悪いことをしたら罰せられるべき、これだけ言われたらほとんどの人が頷くだろう。しかし、どの程度の罰を下すべきか、細かな話になったら簡単ではない。罪の程度に見合う罰の大きさ、と書くと如何にも簡単そうに思えるが、実際には程度の判断など、簡単にできるものではない。そこには絶対的な指標はなく、相対的な物差ししかないからだ。
人を何人殺したら、という生々しい話がこのところ巷を騒がせているようだが、これもそういった迷いの例だろう。厳しく罰する風潮が最近は強くなっているから、一時のような緩い感覚ではついてゆけない。他人に厳しくとか、身内に甘くとか、そんな感覚なのかもしれないが、いずれにしても、勢いがついた世論は留まるところを知らない感じだ。そのまま、全体を押し切ってしまえば思い通りに事が運ぶといった感覚をもって、訴えている人も増えていて、何となく空恐ろしい気がしてくる。もう一つ、今度は刑事罰のような法律で定めた形ではないが、それぞれの組織が規律を守らせるために設けた制度で処分というものがある。懲戒とか、諭旨とか、言葉だけ見ても理解しがたいものだが、これについて最近話題になっているものがある。事故が多発し、その原因が飲酒によるものと発覚した場合に、罪を犯した人間は刑事罰を受けるだけでなく、組織による処分を受けるという話題だ。急増したわけでもないのだろうが、目立つ事故が多発したとき、取り締まる側は強化を発表した。しかし、その効果はなく、依然として検挙される数は減っていないという。何しろ、はじめの発表後も検問が行われることはなく、おそらく警告だけで効果ありと踏んだのではないだろうか。当てが外れて、遅ればせながらの検問の報道があったが、それでも減る兆しは見えない。そうなれば、処分を重くしようと考えるのが現代社会の常道のようで、特に目立った公務員に対する重い処分が当然のことのように決められていく。横並びの決定に、当り前のことと思う人もいるだろうが、その実態についてじっくり考えたうえのことだろうか。ある自治体の首長が、飲酒運転即免職は、他の罰則との差が大きすぎると指摘して、導入しないと述べていたが、元々の仕組みからいえば、当然の主張に思える。一時の感情とか、世論の圧力とか、敢えて取り上げられることが少なくなったが、最近はそういったものが目立ち始めているのではないだろうか。当然のことながら、組織そのものがそれを先走って気遣い、厳しい処分を下す例も増えている。論文捏造で訴えられていた人物に関する調査の終了が伝えられ、一部の新聞にも取り上げられていたが、以前話題になったものと違った、徹底的な原因究明の姿勢には、行き過ぎの感が否めない。この徹底ぶりは、大勢の向く方向への同調というある世代の特徴から来るものなのだろうか。
ガソリンが高騰して、安値の店を探して市内を走り回る人がいるかもしれない。しかし、少し考えてみればわかるのだが、ほんの数円の違いでは、そこまで車を走らせるガソリン代の方が高くつくかもしれない。安売りの商品を買出しに奔走する人も、その手間との比較をした場合、得をしているのかどうかわからなくなる。この場合はたぶん気分が最重要の要素なのだ。
世の中には得をしたかどうかを論じることがよくある。しかし、はじめに書いたように得をした気分になって、実際にはそうなっていないことがよく起こる。得という言葉に振り回されて、つい本質を見失ってしまうからだが、これを読みながらそんな馬鹿なと思っている人に限って、気がつかずに損をすることがあるのではないだろうか。得を追いかけていたのに、いつのまにか損をつかまされる。そんな図式だ。冷静にならなくても理解できるだろうが、たとえば振込みの手数料や他の銀行での手続きにかかる余計な料金を嫌って、わざわざ電車で出かけたら、明らかな損失だが、それが車で出かけるとなった途端に、そんな気持ちにならない人もいるだろう。同じようにそれなりの経費がかかるのだが、自動販売機で金を支払う場合と、数日に一度の給油では、感覚的に違っているような感じがするらしい。自転車で出かけたといっても、そこにかかる時間をどう考えるかで、結果は大きく違ってくる。こんな損得勘定は、それでも直接的なもので、きちんと計算すれば明確になるのだが、世の中にはそんなに簡単に判断できないものもある。たとえば、将来の自分にとって得になることだからと、先行投資することがある。教育であったり、体作りのことだったり、色々な場合があるが、基礎の上に積み上げるという意味では、得かどうかだけが問題になっているように見える。しかし、それに使われる時間は使わなければ他のことに使えるわけで、得だけでなく、それを選ぶことによる損失についても考える必要がありそうだ。教育で新たに導入されるプログラムの説明では、よく将来役に立つとか、自分にとって得になるといった言葉が並ぶが、実際には、それをするために他の何かを諦めなければならなくなる。それを失うことについてどう考えるかは、説明の中ではあまり示されることはない。そのために、色々な得についての議論が主体となるばかりで、損を無視している。本当に全体を考えて自分を磨くのであれば、損得の両面から考えるべきであり、安易な考え方に振り回されないように気をつけた方がよさそうだ。人はみな、無限の可能性を持っているのかもしれないが、金と時間は無限ではないのだから。
何処へ出かけるとき、どうやって行くだろう。近ければ徒歩、ずっと遠ければ鉄道や飛行機となる。しかし、中途半端な距離の時、何を使うだろう。歩いていくには遠すぎるけど、はて、と悩んだ時、たぶん何らかの乗り物を使うのだろうが、自転車、バス、電車、車、何を使うかは、本人の気分にもよるが、その地域の環境によるところが大きいだろう。
公共交通機関を使うのは便利なところに住んでいる場合で、朝晩に少ししか運行されないバスとか、たまにしかやってこない電車を頼りにするのは難しい。田舎なら自転車でもと思う人がいるかもしれないが、車の往来の激しい国道を自転車で行くのは恐ろしいものだ。そんなこんなで結局車を出すことになるしかないところもあるだろう。それに比べたら、町中に住んでいる人々は色々な選択をすることが出来そうだ。経路によるだろうが、バスも電車も、都会となれば地下鉄だって使えそうである。車は渋滞という大問題を避けることが出来ないから、まず外してしまうことが多いが、自転車は抜け道が沢山あれば意外に便利に思える。といっても、最近は抜け道を案内する手立てが簡単に手に入るようになったから、車とぶつかる可能性が増えて危険な感じもする。都会の交通機関はどれも便利にできていて、運行予定を調べることもなく、駅やバス停に向かう人が多い。それだけ頻繁に動いているからだが、これが一度何かの原因で異常を来すと多くの人々が途方に暮れることになる。それでも、他の選択肢があれば、そちらに走ればいいわけだから、ここでも整備の程度によるというべきだろう。電車が駄目なら地下鉄、その逆もありうるし、バスに逃げる人も出るだろう。どの程度、その辺りの事情に通じているかが明暗を分けるのだろうが、選べるのなら、情報を他から得られる可能性があるわけだ。しかし、路線によってはそんなことが通じないところもあり、普段通常に運行されていれば、とても便利なのに、事故などが起きてしまった途端に陸の孤島と化すところもある。それほどの恩恵に浴していたのだと、その時思う人がいるかもしれないが、日常に戻り、暫くするといつの間にか当り前に戻っている。人の感覚というのは不思議なもので、何が普通なのかということに大きく左右されるのだ。それは別の見方をすれば、自分にとって、何が普通なのかということにも影響されるということだ。便利な都会を好む人と、静かな田舎を好む人、互いに相手を尊重していたとしても、その感覚は理解しがたいところがある。育った環境によるというけれど、逆の目が出ることもあるから、はっきりしない。どちらにしても心が休まればいいということか。
官僚政治と言われた時代には、良いことも悪いこともそのまま続く、どちらの立場にあるかによって感覚は大きく異なるが、兎に角安定していた。それが、官僚出身者の大臣が少なくなるとともに、徐々に目立ちたがりの行動が目に付き、コロコロと変わり続ける政策に右往左往が多くなった。それも、基礎の強固なものに変わるのならましなのだが。
ものを書くことや話をすることは自分の思いを表現するために必要なことである。子供たちにとっての始まりは親との意志の疎通であり、親にわかってもらう為に試行錯誤を繰り返しながら、何とか自分の思いを伝えようと努力する。それが徐々に相手を変え、表現手段を変えつつ、その人なりの表現力を磨いていくことになる。単純に相手に思いを伝えることから始まったものも、社会に出るようになれば、個対個の伝達だけでなく、多数への伝達が必要となり、その為の手段を手に入れなければならない。こんなことを書いていると、単なる技術的な事柄のみが必要であり、その根幹をなすものが欠けているように思えるのではないか。当然ながら、言語という、伝達の中枢を構成する媒体を使いこなすことが必要であり、その基礎が築かれているからこそ、新しい技術や異なる対象に対しても何とか備えることが出来るのだ。しかし、言語とは単なる言葉の問題ではなく、それを使った構成力の問題が大きな役割をもち、それを築き上げることが成長の過程で必要不可欠となる。しかし、小手先の道具に振り回されることが多くなった現代においては、話の内容を作り上げる力より、誰かの真似で構わないから、多数の言語を操れるほうが重視されてきた。その現れが、他言語の早期導入であり、かなりの力が注がれてきたように思う。しかし、その一方で、言葉を操ることを生業とする人々からは、強い異論が出され、混乱の予感が大きくなっていた。それでも、見切り発車はされるもので、補助金や権利の獲得のための道具として使われただけかもしれないが、多くの組織がそれに関わることを決め、既に始めたところもあるようだ。こんな経過を辿ってきたが、今、新たな組織が再構築された途端に、あれはおかしいと言いだす人が登場した。ここから、どんな混乱が起きるのかはわからないけれども、兎に角方針変更の可能性が強くなった。これでまた、あたふたしなければならなくなる。こんなことが繰り返されると、人材育成の根幹を築くはずの施策が揺らぐばかりとなり、不安感のみが増長されることになる。勢いだけの改革が流行することには、こんな危険性が伴うことに気づかぬ人が多いとも思えないのだが。
あの人には秘密の話はできない、という人が周りにいないだろうか。誰でも、一人や二人、そういう人を抱えていて、辛酸を何度もなめさせられたあと、その人には重要な話はしないでおくと誓ったことがあるだろう。事前の打ち合わせで戦略を練るとか、人の登用で相談するとか、重要度が増すにつれて、情報漏洩の被害は大きくなるからだ。
それに対して、水面下で進んでいる重要な話の状況を知りたい人々は、誰がその話を漏らしてくれるのかを見極めようとする。そういう人にとっては、秘密を守りたい人にとって鬼門となる人が、幸福を運んでくれることになる。利害を考えれば、漏らす人にとっては利も害もないわけだが、情報を欲しがる人にとっては大きな利をもたらすわけで、その立場の違いも影響するだろう。結果的には、様々な戦略を巡らし、地下工作に励んできたものが、ちょっとした不用意な発言によって、すべて無に帰すわけだから、関わった人間はたまったものではない。それが悪くても数回、被害が甚大であれば、一度だけでも、痛手を負った人間は次から慎重になる。加害者はおそらくその意識を持たないだけに、反省を促すことは無理難題であり、その人物の手前に情報の堰を築くしか方法はない。そんなこんなで、付き合いにくい相手を作ってしまうことになるわけだ。そうなったとしても、相手がそういう性癖の故に重要な地位に昇っていなければいいのだが、つい口を滑らせる癖以外には、非常に優秀であるために様々な情報が集まるところにいた場合は、そのうっかりを防ぐ手立てはなくなる。何しろ、重要な案件を決める場に、その人物が常にいるわけであり、時には事前に相談する必要が出てくるからだ。ある程度、事態を察することができる人であれば、地位がその人となりを変えることも期待できるが、望み薄の場合が多そうだ。これはこれで被害甚大となるし、巻き込まれた人々は困り果てるのだが、別の形で困らされる人もいるようだ。同じような行動をとるのだが、そこに何らかの思惑、意図が働いていて、自分にとって有利になるような情報のみを漏らす人がいる。本人は、その場の判断で利害を区別しているのだろうが、そういう人に限って、自分中心の考え方を採用し、組織全体への気配りが欠落している。結果は明白で、本人は自分の為に情報を漏洩し、それによって他の人々が利益を得たり、損をする。そこまでだったら、本人にとっても思惑通りとなるのだろうが、長い目で見たとき、それが組織全体に及ぼす影響は無視できない。構成員それぞれの利害が積み重なり、結果的に組織にとって害のみが残ってしまう場合、おしゃべりの過ぎた人の責任は重いものとなるのだ。ごく最近も、そんな話が其処彼処で聞かれている。中心人物は、いつものように素知らぬ顔のようだが。
各地を転々としていると困ることが幾つかある。たとえば、銀行。あまり知られていないことだが、全国展開する銀行はそれほど多くない。実際には、宝籤に関わっていたあの銀行を除けば、それぞれ得意な地域にしか支店を持たないところばかりだった。だから、郵便局を利用するのだが、取引相手によってはそれも許されず、四苦八苦することになる。
業界再編というか、合併騒ぎが起こり、次々に名前が変わる銀行に辟易とした人もいるだろうが、これが起きたからといって、地域の不均衡が是正されたわけではない。依然として、都市と名のつく銀行は都市部にしかないわけだし、地域の偏りも残ったままである。当然、移動を繰り返す人間にとっては、その地域ごとに違う銀行に口座を開くしかなく、次に移れば前の銀行との取引はなくなる。しかし、移動、即解約とはいかず、どうしてもある期間口座を維持せねばならないから、そのままになる。となれば、後日に何とかすればいいのだろうが、それだけのために支店に行くわけにもいかない。そんなこんなが繰り返され、幾つもの銀行の口座を開いたままにしていた。先日、あることでその口座を利用する必要が出てきたとき、二つの別の銀行が合併して、口座を一つにまとめる必要が出てきた。最近便利になったのは、コンビニに銀行の機械が設置され、そこで大抵の手続きが出来るようになったことだが、こういった口座云々の手続きは窓口に行かねばいけない。延々何年も放置してきた口座だけに不安が過ったが、町に出かけるついでに思い切って訪ねてみた。結果は予想通り、そこでは支店が違うから古い記録を調べることも出来ず、すぐには解決しなかった。しかし、以前ならば口座開設の支店に行くようにと言われたかもしれないが、流石に情勢に変化があったようで、あちらで調査をして済ませるとのこと。ちょっと安心した。それにしても、都会にある銀行の込み具合は異様にも思える。特に、様々な手続きが機械で出来るようになり、手数料も安いとあれば、多くの人はそちらに並ぶ。結局窓口はさほど混んでいないのに、脇にある機械には長蛇の列となっていた。最近はインターネット上の操作で振り込みが出来るところも増えているようだが、現金を受け取ったり、預け入れたりするためには、機械を使わねばならない。まだまだ不十分なところもあるし、中途半端に現金を使わずに済む仕組みが導入されても、こんな状況が続いてしまうわけだ。その手間にかかる経費は一体どれほどになるのか、効率だけを考えれば何とも理解しがたい状況というべきだろうか。
不良と呼ばれる子供たちが町に溢れたり、学校が荒れ放題になっていた頃、親たちは自分の子供たちが素直に育ってくれているのを見て、ホッとしていた。その頃の素直な子供たちは、今や大人になり、次の世代を産みだす年齢に達している。しかし、そこに広がる光景はどうだろう。素直でいい子だったと言われるのは、何かの事件を起こしたからだが。
親に逆らい、先生に逆らい、そんな子供時代を送った人間はろくでもないことになる、と子供の頃に思っていた人は多いと思う。確かに、そのまま世間に逆らい続けて、どうにもならないところに来てしまった人もいるだろうが、反対にごく平凡な生活を送っている人も多い。精神的な均衡が崩れ、自分でも制御できない時間があったにしても、その後、何となく落ち着くことは多く、それが後者の例に当てはまるのだろう。その一方で、ごく真面目で素直な子供時代を送った人にも、逆の目が出てしまった人はいて、素直な子供がいい大人になるとは限らないように思えてくる。子供の心に潜む不安定で理解しがたい感情は、表面的な大人しさとは裏腹に、何とも言えない物語を紡いでいくのかもしれない。親の言うことを素直に聞く子供は、親にとっては有り難いものかもしれないが、その子の心の成長が思った通りに運ぶとは限らない。そのまま、人の言うことを聞くことしか出来ない大人になる場合もあるし、逆に、子供の頃とは正反対な性格が形成されることもある。これといった絶対的な指標もなく、その上、成長とともに変化することがわかっているから、今目の前にいる人間を相手にしても、中々見極めがつかないものだろう。しかし、親や周囲の人間にとっては今その瞬間が止まって見えているわけではなく、ちゃんと時間の経過に伴う変化を見ることが出来るのだ。ちょっと心配になるときだって、その後の変化で上手く収まることはあるだろうし、逆に安心していると、とんでもないしっぺ返しが降ってくるかもしれない。自分がどういう変化を辿ったかを思い出すことが出来ず、単純に最適の道を歩ませようとする親ほど、こういう事態に戸惑うことが多く、紆余曲折を無駄なものと見做してしまう。その相手をさせられる子供にとっては、どうにも逃げ出せない話であり、何とか折り合いをつけたいと思うことがあるかもしれないが、主導権を握った親たちには、その気持ちを理解することは出来ない。こんな葛藤があったら、子供たちはどうしたら良いのか、中々難しいもののようだ。今、周囲にいる若い大人を見ていると、どこかに歪みを抱えたまま進んできて、それでも素直さを演じようとする人が多いように思う。もっと別の形がありそうな気がするが、彼らに見つけられるのだろうか。