世の中、何処か箍が外れたんじゃないだろうか、と思えるような事件が起きている。オレオレ詐欺とかで、年寄りの金をふんだくる輩がいるとはいえ、何回にも分けて何千万も送金するなんて考えられないし、その間子供に確認もしないという親子関係も理解しがたい。相手のことを尊重するという考えでもないらしく、遠慮という言い方が当てはまるらしい。
多くの事件の根底に流れているのが、この遠慮というものなのではないかと思える。事件の匂いがするけれど、わざわざ確認をしたくないとか、触らぬ神に祟りなしといった感覚とか、ちょっと違うところもあるが、しかし気を遣うべきところでないところまでとなると、不思議に思えてくるのだ。そういう人たちが、全てに遠慮しているかといえば、そんなわけでもないようだから、更に状況は複雑に見えてくる。盗品であることが明らかであるにも関わらず、それを安値で買い取る業者がいると聞くと、自分の儲けだけを考えているのかとも思えるが、実際には相手に問い質すことを避けているだけなのかもしれない。そんな世の中になってしまうと、人のものを盗んでも流通経路があるわけだから、儲けることが容易になるし、それで捕まることもなくなれば、ちょっとした商売が成立する。何とも腐った世の中だと思う人がいるかもしれないが、さてその原因は何なのだろうか。警察の能力が落ちて、取り締まりが不十分になったせいか、それとも、他人のことを気に留めず、自分のことにしか気を配れない人が増えたせいか。そんな可能性を挙げようと思えば、幾らでも出てくるようだが、どれも当てはまりそうに思えてくる。しかし、盗品の流通が闇の経路ではなく、ごく一般の業者を通して行われている事を考えると、ただ単に警察の問題でも、近所の人々の問題でも無さそうに思える。少し考えれば、異常な安値での取引を可能にするためには、何かしら怪しいことをしなければならないことはわかるだろう。にもかかわらず、そんなことには目をつむり、ただ安値で仕入れて、高値で売り捌くことを考えるだけの業者は、心の何処かにぽっかりと穴を開けてしまっているのではないだろうか。そうなったのは社会のせいだとか、経済状況が落ち込んだせいだとか、自分以外の要因を持ちだすのも一つの手なのかもしれないが、それで片棒を担いでもいいというわけでもあるまい。地道に仕事をすることが、何処の世界でも難しいことになってしまったようで、異様な歪みを感じている人も多いだろう。しかし、そこで安易に自分自身を歪んだ世界に入れてしまうか、それともそんな世界とは一線を画すように努力するかは、やはりその人の考え方、心によるものなのだと思う。くそ真面目に生きることだけが人生ではないが、道を外さないようにすることは大切な生き方だと思う。
「ご苦労様でした」と、部下から声をかけられて、おやと思った人がどの位いるだろう。そこは、「お疲れさまでした」だろうと思っても、言っても無駄かと諦める。そんな区別などどうでもいいと言う若者がいるかと思えば、昔はどちらも目下の者に使ったものらしいですよと、自らを正当化しようとする若者もいる。後付で何を言っても始まらないのに。
言葉の使い方は、確かに時の流れとともに変化する。決まりとは、その時代時代の人々がおくものであり、時代が変われば使い方も変わるわけだ。しかし、今の時代の話をしているときに、遠い昔の話を持ちだしても仕方がない。特に、自分の間違いを正す代わりに、そういうものを持ちだされると、何だかおかしな気分になる。それじゃあなにかい、あなたはその時代の言葉で普段から話しているのかいと、まるで落語の一節のように聞き返したくなる。全然という言葉は、今では否定の文章でしか用いないことになっているが、昔はどちらにも使えたという。だから自分たちは使うのだと、知らずに間違って使ったことを棚に上げるのはおかしいのではないか。その手の考えを適用すると、見れないという言葉も同じことらしく、高齢の人々が使うのはそのせいもあるのだろうか、と考えてしまう。もし、そうならば、決まりをコロコロ変えられたのでは、たまったものではないということになる。実際のところ、調べてみればわかることなのだろうが、それをしたとて何の得になるのかと思えてくる。という調子で、結局は「まあ、いいか」となるわけだ。言葉の使い方なんて、所詮はそんなものなのだろう。本当に気になるのなら、その度に間違いを指摘すればいいだけで、それでも直らないのなら、仕方がないとなる。その積み重ねが言葉の時代による変化となるのなら、それこそ既に証明済みのことであり、ちょっと抵抗したくらいのことでは流れを止めることなどできないのだろう。しかし、それにしても、おかしな言葉が氾濫している。何とかの方と、方を付けるのは大流行りなのだが、幾つかの中からの選択ならまだしも、何とかからという意味だけに使うのに、方向のようなものを重ねる必要はない。何処から始まったのかは知らないが、かなりの年齢の人まで使うところを見ると、かなり浸透しているのだろう。聞こえるたびに、ぞっとする感じを持つのは、一部の人に過ぎないようだ。電子メールが当り前のように交換されるようになってから、そういうものが特に目立つようになってきた。以前ならば、話し言葉だけに限られていたのが、書き言葉にも伝染したからだろう。呆れるばかりなのは、何とか様御中と過ぎたるは及ばざるが如しの典型のようなものまで出てきたことで、足らないと怒られるから、全部連ねてしまえということだろうか。丁寧な表現に「お」を付けて、やり過ぎで笑われる人のようなものだ。
文化の継承に必要なことは何だろう。人それぞれに考えが違うかもしれないが、まずは、学ぶこと、学ばせることなのではないだろうか。教える、教わるでも同じことで、主体が違うだけに思えるが、これからの担い手という点で考えると、やはり主体は次の世代になる。それに、世代に重なりがあり、媒体を獲得したことが、継承を可能にしたのだ。
では、どの時期に何を学ばせるべきか、という疑問を出されたら、さてどう答えるだろう。人それぞれ、丁度良い時期があり、丁度良いものがあると考えるのが普通のようだが、それでは困るところもある。義務教育は、まずそんなにいい加減では成り立たないだろうし、その後のものでも、集団を相手にしているものであるかぎり、てんでんばらばらとはいかない。だから、何らかの基準を設けるか、指針を示すかが必要となる。ここで問題となるのは、基準や指針にどれほどの拘束力を持たせるかであり、もし人によるものであれば、その拘束は緩くしなければならない。強い拘束力を持つ基準が作られると、多様化は難しくなり、好むと好まざるとに関わらず、全てが同じことを受け入れることになる。今、巷を騒がせている問題も、発端はそこにあるはずなのに、全く違った話だけが強調されている。半分程度の人の目標が全てに通用するような態度で、教育を扱うのは明らかな間違いであり、そこを卒業する意味を第一とすべきなのに、ほとんどの人が進学を前提とした話にすり替えていることは、この国の抱える根本的な問題を映し出しているように見える。夕方のラジオ番組で小学生の詩を紹介していた人が、解説番組でこの問題を受け入れる側の姿勢の問題として批判していたのを見て、その視野の狭さに呆れてしまった。確かに、今回の問題の先に見えるのは、次の段階にある学校の存在だが、これだけ傾向と対策が整備された世の中にあって、対策を講じさせないような仕組みの導入は不可能である。自分たちの考えが悪いのは、誰かのせいだと思い込ませる社会の構造の問題が表面化しただけのことなのだが、公共放送を使ってまで、そんな馬鹿げた意見を述べる人を見ると病巣の深さに怖れを抱いてしまう。根本にあるべき、何をいつ、という基準にどれほどの意味があるのか、何故ある知識は皆が共通に持っていなければならないのか、そういう議論をすることなしに、ただ目の前に積まれた問題を蹴散らすことばかりを考えるのか、全く理解できない。あたかも問題解決を模索しているように見せて、その実態は単に出鱈目に散弾銃を乱射している姿に見える。学ぶことは確かに積み重ねだから、その方向性は重要なのだろうが、各項目は所詮各論に過ぎず、それらを結びつけ、系統立てるのは学ぶ人自身に任されたことである。その場で完結すべきことを、まるで先々の有効性のみを目標にして押し付けてきた間違いに、気づくべきなのではないだろうか。
強い立場、弱い立場、色々な場面で引き合いに出される言葉だ。どちらの立場でものを言うかによって、話の内容も、進め方も異なってくる。同じ人物が違う場面で正反対の立場から意見を述べることもあるくらいだ。ただ、一つだけ昔から戒めとして言われることがある。常に、弱い立場にある人のことを考えて、意見を述べるべきだということだ。
強弱は所詮相対的なものだから、相手によって立場が変わることは当り前だろう。ただ、あまりに露骨にその態度を見せ、特に強い者に巻かれ、弱い者を虐げるようなことをすると、嫌われるに違いない。実際には、そういう態度に表れるのではなく、ただ相手によって出方を変えることが必要なだけだ。その時に、自分がおかれた立場と逆にある人のことを考えることの大切さを、昔の人は言いたかったのだろう。そう思いながら、最近の様子を振り返ってみると、大きな違いが現れていることに気がつく。弱い立場のことを考えることが非常に多くなったことは事実だが、そのついでのように自分をその立場におく人が増えた。被害妄想というと言い過ぎなのだが、被害者意識のようなものが蔓延っていて、常に自分を弱者の側におこうとするのだ。そうなると、本来弱者の苦しみを緩和するために作られた制度も、大した苦しみを持たない人々に食い荒らされることになってしまい、その効果が薄れてしまう。周囲を見渡すと、そんな例が次々に見えてきて、最近の庶民の感覚に驚かされるが、実際にはこれとて庶民に限ったことではないようだ。世の中に強い者がいなくなり、平均的な弱者の集まりになったとしたら、現実には自由主義社会は成り立たなくなる。にもかかわらず、自らを弱い立場におこうとする心理が働くのは何故なのか、すぐには理解できない。確かに、弱い者を助けるように教え込まれたはずなのに、助けるよりも助けられるほうが楽だという心理が働いているわけで、本来人間が持つべき精神が蝕まれているとしか思えなくなる。様々な抑圧がある中で、確固たる自分という存在を維持することは難しいと言われるが、そんなに大変なことなのだろうか。その前に、皆と同じになりたいとか、平等であるべきとか、そちらの観念ばかりが強くなり、そのために必要となるべきことに思いが至らないとしたら、あまりに情けないことのように思える。権利という言葉も特に弱者に向けて使われることが多くなり、強者の権力との対比が強くなってきた。その一方で、義務という言葉の効力は失われつつあり、この先同じ方向に進んでしまったら、何処に行き着くのか見えてこない。そろそろ、そういう危険性を警告し、偽者たちを見極め、排除しないと、将来の危うさは大きくなるばかりだろう。
勧誘の電話に悩まされている人は、どれくらいいるのだろうか。バブル期には、ゴルフ場の会員権の話がよくあったようだが、その大部分は今や雑草が生えているか、荒れ地と化しているようだ。経済の回復の指標として引き合いに出される新築住宅が、その通りに話題に上り、勧誘電話の数が増える。儲け話なら、自分でどうぞ、という返事がせいぜいだ。
自宅の電話の番号がどうして知られるのか、かかってくることがあり、閉口した。それとともに、当然ながら職場にも度々訳のわからない社名を名乗って、かけてくる。ずっと以前ならば代表電話であったところも、最近は直通になっているから、関所を通らずに飛び込んでくる乱暴者だ。同じ社名で何度も来ると、腹が立つより呆れるほうが先に立つ。もっと凄いのは、確かマンションではなく、先物取引だったと思うが、以前かけてきた部下の不甲斐なさに腹を立てた上司がかけてきたものだ。おまえでは役に立たないとばかりに、いきり立つ雰囲気が伝わり、これまた馬鹿げた人々を相手にしている気持ちが高まった。何らかの名簿のようなものが出回っているには違いないが、それにしても何処から流れていくのやら。同じ名簿を頼りにしているらしいことは、電話のかかり方から知れてしまう。順序よく、名簿の通りに電話がかかるからだ。こういう仕事の意味は全く理解できないが、一部の人には人気があるらしい。つまり、営業のように振る舞っているが、電話をかけるだけの仕事をしているのであり、自宅でそれをする人がいるのだ。毎日長時間歩き回っての営業活動に比べれば、一日中電話をかけるだけのもののほうが、人によっては楽なのだろう。ただ、こういう依頼型の仕事の場合、かけた回数が問題なのであって、獲得した客の数ではない。つまりは結果はどうでもいいわけで、そんなやり方が成り立つとは思えないのだ。経済の動向は、今一つはっきりせず、最長の上昇傾向という話も、その勾配がすぐにはわからぬほどでは意味がない。そんな中で、勢い込んでの建設競争となったところへ、強度偽装の話が飛び込み、全体としては冷え込む方向に向かっているのだろう。何としても、大した魅力もない物件の始末をつけねばならない。そんな中での無駄弾撃ちが目立ち始めているのではないだろうか。自分が住むのではなく、他人に貸すことでの資産運用といった誘いも、簡単そうに見えるだけのことだ。堅実に生きることをやめてしまった人々は、その道を突き進めばいいことで、そんな話を聞いてぐらつく人々も、今は時期が悪すぎると思ったほうがいい。そんな気がするのだが、どうだろう。
言葉が乱れていると書くと、まるで若者のことを指しているように聞こえる。しかし、実態はそんなものでなく、あらゆる年齢層にこの現象は見られるようだ。確かに、テレビやラジオから流れてくる言葉に振り回される人も多いのだろうが、それ以前にどうも学校で習っていた頃から、そんな兆候が出ていた人が多いのではないだろうか。
中年女性の傍若無人ぶりを伝える話に、だからやっぱり年をとると怖いと思う人もいるが、こういう人の多くは既に若い頃からそんな雰囲気があったはずだ。人間がそんなに簡単に変われるはずはないと思うと、まさに三つ子の魂百までじゃないが、同じ器質の上に成り立っているのだ。若い頃、そんな素振りも見せなかったとしたら、それが芝居でなくて何だろうか。言葉の乱れに話を戻すと、巷に溢れる不思議な言葉に違和感を覚えることが多い。それは、いわゆる新語の類いではなく、昔から使われている言葉なのだが、しかし、場面や対象があまりに違いすぎるところから来る。そんな感覚を持つ人が沢山いるようで、新聞の意見欄やエッセーのようなところにも、似た話がよく出ている。そういうものを読むたびに、違和感を覚えるのは自分だけではないことがわかり、少し安心するのだが、しかし、そちらの勢いは収まりそうにもない。兎に角、問題となっているのは語彙の減少なのではないだろうか。場面ごと、状況ごとに異なる言葉を使うことで、微妙に違うものを表現しようとする気持ちは薄れ、ここにまで効率化が浸透したのかと思えるほど、少ない言葉で済ませようとする。昔なら使われたはずの言葉が使われなくなったのも、そんなところによるのかもしれない。これが若者限定の話ならばまだしも、そして井戸端会議での話題ならまだまだ、公共放送の場で流されたり、その情報源となった公的な発表文の中に登場するのを見ると、首を傾げたくなる。こんなことを書こうと思ったきっかけは、国勢調査の結果が発表されたという話の中で、人口が減少しているという確定結果が得られたことが伝えられたことにある。そこで使われた言葉は、「減少局面」というものだったのだが、何それといった感じだった。局面とは、物事の成り行きとか情勢を表す言葉だから、全く的外れなわけではないのかもしれない。しかし、こういうところでこういう表現を用いるのかと、不思議になった。このところの経済の状況を表すときに使われた言葉に、よく似たものがあったような気がして、つい話題にしてみたのだ。まさか、増加傾向に移り変わりそうな「局面」では、踊り場とか言い出さないだろうな、などと思いつつ。
野生動物が人家の近くに出没しているという。ここ数年目立ち始めているように思えるが、熊の出没の件数が一年前と比べて一桁違うのだというから、さてどうしたものか。熊と聞けばすぐに思い浮かぶように、もう暫くしたら休息の時間に入るわけだから、現れなくなるのだろうが、その準備としてのものらしい。目の前に現れたらと考えると、ぞっとする。
以前、この話題で賑わっていたとき、どんぐりを森に播こうという運動が起こっていた。町に出没するのは、森に食べるものがないからで、森に食べ物があれば危険を冒してまで、やって来ることはない、という主旨だったと思う。しかし、今度は違う話になっている。つまり、一度味を占めた動物は、それを求めて再び同じところを訪れるというのだ。もしそうならば、今更森をどうにかしても、と思うのはごく自然の成り行きに思える。どちらが正しいのかを決めることより、たぶん、今目の前にある問題を片付けることの方が先だろう。捕獲して、唐辛子スプレーなどで痛い目にあわせ、森の奥に放つことが繰り返されているようだが、痛い目と美味しいもののどちらが勝つのか、よくわからない。確かに、肉体的な痛みに近いものだから、効果はかなりあるのだろうが、それが人家の近くに出てきたことと記憶の中で繋がるのだろうか。畜生ごときが、とは思わないが、それこそ生きるために必要なことと、生き死にに関係のないことで、どちらを優先させるのかは、畜生でもわかりそうなことである。単純に捕獲して、放つという繰り返しだけでは無理があるようで、最近は殺してしまう場合も多い。明らかな増加傾向に対して、自然保護という概念が通用しないところまで来ているのかもしれない。当然、反対する人々は異なる論理を持ち出すが、それとて完璧なものではあり得ない。人間の存在自体を否定するところに、結論が向かってしまっては、元も子もなくなるからだ。以前ならば、乱開発の話で様々なことが片付けられていたが、最近はそこまで異常な例は少なくなった。その中で、人間の生活圏の広がりだけで、この問題を片付けようとするのは無理に思える。野生動物の保護に対する考え方も、最近はかなり大きく変わりつつあり、鹿にしてもそろそろ保護だけではいけないという考え方が紹介されるようになっている。猪にしても、熊にしても、猿にしても、それぞれに人間と直接関われば、問題が出てくるのはお互い様だ。そんな中で、思いつきを次々に出して、それを試みるやり方が正しいと言えるのか、怪しくなってきたのではないだろうか。熊に関しては、暫し休憩となるわけだが。