パンチの独り言

(2006年10月23日〜10月29日)
(正義、自省、好奇、広汎、騒動、人材、過信)



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10月29日(日)−過信

 何でも、自慢する人間はろくでもないと言われる。確かに、できもしないことを自慢するのは酷いし、鼻にかけている人を見ると腹が立つ。それがどうした、と言ってやっても、たぶん何の効果もなく、羨ましいと思っているのだろう、くらいの言い草がかえってくる。それじゃあ、もっと腹が立つだけだから、結局は無視するのが一番ということになる。
 自慢をしているのを見ても、文句の言い様がないという人もいる。実力にあまりの差があり、比べるだけ馬鹿らしくなるからだ。そういう人の多くは自慢もしない。しなくても、周りが立ててくれるからだろう。と言うより、差が歴然としているときには知らぬ顔をしておくのが一番ということだろう。兎に角、実力のあるなしで、こうも違うのかと思えるが、そうなのである。何の実力かは、その時の話題によるのだろうが、大層なこともあれば、取るに足らないこともある。誰もができることもあり、その場合にはどの程度で切るかというのが問題になる。その一方で、できるできないの差が大きく、そこで違いがはっきりしてしまうものもある。たとえば、走るのが速いというのは、誰もが走れる中で、どの位速いかが問題となるが、高飛び込みなんて、誰にでもできるものではない。だから、そっちの方はできるかできないかの違いだけで十分に話になるのだ。歴然としたものは自慢しようがしまいが、そりゃあ大きな違いである。大いに誇りに思って欲しいと思う。しかし、皆がそれなりにできるものの巧拙の場合は、さて随分と様子が違ってくる。車の運転は、教習所でならったころには、自慢している人にろくな人間はいない、となっていた。今でも、おそらく同じ様子なのだろうが、自慢と過信をつなげて話が進むわけだ。ただ、こちらの話は思ったほど実害はなく、それが原因で起こる事故も大したことはないのではないだろうか。最近気になるのは、これとは全く逆の、どうしてそんな運転ができるのかという人々のことだ。隣に乗れば恐怖を味わわされ、後ろを走れば恐怖を味わわされ、という具合に、運転者の行動は周囲の人に悪影響を及ぼす。ただ、本人は少し下手くそといっても、今まで事故を起こしたことはないとか、慎重にしているから大丈夫とか、そんなことを思っている。たとえ、後ろの車が急制動をして、追突されたとしても、その原因を作った人間は気づかないのだ。程度の問題と言ってしまえばそれまでだが、兎に角もう少しどうにかならないのかと思えるほど、多くの注意が欠落しており、操作も覚束ない所がある。だからこそ、触らぬ神に何とかという具合か、事故は避けられてしまう。全く、不思議なものなのだ。

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10月28日(土)−人材

 新しい展開を企てたり、新たな計画を練るとき、重要となる要素が幾つかある。そのうちの一つに、人材確保があるのだが、これが中々の難物なのだ。企業の新展開の報道があったとき、暫くしてから眺めてみると、上手く運んでいないことが多く、計画はそのままだが、陣容の変更を余儀なくされた例は数多くあると思う。適材適所にはならなかったのだ。
 計画の成否を握っているものの一つに組織があると言われるのも、人材とその配置に関係するからで、組織が理路整然としたものであれば、少しぐらいの不具合は何とか克服できるという。しかし、問題点を放置したり、見失ってしまうようでは、細かな修正さえ行われず、歪みが溜まるだけという状況が生まれる。そうなれば、どんなに優秀な人材が配置されていたとしても、その能力はほんの一部しか活かされず、結果的に失敗するしかない。逆に、どんなに整えられた組織でも、その中で働く人間があまりに無能か無謀であると、折角の構造は何の機能も果たせずに、朽ち果ててしまう。企業の中枢にある人間にとって、組織の構築は何とか自分の問題として片付けられるものだが、人材の方は他力本願的な部分が大きい。だから、上を目指そうとしている企業ほど、人材の確保にかなりの力を注ぐ。最近、様々な問題が噴出し、明るい兆しが見えてこないある企業は、他社に先駆けて、学歴無視の人材確保を行っていた。現実にどんなことがなされていたのかはわからないが、表向きはどんな大学の出身者も同じ機会を得ることができると言われていた。それから後、世間はバブル崩壊という憂き目を見て、各企業は業績低迷の時代に入り、人材確保が難しくなっていた。当時、求人は激減し、学生達にとっての氷河期に入ったが、その後徐々に回復した経済は、企業の力を高め、世の中は再び人を求めるようになった。こうなると、バブル期の二の舞いかと思えるが、実際には痛い目に遭った企業の多くは、当時より遥かに慎重な人選びを実行し、安易な道には走っていないように見える。しかし、現実には予定の求人数を満たせない企業が増え始め、逆の意味で厳しい時代に突入したようだ。それはつまり、人を求めている企業があるのに、職に就くことができずにニートと呼ばれる人が増え続けていることを指し、互いの思惑がすれ違いに終っていることを想像させる。確かに、猫の手も借りたいほどという企業もあるようで、定年退職した人を呼び戻したり、パートを確保している。しかし、だからといって問題を抱えた人を安易に採用する道を選ぶことはない。それをしたらどうなるのか、今様々な問題を生じている中堅の人々を抱える企業では、その結果は身にしみて理解していることだろう。財産になるはずのものが、借金になったのではかなわないということだ。

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10月27日(金)−騒動

 毎日の題材は何処から仕入れるのか、と思う人がいるだろう。何度か書いたことだが、できるかぎり身の回りの出来事を主体としようと思っている。但し、何処で何をしているのかがわかるようなものは避けたいので、かなりの話題を諦めねばならない。もう一つ、この頃は少し使ってしまっているが、新しいニュースはなるべく避けるようにしている。
 世間に注文をつけたり、別の見方を紹介するのなら、その時々の話題を取り上げるのが手っ取り早い。確かにその通りだが、一つ、このやり方には大きな欠点がある。情報の流れに特有の問題とでも言うのだろうか、ガセネタがあまりにも多いのだ。特に最近はその傾向が高まり、兎に角出鱈目でもいいから話題を提供しようとするところが急増している。情報源に関する検討もほとんどなされないままに、次々と垂れ流しをされた情報は、そのほとんどが役に立たないばかりか、正反対の情報であったり、推測に基づくものだったりと、全体の状況をかき乱すだけのものになっている。そんな状態にある段階で、評論家はあることないこと、勝手気侭に主張していることが多いのだが、それはあまりにも軽率で、あまりにも馬鹿げた行動に思えるのだ。そんなことばかり続けていると、そのうち信用を無くすのではと思ってみても、その状況はほとんど変化しない。結局のところ、不確かな情報に基づいて企画された報道に対して、意見を求められて応じる人はほとんどおらず、その中でこういう人種は生き残っていくのだろうと想像する。少し、注意深く観察していれば、どれほどいい加減な話が展開されているのか、すぐにわかるのだが、世の中はそうなっていないらしい。何でもかんでも飛びついて、何でもかんでも投げ込んでくる。そんな状況が続いても、誰も批判されることなく、すぐに次の話題に気が移るわけだ。こんな繰り返しがいつまで続くのかと思うが、今の状態ではおそらく永遠に続きそうに思えてくる。そんな中ではとてもじゃないが、素早く話題に飛びつき、その本質を見極め、的確な意見を出そうという気にはなれない。何処かで騒いでいる人々と同じ輪の中に入って、狂乱の空気に酔いしれるのなら別だが、少しは冷静な判断ができ、またその輪に加わることで何かの報酬を得るわけでもなければ、少し遠くの方から暫くの間眺めていたほうがずっと安心できるのだ。同じことが、こういう騒ぎを楽しんでいるテレビの前の人々にも言えて、そんなことで時間を潰すくらいなら、別のことでやってみたら、自分のためになると思う。まあ、気楽さだけを考えれば、そういうほうに流れたくなる気持ちもわからないではないが。

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10月26日(木)−広汎

 巧みに立ち回る人を見て、羨む人もいるだろう。大して苦労もしていないのに成果を上げる人がいる一方で、毎日身を粉にして働いているのに一向に上がらない成績を目の前にして溜め息を漏らす。効率とか能率という言葉に敏感で、それらを高めるための努力をしようと決めている。しかし、その為の手段が思い浮かばないことに困惑しているのでは。
 巧みに立ち回るとか、大して苦労もしていないとか、他人から見ると何ともスイスイと仕事をこなしているように見える人でも、人知れず努力をしているのかもしれない。プロ野球の選手にそんな人がいて、派手に見せることばかり考えているように思われたが、実は地道な努力を積み重ねていたという。その真偽のほどは定かではないが、兎に角、解決を図らせれば何とか答えを出してくるし、無理を言っても文句も言わずに対応する。上手くできない人から見れば、大した努力もせずに手当たり次第に片付けているようだが、実際にはその人なりの戦略がそこにあるのだろう。こういう人の表に現れたところだけを真似ようとする人がいるが、大抵失敗する。表ではなく、裏に隠れたところを見抜いてこそ、同じようなことが出来るのだが、そこに気づかない人が多いからだ。その代わり、簡単そうに済ませる姿だけを見て、それに魅力を感じ、真似をしようとするわけだから、上手くいくはずもないのだ。表面的には効率的、能率的に見える人ほど、そこに至る道筋やそれまでの努力の積み重ねがあるわけで、それに気づかぬ人にやれるはずはない。一つのことに集中しているように見える人でも、そこまでの段階では遥かに広い範囲をおさえてきたわけで、だからこそ深い洞察力を発揮することが出来る。世の中が安定して、失敗さえしなければ何とかなるようになると、兎に角最小の努力で最大の成果を上げようとする人が多くなる。これはこれで実現するのならば、それはそれで構わないことなのだが、現実にはそうならないことの方が多い。如何にも効率的なものがあったとしても、徐々に歪みが蓄積し、早晩手当てが必要となるからだ。そこで実力を発揮するのは、それまでの効率、能率ばかりを追いかけてきた専門家よりも、少々ゆっくりかもしれないが、幅広い知識を持ち、多様な考え方ができる人の方だろう。安定していると言っても、何が起こるかわからない世の中で、結局そういう人材を排除するようなことがあると、組織自体が崩壊の危機を迎えかねない。管理者もまたそういう見識を持っていないと、いつかひどい目に遭うことになるわけだ。目の前の効率だけを問題にするのではなく、多彩な能力を身につけておくことが、こんな社会だからこそ必要なのではないだろうか。

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10月25日(水)−好奇

 長い間雨が降らず、心配する向きもあったようだが、待望のお湿り、と思いきや、予想外の大雨となり、被害が出たところもあったようだ。こういうとき、気象予報の精度が実感でき、まだまだ難しいものだと思う。雲が出るかどうかまではわかるとしても、その先の分析や予測の不十分さがこんなところに現れるからだ。計算だけでは無理ということか。
 雨の上がった翌朝、今度は驚くほどの秋晴れとなり、朝から強い陽射しが差している。それを実感させるのは、駐車場に植えられた杉の樹の木肌から立ち上る水蒸気、日の当たっているところから凄い勢いで水分が蒸発している。なるほど太陽の恵みとはこういうものかと納得するが、光の熱エネルギーの凄さがわかるような気もした。こんな何ともない光景に、何も感じない人もいれば、おやと思う人もいる。人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、どうもこの辺りに大きな違いを産む原因があるように思う。興味のあるなしによって、人の目に映るものは変わると言われる。あれば見えるはずのものが、無いために見えないわけだ。それを無視するという意識を持った表現で表すのはおそらく間違いで、何か別の言葉が当てはまるのだろう。全てに興味を持たないという人はおそらくいないのだろうが、その対象の数には大きな違いがあるらしい。何気ない日常の風景にも、変化を見つけ出し、それを楽しむ人がいる一方、毎日ブツブツ呟いているけれど、周囲の変化には無頓着な人がいる。何処に違いがあるのか、心の違いなのか、それとも頭の何処かの違いなのか、はっきりしないらしい。ただ、何となく感じるのは、小さな赤ん坊や子供の頃には、周囲に対して様々な興味を示すのが当り前なのに、大人になると大きな違いが生まれてくることだ。人間が本来持っている能力の一つに、興味があると言われるのはそういう理由で、それが徐々に失われていく人がいる一方、いつまでもその力を持ち続ける人がいる。失うための方法は難しいことではなく、周囲からの圧力を少しかければ済むことだ。圧力とは、叱るなどの直接的なものだけでなく、無視することも含まれ、子供にその意味の無さを知らせれば済む。こんな経験を持つ人は多く、その多くはその過程において徐々に興味を失っていく。一方、役に立たないように見えるものにまで興味を示す人々の多くは、たまたまそういう経験を持たないか、あるいはそんな圧力を感じなかったのだろう。大人としての能力も備えているが、失ったものも少ないようだ。興味があれば、目の前のものを眺める時間が出来、それが分析に繋がるというと、如何にも役に立つように思えるが、そうとは限らない。最近、役に立つからと観察力の大切さが叫ばれているが、その前に必要な力を認識しないままでは、効果は期待できそうにもない。

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10月24日(火)−自省

 毎年やって来るこの時期の課題は相変わらず重苦しくのしかかる。いつもとの違いは、それに加えて二つ三つ何やら他の課題までがあることだろう。どうしてこうなるのかを知ったとしても、おそらく何の解決にも繋がらない。そうなってしまうことには何らかの必然性があるのであり、根っ子のところから引き抜かないかぎり、消せるわけではないからだ。
 毎度のことなのに、相変わらず要領が悪く、無難に纏めることが出来ない。そんなことを繰り返して何年も経つが、結局のところ肝心なところは変えられず、入力画面を睨むばかりの時間が続く。どうして人間はこうも学習能力に欠けているのかと思うが、他の人々が全てそうとは限らず、また自分自身の行動も少しだけかもしれないが、変わっているのかもしれないから、言い過ぎないように注意したほうがいいのかもしれない。同じことを繰り返す人間の多くは、他の人々からは懲りないとか、学んでないとか、罵声を浴びせられないまでも、冷ややかな目で見られるようだ。しかし、そういう行動の根底にあるものが、書き換えの出来ないものであった場合、本人も含めて何ともならないと諦めるしかないのかもしれない。こういう考え方は、他人を観察していたのでは理解しにくいところがあるが、自分の行動を眺めてみるとよくわかる。というより、認めたくない部分が大きくて、つい無視しようとする人の方が多いのかもしれない。人には真剣に取り組めと言いつつ、自分のこととなると駄目出しを簡単にする人々の多くは、こんな心理に基づいた行動をしていると思うが、実際にはこんなことを改めて書くまでもなく、思い通りに変えられない自分を振り返る自分に、諦めの溜め息を向けるしかないのだろう。どちらに向かうのかは、その人の年齢や経験にもよるだろうが、何度反省しようとも毎度お馴染を繰り返す人々にとっては、変えようと心に誓うこと自体が、変な形の抑圧に繋がる場合が多いわけだから、そんな無理を強いることなく、自然体で過ごすほうが余程効率的なのかもしれない。ああだこうだと言いつつも、それなりに対処し続けてきたわけだから、それが上手くいこうが頓挫しようが、結局はそのやり方が自分に向いたものなのだろうから。こんなことが起こるたびに、次こそはと思いつつ、それを成しえない自分を眺めていたら、段々嫌な思いだけが心に残ることになる。そんなことを思いつつ、またこの季節を何とかやり過ごし、次の年も同じことを繰り返す。人によっては何とも情けない姿だと見るかもしれないが、まあ人間とはその程度のものと思って、自分なりに出来ることをやることが大事だと思う。何やらかにやら悩むばかりで、前に進むことをやめてしまったのでは、それこそ何もかも台なしにしてしまうだろうから。

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10月23日(月)−正義

 弱きを助け、強きを挫く、昔流行ったドラマや映画の台詞だ。悪代官などの悪人どもに虐げられた人々を、救いにやって来る正義の味方という設定は、自分たちが弱い側にあると思い込んでいる人々にとって、落ち込みそうな気持ちをスカッとさせてくれるものだった。金持ちや役人が強者であり、一般大衆は弱者であるとするのが常だったからだろう。
 最近の映画やドラマには、そんな設定の人物はほとんど登場しない。ありそうにもない話では、見向きもされなくなったことと、世の中が皆弱者の集まりであるような雰囲気が強くなったためだろうか。弱い者が弱い者同士知恵を出し合って、難問を解決していく、そんな設定が多くなり、悩みもなく、絶大な力を誇る助け船に頼る風潮は何処かに消し飛んでしまったようだ。しかし、依然として、強弱の感覚は強く残っており、一見してわかる力関係より、その場その場の攻撃と防御といった関係が、まるで昔の強者と弱者の関係のように見えてくる。公の立場にある人々は、どうしても攻撃にさらされる側にあり、本来の力関係とは逆の目に遭わされる。それに対して、一般大衆は普段ほとんど発言権もなく、弱い立場にあるだけに、誰かが声を出した途端に後ろから叫び声を上げることで、攻撃に加わろうとするわけだ。この辺りの図式に変化が生じ始めたのはいつ頃だろうか。弱者が弱い立場を利用して、何らかの利権を手に入れるという話が、其処彼処から流れ始め、以前のような強弱の関係を逆手にとって、自らに有利に働くように立ち回る人が目立ち始めた。そうなると、何処かに歪みが生じるもので、以前ならば弱いものは常に弱い立場にあったはずが、ある場面では弱者を演じているにも関わらず、社会的には強いところに立つようなことが増えてきた。変な言い方かもしれないが、同情を誘うために弱者を演じ、それを梃子にして、自らの立場を向上させるという方式が出てきたわけだ。こんな弱きを助ける正義の味方がいるはずもなく、しかし、弱者という立場を演じ続けるかぎり、何とか利権を手に入れていると、そのうち矛盾が溜まりに溜まって、いつの間にか挫かれる強者になることになる。問題は、そういう一部の輩に利用された弱者という立場の背景であり、いつまでも辛酸を舐めている人々は、そういう暴挙の陰で更なる抑圧を受けることになる。自分たちを虐げている人々が対局にある敵であったはずが、いつの間にか自分たちの中にいる一部の人が私欲に走り、裏切り行為を繰り返したために、貶められてしまうわけだ。公平という考えがそのままに使われればいいのだろうが、こういう事件を見ていると、不公平が呼んだ不公平を見せつけられているような気がしてくる。

(since 2002/4/3)