数日前、外に出ておやっと思った。何だか甘い香りがするのである。しかし、すぐには何かがわからない。ちょっと考えて、はたと思いついた。金木犀の香りだ。最近、人工的な香りを押し付けられるばかりで、こういうものに触れる機会がとんと少なくなった。そのせいもあり、誰の匂いだろうか、と思うことはあっても、自然のものとは思いもよらない。
金木犀の香りは確かに生きている樹木に咲いている花から匂ってくるのだが、これが自然のものかといえば、そうではない。いつだか書いたように、街路樹に使っているところもあるし、庭木として植えている家も多い。だから、この季節、匂い始めたらかなり強くなり、香水をたっぷりつけた女性の傍にいるような気になる。ある程度のところまでは我慢できるが、閾値を過ぎてしまったら、それこそ不快なほどになるのだ。特に、昼食の前、おそらく一日のうちで匂いが一番強くなる時間だと思うが、食事前の嗅覚が敏感になっている体には、少々堪える感じさえする。季節の変化がこういったもので感じられるのは、この国に暮らす特権だと思うが、それにしても、人間の力が入ることで、極端になってしまったことも沢山ある。草花はその典型であり、香りを伴うものは、はじめのうちは淡い匂いを歓迎するが、あるところを超えてしまうと不快感の方が上回るようになる。といっても、自然とは有り難いもので、少しの間我慢をすれば、峠を越えることになる。ここが人間がふりまいている匂いとは大きく違うところで、迷惑という言葉が出てこない由縁だろうか。一方、アレルギー反応のことを考えると、その原因は何も人工物に限ったものではなく、たとえ人間の手が入ったものと言っても、自然に生えている草花と変わらないものが原因のこともある。最近は合成物だけでなく、天然物にも体に異常を来す成分が含まれることが指摘されており、天然が即座に悪影響を持たないことを示すものではなくなりつつある。これも、人間の方が変化したためなのか、それとも人間の手が入ることによって、極端な状況が生まれたせいなのか、どちらであるかははっきりしないが、いずれにしても、今、この時に、ある程度の危険が及ぶ可能性があるらしいのだ。こうやって、今は楽しむことができる草花の香りでも、そのうち、その成分である化合物に対して、過剰な反応をする人が現れるかもしれない。そうなったとき、他の人々の楽しみを奪って、その人の生活を守る動きが出るのか、それとも、少数派を無視する動きになるのか、ほんのちょっとしたきっかけによるのではないだろうか。まだ、起きてもいないことで、そんなことを想像しても、何にもならないことだが。
最近の報道をみていると、親子の関係が崩れていることがわかる。と言っても、実際にはある特殊な例に限ったことであり、大多数の親子にはそんな崩壊は訪れていないだろう。それでも、心配になる親も、心配になる子もいるだろうし、現実に色々な面で当てはまるところを見つけて、深い悩みの淵に沈んでいる人がいるかもしれない。
自分の状況と明らかに違っていれば、何も心配することはないのだが、事件のあとにそれらの背景が分析され、そこに一致点を見つけたとき、何とも言えない気持ちになるのではないだろうか。本当は最終章に至るまでに様々な葛藤があるわけで、それを抜きにして、一部のことに類似を見出したくらいでは、心配することもないのだが、これほど頻繁に事件が起きると、その気持ちも揺らいでくる。それにしても、何故、あんな状況に陥るまでになるのだろう。たぶん、それとは違う感覚にある人間にとっては、そこのところを理解することは不可能であり、どれだけ分析を繰り返し、深くしていっても、自分にわかる形にすることはできないだろう。それほど特殊な事例であったはずが、何故ここまで急増してきたのか、その理由は定かではない。様々な背景があり、それらが複雑に入り組んだ形で、何かしらの歪みを産みだし、それが拡大したためという抽象的な解釈以外に、全ての事例に当てはまる原因は見つからないだろう。しかし、親と子が異様なほど憎み合って暮らす家庭に起こる惨劇も、親と子が仲良く暮らす家庭に起こる惨劇も、どちらもその答えが極端であればあるほど理解しがたいものだ。互いに何かしらの関わりを持っているにも関わらず、どこかで自分だけを護ろうとする心が芽生え、それが相手に対する感情として表に出たとき、彼らの間の関係にひびが入り始めるのかもしれない。感情以外に結びつきが無い人間関係ならば、それで断絶するだけなのだろうが、切ることができない関係があれば、逃げることができないと思い込んでしまうのは仕方のないことだろう。しかし、少し昔を考えてみれば、勘当だの、縁切りだの、言葉は違っても、関係を断ち切ることで最悪の事態を避ける方法はあった。それができないところに、現代社会が抱える問題の核心があるのかもしれない。一方で、断ち切れず、他方で、許せず、という状態を継続するのは精神的には無理がある。そこに、独特の利己主義と心の弱さが加わった結果があれだとしたら、少しは理解できるだろうか。やっぱり、無理だろう。そんな状況に陥ってもなお、世間体を気にして、自分の身だけを護ろうとする心は理解しがたいから。
嗅覚という感覚について、人はどんな理解や位置づけをしているのだろう。臭いなどというものは余分な情報で、役に立っていないと思う人もいるのではないか。では、鼻をつまんだまま食事をしたらどうだろう。今までと同じ感覚で食事を楽しめるだろうか。こと食べ物に限っていうと、味覚だけでなく、視覚と嗅覚もかなり重要な役割をもつと言われている。
では、嗅覚は食べるという行為にのみ必要なものかといえば、そうでないという声が上がるだろう。同じ食べ物でも、食べられるかどうかの見極めに、その臭いを確かめる人は多い。腐敗が進んでいれば、独特の臭いがするからだ。目で見える異常はすぐに気がつくことができるし、その場所も特定しやすいが、鼻で感じる異常は、そうはいかないようだ。異臭がするという報告が上がり、調べてみたら、ガス漏れだったという話もあるし、誰かが死んでいたということもある。壁に囲まれたところでは、視覚は役に立たないけれども、嗅覚は臭いを運ぶ物質が漏れ出てくれば、何とかそれに気づくことができるのだ。こんなことを書き並べても、嗅覚の役割は精々そんなところだろうと言われそうで、現に、そんな状況だったと思う。ところが、最近病気との関連からこの感覚に注目が集まっているようなのだ。いつ頃だったか覚えていないが、ある病気になると独特の口臭がするようになるという話があったと思う。その関連以外、何も覚えていないから、ここで取り上げることはできないが、ごく最近話題になり始めたのは、ちょっと違った話なのだ。一時は不治の病と恐れられた癌も、最近は治療によって完治するものも増えてきた。肝心なのは発見の時期であり、早いことが絶対条件になっている癌も多い。ところが、血液内の成分のような検査の指標があるものであれば、早期発見も容易になるのだが、癌の種類によってはそういうものが見つけられておらず、X線や超音波による検査に頼らざるを得ない。この場合、ある程度の大きさを上回るものでなければ見つからないから、場所や種類によっては、発見が遅れることもある。そんなところへ、信じがたい話が飛び込んできたのは、これまたいつ頃だったか記憶に無いが、犬が飼い主の癌を見つけたという話だ。詳しい話は覚えていないが、犬が騒ぐので不安になり、検査をしたら早期の癌が見つかったという話だったと思う。そんな馬鹿なと思うところもあり、番組もそういった姿勢が残ったまま、半信半疑で伝えている雰囲気があった。その後、詳しい解析が進み、今ではその為に訓練された犬が登場するまでになっているとのこと。何とも不思議な感じがするが、異常増殖する組織から特殊な物質が滲みだし、それが独特の臭いを発するのだろうか。いずれにしても、嗅覚にはそんな役立ち方があるらしい。
自由にできると言われたら、多くの人々は、自分なりの選択ができると受け取るだろう。まさに、そういった遣り取りがここ数年、様々な場面で行われてきた。その結果として残ってきたものは、選択ができない自由という何とも不可思議な状況である。表向き、書面上は個人の選択に任すとあるのに、その実、選択の余地のない状況に追い込まれたのだ。
個別の例を引き合いに出すまでもなく、人々は何となく思い当たるところがあるだろう。弱者を更に追い詰める政策がどさくさ紛れに出されていき、説明不足でほとんど討議されないままに成立する。弱者にも責任はあるはずという論理は前面に出されていないものの、結果的にはそういう思惑があったとしか思えない展開だった。様々な自由を目の前に出されたとき、一瞬薔薇色に見えていたかもしれないが、それがあっという間に奈落の底、真暗闇への入り口だということに、徐々に気づかされていく。如何にも信頼できるふりをしつつ、勢いだけで綻びだらけの施策を実施するのは、このところのやり口だったのかもしれないが、それにしてもここまで酷いとはと思える。にもかかわらず、それに気づかないのか、気づかぬふりなのか、いまだに好ましい印象を持つ人がいることには驚くばかりだ。このやり方は、自由と責任という個人に向けられるものを、別の形で表したものなのではないか。こういう言い方をする場合に、その個人に任されたものであるという意味が込められていると思うが、ここで出てきた自由とは、別のものと組にさせられているようだ。つまり、自由と強制とでも言おうか、選択の自由を奪った上での見かけの自由を押し付けられたわけで、どちらも外から強いられたものなのである。それを、一部の選択ができる余裕のある人々は、両手を上げて受け容れるのに対して、それだけの経済力のない人々は、更に社会の隅に追いやられてしまうわけだ。その実質的な効果もさることながら、心理的な影響は思っていたよりも大きく、社会混乱が増大する兆しは多くのところにでているように思う。ここまで追い込まれても、社会的な弱者には力がなく、応援団も少ないわけだから、自分たちで何とかすることは不可能に近い。しかし、本来ならばそういう声を聞こえるまでに増幅する役割をもつはずの機関の多くは、全くその機能を果たせない状況にある。何故なのかはわからないが、大衆受けするものを専ら取り上げ、真の社会問題を取り上げることを忘れてしまっては、制動のきかない車と同じなのではないか。
ちょっとお遊び的な話をしよう。といっても、数字が嫌いな人にとっては、遊びも何もあったものじゃないということになるかもしれない。発端は、ある番組のことなのだが、それを観ていたわけではない。ただの伝聞だから、色々な間違いが含まれているだろうが、それはそれとして、少し数字の遊びを楽しんでみようといったところである。
最近のテレビの番組は、どうも視聴者参加のものが少なくなっているようにみえる。理由は定かではないが、一部の玄人はだしの視聴者が次々と番組を荒らしていった結果なのかもしれない。いずれにしても、何故だろうと思えるほど、賞金のかかったものに見慣れた顔が溢れている。一体全体、賞金に意味があるのか、はたまた、それも含めての番組なのか、さっぱりわからない。そんな中で、幾つかの企画がそれまで積み上げた賞金の処分と次の段階への権利を天秤にかけることをしている。問題は、その処分の仕方で、クイズならば正解か間違いかだから、賞金を失うかあるいはかなりの減額か、それともそこで止めることによる全額獲得かの選択となる。つまり、減額の程度と正解の期待との微妙な均衡が大きく影響するわけだ。多くの人は勢いで次に進むが、正解率は期待ほどではなく、うなだれる顔が大写しになる。これが視聴者参加ならば、金額の多少の問題だけなのだろうが、はて出演料をいただく人たちにとっては、どんなものなのだろう。それに引っかけたような番組があったそうで、沢山用意された箱には多少様々の金額が入れられており、選んだものに入っていた金額を手にできるという仕掛けだった。出演者が選び、残りの箱の幾つかを司会者が選んで開けさせて、更に最高金額の半分を代わりに与えることによって、心の迷いを演出するものだったらしい。そこでの確率は、おそらく司会者が他の箱を開けようが開けまいが変わらないはずだし、明らかに半分の額を確実に貰ったほうが得になるはずが、全ての出演者は、幾ら入っているかわからない箱に執着したとのこと。心理分析として面白かったのは、出演者は全て番組にでることを商売とするわけだから、如何に長い時間目立つかが肝心で、その為には迷ったうえで、箱を開けさせることが重要な選択なのだそうだ。ありゃまあ、という落ちだが、どう考えてもおかしな話である。期待値という、ここでは金額とその確率を掛け合わせたものでは、明らかに確実なものの方が上になるのに、将来の収入の期待という別の要素が入ったからだろうか。たとえば、一千万円の入った箱と空の箱のどちらかを選ぶのと、五百万円を受け取るのと、どちらを選ぶか、考えてみて欲しい。期待値は同じはずだが、それとは別の心理が働くはずだ。確率が今一つ人々に受け容れられないのは、こんなところに理由があるのかもしれない。
長寿国になったことを実感するのは、たとえば、自分と同じ年代の人々が親の面倒をみていることだろう。平均寿命から想像するに、昔なら、平均的なところとして既に他界した親を持つ人が多かったのに、最近はどうも様子が違う。そろそろその時期といった感じの人がいたり、今まさに介護の真っ只中という人がいる。親、自分たち、子供の悩みばかりだ。
そうは言っても、今は過渡期にあり、介護の仕組みも不安定で、目まぐるしく変わっている。その一方で、同居する人は少なくなり、誰に任せるのかを悩む人が増えた。そんな調子だから、一部の産業は活況を呈しているようだが、その実情はかなり劣悪なもののようだ。何をどうするのか、専門家が養成されつつある時代だから、当然のことながら、これといって決ったものはない様子で、それぞれ独自の道を歩んでいたり、所属する個々人の判断に任せている場合もある。そうなれば、矛盾が生じることもあるし、個人と個人のせめぎ合いのようなものも出てくる。誰とでも上手くいく人が全てのところに存在するのなら良いのだろうが、そんなことはあるわけもなく、ただ色々な問題が報告されるだけだ。より良いものを手に入れるためには先立つものが必要という論理ばかりが先行しているが、その実、高ければ良いという相関は不確かなものでしかない。結局のところ、特定の方式で、万人に通じるようなものはまだ見つかっておらず、個々の場合に応じて、何とか工夫を重ねるしかないのが、現状なのではないだろうか。社会的な整備が進んでいないところへ、各家庭では問題が次々と噴出してくるわけで、待ったなしの状況にある。にもかかわらず、整備が進まないばかりか、両手を上げて迎えられたはずの最新施設もその運営に綻びが目立ち始めている。人と人との関わりが核となっているものだけに、ただ設備さえ整えばいいというわけには行かないのだ。病院での問題と似たところがあるが、療養の末の回復という終着点が見えているものと違って、人生の終末を迎えるしかない施設では、関わりの持ち方に違いが現れたとしても不思議ではない。家族が看取ることが基本としてしまうと、これまた現状とかけ離れてしまうのだろう。こういった話の進め方を多くの人々は避けているように見える。しかし、実際には、家族と一緒にいようが、施設にいようが、本人の気分がどうなるかが最も大切なことであり、それを見極めるための一つの考え方として同居の状況を分析する必要があるだろう。子供を育てる段階で、独立を強調する海の向こうのような状況なら、今のやり方は正しい方向かもしれないが、仲良し親子が育つ環境では、正反対なのかもしれないのだから。
最近訪問するのは、下品な広告を貼り付けていく人だけという状態だった掲示板の様子が、変わり始めている。どんな形にしても、一方的な塵芥の投げ込みより、それなりの意見の交換の方が意味のあるものだと思うし、それが関わる人にとって何かの役に立てば、インターネット上の意見交換の場の本来の姿になるのだと思うからだ。
こんなことをわざわざ書かねばならないほど、この世界は荒れてしまったらしい。荒れてしまうのは、それに与する人がいるからであり、そういう人間が自ら消滅しないかぎり、この状況は変わることはない。排除という仕組みはある程度機能するけれども、それを乗り越えてでも、自分の欲求の捌け口を求める人にはほとんど効果を示さないからだ。この仕組みを考え出した人も、ここまでの発展は描いていなかったはずだし、おそらく、積極的な参加の形として、今巷で話題になっているようなものは想像できなかっただろう。しかし、現実はそんなものかも知れない。人間の欲望は留まるところを知らず、高いほうにも低いほうにもきりがないのである。開始当時に、たとえばこんなことを調べたら、どんな回答が返ってきただろうか。つまり、この仕組みはどんな使われ方をされるかとか、どんな人が参加するかとか、そんなことである。たぶん、予備知識のない時代だから、様々な意見が出て、収拾がつかない状態になったと思うが、それぞれについて回答の数をまとめることはできただろう。その数は多くの場合百分率に表されるが、そういったものを見たとき、人はそれをどう解釈するのだろう。数字が大きければありそうなことであり、小さければ無さそうであると考えるのだろうか。それとも、単に多くの賛同を得たかどうかと見るのだろうか。百分率という表示は、全体を百と見たときの割合を示すわけだが、確率と呼ばれるものとよく似ている。こちらは、全体を一と見做して表示することもあり、だから小数となることもあるが、実際には百分率表示も使う。でも、これらは数字としては似たものになるけれども、全く違ったことを表しているのではないだろうか。つまり、事前調査のようなものは、起きうる事象を提示して、どれが起きるかを尋ねる。それに対して、確率を論じるほうは、起きうると言っても、ある程度起きることが予想できる事象のみを提示する。ここに大きな違いがありそうに思えるのだ。前者は、全体が百になる必要は本来ないわけで、後者が百という括りの中にあるのとは大きく違う。一見同じように見えるものも、単に数字とか単位とかが同じなだけで、全く違う基盤を持つわけだ。確率を論じる話でも、どこかに絡繰りがあるものもあり、それに惑わされることも多い。さて、今の議論がどちらに向かうのか、誰にもわからないが、賑やかになるのは歓迎だ。