パンチの独り言

(2006年10月2日〜10月8日)
(退引、取引、強引、援引、延引、誘引、牽引)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月8日(日)−牽引

 人にはそれぞれの役割がある、と言ってしまうと、いかにもそれぞれの人の可能性を制限しているように聞こえるだろうか。今の教育では、人には無限の可能性があり、それを伸ばす事が教育の大きな使命のように思われている。現実にそうだと言えるところもある一方で、そこに厳然たる限界がある事も理解されつつあるようだ。
 役割分担は、工場の製造過程での組み立てライン上の担当にも当てはまるかもしれないが、どちらかと言うと、組み立てでは同じ役割を更に分担している感覚に近くなる。それよりも、ライン全体を掌握する人々とライン上で働く人々の違いと言う方が近いだろう。樹状図のように上から下に広がっている分岐図を見た事のある人がいるかもしれないが、組織の上から下への人の配置だったり、部署の配置で見ることができる。それぞれの段階で、それぞれの立場の人々は違った役割を持ち、それをこなしていく事で、全体としての目的を果たす事を目指している。全ての業務を1人の人間が行う事は、ある程度大きな組織になるとほとんど不可能だし、実行する事だけでなく、掌握する事も難しくなる。そうなれば、それぞれの役割を分担し、それぞれの目標を達成する事で、全体として均衡のとれた形を実現する事が必要不可欠になる。こういう仕組みを効率的に動かす為に重要となる要素は、それぞれの役割に適した人材を配する事の筈だが、どうもそれが上手くいっていないところが多いようだ。年功序列という言葉は、そろそろあまり効力を持たなくなったが、之がその主たる原因であったように思われる事が多い。しかし、現実にはそれだけが原因ではなく、適材適所の考え方がきちんと実行されていない事も大きいと思う。年功序列しか無かった頃、それが何となく動いていたのは、実際には構成員それぞれの能力がある水準に達していた。それが、長い間に心の隙間が大きくなり、誰でもどんなことをしていても、といった考え方が定着してしまったとき、水準に達しない人が増えてしまったのではないだろうか。面白いのは、教育の力が過大評価された時期と、こういう転換期が同じ時代にあった事で、それが傷口を更に大きくしたように思える事だ。次代を担う優秀な人材を育てる筈の仕組みが、いつのまにか指示待ちするとか無謀に動く人間を育ててしまい、小さなものから大きなものまで組織を引っ張る人材が足らなくなった。船頭がいない舟は、どこへ向かうのだろう。

* * * * * * * *

10月7日(土)−誘引

 鰹の一本釣り、どんなやり方をするのか詳しくは知らないが、よく画面では紹介される。まず、小魚の餌をまき、魚を集めたあと、水を撒いたうえに擬似餌をつけた仕掛けで釣り上げるのだそうだ。まき餌に集まった魚が、慌てて擬似餌を小魚と間違えて食いつく習性を利用した漁法で、何とも上手く考えたものだと感心するばかりだ。
 釣りには、擬似餌とか、まき餌とか、兎に角魚を騙すための仕掛けが多く使われている。中でも、餌を思わせる方法として、見た目を使ったり、匂いを使ったりと工夫が凝らされているようだ。誘い出してしまえば、あとは何かしらの仕掛けを用いて一網打尽としたり、引っかけることも出来る。魚とは、何と馬鹿なものなのだ、と思う人がいるかもしれないが、同じようなやり方で騙される人がいるから、特段魚が騙されやすいとは言えないだろう。詐欺にかかりやすい人の話を聞くと、まるで魚の擬似餌のようなものに思えてくるのは、ちょっと見方がずれているからだろうか。冷静にみれば、馬鹿げた仕掛けの詐欺に引っ掛かる人がいるが、その時の話の流れでつい騙されてしまう。うまい話には何かがあると思う人がいたとしても、実際にその場で話を聞いていると、ついその気にさせられることも多いようだ。特に、数字を使った詐欺には簡単に騙される人がいて、数字は大小関係が明確になるだけに、それを利用した騙しに乗せられやすいのだろう。割合を示したりするだけで、何となく本当のように思えるものがあるし、その推移を示すことで、話を有利に進める人たちがいる。確かに、数字自体は嘘ではないのだろうが、其処に作為が入り込む余地は幾らでもあり、それが騙す側にとって有利に働くように細工をすることなぞ、簡単なことに違いない。ちょっと話に乗せられただけで、あとは吸い取れるだけ吸い取るというやり方の罠に嵌まってしまうと、どうにも抜け出せなくなる。最近は、そういう業界の人々にも横の繋がりがあるらしく、何故か一度騙された人間が、また同じような仕掛けに引っ掛かることが多い。誘いに乗りやすい人と言ってしまえばそれまでだし、そういうことに懲りなければいけないと言うのも簡単なのだが、本人はその気は全く無く、自分は疑い深い人間だと思っている。その性格を逆手にとられていることに気づかず、何度も同じ手に引っ掛かるのは、やはり、何処かに問題があるのだろう。特に、数字に騙される人は、数字を信じ込む癖があるのだろうから、其処だけでも注意すればいいのだろう。

* * * * * * * *

10月6日(金)−延引

 物事が思い通りに運ぶとホッとする。ということは、ほとんどの場合そうは行かず、結果として遅れてしまうわけだ。遅れることは嫌なのだが、それでも出来ないよりはましということで、何となく納得する。そんなことの繰り返しが多いのだが、たまには、ちゃんと事が運んで欲しいと思う。事前の準備が足らないと、そうなることが多いのだけれど。
 裏工作とか、地固めとか、根回しとか、そんな言葉で表現されるが、全体を表すには準備というしかないだろう。その形態は色々とあるのだろうが、兎に角、何も無しで急に始めてしまうと、ろくな結果にはならない。判っているのに繰り返されるのは何故だろうかと見直してみると、多くの場合、話が下りてくるのが遅すぎるのが原因になっている。上から下への話か、あるいは下から上への話か、どちらなのかによることだが、提案の場合には準備を整える必要があるのに対して、命令の場合、あたかもよきに計らえと言わんばかりのものが下ろされてくるのだ。そうなれば、時間的余裕も無いから、案の練り具合も中途半端となる。慌てて方策を考えているうちに時間切れとなることもあり、結局、不完全なものを晒すしかなくなるわけだ。依頼されたことだから仕方がない、と言ってしまえばそれまでだが、それにしても、こんなことが起きないような仕組みを考える必要があるのだろう。上から下より、下から上の方が、最近好まれるようになっているのは、そんな事情があるからかもしれない。どちらがじっくり練られたものかを比較すれば、その差は歴然となる。同じように時間をかけ、上からの指令として、十分な人材を整えれば、それとてかなりの完成度を達成できるはずが、何処も彼処も足りない状態で進めねばならないから、期待できるはずもないわけだ。全体の時間の流れを見渡して、判断できる人々が上にいれば、こんな事態を招くことはない。しかし、社会全体としてそんな状況が生まれているところでは、少しくらい手当てをしても、焼け石に水の状態は変わらないのだろう。何処かで、先送り、先延ばしにしてしまった結果がこれだとしたら、其処に原因があると言わざるを得ないわけだ。下にいる者たちが、自分たちのこととして考えたときには、こういう結果にはなりにくい。もし、それなりの水準に達しなければ、提案することを諦めるからだ。しかし、上から降ってくるものだと、水準云々の話は、結果でしかない。兎に角、何かを作り上げる必要だけが強調されるからだ。そうだったら、もう少し時間の使い方を考える習慣を付けないといけない。とはいえ、何処に本当の上があるかがはっきりしないのでは、文句を言う相手も見つからないのだが。

* * * * * * * *

10月5日(木)−援引

 自説を曲げない人がいる。議論の始めから終わりまで、終始一貫して、自分の論を立て、そのまま押し切ろうとする。皆の賛同が得られるものなら、押し切るなどと言われる筋はないのだが、やはりそこはどこかに無理があるのだろう。曲げないとか押し切るとか、そんな言葉が並んでしまう。ただ、この種の人々には正反対の性格の人がいるようだ。
 自説をぶって、その後はあらゆる意見に耳を貸さずに、ただ自らの意見を繰り返す。こういう人には、誰しも何処かで出くわしたことがあると思うが、取りつく島もないから放置しようが、反論しようが同じことである。兎に角、自分の意見を出すのみで、別の意見との比較もしないし、他人の話を聞く素振りさえ見せない。何とも呆れ果てるばかりだが、それで議論が止まるわけではないことが不思議に思える。こういう人がてっぺんに立ってしまうと凄まじいことが起きるが、下にいるかぎり、大した影響は及ばない。どちらかというと、極論の一つとして参考にする程度のことで、本人は採用されなくとも平気なのだ。そんな思いが主張の仕方に出ているわけで、何とか持論を通そうとすれば、何らかの妥協が必要になることが多く、それを拒絶するのは結局は結果を気にしないからということになる。一方、もう一つの形は、自説を通そうとするのだが、異論が出るたびにそれに対応しようとする人のことだ。他人の意見を聞くという点では、前者よりも優れているのかもしれないが、反論に対する反論をするために聞くだけだから、結果としては同じことになる。その代わり、自分の話だけでは不十分であることを感じるから、他の人の意見を引っ張り出そうとする。当然、その場にいる人々からの援軍を期待することがはじめにあるのだろうが、それが望めないときには、自らが用意した其処にはいない人の意見を引き合いに出すことが多い。自分で出来る補足はそれほどの力を持たないが、他人、それもある程度名の知れた人物の意見であれば、力強いと思うところがあるのだろう。色々とそんな意見を並べて、自らの説を正当なもの、妥当なものとしようと努力する。こちらも、結果として自説を通すことが重要なのであり、その過程を気にすることはない。通らなくてもそれでいいと思う気持ちは、前者よりは少ないが、それでもあるところで折れてしまう。ただ、こちらは他人の説を引き合いに出しているから、自らの責任が薄まる感じがする。更に、紹介する説が微妙にというか、決定的に歪曲されていることも多く、対応には注意を要する。どちらにしても、こういう人々が議論の場にいると、不毛な時間が流れてしまい、どっと疲れが出てしまうのだ。

* * * * * * * *

10月4日(水)−強引

 ある人が書いた育児書の愛読者だった人は多い。過去形なのは当り前のことで、いつまでも育児をするわけにも行かない。そこにある特徴は、親への語りかけ、まずは心配するなの一言である。急を要する対応を除けば、子供の異変のほとんどは一時的なものであり、慌てて余計な心配をすることの方が、結果を悪くする場合があるとの戒めだろう。
 一度、医者に診てもらうとなると、時間もかかるし、小さな体に負担がかかる。ほんの些細なことで、病院へ行くことで、流行りの風邪をもらって帰ったり、かえって状況が悪くなることもある。必要なとき以外は、暫く様子をみてみなさい、という助言が主体となっている。人によっては、自分で判断することの不安から、こういう類いの助言は歓迎しないのだろうが、決心のつかないときに、一言が助けになることもある。医者と接してしまえば、それで安心と思う人の多くは、結果として子供を見ることを忘れ、逆に悪くする場合もあるから、中々難しいものだ。全幅の信頼をおいたはずの医者とて、絶対的な存在ではなく、特に救急となれば、専門でない人に当たることもある。医者と患者の関係をどう見るのかは、人それぞれなのだろうが、昔は絶対的な存在として、言うことを聞かねばならない存在だったのに、最近はその権威はかなり落ちてきている。重篤な病気と診断された場合、一人の医者の判断では信用しきれず、第二の見解を求める人も増えている。その際に、第一の判断を下した人を信頼すべきかどうかの指標に、相談をした場合の対応があるとのことだ。特に、病気の診断を下されてからの患者の選択は、専門医に限られるわけだから、はじめの医者にとっては比較されることになる。それを受け容れ、誠実な対応をするか、はたまた拒絶するかで、信頼に足るかどうかが判断できるという。これとは少し形が違うが、診断の根拠を尋ねてみるのも一つの方法だろう。意外なほど曖昧な根拠を並べる人もいれば、自信をもって数値や画像を示す人もいる。どちらが信用できるかすぐに判るかもしれない。専門家と素人との間には、大きな越えられない溝があるから、どうしても指示を守るだけになりがちだが、ここでも希望を主張する必要が出てくる場合がある。自分の体のことは自分が一番知っているという考え方もあるし、病院に世話になるのは一時的であり、その後は自分と家族の問題になるという考え方もある。ならば、将来の可能性にかけてみるのも一つの選択になるはずなのだ。最近の精神疾患の増加を見るにつけ、どうも薬の濫用がありそうに思えていたが、たった一つの例に過ぎないかもしれないが、診断の根拠が曖昧であった例を聞いた。これも信頼関係を壊すものに思えるが、真面目な患者は結局逃げられない。権威の失墜といってしまえばそうかもしれないが、それに命を預けねばならない患者にとっては、他の選択肢は中々見つからないものなのだ。(補足:育児書とは松田道雄著、育児の百科、岩波書店)

* * * * * * * *

10月3日(火)−取引

 マニア、これで十分に通じると思うが、日本語にすれば、熱狂者となるらしい。今の用法は微妙に違っているような気もするが、兎に角、他人に理解されなくても、自分の趣味に走る自由人といった雰囲気がある。オタクという言葉とは違った、明るさが伴うものだろうが、それにしても、どの道他人の理解を超えたところにあることには変わりがない。
 骨董趣味とか、となれば、当然のごとく先立つものが必要なわけだが、収集家の中には元手をかけないことを基本とする人もいる。趣味の世界であるがために、他人との共有部分もなく、自分だけの愉しみとなる場合もあるが、それで十分としてきたのだろう。その辺りの事情に変化が現れたのは、ネットの普及がその一因になったからだろうか。もう一つ、経済効果というか、金銭に対する感覚が研ぎ澄まされた人々が、商売の種になる分野として、それまで趣味の自由人しかいなかった世界に、どかどかと踏み込んできたことがあるのかもしれない。いずれにしても、ものの流通には金銭の交換が伴うものであり、それが実体をもたないものでも、リストとなりうるものならば対象となる。こんな話を書いても、多くの人々にはピンとくるはずが無いだろう。しかし、一部のマニア、特にゲームに拘る人々には、あれかと思うところがあるのではないだろうか。コンピュータを使ったゲームから始まり、自宅のテレビに繋いで行うものが普及するようになり、様々なものが出回るようになると、中には爆発的な人気を博すものが出てくる。ゲームをゲームとして楽しむだけの人々もいるが、中には達成感を絶対のものとするがために、終着点への道程ばかりを気にする人もいる。そうなると、たとえ他人からの情報でも、それを実現するためとあらば、どしどし採り入れるようになるわけで、攻略本なる書籍が凄まじい売れ行きを示すのも、そんな背景があるのだろう。これほど盛り上がっている業界には、当然マニアもいて、その一部が本の制作に携わる場合もある。業界の様相は更にネットの普及とともに変化をみせ、ネットワークを介した多人数参加のゲームなるものも登場した。これらの中には、家庭用のものと同様に人気を博すものがあり、当然多くの人々が関わることになる。ゲームの形態によるが、それが物語性を持つ種類のものであれば、途中で何かしらの物品、アイテムと呼ぶらしいが、を手に入れることが必要となる。ここからが最近の動向の理解しがたいところだが、この物品が高額で取引されているらしいのだ。所詮はネット上の設定であり、その物品は仮想的存在でしかない。しかし、ゲームの中では絶対的な地位を持たせてくれるとなれば、手に入れたいと思う人も出てくるのだろうか。それにしても、こんなものまで売買の対象となる時代とは、現実から遠く離れた世界に住む人がいるのかもしれない。

* * * * * * * *

10月2日(月)−退引

 昨日の独り言、慌てて書いたせいもあるが、何を言っているのかと思った人がいるかもしれない。言いたいことは、最後の一言に凝縮されている、というわけではなく、どちらかといえば、自分たちの仲間の失態を自分たちで判断し、そして処分を下すという流れに対する疑問を挟みたいのだ。裁判官による第三者的な処分とは明らかに異なるからなのだ。
 身内に甘い、この言葉はこのところ急に勢いを増しており、その兆しでも見えようものなら、総攻撃を受けるご時世である。放送局、新聞社、報道に携わる人々の不祥事が今までに無く目に付くようになったのは、おそらくこんな世の中になったからで、自己反省は外に恥を曝さずとも出来るはずだ。こうなれば、どんなに小さなことも、どんなに悪質なことも、ほぼ同じような形で世間の目に触れることになり、全てに対して同質の批判が浴びせかけられる。身内に甘くすべきと言いたいのではなく、処分は処分として、妥当なものを選択し、それを組織内で粛々と実行すれば済むことを、何故こんなに大騒ぎをしてまで、世に知らしめようとするのか理解に苦しむのである。警察も役所も全てその範疇に入り、例外は認められないという姿勢が貫かれている。如何にも正当なことが行われているように見えるが、果たして本当にそうなのか、と思う人もいるのだ。明らかな悪事を暴くことの大切さは認めるが、内部告発の時にも触れたように、自分たちの手で解決するより外の力を借りることを優先するのは、如何なものかと思える。今行われているのは、自分たちの力ではないかと言われるかもしれないが、その根源となるものが外圧に対する怖れだとしたら、自発的なものとは言えないのではないだろうか。そういう流れを、外部からの圧力を敏感に感じつつ、世論の流れに任せるように決めていくのが、今の中枢を形成する人々の考え方なのかもしれない、というのが最後の一言の真意だが、そういう時流に乗るための処世術の話ではなく、ここで問題にしたかったのは、自分たちも携わる業務において、何らかの不正が見つかったとして、それを徹底的に糾弾する必要があるのか、更にはそれを公にする必要があるのか、といったことなのだ。自浄努力とは、確かに問題を分析し、間違いを正すことが主体であるが、それとは無関係に、努力の程度を外部評価に委ねているような感じがするのである。自己満足にしかならないから、という意見もあるが、まずは自分たちができる限りのことをしておき、評価は別の機会に回すだけでいいのではないだろうか。全てをひっくるめて徹底させたがために、何やらのっぴきならぬところに自らを追いやっているように見えるから。

(since 2002/4/3)