうか。何も持たないうちから自信を持つことは不可能で、そこにある過程が必要となるのは当然なのだが、今はそこが覆い隠されている。その代わりに、成功するための唯一の道を示すことが肝要とされ、自分に合わないそれを追いかけ回す人生を送る人が増えているのだ。何よりも始めることが大切と言わなくなったのは、失敗、減点を恐れる時代だからだろうか。