パンチの独り言

(2006年11月20日〜11月26日)
(支援、孤影、不用、道、加給、伝心、芝居)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]




11月26日(日)−芝居

 やらせの話が一部で盛り上がっているようだ。主催者側の意図に沿った展開を導く為に、一部の人々に指定した質問をさせたというものだが、これを報じている人々の心の中に、何か引っかかるものはないのだろうか。依頼をしても、報酬を支払っていないので問題なしとする論理も、今の世の中が抱える問題を浮き彫りにしている。
 やらせという言葉がいつ頃から頻繁に使われるようになったのか、思い出せない。しかし、例えば授業参観はまさにそんな感じだし、一部の株主総会もそんな雰囲気がある。小さな集まりで、流れを円滑にする為に仕組まれたものは、誰もが目にしてきたことだろう。自分が関わるものでそんなことが起きても、周知のこととして片付けられるし、その方が様々な点から楽に事が進むとなれば、必要悪とも言われなくなる。社会に出る前にそんなことを押し付けられてきた人々に、突然やらせは悪いと言っても、通じにくいのではないだろうか。しかし、公的な要素が大きくなると、そうも行かないらしい。今回の話はまさにそれが当てはまる例であり、あれほど大袈裟な働きかけをした上でのものだったから、それが茶番であったことを知って、憤りを隠せぬとしてもしょうがないだろう。どこでこのような判断がなされたのかは重要な問題だが、その一方で、こういう催しがまさに民主主義の手本のように扱った人々の浅はかさはどう扱われるのだろう。確かに、意図した通りのものになれば、重要な意見収集の場になったはずだが、思い通りになったものか、そうでないのかを検証した上で歓迎した人がどれくらいいたのだろうか。最近の政治はまさに人気集めの手法が花盛りであり、その為の手段はいかに注目を集めるかという点に集中している。その波に乗って人気を稼ぎまくった人の残した物は、実際にはこういう形で化けの皮が剥がされていくのではないか。ただ、当事者はその意図だけを繰り返し述べ、その意図を形にする為に必要となった裏工作への関与は完全に否定する。これはある意味当たり前のことだろう。人気取りのアイデアを次々に出し、それを実現させることが彼の役割であって、実現する為の細かな戦略は気にも止めないのだから。今後もこの手のことが噴出してくるだろうが、今頃になって毛皮を剥ぎ取っても何の効果もない。その時、その場でやらなければ、いけなかったのだ。ここが報じる側が抱える問題との大きな違いだろう。これまで報道や番組制作の場でのやらせについて、何度も厳しく追及され、何度も謝り続けた人々にとって、胸を張って跳ね返す作戦をとることはできない。その後も同じ立場を継続しなければならず、過去のことだとかわすことは得策ではないからだ。それに対して、政治の世界を覗くと、まるで反対に思えることが何度も繰り返されている。一度の失敗も、いつの間にか忘れ去られて復活できるし、ちょっとした失言も同じことだ。その場での追及を厳しくすることと同時に、その後の追跡も重要だということをこれらのことは表しているのではないだろうか。

* * * * * * * *

11月25日(土)−伝心

 人の気持ちを捕まえようとしたとき、何が重要なのだろうか。気持ちを伝えることが重要と言われることもあるが、それは言葉で伝えるものなのだろうか、それとも態度で伝えるものなのだろうか。多分、受け手による違いが大きくて、これという決め手はないように思うが、相手の気を引くことは色々な場合に必要となる。
 感極まって泣く、という場面に出くわしたことのある人は多いと思う。気持ちを伝える手段として、感情に訴えるやり方の代表かもしれない。ただ、感極まる為には様々な手順があり、例えば自分の感情が抑えられなくなってという場合もあれば、伝える手段に窮してという場合もある。どちらにしても、ある一部の人々の心に響くものと受け取られているようだ。確かに、泣くほどのことならばと思う人もいるだろうが、訴えたい内容によっては泣くのは得策ではない。冷静な分析と主張が必要とされる場面で、感情を露にするのは逆効果であり、内容の欠陥を露にするように映る。実際には、あらかじめ準備された分析や主張が優れたものであったとしても、そういう態度を表に出してしまうことで、まるで落ち度を隠すかのような行動に見られることが多い。そんな場面で泣いたり怒ったりすることはほとんど役に立たないだけでなく、自分自身の価値を下げることに繋がりかねない。これはつまり、感情の制御に問題があることを表明しているようなものであり、様々な場面で問題を生じる可能性を示していることになる。感情の起伏を冷静な判断の中で示すことと、制御不能な起伏を示すことには大きな違いがあり、相手に与える印象は全く違ってくる。やはり伝えたいことがあるのなら、ある程度の冷静さを保ちつつそれを行うことが肝要だろう。ただ、言葉だけでそれを伝えることはかなり難しく、身振り手振りだけでなく、感情の抑揚を加えることで、言葉に彩りを加えることが重要である。この辺り、書くのは簡単だが、実行するのは難しい。抑揚と書けば落ち着きが感じられるが、起伏と書くと雰囲気が変わるのと同じように、そこに一貫した何かが必要となる。それを巧くつかんだ人は、相手に気持ちを伝えられるようになるが、そうでない人は、時に苛立ち、時に諦めつつ、感情に訴えるしか方法が無くなるのだろう。

* * * * * * * *

11月24日(金)−加給

 事情はよくわからないが、給料が減ると騒いでいる人々がいる。これまで認められてきた残業手当が無くなるからと報じられているのだが、この話、どこかがおかしいような気がする。労働時間を減らすことが重要というのは、働き過ぎを指摘され続けた国にとっては当然のことだろう。それを実現する為の措置のはずが、違うのか。
 問題は、労働時間の多少に関わるものではなく、どうも給料の多少に関わるものであることは、この辺りの流れからすぐに解ることだ。しかし、論点は残業の話に絞られており、そこに大きな開きがあるように思える。何故、給料の減少と残業が結びつけられるのか、実はそこにこの国の労働時間の長さの問題があるわけだ。このところ、経済回復が確実になり、これから先も多少の不安があるとはいえ、安定しそうな兆しが見えている。にもかかわらず、経営側は自らの戦略の間違いで生じた悲劇を繰り返さない為に、それに見合うような給料の増加を見送る姿勢を貫いている。ここには、高度成長を続けてきた時代の痛みも喜びも構成員全員で分かち合うという精神の復活が垣間見えるが、現実にはそういう主張とは裏腹の経営戦略が蠢いているように感じられる。そんな中で大きな問題となっているのは、労働時間の延長による給料の増加という管理者として選んではならないものへの依存であり、目の前の問題に対する安易な解決法の実施なのではないだろうか。世界全体の情勢は逆方向に向かいつつあるわけで、当然時間超過の問題が取り上げられる。もし、それを受け入れるならば、今まで無視し続けてきた選択をとらざるを得ないはずなのに、その話が出てこないわけだ。経営者が出したがらないのはこれまでの経緯からも明らかだが、問題を取り上げ、給料の減額を大袈裟に書き立てている人々が何も言わないのは解せない。確かに、いい加減な働き方をしている人間に高い給料を払う必要はないが、そういう人々のことだけを取り上げ、真面目にコツコツ働く人間を窮地に追い込むのは何とも情けない気がする。こういう取り上げ方にしても、結局、衝撃的な書き方によって耳目を集める手法ばかりをとってきた人々の、何とも情けなく、単純な行動に過ぎないのだが、受け手の能力低下とともに悪影響の大きさは急激に増している。何事にも冷静な判断や指摘が必要となっているのに、様々なところで、興奮を誘うような言葉が飛び交い、その力が増していく。これではまるで暴動を誘発しているようなものではないか。一体全体、言論の自由を守ろうとすべき人々の身勝手な行動はどこからやってきたのだろう。制度の変更が産み出す問題というところから、他人任せの議論ばかりを主張するのでは、大きな問題を産んでいる状況を打破することはできない。その為に言論を駆使するのが彼らの役目だったはずなのに、今では扇動者の役割しか果たせなくなったのだろうか。ここで改めて、基本となる給料のことを考えてこそ、先が見えるはずなのに。

* * * * * * * *

11月23日(木)−道

 道を走っていると、その地方の雰囲気がわかる。一つは、運転者の気質であり、譲り合いの気持ちのあるところもあれば、我が道を行く人が多いところもある。もう一つは道路事情で、走りやすい道の多い地方があるかと思えば、正反対のところもある。予算の問題もあるのだろうが、考え方に大きな違いがあるように見えるのだ。
 道路整備の予算は一部のものを除けば、都道府県の負担となっている。だから総予算の多少がこういうところにも響いてくるわけだが、例外的に国から予算がおりているところもあるのではないか。失業率が高くて困っているところは、新たな雇用の種として土木建築に力を注ぐと言われているが、その中心的な役割を国が担っているわけだ。しかし、金の出所がどこであれ、道路の形態や整備について直接関わるのは自治体である。だから、彼らの道に対する考え方、交通問題に対する取り組み方が、交通事情に反映されるわけだ。旧道と新道をどう組み合わせるのか、流入交通量をどう調整するのか、道の交わりについてだけでも考え方は色々あるだろう。その上、こちらは建設そのものが関わるわけではないが、交通信号の設置とその調節も重要な因子となる。これらの組み合わせは数多あるに違いないが、その中のどれを選ぶかによって、渋滞や事故の発生率は大きく異なるのだ。全体の流れを遅くする為に、信号の系統を断ち切る仕組みを導入するところもあるが、交通量の増加に伴い、別の問題を生じる。通過車両が多い道路については、バイパスを建設することで町の中心部の渋滞緩和をはかる必要がある。これらのことが普通に行われている地方もあれば、立ち後れたままで新たな働きかけもないところもある。予算の問題と言ってしまえば簡単だが、それだけではないところもある。事情は異なるが、首都を走る自動車専用道路については、これまでにも様々な問題が指摘されている。渋滞の問題も大きいが、最近は景観の問題を取り上げる動きもあり、初期の必要性とは異なる話題が大きくなってしまった。元々、中心から放射状に伸びる高速道路という考え方自体に、重大な欠陥があり、それを解決する為の方策を早急に進めなければならないのに、そちらは遅々として進まずの状態にあるし、新規の開発は御法度らしい。そんな中で、歴史ある名所が入り乱れる高架式の道路で汚されていることを問題視し、その是正に力を注ごうとするのは、単純な頭の持ち主の考えることであり、利用者の立場を蔑ろにするものである。各高速道路を結ぶ直結道路の建設を同時に進めなければ、首都高速駐車場の解消には繋がらないのではないだろうか。

* * * * * * * *

11月22日(水)−不用

 人間にとって必要な知識とはどんなものなのだろうか。生きていく為の知恵だとしたら、この国に住んでいる人の大部分は身に付けていないだろう。将来役に立つはずのものとなると、あれもこれも必要ないという意見が聞こえてきそうだ。結局、全ての人に当てはまる、これという絶対的な組み合わせはないのではないだろうか。
 しかし、義務教育にしても、それに続くかなりの割合の人々が進む学校での教育にしても、何かしらの指標が必要であり、これという要素を並べておくことが重要である。もし、そういうものが示されなかったら、一人一人に課せられる課題は少なくなるばかりで、全てにおいて不十分な人間を作り上げることになるからだ。けれども、人間は目標を設定した途端に、大胆な行動をとるようになる。次への段階で必要とされるものとそうでないものを区分けし、不要なものを排除するわけだ。効率だけを考えれば、この手法は完璧なものに思える。しかし、本来触れておいた方がいいはずの事柄に全く触れないままで育った人々は、どこかが欠けていて、どこかが足りない人格を形成することにならないだろうか。効率とはそういう欠陥に目を向けず、ただあることにだけ力を注ぐことによって達成されるものであり、それによって生まれる歪みは仕方のないものと片付けられる。今の世の中の流れを見ていると、そういう形で無視されたものが徐々に形を作り、異形のものとして様々な問題を生じることになってしまったような気がしてくる。これもそのやり方を選択したが為に起きたことであり、そういう問題は生まれるべくして生まれただけのものと見なす人がいるだろう。たとえそれが事実だとしても、ここまで蓄積してきた社会全体の歪みを、このまま放置することは得策とは思えない。既に溜まってしまった膿みについて、特効薬を処方することは難しく、まるで抗生物質とその耐性菌の関係のような図式が生まれることは必然と思われる。小手先だけの処方が結果として傷口を大きくするのは既に明らかであり、そうではなく、病巣を根こそぎ取り去るための思い切った手立てが必要なのだ。その為の手法には様々ありそうに思えるが、中でも比較的容易で効果が期待できそうなものは、教育現場への働きかけということになりそうだ。用不用論ではなく、人間性を豊かにする手段としての知識の獲得という観点を取り入れることで、少しは違った様相が展開されるのではないだろうか。今、議論すべき所を取り違え、あらぬ方に余計な手立てを講じるのは大きな間違いのように思える。

* * * * * * * *

11月21日(火)−孤影

 誰だって、自分一人が取り残されそうになったら、心配になる。それまでは唯我独尊のように振る舞っていた人でも、周囲に誰もいなくなったら、その態度も意味を持たないし、皆ができることを自分だけができないのは、小学校の頃の逆上がりの苦い思い出だけで十分と思う人もいるだろう。自分を重視する人ほどその傾向は著しいようだ。
 これが自分自身のことならば、努力で何とかすることができるかもしれないが、社会のことだとどんな努力をすべきかわからない。そんな悩みが大きくなると、心配ばかりが膨らみ、冷静な判断は難しくなる。頭を冷やせとよく言われるように、その事柄との関わりを暫くの間断ってしまうことが、問題解決の糸口となることも多い。こんな話は何にでも当てはまりそうだが、今回の標的は株価である。終演を迎えて、歴史に名を残そうとしたのかどうかは定かではないが、国力回復への貢献の一つとして、平均株価が急速な回復を示した時期があった。今になって思えば、あの変化自体に人為的な痕が見えなくもないが、兎に角ハッピーエンドを迎えたわけだ。それに対して、跡を継いだ政権は既に怪しげな雰囲気に包まれ、心理的要素が大きく響く市場では、不安感に苛まれた人々の動きが目立ち始めている。他国の状況との違いが顕著となり、それを取り上げる評論家が増えているが、果たして原因がどこにあるのか、毎度のことながら突き止められそうにもない。上下の変化だけを追いかけ、相対にばかり振り回されているようでは、そこに潜む本質は見極められない。あらゆる指標の絶対値を、冷静に分析する力を発揮しない限り、こういうことに影響する要因を暴き出すことは困難だろう。参加者の多くは、評論家とは違って、事後の分析などに精を出さず、結果を求めているからだ。だから、今回の情勢についても、一部の投資家たちは歓迎する気持ちになっているし、一部は資金を引き上げている。更には、参加者の多くは心配していても、無駄な動きを避けて、傍観する姿勢をとっているだろう。こんなとき、早い決断は吉と出て、遅い決断は凶と出ることが多いが、最も嫌われるのは心変わりなのではないか。確かに、的確な対応を志す為には、方針変更もやむを得ないと言えるのかもしれないが、どうも手遅れとなる場合が多い。特に、情報の入手に出遅れる人ほどこういう傾向にあるようで、後手に回ることが多いものだ。長期投資を主体とすべきと説いた人もいるが、現実にはそういう立場を貫く人は少ない。多くの場合は心の問題なのだろうが、兎に角一人取り残されるような感覚は辛いものなのかもしれない。

* * * * * * * *

11月20日(月)−支援

 最近は七十五日ももたないようで、一時の盛り上がりは何処へやら、あっという間に話題に上らなくなる。いつの間に総裁の交代があったのか、どこの知事がいつ捕まったのか、こんな話題は政治に関心がないから仕方ないと片付けられそうだが、では自殺予告はどうだろう。いつだったか日も定めての話だったのだが。
 あんなものは単なる愉快犯によるものと過ぎないと断じた人の予想が的中したのかどうか、あれほどの人を動員して大騒ぎが演じられた挙げ句、さてその後には何が残ったのか。騒ぎ立てる人々の心理を伺い知ることはできないが、それにしてもこの顛末はいかがなものか。後に残るのは苦い思い出ならまだしも、誰も覚えていないとなったのではたまらない。社会全体に当てはまることだと思うが、自分の立場を守る気持ちが騒ぎを起こすきっかけになっているようにしか思えない。受取人が騒ぎ立て、責任を果たしたかのように警戒態勢を整える。それを愉快犯の如く大きく扱い、問題を更に大袈裟な方に持ち込もうとする伝達者たち。どちらの責任もかなりあると思うが、その騒ぎのことよりも喉元過ぎればという態度に呆れてしまう。例の日は一日中騒ぎ立てていたにもかかわらず、翌日は燻る様子もなく、皆一様に楽しみを奪われた子供のように振る舞う。表現が悪いかもしれないが、期待した展開が起こらず、がっかりしたようにさえ見えるのだ。結局のところ、何かが起きてくれないと面白くない、といった野次馬根性だけが表に出て、本当に心配する様子は微塵も感じられない。その原因は何故かと言えば、おそらく最も大きいのは事後報告の欠如にあると思う。次に起きた事件に焦点を当て、騒ぎ立てることが彼らにとっての最重要課題であり、不発に終わった事件には興味を示さない。抜本的な解決を施政者に求める割には、その為に必要な手立てを講じないのは解せない話だ。愉快犯と断じた人の考えが正しかったことを認めたくないのか、はたまた気にもしていなかった話でどうでもいいのか、何がどうであろうが、そんな騒ぎに踊らされる必要はない。今、こういう社会で生き抜く為に最も重要な要素は、何かと考えてみると、それはおそらく冷静という言葉に尽きるのではないだろうか。例の日が過ぎた後、騒ぎは騒ぎとして、ほんの一言「自殺しなくて済んでよかったね」という声を届けるだけのことだ。

(since 2002/4/3)