レッドデータブックについて、どこかで聞いたことのある人は多いだろう。はて何だったか、と思う人には、絶滅という言葉が鍵になるだろうか。これまで進化の過程で産まれた種の数は一体どのくらいなのか、推測するしか方法はないが、その中で生き残ってきたものが次々に消えつつあるという。その原因の多くは人の手によるものらしい。
自分たちの生活の糧の為、という理由はそれでも直接的なものだろう。毛皮を手に入れたいが為にとか、肉を売る為にとか、そんな理由で乱獲され、地上から消えてしまった動物は多い。それ以外にも、生息域に開発の手が及び、住処を奪われた結果として絶えてしまった種もある。そんなこんなが繰り返され、活動家が声を上げ始めた結果として、種を守ろうとする運動が盛んになった。その一環と捉えられるのがレッドデータブックであり、絶滅の恐れのある種を周知させることで、保存運動を盛り上げようとするものだ。直接的な影響を及ぼす人々だけでなく、無関係な人にまで声を届かせることで、社会全体でこの問題を考えようとする気持ちを高める効果があると思われている。効果のほどは定かではないが、少なくともその名称が知られるほど頻繁に報道されていることは事実で、はじめに掲げた目標は達成されたのかもしれない。この本に掲載される種の多くは、人の営みの影響により、その存続が危ぶまれているのだが、本に載らないものでも日々絶滅している種があるのではないだろうか。その多くは、人の手によって引き起こされたものでもなく、ただ時間の流れの結果としてそんな結末になっただけのことで、そこに潜む事情はかなり違ったものに思える。そのことを捉えて、昔ある人が語った話は、種は生き延びようとする気力が無くなれば滅びるというものだ。動物や植物に気力が存在するかどうかは別にして、生き延び続けたことが進化の過程で生き残った最大の原因だろうから、大事なことであるに違いない。その為に住処を移動することも可能になるだろうし、食草を変えることも可能かもしれない。種の存続だけを考えれば、環境の変化への対応は自分自身を変えることも必要なのだ。この話はただ単に生き物の生き残り戦略を、もっと全般的に捉えた形のものだが、それを今話題になっていることに当てはめられないか、気になっている。自らの命を絶つ人々のことがこのところ話題になり、年齢にも性別にも関係なく、そんなことを起こす人々が増えている。彼らの多くは悩み続けた末に、そういう決断を下したのだろうが、その前に何かが足りなかったと考えることはできないだろうか。つまり、絶滅する種と同様に生き延びようとする気力が足りなかったと。もしもそうなら、一時的な助けは功を奏するのだろうか。気力に変化が現れない限り、あちらへ渡ろうとする気持ちは消えないものだろうから。
好き嫌いのない人はいないだろう。たとえ、何でも食べる人でも、あの人は苦手ということはあると思う。誰とでも仲良くしているように見えても、そこに温度差があるのではないだろうか。好き嫌いは両極端のように思えるから、中庸を好む人には同意し難いものとなるが、程度の差を考えれば、誰にでもあるものなのではないだろうか。
感情を表面に出さないことが肝心と思う人には、好きも嫌いもなるべく露にせず、誰とでもうまく付き合うことが大切なのかもしれないが、露にしないというのはその感情を抑えていることであり、それが精神的な圧迫に繋がるとも限らない。どちらにしても、心の問題としては表情ほど平静に振る舞うことはできず、結局どこかで歪みの蓄積が問題化してしまうだろう。避け難いものであれば仕方のないところだが、危ないと思ったときに問題を避けることも必要で、無理をためない為にそんな道が常に用意されているのではないだろうか。好きなことには打ち込めるのに、嫌いなことには気が乗らないというのもその一つで、無理をせず、嫌な思いを溜め込まないようにしている。しかし、世の中はそればかりで通用するわけではなく、時には無理を承知で取り組まなければならないこともある。嫌いなことを避け続けようとしても、どこかで袋小路に追い込まれ、逃げられなくなる。そうなったときには、諦め正面切って対抗するはずだが、上手く行くことは少ない。子供の頃の勉強はまさにその典型であり、理不尽な押しつけに悩む人も多い。今はそれが表面化しているようで、負担軽減を強調する動きには、嫌いなものを減らそうとする意図が見え隠れする。しかし、本当にそうすべきなのか、議論は尽くされたのだろうか。子供の得手不得手に対して、昔の学校が用意したものは様々な形で対応していたように見えた。今は、軽減という名の下に、種類が減らされ、その代わりに少ないものを確実にものにするように要求される。一見負担を軽くしたように見えたものが、その実全く逆の結果を導いたことに気づかない人も多く、何故子供が学校を嫌いになるのかが理解できない。嫌いな所で、嫌いなことを、嫌いと思いながら、というのではどこにも息抜きの機会はない。仕方がないから、したい放題にさせて、心を解放した結果、そのバランスの崩れた子供が増えてしまった。対応策にばかり心を奪われる人々には、その解決も上辺だけのものとなるから、いつまで経っても根本解決は起きそうにもないのだ。こんなとき、本質を見極めようとする気持ちが一番大切になるのではないだろうか。
車を運転していて、迷惑に思うことは沢山あるが、路上駐車はその中でも一番かも知れない。大都市の大きな道路では取り締まりが厳しくなり、随分減少したように見えるが、地方都市や大都市でも脇道となると以前とほとんど変わらない。ひょっとすると、大都市の脇道は以前より悪化していると言った方がいいのかもしれない。
取り締まりとは間違った行為を減らすための唯一の方策と思われているが、実際に効果を上げられるのは一時的である。今回の駐車違反についても、徐々に情勢に変化が見られ、脇道の状況の悪化はその現れの一つだろう。いたちごっこと言ってしまえばその通りで、罰則を強化したとしても、当事者の心に響かなければ効果はすぐに薄れてしまう。少しの時間だからという言い訳が罷り通るようではだめで、心の底にある規則の存在による抑止力では、中々無くならないのが現状だ。そういう中で、朝夕の混雑時に目立つ迷惑駐車は依然として無くならない。特に、朝は取り締まりの開始時刻前であり、そういう心配がないせいかその傍若無人ぶりが突出している。車の往来はその時間が一番激しく、迷惑の度合いは最も高いはずなのに、それに対する配慮は微塵も感じられない。こんなことが平日ほぼ毎日繰り返されているのに、どこからも苦情が出ないように見えるのは何故だろう。おそらくそれはその場所の特殊性からくるものなのだろう。其処は、幼稚園とか保育所の周辺道路で、少子化の問題が取沙汰されている昨今、子育てに力を入れる家族を見守ろうとする姿勢が出ているのかもしれない。それにしても、何故、車での送り迎えを繰り返さねばならないのだろう。朝忙しいから、という理由は何も彼らだけに当てはまるものではない。でも、彼らは当然のごとくの態度なのだ。子供に対する影響も大きいはずだが、それとて彼らの中では別の形に変えられている。つまり、子供のためにこうせねばならないというのだ。自分のためではなく、子のために、このすり替えは最近特に目立つようになった。たとえ悪いことでも、他人のため、社会のためなら罷り通るというわけだ。それが身勝手の現れと理解できず、世の為人の為のように振る舞う行為には、倫理も道徳も通用しない。さらには、そんな親に育てられて、感謝し続けねばならない子供に幸福が訪れるとは思えないのだ。
どこかネジの巻き方が狂ってしまったのだろうか。世の中の流れが予想とは違う方に向かっているように見える。自分の周りはそんな風に見えないのに、少し離れるとどこか遠くに向かって流れている。少しずつずれているように見えていたものが、積み重なるうちに離れていく。はじめは大した違いもなかったのに、いつのまにか大きな違いが生まれる。
昔はそんなじゃなかったという声が聞こえていた頃、たぶんいつの時代もそんなものという声も同時に聞こえていた。確かに時代ごとの違いは少しずつあったけれど、どんなに重なっても大したものにはなりそうにもなかった。なぜ、いつ頃から、その様相が一変してしまったのか。少し考えたくらいでは転換の時期を見極めることは難しい。多分、いろいろな要素が集まり始め、それがある臨界点を超えたとき、急激に大きな変化が現れたのではないだろうか。しかし、そのきっかけとなった要素が何かを断定することは勿論できないし、ましてその原因となったものは何かを探ることはさらに難しくなる。しかし、現実に変化は起きてしまったのだし、それを消し去ることはできないから、何とかうまく折り合いをつける工夫が必要となる。ただ、そんな考え方をする人は少なく、特にこれから頑張らねばならない世代にはほとんどそんな雰囲気が出てこない。さて、このまま行くとどんなことになるのか、見守るのも一つの方法だから、そうする人がいるようだ。しかし、ただ見守っていて、次に何が起きるのか、考えているのだろうか。次の世代に任せることが重要と思うのかもしれないが、何も渡さないままに任されても適切な対応はできないのではないだろうか。少しずつ遣り取りをしながら、少しずつ知恵を授け、なにかを伝えることがそれまでの方法であり、その中でも世代間の感覚の溝は埋めることができなかった。それが何も伝えないままだとどうなるのか、あまり想像したくない。そういう形で、関わりの輪から離れていくと、そう簡単に戻ってくることはできない。何とか間とか言いながら、うまく関わっていた頃はいいのだが、遠い感覚と思った途端に、すっと遠いところに追いやられてしまう。結局肝心なことは如何に関わりを継続するかということだろう。にもかかわらず、何となくといった程度の感覚で、そういう流れに身を任せてしまう。こんなとき何をすればいいのか、少し考えれば何か思いつきそうなのに、思考停止に入ってしまうのはなぜだろう。それがわかっていたら、こんな事態には陥らなかったのかもしれない。しかし、そうなってしまったからには、もう一工夫必要になったのではないか。
景気は確実に回復しているように見える。しかし、そんな中でも地域格差が大きくなっており、中心的な地域が順調に回復しているのに対し、周辺部は取り残されているような雰囲気がある。その表れの一つに失業率があり、そういう地域ではいまだにかなり高い率を示している。確かに大企業の進出なしには雇用の確保はなく、常に難しい状態にあるといえる。
しかし、これは仕方のないところだろうか。一時の成長を誇った時代にはどこも彼処も同じ調子で成長を続けるものと思えたが、実際にはそれが単なる虚構に過ぎないことが明らかとなった。そういう時代を経て、地域本来の姿が失われるとともに、画一化が計られ、実際には扱いは容易になっていった。これは政を行ううえでは非常に重要であり、それを利用して支配を続けようとした人もいたはずだ。しかし、徐々に蓄積してきた歪みはついに表面化することとなり、そこにどうにも取り返しようのないものが築かれたことに気づいたとき、もう戻る場所はなくなっていたのではないか。それでも、中心となる地域はそれが当たり前の姿であるとすることで何とかその地位を保つことができる。しかし、そうでない地方では、どうにもならない矛盾の積み重ねの結果、ついには回復しようのない状況に追い込まれていってしまったわけだ。確かに、それはそれとして近代化の道を突き進めばいいのかもしれないが、近代化の旗手たる大企業がジリ貧の状況に追い込まれたのではどうにもならない。そんな中でふと気がつく人が出てきたとはいえ、結局のところ伝統を守ろうとする動きは、後手に回ってしまったわけだ。一度消し去ったものを復活することは、もともと消えていたものを適当に復元するよりもかなり大変な作業を伴う。そんなジレンマに追い込まれながら、いろいろな工夫がなされ、そして消えていった。そんなに簡単な答えが自然に浮かぶわけはなく、苦労の末に何とか答えを見つけたつもりになっても、どこにも保障はなく、苦しむのみとなりかねない。こんな姿を見ている人々には、その地域の苦しみがよくわかっている。しかし、それをどうにかする手立ては中々見つからないのだ。そういう中で頼りになるのはただ一つ、前政権が忌み嫌っていた公共事業しか、支える力を発揮できるものはないわけだ。そうして、道路を作り、施設を作り、そんな従来の手法が活用されるのだけれども、結果として残るものは実際にはただの無駄遣いでしかない。それでも、雇用の確保にはこれくらいしか方法はないのである。まったく、どうしてこんな状況が引き起こされるのか、ちょっと考えたのでは思い当たらないものだ。しかし、そうなったのではどうにも困るはずなのだが。
自己責任という言葉が一時期流行した。しかし、最近あまり聞かなくなっているように思うが、どうだろう。流行った時も、結局は的を射た指摘というよりも、どちらかというと責任の所在を曖昧にする方に使われていたように思う。事ほど左様に、というと言いすぎかも知れないが、自分の責任を明確にせず、他人の責任のみに光を当てようとする動きが盛んになった。
世の中の多くがそういった傾向になってくると、責任は周囲にまわされ、仕事は他人に任されることが多くなる。任せるといっても、責任を取ってくれるわけではなく、自分の役割をどこか別の方に投げてしまうような行動であり、いかにも自己中心的であり、身勝手な行動になってしまったようだ。しかし、社会全体でそういった勢力の方が強くなってくると、そちらの方が当たり前となる。自分には責任がなく、何か悪いことが起きたとしても、それは周囲の問題であり、仕組みの問題にしてしまう。その結果、責任のなすり合いのような行動が目立ち始め、たらい回しの一種のようなことが行われる。其処彼処でそんな行動が主流となると、真面目に自分の責任をとろうと思う人も少なくなり、そうする人がいたとしたら逆に攻撃を受けることとなる。目立つ行為とか、自分だけいい子になろうとすると言われても、本人はごく真面目に筋を通そうとしているだけだから、どこか腑に落ちないことになる。しかし、そう思うのは本人だけであり、責任回避に躍起となる人々は、そういう目立ちたがりに次々に問題を押し付けることを続ける。これはこれで世の中の均衡を保つことに繋がるように思えるが、現実には単に歪みを大きくすることにしかならない。徐々にたまり続けた歪みは、その個人を押し潰すようになるか、あるいはその人が属する社会を蝕む効果を発揮するからだ。最近話題になっている虐めについても、学校と生徒、それにその親たちとの関わりに不思議な歪みと責任の所在の曖昧さが目立ち始めた結果のように思えるのは、こちらの考えすぎだろうか。自分の子供が窮地に追い込まれたときに親がとる行動で、不思議に思えるものに学校への訴えがある。これ自体を不思議と思うわけではないが、それが最終結論であるように振舞う人々の考えが不思議に思えるのだ。相手が学校自体なら、それを相手に戦うことだから、不思議でもなんでもない。しかし、それに属する人間とはいえ、個人を相手の話を組織に窮状を訴えることが結論となるのだろうか。守るべき人間は目の前におり、それに悪影響を与える人がどこかにいる。なぜ、そこに直接作用を及ぼさないのか、それが不思議に見えるのだ。あんなに訴えたのに何もしてくれなかったという言い分が流れるたびに、首を傾げてしまう。その結果が悲惨になればなるほど、そこに違和感を覚えるのはこちらの感覚が鈍ってしまったからだろうか。
街中で何かが不自由な人を見かけたら、どうするだろう。すすんで助けようとするだろうか、それともその人から求められたら助けるだろうか、あるいは関わりを持たないようにそそくさと立ち去るだろうか。弱い人を助けることが大切と教え込まれた人々は、たぶん第一の選択をするだろう。しかし、時には反発にあうことがあって驚かされることもある。
不自由な人々の多くは自分なりに頑張ろうとしている。そういう人に手を貸すことは、いかにも人助けのように思えて、その実全く反対の行為になる場合があるわけだ。だから助けなくてもいいとは言えないし、助けることが悪いとも言えない。本人の気持ちは人助けにあるわけだから、それを否定することは避けるべきだろう。こういう話は以前ならば障害者と呼ばれる人との関わりで出されることが多かったが、最近は違った人々を対象とするようになったようだ。はっきりとわかる違いではなく、一見他の人々と全く変わらないように見える人を対象とした話が増えているのだ。人生に思い悩んだり、虐められたり、他人との差がほとんどないのに、周囲からの圧力に押し潰されてしまう人が増えてきて、彼らの居場所を見つけようとする手助けが目立つようになってきた。一見普通に見えるのに、そういう形で被害者に追い込まれた人々は、確かに保護の対象になっているように思える。しかし、そういう人々が本当に手を差し伸べて欲しいと思っているかどうかは、障害者の例と同じように判断しにくいものだろう。にもかかわらず、世の中の流れはまるで彼らがそういう助けを必要としているように扱っている。強く生きることのできる人は誰の助けも必要としないが、弱い人は助けを必要としているというわけだ。この論理はいかにも正しいもののように扱われているが、はたして本当にそうなのだろうか。強い人も弱い人も、誰かとの関わりを持ちつつ、人生を歩んでいることには変わりがない。しかし、一方的な手助けを必要とする人がいて、それがなければ生きていけないということがあるということらしい。ここに矛盾があるように思えるのだ。ずっと昔に、癒しの話を書いたことがある。一方的に癒されたい人が増えているということだが、この感覚と手助けの話がよく似ているような気がするのだ。ある程度は想像でしかないわけだから、これだけで断定することは危険に思えるが、しかし、このところの正義感の押し売りのようなお助け人には首を傾げたくなる。本当に生きたいという気持ちがないと、人間は生き抜くことができないのではないか。もしそうなら、どういう人を助けるべきなのか。