門外漢の発言は信用できないとしてしまうと、自由な議論はなくなりそうだ。専門家だけに任せておいて、という時代もあったのかもしれないが、最近は自分なりに調べておいて、かなり本質に迫る意見を述べる人もいて、それはそれで意味ある行為と評価する人も出てきた。だからと言って、門外漢が全て意味のある発言をするとは言えないのだが。
法律絡みでもう一つと思うのだが、これの裁きをする機関が裁判所と呼ばれる。裁判では、犯した罪を分析し、それに見合う罰が決められる、と思っている人が多いと思う。しかし、このところの裁判絡みの話題を追いかけると、とてもそうとは思えない状況にあるのではと思えてくる。宗教団体の起こしたテロの責任を問われた人は、その責任能力に関する議論や手続き論などで紛糾するうちに、いつの間にか刑が確定した。真実を知りたかったのにと意見を述べる人がいるが、裁判が継続したとしても期待できたかどうか、怪しいものである気がする。酒酔い運転で事故を起こし、被害者を殺した罪をどう裁くかで議論が沸騰し、別途用意された罪の適用がどう行われるかが問題となっている。世間が騒いだ途端に厳しく裁かれるとしたら、そこにある真実とは何なのか、さっぱりわからなくならないだろうか。早速の対応として弁護士は、その適用を疑う発言をしたらしい。粉飾決算をした企業の社長がその責任を問われたとき、自分にはその権限も能力も責任もなかったと主張することは、自分を守るために必要な権利のように言う人もいるが、どうなのだろう。裁判がそれらの背景を明らかにするとしても、彼の責任は結局問われるしかないように思うが、何か逃げ道があるとしたら、裁判の意味は何処にあるというのだろう。こんなことを思いながら、この手の話を聴いていたが、そこに更に現状を如実に表す話が飛び込んできた。株取引で不正を働いた人間が、捜査段階で認めた罪を、その罰が重すぎるので認めない方針とした、というものである。これらの全ての話に共通することは、何が事実かを明らかにするのが裁判と、一般の人々が思っていることが、通用しない世界が築かれているということだろう。如何にも何が行われたかを明らかにしているように見えて、その実全く違った結論が導かれたり、様々な心理戦が繰り広げられる。元々、人を裁くことは事実に基づくはずだったのに、裁判の過程に様々な変化が生じ、そこに他の要因が入り込む余地が出来た。どこかの国に存在する司法取引は、その最たるものに思えてくる。今の流れがそれを基本として形成されているかぎり、それをせき止めたり、変えたりすることは不可能なのだろうが、それにしても、異常にも思えてくる状況ではないだろうか。たとえば、心神喪失と死刑とを天秤にかけたとき、どちらを選ぶか。精神疾患から回復してノーベル賞をとった人もいて、可能性にかける意味はありそうなのだ。
近くにいないだろうか、いつもブツブツ文句ばかり言う人。不平不満を並べて、何やらいつも問題を抱えているように振舞う人がいる。愚痴をこぼすと言うと、少し遠慮がちな雰囲気があるが、そんな感じではなく、どちらかと言うと自分が抱いた他人の欠点やその批判を強く主張する。攻撃的に見える人もいて、聞き手によってはたじたじとなるようだ。
他人の力量を測ったり、彼らの行動の問題点を見出すことは、人と一緒に働くために時に必要なことだ。しかし、それは見極めのために必要であり、それを利用して適材適所を考えたり、仕事の分担を考えることが主目的だろう。立場によっては、そういった考えが通用しにくく、自分の考えはあるのにそれを活かす場を得られない。そうなると、不満が溜まることも多く、どうしても愚痴とか文句という形で外に出るしかない。確かに、自分と他人を比較して、そこに優劣のようなものを考えるとき、それが正当なる評価に繋がっていれば、誰も不満を募らせることはない。しかし、自己評価と他者による評価が一致しないことはしばしばあり、それが現状に反映されてしまうと、どうにも居たたまれなくなるだろう。そこで、他人の批判や不満を並べることになるようだが、さて、この流れは妥当なものだろうか。ここでも人それぞれになるから、こういった一面だけを捉えてどうこう言うのも変なのだが、現状に満足できず、何とか打開したいと思うのなら、批判を並べても仕方が無いように思う。実際に、自分の評価が上がるように、あるいは正当なものとなるように努力すべきであり、他人を貶すことが自分の評価の向上に繋がるとは思えない。比較といった相対評価は確かに誰かとの優劣関係なのだが、相手を下げるようにしたとしても、自分が上がっていくわけでもない。確かに比較は比較なのだろうが。それより、厳しい批判や文句がいい方向に働くより、逆の方向に向かうことも多く、自分を貶めることになってしまう。そうなれば、折角の冷静な分析に基づく批判や評価も、別の形の理解に繋がってしまい、現状の打開どころか、さらに袋小路の奥に入り込むことになってしまいかねない。だったら、そんなことに時間を費やすのではなく、自分を高め、成果をあげることに専念すべきだろう。そうすることで、評価は自然と高まるのではないか。確かに、思い通りにことが進むとは限らず、それが更なる不満の素になるかもしれないが、逆に向かって進むよりはずっとましではないか。少し時間がかかるだろうが、まずは自分のためになるような方向に進むようにしたいものだ。
法律で禁止されていることを行えば罰せられるが、それは何故だろう。法律で決められているからだろうか、それともやってはいけないことを法律にしただけなのだろうか。法律は何も人を縛るためにあるものではなく、ごく自然に行為の善悪に基づき、それに対して適当な罰則を決めているものなのだろう。でも、犯した本人はそう思っていないことが多い。
飲酒運転は多くの国で禁止されているが、その基準はかなり違っている。ということは、飲酒による判断能力などの低下の程度に差があることになり、どこかおかしな話に思えてくる。一方、自分が飲んでしまった後に車を運転するかどうかを決めるとき、気が大きくなった人間の判断は、さて、正しいものと言えるのだろうか。飲んだら乗るなと言われても、そこに車があるとつい、と出来心で、となる人も多いのだろう。かなり厳しい罰則が適用されても、依然として多くの人々が捕まったり、事故を起こしているのだ。規制を厳しくとか、自動車に仕掛けを付けてとか、そんな話が次々出て来るが、そんな仕掛けや罰則を上手く潜り抜けようとする人はそう簡単に減らないだろう。結局、自分の気持ち次第であり、判断が鈍ってしまったところで、適切な行動をと訴えても無駄なのかもしれない。職を失うと言われても、会社員ばかりか、公務員でも同じようなことをするわけで、全ての人に効果を及ぼすのは難しそうだ。その辺りが見えてきたせいか、ついには飲食店や同乗者に対する罰則までが大きく取り上げられるようになり、いつものことながら的外れの議論になりそうな気配である。車の運転をしていて気づくのは、こういった厳しい規制の適用に、もう少し工夫があっても良さそうだということだ。飲酒運転も、最近は代行運転という商売が認められるようになり、随分減少したはずである。ただ、依然として一部でしか通用しないという話もある。こういった対策を講じるのは、一部の法律を改正するだけで済むわけだから、どんどん行って欲しい。もう一つ、飲酒とは関係なく、事故の原因となると言われる速度超過についても、一律に規制することばかりで事故を防ぐ意味が薄れているものもあるように思う。高速道路での事故は対向車がないだけに、大きくなることは珍しいが、ほんのたまに暴走による玉突きが起きる。速度超過が最大の要因だろうが、全線に渡る規制がどの位の効果を産むのか、疑問に思えることもある。危険地帯と呼ばれる地域での事故を減らすには、その周辺での規制を厳しくするようなメリハリを利かす方法がありそうに思うが、どうだろう。危険なカーブにそれまでと同じ調子で入るよりは、事前に減速させる規制を採り入れることで、調子を変えることが効果を持ちそうに思える。運転者の心理を考慮に入れない規制は、結局のところ効果を減じることになるのではないだろうか。
キレる子供が増えていると言われていた。子供だけじゃない、と思う人もいるかもしれないが、それはそれとして、どんなものなのだろうかと思うところもある。そこへ小学校でキレる子供がという話が伝わってきたのだ。なるほど、そんなに増えているのかと思うと同時に、色々首を傾げたくなることも出て来る。重大問題なのだろうが、はてさて。
まず、疑問の一つは、キレるという行動にある。最近一般的に使われている「キレる」という言葉は、どんな意味なのだろう。怒るとか、喚くとか、そんな意味と思う人もいるだろうが、あるネット辞典には「突然怒ったり,見境がなくなることを,俗にいう語」とある。怒るという解釈は当たっていたようだが、ここで問題にしたいのは、見境がなくなるという意味の方なのだ。人は怒りが頂点に達したとき、後先考えずに喚きまくったり、暴れたりするようだが、そのことを指しているものと思われる。しかし、全てではないにしても、最近の少年犯罪の加害者の一部が少年法の制限を口にする話からして、彼らが単純に見境なく、犯罪を犯しているようには見えないところがある。特に、小学生ともなれば、更なる年齢の基準から保護される立場にあるわけだから、それを知ったうえでの行動であるなら、キレているとはとても言えない状況にあるのではないか。調査の多くは本当に、して良いことと悪いことの区別がつかず、ただ怒りや欲望に駆られての行動から来るものなのだろうが、はたしてその範疇に入らないものがどの位あるのだろう。少年法とは行かないまでも、罰を受けるのは相手という前提で行動を起こす子供がどれほどいるのだろうか、それが気になるところだ。もう一つの疑問は、学校での教師の対応にある。すれ違いざまに罵声を浴びせられて、といった程度で衝撃を受けるとしたら驚くばかりだし、たとえ暴行を受けたとしても、それに対抗する手段を持ちあわせないのはどうかと思う。それをまた、周囲が責任をもって守らねばならないという論法を持ち出す人が出て来ると、また馬鹿げた騒ぎの始まりを危惧しなければならない。組織とか社会を持ち出す人の多くは、おそらく責任感をどこかに失った人々なのではないかと思うが、まずは個人の責任において行動すべきだし、組織は正当な行動を支持することが大切なのである。何でも大袈裟に騒ぎ立て、批判の対象を探そうとする行動には、現代社会の抱える問題が現れているのではないだろうか。キレる子供の心配より、そういう大人の心配をすることが重要に思える。ただ、あの連中が変わることを期待するのは無理だろうが。
自由とは何か、ある人は自由という言葉には自らという意味が含まれていて、英語で言うlibertyとかfreedomとは明らかに違うものだと言っていた。真意はまだつかめていないが、今自分が自由な立場にあるかどうかを問われたとき、どの位の人が頷くのだろうか。様々な縛りの中で汲々と暮らしていると思う人は、答えること自体を面倒と思うのかもしれない。
自由を論じるとき、責任を問う姿勢が目立ち始めている。勝手気侭な行動を自由と言うのではなく、自分なりの責任ある行動こそが自由と呼ばれるという意見だ。言論はその最たるものなのだろうが、無責任な発言を繰り返し、多方面に悪影響を及ぼす人は自由人とは呼ばれにくく、悪人呼ばわりされることも屡々である。その一方で、その人なりの責任感を持ち、その影響の及ぶ範囲も考慮したうえで、自分の思うところを発言する人は、内容がかなり辛辣なものでも、受け容れられることが多い。全体を見渡したときに、そこに溢れる知性というか、深慮がこちらに伝わるから、と言ってしまうと、本当に真剣に考えたうえで意見を述べる人に対して礼を失することになるかもしれないが、何となくその雰囲気が伝わるものだと思っていた。ところが、最近そういった考えが思い込みに過ぎないことがわかり始めた。たとえば、経済新聞紙上で小説家などがエッセーを書く欄があるのだが、そこにある人が猫に関する自らの経験を書き記したとき、猛烈な勢いの反論が寄せられたのだそうだ。命を大切にする気持ちの現れと言ってしまえばそれまでだが、兎に角勢いも数も尋常ではなかったらしく、後日特集のような形で纏められたのには驚いた。意見を交換する形で纏めたのは編集者の判断だろうが、ある意味の収束を促すには良い方法だっただろう。その後、想像でしかないが、議論の場は他に移ったのではないだろうか。一新聞紙上とはいえ、公とも思える場での議論は冷静な判断が入り込む余地があるからまだ良い。ネット上での議論は一度火がつけば、その場が燃え落ちるまで続くというから恐ろしい。ブログと呼ばれる仕組みも、勝手気侭な意見の垂れ流しではなく、読者との関わりを持てることが人気を博しているが、それが悲劇を産むきっかけとなることも多い。有名なブログでの記事への過激な反論から、記事削除では治まらず、閉鎖に追い込まれた話があった。恐ろしいのは削除した記事が繰り返し複製されて、多くの場所に貼り付けられたことで、火を鎮めることの難しさを物語る。もう一つは、自らの障害についての著書が爆発的に売れた人の作ったブログの記事は、一部の記述に対して多くの反論が寄せられたそうで、真意を伝えることの難しさの現れだろうか。政府による言論統制は過去のこととなっているが、一個人の集まりとはいえ、こういった流れになることの恐ろしさを考えたほうが良いように思う。互いの自由までも侵害する行為は、避けられるべきだから。
年代別の人口を考えるときに、必ず問題になるところがある。その年齢層に属する人々はある決った呼び名で呼ばれ、様々な社会問題に対する影響力の大きさから、まるでその流れを導いているような印象が与えられる。現実には単なる数の論理であり、そこに何かしらの理念が存在するわけではない。ただ単に、多いことは良いことだの現れなのである。
戦後の民主主義の台頭と主に育ってきたこれらの世代は、今転換期を迎えようとしていると言われている。数の論理があらゆる面で通用し、自分たちの世代だけでなく、他の世代にまで大きな影響を与えた人々は、金食い虫への転換をあからさまに批判されるのを嫌い、何とか自分たちの好む世界を築こうとしている。商売をする人々にとって、数は重要な要素の一つだから、こういう時期を逃す手はない。当然、それらの人々の明るい未来を約束するような商品を開発し、その魅力を訴えることによって、何とか売り上げを伸ばそうとする。面白いのは、数が第一ということに慣れた人々は、他人の動向が特に気になるらしく、流行に乗り遅れることを極度に嫌う。だから、他もそうであるといった売り言葉が重要であり、これまでに無い新製品でも、同じ世代には大いに受け容れられていることが大切な要素となる。さて、そんな人々がこれから動き出すのを眺めていると、幾つか、既に始まっているものがあることに気づく。これまでにも、昔を懐かしむ心から始められたものが幾つかあった。地方ごとの祭りの復活はまさにその現れだろうが、それとは違った形で商売として出現したのが、それぞれの時代を名前に使った「村」という施設だろう。その時代の建物を移築し、それを見せ物として入場料をとる施設ができたのは、その時代のものが失われつつあった頃で、このまま壊されるのは忍びないと考えた一経営者の決断によるものだ。随分人が集まることが知られるようになると、次なる出し物が必要となる。しかし、そこではまだ時間経過が十分ではないから、昔懐かしい町並みを売り物とする「村」が作られるだけで、形式は大きく異なっていた。更に時代は進み、次の時代を懐かしむ人が出てきたとき、その対象となったのはまさに例の多数派が育った時代であった。それも、今までのように一つの施設、一つの町が立ち上がるだけでは十分とは考えられず、各地に同じような企画で同じような町並みが再現されることになった。これがまさにこの世代を対象としたものの典型であり、同じようなものが数多く出て来ることが、重要な要素となる。特殊性より普遍性、とにかく似たものの方がいいわけだ。おそらく、これから出て来るものもそんな路線に乗ったものばかりなのではないか。皆と一緒が合言葉のように。
経済が回復基調を見せ始めた頃、悲観派と楽観派では大きく違う見通しが語られていた。当り前のことだが、悲観はあくまで悲観であり、悲劇の台本が大きく取り上げられる。一方で、楽観は流石に喜劇の台本とは言わないまでも、明るい未来に向かって進む真面目な劇の台本が採用されていた。どちらの劇を観たいかは、観客に任されていたわけだ。
結果は、あくまでも結果であり、その予想が外れたといっても、それでその人の人格までが否定されるわけではない。しかし、分析は専ら数学的であるはずなのに、そこから生まれる物語が正反対になってしまうのは、そういう教育を受けていない一般大衆にとっては理解しがたいものである。たぶん、専門家たちの間でも、悲観派と楽観派という分け方はできても、何故いつもそういう流れを作ってしまうのかを説明することは難しいだろう。目の付け方なのか、顔の向いている方向なのか、はたまた気分の作り方なのか、いずれにしても、話を作るうえでは一定の方向を向くほうが楽だろうなという想像はつく。読んだ本のところにも紹介したことがあるが、どちらかといえば楽観的な見方になると思われるものの中に、一極集中の欠点ばかりを挙げるのではなく、その利点をもっといかす工夫をすべきだという意見が載っていた。都会と田舎の差はこれから開くばかりであり、それを縮める努力は大いなる無駄を産むばかりで、その差はあるものとしたうえで、それぞれの良さを活かす方向に動いたほうが、余程明るい未来があるといった話だったと思う。おそらく著者は、格差を気にするばかりで、劣等感にさいなまれて、おかしな投資を繰り返したことが、現状の潰れかけた地方自治体を産んだ最大要因であり、それ以外のことは瑣末なこととしたいのではないだろうか。それより、それぞれがあるがままの形で、それ自体を活かす工夫をしたほうが、かえって良いものを産み出せるのではないかと論じている。但し、ここにはもう一つ大きな理由があり、大都会に人が集中するのは当り前のことであり、それを食い止めようとする努力こそが無駄なのだという論理だ。こちらの方には、反対する人も沢山いるだろうし、実際にそういう大きな流れと逆行する人も多いに違いない。にしても、このままの方向でいいのだという意見なのだが、さてどうなのだろうか。たとえば、文化的な観点から、博物館、美術館、公会堂、など、様々な箱ものが作られ、多くのものが朽ちていったと言われている。その原因は色々とあるにしても、ごく最近最後の県立美術館を造ったところもあり、横並びの精神はこのご時世にも生きていることが確認できる。適材適所を目指すのか、年功序列のような横並びを目指すのか、岐路に立たされていることは確かなのだが、今のところは目立たぬようにといったところか。