何でもかんでも、右から左に移すことが第一のように思っている人が世の中にはいるらしい。余計なことを考えるよりも、まず考えずに動いてみようとする。逆よりはましな感じもするが、実際にはこちらもかなり大きな問題を起こすことが多い。無茶なことをしたときに限って、それが引き起こす結果の無謀さに思いが至らないことがあるからだ。
なるべく確実な仕事をしてもらおうとすると、かなり綿密な計画を示し、そこにある通りに実行することを命じるのが一番手っ取り早い。ただ、これを繰り返していると、何か予期せぬことが起きたときの対応ができずに、そこですべてが頓挫することになる。程度の問題なのだろうが、ある程度慣れるまでは指示通りに動いてもらい、その先は自分なりの判断を取り入れさせる手順を踏むのが普通だ。しかし、以前と比べるとこういう順序が順調にこなされることが少なくなった。前半にはほとんど問題がなく、かえって昔よりも順調に流れることが多い。ただし、ひとたび問題が生じると様相は一変する。指示された範囲では普通に動いていた人々が、機能停止に追い込まれたかのように振る舞うのだ。それでも、十分に練られた計画であればほとんど問題を起こすこともなく、こういう期間は何事もなく過ぎていくものだ。しかし、後半に入ると人によって反応にばらつきが出てくる。自分なりの判断を要求された場合に、すぐに思考停止に陥る人がいると思えば、思いつく限りの手だてを講じる人もいる。手だてと言えば聞こえが良いけれども、結局のところは手当たり次第の行動に出る場合が多く、そうなると問題がさらに大きく膨らむことになるだけだ。それでも、考えてみようとする人の多くは失敗を糧にして、次の行動の解を導きだそうとするからましだ。考えることをすべて放棄してしまう人の場合、その場だけでなく、次の機会も同様の結果を招くだけとなるから、役に立つようになる可能性はほとんどないわけだ。何故、そんな状況に陥るのかを観察してみると、そういう問題を抱える人の多くは右から左という単純な作業の繰り返しにのみ適応していることがわかる。一対一対応とでもいうのだろうか。問題と答えが一つの線で結ばれる場合にのみ、答えに到達することができる。単純作業の多くはこういった類いのものが多いから、そこへの適応力は高く見える。しかし、いかに単純といってもそれぞれに応用力を必要とする場面が訪れるもので、そういったところでまた機能停止が起こってしまい、先に進めなくなるわけだ。こういう行動様式は受けた教育の水準には無関係に、その人それぞれの資質として表面に出てくるものらしい。特に、最近の傾向は偏差値の高いところからやってくることが多くなり、期待と裏腹の結果に落胆することとなる。単調なものに才能を発揮することが、まさか偏差値にまで及ぶとは想像もしなかったが、そんな状況が徐々に目立ち始めているのではないだろうか。
そろそろ喉元を過ぎた頃だろうか。学ばなければならないものを学んでいなかったことで、肝心の資格が手に入らない可能性が取沙汰された。しかし、弱者と思しき人間に寛容さを示すことが最重要とされる昨今、大鉈を振るうような措置がとられ、膨らんだ不安が風に飛ばされる泡のように消し飛んでしまったようだ。
この成り行きを見守っていて強く感じるのは、表舞台に立つ人々のものの見方の水準の低さと全体を見渡すための想像力の貧困さだ。問題が突きつけられたとき、目の前に立ちはだかるものを払い除けることだけに躍起になり、問題の根本を考えようともしない。全体が見渡せないから、その均衡を保とうとする配慮が出てこず、何とも不釣り合いで、その場しのぎの解決案を提示する。そこまでなら、将来ある人間に対する配慮として無理矢理評価する人の意見が通る可能性もあったかもしれないが、さらに恥の上塗りのような行動に責任者が出たのでは、救いようの無い仕組みとそれを動かす人々の無謀さだけが残されてしまうのではないだろうか。公教育を中心として、初等中等教育に分類される教育現場では、何をどう教えるべきかが十分に議論されていることになっている。しかし、現実には時間の不足を理由に、不十分な体制を容認しつつ、そこに更なる歪みを持ち込むことになった。基礎教育の基本は広く浅くであると思うのだが、これについて異論が出るだろうか。最近の動向の心配なところは、基礎教育にまで将来役に立つという切り札的な言葉が持ち込まれるようになったことで、農業の荒廃が問題になった頃の合成肥料による土壌改良の感覚がそこにあるように思える。土台をしっかり築くことの大切さより、ハリボテでもいいから見た目の良いものを建てておこうとする感覚だ。こういう馬鹿げた感覚は無視するとして、広く浅くという基本に対して、ある特定の知識を義務づけることは大きくかけ離れたものに見える。にもかかわらず、それを大袈裟に持ち込んだ結果が今回の混乱の発端となった訳だ。一時の混乱さえ片付けてしまえば、後は制度の押しつけを実現させるための方策を編み出すのみ、などと言われたのでは、たまったものではない。必ず学ぶべきものだから、その習熟度を測る手だてをとなってしまうと、更なる混乱を招くのは必定で、関係する人間すべてを縛り付ける結果となる。一体全体、制度を定めた理由は何だったのか、何故そんな縛りを受け入れねばならないのか、まずはその辺りの議論をしてから、問題を一つ一つ解決すべきだろう。結局のところ、応急処置にしか力を発揮できず、抜本的な解決を模索できないのでは、監督官庁として水先案内の役割を果たすことなどできるはずもないのだ。
そのときの勢いに乗って、普段とは違った大きな力を発揮することがある。波に乗るとか、追い風が吹くと表現されることが多いが、普段とは違うと言っても自分なりの力が反映されたものだから、波や風が収まった後でも何とかなる。これと違って、誰か他人の力に乗せられてしまった場合には、その人がいなくなった途端に苦しくなる。
梯子を外されるという表現を聞くことがあるが、これがまさにそんな状況を表しているのではないか。誰かに勧められて、梯子を上って屋根に上がったら、それまでとは違う力が発揮できた。そんな状況の後、勧めた本人がいなくなり、さて自分の力でその状態を維持しようとすると、全く歯が立たない羽目に陥る。その頃になって、自分の実力とはかけ離れたところで起きてきたことに気づいても、時既に遅しということだ。色々な世界で起きていることだと思うが、衣料販売の急進的存在だった企業の経営陣の交代は、いかにも潔い引き際と思わせておいて、その後の展開はまさに予想通り、実力と思ったものが張り子の虎だったことを表していた。最近話題になりつつあるのは、政治の世界の話で、勢い込んで攻撃に参加していた人々が、後ろ盾を失って右往左往している。その一方で、かつての厳しい攻撃にさらされた人々には、当時のひどい仕打ちをすっかり忘れてしまった人たちからの身勝手な誘いが向けられているという。一体全体、どういう具合になってしまったのか、本当の力とは何なのか、はっきりしなくなってきた。所詮は組織力に依存しているに過ぎないのだろうが、その組織がどこに向かうのかわからなくなると、こんなことが起きるのではないだろうか。勝手な意見を吐きつつ、自分の思い通りに事を進めようとする人がいる一方で、長いものに巻かれる人と、自分なりの意見を持つ人が組織を構成していると、話はどんどん混乱してくる。その時々での混乱だけでなく、後始末のできない人々の集まりでは、次々と混迷を極め、どうにも進むべき方向は見つからなくなる。ここからはおそらく思惑だけが膨れ上がる訳で、そういう状況で自分を保とうとする人だけが損を見ることになるとしたら、どうしようもない状況にあることの証明になるのではないか。そのうち雰囲気は見えてくるのだろうが、当事者たちは気が気でないだろう。何しろ、他人の褌で相撲をとってきた訳だから、今更自分の判断といわれても動きようが無いからだ。多分、喜んで見守るのは報道する連中とそれにくっついた評論家たちだけなのかもしれない。何しろ、票で左右するはずの人々はとうの昔に離れてしまっているのだから。
図書館は何のためにあるのか。こんな疑問を抱く人はあまりいないだろう。しかし、最近の動向を見ていると、改めて考える必要があるのではないかと思えてくる。落書きがされた本、頁が切り取られた本、濡れてしまい頁がくっついた本、そんなものが目立つようになり、道徳とか倫理というものの欠如が感じられるからだ。
こういう感覚の違いを意識するのと同時に、気になることがある。図書館の本を借りる理由は何かということだ。日々の生活が苦しく、本が読みたいのにそれを買う余裕が無いというのが、図書館を普及させる力になっていたように思う。しかし、今その余裕が無い人は世の中にどのくらいいるのだろう。新幹線に乗車して旅行する人が、図書館の本を読んでいるのをよく見かけるようになったのは、いつ頃からか思い出せないが、これは状況の変化の一つの現れだと思う。本を買う金が勿体ないから、図書館の本を借りる。一度しか読まない本だから、投資する価値が無いとでも言うのだろうか。その一方で、税金を納めているのだから権利はあるはずという考えも出てくる。さらに進めば、読みたい本を図書館に要望し、それを借りることになる訳だ。何も間違ったことは無いように思えるのだが、最近の図書館の蔵書の状況を調べたら、異常な偏りに驚かされるのではないか。ベストセラーがその売れ行きと同じ比率で揃えられている。要望が多いからで、その熱が冷めたらどうなるのか、考えない方が良さそうだ。利用者側の希望に沿うように応えることが公的な機関の使命と言えばその通りかもしれないが、希望の質が問われることがあるのだろうか。その上、利用者の質や道徳が低下していることが明らかと見えるのに、そこへの働きかけがほとんどないように見える。立場の持ち方は色々とあるとは思うけれど、一番重要と思えるのはあちらではなく、こちらの問題ではないか。本を読む人の要望に応えねばならないという思い込みは、そろそろ引っ込めた方が良さそうで、その質を問いかける動きをとることが重要に思える。元々、図書館の静けさに馴染めず、避けて通っていた人間にはこれに対する意見を述べる資格は無いのかもしれないが、ここまで落ち込んだ利用者の質に対して、何もしないでただ税金をどぶに捨てるのはいかがなものかと思えるのだ。書籍の売れ行きは落ち込んだままで、抜本的な対応策は未だに出てこない。それとは別のところで起きているこんな現象も、実際には同じ根っ子から出ているのではないだろうか。
社会はいつの時代も正義と悪を必要としているのだろうか。正しい行いの必要性は誰にでも理解できるところだが、悪行の方はどうだろう、無い方が良いと思う人の方が多いのではないだろうか。でも、その一方でいかにも矛盾することが行われている。其処彼処で、何かよくないことが起きていると、必ず誰が悪いかを論じる人がいるのだ。
確かに、よくないことには原因があるのだろう。しかし、だからといって、それを正す努力より、原因の追及に精を出すのはいかがなものか。特に、それが原因となった社会現象より、原因となった人物を特定しようという努力だった場合、その後で何をしようと思うのか、気になってくる。どんなに悪い方向に向かっているときも、それを正しい方向に向ける努力は必要である。そしてまた、その努力が無駄になることは少ないはずなのではないか。にもかかわらず、それに使う労力より、別の方に力を注ぐのは何とも不思議な感覚に思える。しかし、このところの様々な事柄に対する議論では、その多くが加害者の特定に向けられているように思える。それらを排除することは、確かに大きな効果を産むことに繋がるのかもしれないが、実際には将来の被害者を作らないだけで、既に被害者になってしまった人を救うことには繋がらないことが多い。将来も大切だが、今目の前で問題を抱えている人を救えないのだとしたら、それは何かが足りないことになる。では、そちらに近づくためには何をしたら良いのか。問題点を捉え直し、その解決の糸口を探すことが大切なのだろうが、そのための手段にも色々とあり、そう簡単な話ではないのだろう。そのため、具体的な目標を定められないままよりも、原因となる実在を追うことの方が簡単に思えてくるのではないだろうか。誰が悪いと定めたとしても、それは問題解決には繋がらない。制度が悪いと指摘したとしても、制度を良くすることはできない。だとしたら、何をすれば良いのか。それぞれの場合で大きく違っているようで、どうにも答えを見出しにくいことだけは確かなようだ。でも、問題を正面から捉えて、何かしらの働きかけをしていけば、何処かに突破口が見つかるかもしれない。こんな考えを持っていても、あまりに安易な取り組み方と言われてしまえばどうにもならない。安易なのは確かなのだが、だからといって他に何ができるのか、そちらの解答を見つけるのは容易なことではないだろう。
誰だって、便利なもの、楽なものに気持ちが揺らぐ。何でも簡単にできてしまうのなら、その方が良いと思うのも無理はない。しかし、本当にそれが良いのか悪いのか、その場だけの判断で決めてしまってよいのかどうか、少し考えた方が良いのではないだろうか。曲がりくねった道よりも、直線の道の方が良いという気持ちはわからないでもないが。
山道を登るとき、何故こんなに面倒なことをするのかと思うことがないだろうか。すぐそこに頂上が見えているのに、あちらこちらと行ったり来たり、終着点がなかなか近づかない。それでも登山道を逸れて真直ぐ登ってやろうという人は流石に出てこないようで、ぶつぶつ言いつつ、不満たらたらで頂上を目指す。ある年齢まではそんな行動をしていた人も、その意味が分かってくると少しは大人しくなる。年を重ねることではなく、経験が必要なことを、こういう話は表しているのではないだろうか。では、楽をするとか、便利なものに飛びつくとかは、どうだろう。話は別ということで、楽な方に飛びついていないだろうか。あるいは、子供たちに手を差し伸べて、楽な道を歩ませようとしていないだろうか。人生の送り方は人それぞれであり、本人が選択すれば良いものなのだが、どうもそうなっていないところがある。自分たちの判断基準が築かれる前に、親たちが進むべき道を定め、そちらへと導く。何処かに矛盾があるように思うが、多分本人がそれなりの年齢に達するまでは判断がつかない。最近特に目立つのは、便利なものであり、これを読むことができるインターネットはその代表みたいなものだ。予想外のことが次々起こり、その便利さを享受している訳だが、意外性を楽しめる世代ではなく、これを当たり前のこととしか思えない世代にとって、果たしてこの便利さはどんな意味を持つことになるのだろう。人との交わりが、対面という直接的なものではなく、通信を通した間接的なものになってしまったとき、相手の存在を尊重する気持ちが変化し始めているように感じられる。目の前にいる人間の表情を観察し、態度を眺め、言葉の抑揚を確かめ、それらを分析することで、相手との距離を保つはずが、間に何ともいえない曇り硝子のような存在を挟み込み、はっきり見えない相手に球を投げつける。確かな信頼の上ならば成り立つ話に見えるが、実像も知らない相手にこれをするとなると、かなりの不安がつきまといそうだ。しかし、当たり前の世代にはそんなことは微塵も感じられない。ただ、目の前にいる相手と、自分の欲望を満たすために接している感覚なのだ。当たり前だからこそできることなのかもしれないが、そうでない世代には理解し難いことである。ここから先何が起こるのか、楽しみと不安が入り交じった不思議な感覚がある。
昔、公害問題が世間を騒がせていた頃、水質汚染、特に河川の汚染が話題になっていた。取り組みの姿勢は色々とあって、一番大きな湖に流れ込む川の周辺では洗剤の種類を限定する動きが出た。一方、行政も汚れた川をきれいにするための施策として、浚渫を施し、護岸工事を進めることで、景観を取り戻す努力を行った。
その頃、工事が行われた川では土の堤防がコンクリートで覆われ、川辺に群生していた水草などの植物が消え去り、人の手で管理されるものと変化した。それと同時に、川の管理という考え方は氾濫などの水害にも及び、蛇行していた川筋をまっすぐにする工事を行うところが増えた。これによって、それまで区画が不鮮明だったところも、川に沿った直線で囲むことができるようになり、様々な利益がもたらされたように思えた。しかし、最近川の周辺の様子に変化が現れるようになっている。水質汚濁の原因の一つだった工場排水の規制が厳しくなるとともに、家庭排水についてもずいぶん様子が変わることで、汚染源が少なくなり、その結果として川の水も少しずつきれいになってきた。そうなると、工事を行わなかったところも自然の浄化作用によって水質が改善され、工事そのものの効果を見直す動きが出始めたのだ。湖に水草を植えて増やそうという運動が出てきたのはその一つの現れだが、コンクリートで覆ったのでは自然の回復は望めず、改めて自然にまかそうという動きが出てきた。そこでもう一つ注目されたのが、直線にのびる川筋の問題で、自然の浄化作用を活かすためには時間が必要となり、そのために蛇行こそが重要と指摘する人がいる。その時代時代で人々の考え方が変わるのは当たり前のことかもしれないが、それにしても急激な変化である。それとともに、これを人の生き方に当てはめたらどうなのかと思う人がいるのではないだろうか。素直に生きることをまっすぐという意味に捉えて、効率よく生きることを推奨した時代があったが、これは誤解だったのではないだろうか。素直とは、人それぞれにあったという意味であり、直線ではなかったのだ。そんな目標を持って生きてきた人々の抱える問題の大きさを考えると、根源はそこにあったのではないかという気がしてくる。少しくらいの遠回りを、無駄なこととして排除して、まっすぐに育った人々が、ちょっとした圧力に倒れてしまうのは、まさにそんなところからきているのかもしれない。