パンチの独り言

(2006年10月9日〜10月15日)
(誤謬、切札、誤記、自得、遅刻、他山、適応)



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10月15日(日)−適応

 季節の変わり目、気温が安定しない。日々の気温の変化も体に堪えるが、一日の上下もかなり響く。風邪を引いてしまう人もいるだろうし、何となく怠さを感じる人もいるだろう。何処かに異常がある場合もあるのだろうが、特別何処がおかしいわけでもなく、何となく活性が落ちている感じとでも言うのだろうか。慣れてしまえばそれで終わりということか。
 この国はまだ温暖な地域に位置するから、それでも年間の変化は少ないほうかもしれない。たぶん、昔はもっと変化の少ない地域に住んでいた人類が、徐々に移動して、こんなところを通り過ぎ、更に北へと移住していったのだろう。流石に住環境を整える工夫が無ければ、極寒の地に住む事は不可能だったのだろうが、環境を整えるといっても、限界はあるだろうから、体自体の持つ適応力によるところは大きかっただろう。慣れというものは恐ろしいもので、とは少し違った場面で使われる表現だが、まさにそれと似たところがあり、慣れてしまえば何とかなるといった感じだ。多くの生き物がその棲息域を限っているのに対し、人間はほとんど何処にでも住み着いてしまう。環境を変えることによるものが大きいとしても、それだけでは全てを説明できないのではないだろうか。他の生き物は、ある地域に適応して、其処に住み着いてしまえば、他の地域との交流は途絶え、結果的に新しい群れとなり、違う生き物に転じてしまう。それに対して、人間はいつまでも動きを止めることなく、行き来を繰り返すことによって、お互いが同じ仲間であることを保ち続けた。しかし、仲間と言っても、所詮は生き物としての仲間であり、精神的なものは大きく違う。動物で言うところの群れのような感覚は強くあり、それが互いにいがみ合ったり、権力争いをすることで、安定した存在を保つことが難しくなる。逆に言えば、それ自体が上手く作用して、交じり合いを継続することが出来、今の状態が築かれたのかもしれない。それにしても、何処まで行けば心の安定をも含めた状況が築かれるのだろうか。このところの情勢を見ていても、ほんの一部の人間による暴挙といえども、一つ箍が外れてしまったら何処に行くのやら、全く予想もつかない。これが本性なのだから、といった表現で片付ける人々もいるが、それだけならば既に滅びていたはずではないか。何処かで均衡がとられて、ギッタンバッタン、何やら不思議な力が働く。その繰り返しが何とかこれまでの歴史を支えてきたのだろうと思える。今の状況を見るかぎり、予断を許さない感じだが、それでも何とかなるのではないかと考える人の心には、何かを信じる気持ちがありそうに思える。間違っても、あの人物を、ではないのだが。

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10月14日(土)−他山

 改革が強調されていた頃、随分と効率化が図られているように見えた。しかし、その後の展開を見るにつけ、それがまやかしである事が明らかとなり、名ばかりの組織改革の結果を見せつけられることになった。これを他人事として批判の対象とする人が沢山いるが、さて、彼ら自身の属する組織に関してはどうだろうか。何処でも問題になっているのではないか。
 組織の効率化という点で、人員整理は最も単純な手法の一つだろう。人減らしにより、関係する人の数が減れば、それだけ少ない人数での把握が実現し、掌握の程度が上がると期待されるからだ。しかし、これが大きな誤解に基づくものであることはすぐに判明する。部署の数を減らさず、其処にいる人間の数を減らすと、場合によっては、本来必要となるべき数を割ってしまい、業務に支障を来すからだ。問題が噴出する場合、これが当てはまることが多い。一見少ない人数で効率性を実現できるように思えるものが、逆に全体の進捗に問題を生じ、かえって大きな穴を開けることに繋がるからだ。本来は、それぞれの業務に対して担当する部署を決め、それを効率性を高める方向に統合整理することで、人員整理も効率化も実現できるはずだが、大前提となるべき組織の整理を成さぬままに、人減らしという安易な手段を選択し、混乱を招くことになる。働く人々に押し付けられる圧力もかなりのものだが、其処に業務を頼む側への負担は大きい。そういう組織の問題と手続きの問題を同時に解決しようとすると、更に歪みは大きくなるばかりで収拾がつかなくなる。組織上の問題は、こういう安易な思いつきでは解決できるはずもなく、抜本的な対策が必要なのに、其処までの配慮が行き届かない。まさにそんなことが各所で起こり、特に公の機関によるこの手の問題は多くの市民に悪影響を及ぼした。その騒ぎもそろそろ収束に近づき、壊れてしまったところはそのまま放置する形になっているようだが、こういうことが自分たちの組織にも当てはまることに気づかぬ人がいるようだ。外から見れば、何とも非効率的な仕事の進め方をしている組織は幾らでもあるが、それらの中にいる人々はその実感が無いことが多い。その人たちでも、他所の問題には気づくわけだから、おそらく自か他かという点が大きな要素になっているのだろう。大局的にものを見ることの必要性は色々なところで論じられているが、その為に何をすればいいのかははっきりしない。見方の重要性を論じても、何処にどう立てばそれが出来るのかが判らなければ、どうにもならない。各人の能力を高めることは必要だろうが、それに時間をかけることは難しい。たぶん、こんな状況での唯一の策は、別の組織にいる人間が互いに意見交換することだろう。その為の耳や口を持つことは、そんなに難しくはないと思うがどうだろう。

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10月13日(金)−遅刻

 約束の時間に遅れてくる、契約か何かであれば被害甚大、場合によっては締結を断られることがあるかもしれない。遅れた本人には何かしらの理由があり、それを主張したい気持ちになることもあるだろう。しかし、そこで我を通したとしても、結果が良くなることはまず無い。まずは、平身低頭、平謝りの態度を示してから、善後策を講じるべきだろう。
 本人の責任ではなく、不可抗力でこんな事態に追い込まれることがある。交通機関が遅れたとか、事故に巻き込まれたとか、どうにも避けがたいものもあるだろうが、その一方で、如何にもそういった類いのもののように本人が感じているのに、そう認められないものもある。事前の下調べが足らなかったり、ぎりぎりの計画の立案だったりするものだが、少し考えれば其処に無理があることがすぐに判る。その辺りの配慮一つで避けることの出来る危険を、ある人々はそのまま被ってしまう一方、用意周到な人は準備万端何事もなかったかのごとくの対応をする。偶然の事故は仕方がないとしても、天候の変化から生じる遅延は避けることが出来るはずだし、余裕を持った行動をとることによって大抵の事故には対応できる。慣れてしまったことによる油断もあるだろうが、どちらかといえば不慣れから生じる読み違いの方がしばしば起きるようだ。人の性格の違いにもよるのだろうが、そのことも含めて対応するのが仕事の出来る人間ということになるのではないだろうか。こういうふうに書くことはそれほど難しくはないが、様々なことに対応できるように行動するのは容易ではない。しかし、現実にそういうことはよく起きるわけで、運を天に任せての行動が解決に繋がるとは思えない。経験によって築かれる対処と言っても、どうも性格的な部分の影響が大きい。だからといって、無理な人は無理というわけでもなく、それなりの対応ができるようになるから、努力を惜しんではいけないのだろう。常に糊代的な時間の取り方を考える習慣をもち、それを実行していくことが出来るようになれば、そんなに労力をかけなくても何とかなる。要するに、とるべき行動を想定しつつ、実際の時間経過を考えてみることが重要であり、それがある程度出来るようになれば、しめたものと言えるだろう。そんな経過を辿って、何とか一人前になる人もいれば、どうしても困難を伴う人もいる。程度の問題とはいえ、大きな穴を開けてしまうことの無いように、注意することが出来れば、少しは形になるのではないだろうか。仕事の話を例にして話を進めてみたが、これは別に仕事と関係なく、学校に通っているときも、私的な行動の時でも当てはまることなのではないだろうか。

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10月12日(木)−自得

 人間はその存在を他の人々に認められて、初めて自分なりの仕事ができると言われる。孤高の人と呼ばれ、何もかも超越した世界にいる人はどうかわからないが、ほとんど大部分の普通の人々は、そんな気持ちを持つようだ。だから、多くの場合、何をするにも其処に周囲への配慮があり、反応を気にする。これは度が過ぎないかぎり、いい方に働くようだ。
 こういう均衡の下に成り立っている人間関係は、それが健全な状態に保たれているかぎり、問題を生じない。しかし、其処に損得勘定が入り込み、打算や思惑が表に出始めると、そろそろ綻びが出てくることがある。本人の思いと周囲の評価の間に隔たりがある状態がある程度続くと、成果を出し、それに見合う評価を期待する人には、辛い時間がやって来ることになる。周囲のためという大前提の下に、様々な難事を解決しようとする気持ちの中には、それが達成されたときには十分な報酬が見込まれるという思いがある。しかし、その思いが成就されるとは限らず、本人の思いとは裏腹に大して評価されないと、人々の間に大きな溝が築かれることになる。これ自体が問題を産むとは言えないが、しかし、一度掘り込まれた溝は中々埋め戻されることはなく、そのままの状態が継続するか、あるいは更に深いものに変わっていくことの方が多い。そんな状態に追い込まれたら、打算的な行動をしてきた人々には満足が得られるはずもなく、その反動として溜まった不満が噴出したり、鬱憤を晴らす行為に出ることがある。仕方のないことと言ってしまえばそれまでだが、元を糺せば自分が無意識のうちに持った期待が大きな要因となっている。世のため人のためという考え方が間違っているとは思えないが、自分の行動を全てその目的で行なっているとしたら、其処には早晩矛盾が生じてしまうのも無理はない。確かに一つの見方として、そういう外向きの効果の存在は否定できないが、それだけが原動力となることには違和感を抱いてしまう。どんなに外向きの力が働いているにしても、其処にいる自分という存在は最も大きなものであるはずだ。そうなれば、どんなに外向きを強調したとしても、それを発している自分を無視することは出来ないし、外に向かった力が舞い戻ってくることも、どこかで期待しているに違いない。だからこそ、打算や思惑が働くわけで、きれい事でそれを打ち消そうとすること自体が、間違っているという解釈が成り立つ。どちらにしても無理をすることなく、自分の為もあるのだと思っておけば、それはそれで上手く折り合いをつけるきっかけになるのではないだろうか。

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10月11日(水)−誤記

 ある大都市の主要駅の前にあったビルには、大きな文字盤が掲げられていた。そのビルの名前を示す看板を見て、仰天する人がいて、その話を何度か聞かされる羽目に陥ったことがある。都市の名前に大きいという文字を冠することに驚いたのか、はたまたビルという表記に違和感を覚えたのか、人それぞれかもしれないが、兎に角変に思えたのだろう。
 言葉は生き物という話はよく聞く。確かに、時代の変遷とともに変化し、昔流行った言葉は死語と呼ばれて、忘れ去られる。また、同じ言葉でも用法が変わり、意味が通じなくて、話す側も聞く側も戸惑うことがある。そんな変化を伴うものだから、時代時代に合わせた使い方を知っておく必要があり、それを真面目に追いかけている人もいる。これとは別に、表記の問題も出てきて、それがまた混乱を招く。「自ら」をどう読むかは、昔からの大問題と言われたようだが、今はそれを避けるためにそれぞれに違った送り仮名をつけるようだ。ところが、送り仮名には絶対的な規則があるわけでないから、時代の流れとともに変化を繰り返し、昔と今では大きく変わったものも少なくない。こんなことが混乱を招くこともあり、たとえば、「おこなった」を変換すると、「行った」と出てくるが、これと「いった」を区別することは不可能だ。前後関係から推測するしかなく、以前はその混乱を避けるために、「行なった」としていたものが、いつの間にか変えられていた。それぞれの決定にはそれなりの理由があり、それはそれで納得せねばならないのだろうが、それにしても、コロコロ変えられるのはたまったものではない。こんなものの一例となるのが、最初に取り上げたビルにまつわる話なのだ。今の表記では、ビルという略語の元のものは、ビルディングとされる。言語の表記が、buildingだから、と言えばその通りなのだろう。しかし、以前は「ディ」という綴り方はなかった。そういう音が無いので、diをどうにか片仮名で表そうとした。ここで問題になったのは、この国で使っている言葉には、diとziの区別が曖昧だということだったのだろう。この違いをはっきりと表すために、先人たちの考えたのは、ヂという表記だったのだ。ジとヂの区別は、音からはつかないが、元が違うということを伝えるために使われたのだろう。あるいは、サ行の濁音とタ行の濁音の流れから来ただけなのかもしれない。いずれにしても、現在はヂという表記はほとんど使われないから、見たことのない人々にとっては如何にも田舎の大都会に相応しいものと映ったのではないだろうか。しかし、これは逆に自らが田舎者の世間知らずを表していると知ったら、本人はどう感じただろうか。今でも、首都の玄関口に近いビルにはこの表記が掲げてあるのだ。

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10月10日(火)−切札

 切り札、ここというときに切る手立てのことを指すが、ここぞだけに、何度も使うわけには行かない。どちらかというと、切ることなく、常に手に残したままで、相手との駆け引きに使われることの方が多いようだ。しかし、そういった使い方はほとんどされなくなり、次々に札を出していく人や、何が切り札かを判断できない人まで出てくるようになった。
 駆け引きが必ずしもいいやり方でないことは、多くの人が実感しているだろう。そんなことばかりに力を注いでいては、肝心なことが進まず、ただの無駄になってしまうことが多いからだ。しかし、その一方で、常に何かしらの緊張感を保ち、お互いにより高い水準へ持ち込もうとするとき、切り札は有効に働く場合がある。だから、一部の人々はそれを持ち続け、他よりも優位な立場を築こうとする。そんなやり方に異論を唱える人も多いが、これも一つの戦略と見做せば、真正面から取り組むのも、搦め手から攻めるのも、それぞれに立派な策略である。それ自体を卑怯とか、意地悪とか、そんな言葉で片付けるのは、立派な立場からの言葉かもしれないが、逆の見方をすれば、ひがみややっかみというものかもしれない。これらは全て、切り札をその役割を理解しつつ活用する人々の問題だが、最近はどうもそういった雰囲気が薄れているように思える。戦略を卑怯とみるのと同じように、切り札ということを考えること自体が間違ったことのように思う人や、そういうものを冷静に分析する力のない人が増えたからだろうか。どちらかというと、前者より後者の方が多いのではないかと思うが、それは他のことにも通用しそうで、いわゆる判断とか分析といった行為を巧くこなせないことから来ているのかもしれない。何でもかんでも区別なく、次々に繰り出していくやり方では、其処に何の戦略もないのは当然のことだが、実際にはそれより重大なことがある。それは、その物事をきちんと理解する段階を経ずに、目の前の問題に取り組む姿勢にあり、思いつきを次々に繰り出す結果となる。無垢な行動と言ってしまえばそれまでだが、本来自分の中で整理しておかねばならないことをすっ飛ばしているわけだから、事が上手く運ぶはずもない。どんなに素直に取り組んでいたとしても、それが頓挫してしまえば意味がなくなる。その辺りへの配慮はなく、おそらくそれが何度も繰り返されるところをみると、原因を分析する力も不足しているのだろう。自分のことだけでなく、他人のことについてもそんな力不足がみられるから、これは中々の難題なのではないだろうか。

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10月9日(月)−誤謬

 病気になりたい、と思う人はいないだろう。しかし、何処かから災難が降ってきて、あれよという間に医者の世話になった人もいるのではないか。それでも、自覚症状が出て、悩んだ挙句の診断となれば、何となくかもしれないけれど、覚悟を決める事ができるかもしれない。しかし、健康管理の為の検査で見つけられた場合、覚悟も何も無いだろう。
 心筋梗塞や脳溢血等、自覚症状どころか、倒れた後で診断が下される。突然の災難が降る事には変わりないが、諦めにも似た雰囲気が漂い、さてこれからどうすべきかといった事だけが重要となりそうだ。癌等といった誰でも知っている病気の場合も、衝撃の大きさは別として、病気の程度によるとはいえ、それなりの覚悟をするしか無い。それに比べると、聞いた事も無い病名を医者に告げられた時、自覚症状の有る無しに関わらず、何となく腑に落ちない感じがする。その多くは、以前は違った病名を付けられていたものが、徐々に原因が明らかとなり、それを表すのに適した名前が新たに考え出されたものだ。だから、逆に昔の名前で言われた方がたとえそれが間違った表現だとしても、判りやすく感じてしまう。医者の立場と患者の立場の違いというか、こんなところにも大きな違いがありそうに思う。もう一つ、病気に関連した話題の一つに、病気の範囲の変化とでも言うのか、適用範囲の広がりが戸惑いを産んでいる事がある。代表的な例と言うと語弊があるかもしれないが、精神疾患、中でも鬱病がそれに当てはまるように思う。心の風邪という言葉が流行し始めた頃、医者にその意図があったかどうかは分からないが、そんな兆しが見え始めていた。問題は判断基準なのだが、厳密なものがある筈なのに、風邪という表現から想像できるように、ただ何となくそんな感じといったところから判断がされているように思える。精神科という重い印象を与えるものから、心療内科という軽い感覚を持つものに、人が流れ始めた頃から、その傾向が強くなったのではないか。疲れを感じる等、ある程度の自覚症状があるから、患者は納得するのだろうが、果たして正しい判断なのか、周りの人の話しを聞いていると、首を傾げてしまう。そこに腑に落ちない何かがあるからだ。

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