パンチの独り言

(2006年11月27日〜12月3日)
(話術、口伝、躾け、釣合、称号、互助、道具)



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12月3日(日)−道具

 コンピュータがあり、インターネットが整備されたおかげで、誰でもこんなものを書けるようになった。だから、電子技術、通信技術、情報技術がすばらしいのだ、という人がいるが、果たして本当にそうだろうか。確かに、そういうものを使える便利さは、誰もが実感していることであり、それを享受できる喜びは大きい。しかし、それは技術のおかげだけなのだろうか。
 情報関係の仕事に携わる人々の意見を聞いていると、こんな話がよく流れてくる。何でも、コンピュータにやらせれば何とかなる。あの機械にできないことはない、といった主旨の意見だ。それに対して、できるはずがないと断言する人々もいる。ただ、今のところどちらかというと後者の方が不利な立場に追いやられ始めているように見える。実際にできるかどうか、可能かどうかとは別に、これまでに可能となったものを羅列して、それだけの実績をあげてきたのだから、今後も十分に期待できるという論法を展開されると、中々反論ができないからだろう。確かに、その実績を否定することはできないし、そこまでやれたのだから、もっともっと沢山のことが可能になるはずという言い方が間違いとは言えない。しかし、この論法でそれらのことを可能にしたのがコンピュータだとしている点についてはどうだろう。実はここに大きな欠陥があると思う人も中にはいる。つまり、それらの実績をあげるために必要な方向性は常に開発する人間やそれを欲しいと望む人間が決めてきたのであり、それらさえ決まってしまえば、多様な応用性を孕む機械にとってはあとは簡単だったかもしれないからだ。こういう考え方は、いかにも機械文明を否定するように聞こえるかもしれないが、道具を使うのは常に人間であり、それがいない状態ではどんなことも可能にはならないということを言っているだけである。たぶん、色々な所でこういう議論は行われており、それらの結論は多種多様なのかもしれないが、それらの理解のうえで、何かが欠けた状態はあまりいい結果を産まないように思える。そう考えてくると、コンピュータの能力の話や、最近の情報社会に対する考え方も、どこか肝心なことを欠いたままの議論が多くて、何か頼りなさを感じる。万能なものを宣伝したい気持ちはわからないでもないが、それに力を注ぐあまり、本質を見抜くことを忘れているように思えるのだ。確かに、この便利さはありがたい。しかし、それを手に入れるように仕向けた人の存在を忘れてしまっては、次の便利さを手に入れる下地はできないことになる。もっともっとという欲望こそが、それらの根源となっており、また、その欲望の行き先にあるものを理解できる能力をもつ人間の存在こそが、すべてを支えるものになっていることを忘れないようにした方がよさそうに思える。

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12月2日(土)−互助

 老いると言われると、いかにも年寄りくさい感じがして、もうそれだけで結構と思う人もいる。しかし、これが単純に年を取ることであり、どんな年齢の人にも当てはまることとなると、話は少し違って聞こえないだろうか。体型が変わる、好みが変わる、肌の色艶が変わる、などと書き立てると、肉体的なものだけでなく、精神的なものもありそうだとわかる。
 変化すること自体に抵抗のある人はあまりいないだろうが、それが年齢を重ねることによるものだと、徐々に近づいてくるものへの畏れからか、忌み嫌うことになる。逆に見れば、誰もが避けることができないことであり、少しずつの変化とはいえ積み重なるものだ。それが肌や体型などといったゆっくりと現れる指標である場合もあるが、急に現れるものもあり、その場合はうまく適応できないこともあるだろう。病気といってしまえばそれまでなのかもしれないが、脳梗塞で一部の機能が麻痺してしまうことはその最たるものかもしれない。自立して生活できないほどの障害を抱えてしまうと、それを支えてくれる人の存在が大きくなる。確かに、社会的に支える制度も重要なことだろうが、その前に身近な人々による支えの有無が決定的な要因になることも多い。この間ホテルの朝食時に見かけた老夫婦の姿は、何とも言えない雰囲気があった。婦人は車椅子に乗り、言葉にも引っかかりがあるほどの後遺症を抱えていた。当たり前のように食事を運んでくる旦那はと言えば、片方の手のこぶしが握られたままで足も引きずっていた。典型的な半身麻痺の症状だと思う。二人がそれぞれに話をしながら、食事を運び、それらを口にする姿を見ていると、何とも言えない空気がそこに漂っているのが感じられる。健康でありたいと願うのは当たり前のことに思えるが、もし、それがかなわなくなってしまった時、人はどうするのか。そのときになってみなければわからないと答えるのが普通だろうか。確かにそのとおりだが、現実には起きてしまうことがあり、それを否応なしに受け入れるしかなくなることがある。そのとき、どんな気持ちで、どんなことをするのか、少しくらい想像しておいた方がいいのかもしれない。彼らの姿を見て、そんな準備ができていたとは思わないが、仕方なくだろうけれど、現状を受け止め、それに対する心構えができているのが感じられた。一方で、体は健康そのものであるにもかかわらず、日ごろからの鬱憤がたまりにたまって、相手のことを殺してしまいたくなるほど憎んでしまう人々は、肝心の心の健康が蝕まれて、表面的にはぴんぴんしているのに、その奥底にはドロドロとした病巣に侵されているのではないだろうか。老いると一言で言っても、体と心の均衡やら、気持ちの問題やら、現実の障害やらと、あまりにもたくさんの要素がある。自分で選ぶことのできない選択はしようがないとして、少なくとも気持ちの問題くらいは制御できるくらいの余裕を持って、年を重ねていきたいものだ。

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12月1日(金)−称号

 定年で退職したあと、一番困ることは何か。一日中家にいなければならないのが辛い、という人もいるだろうが、それまで長年維持してきた肩書きを失ったことが一番辛いという人が多いのだそうだ。個人としての価値よりも、肩書きを冠した人間としての価値が、世の中では認められていると思っている人ほど、そんな感覚を持つらしい。
 こんな話を聞くと、一部の人々は肩書きをかさにきて威張っているやつはそんなものと思うのかもしれない。しかし、そう思う人の中に、自らの行状を客観的に眺められる人がどれくらいいるだろう。自分の能力がどれほどで、それが仕事の上でどのように活用されていて、といった具合に考えた末に、自らの価値を値踏みすることはそれほど簡単なことではない。どこかで、組織の中での地位を加味したり、それまでの業績を引き合いに出してしまうものだ。経験を積んだ人だけがこういう考えに陥るわけではなく、新たに会社に入ろうとする人々にもこんな考えに取り憑かれる人は多い。つまり、就職を有利にする為に有名大学に進学するとか、同じ理由で勉学以外の活動に精を出すという人の多くは、やはり何らかの目的を持ってその材料となるものを積み上げようとする。ただ、肩書きといった形のものでないだけで、全く違った概念に基づくものと誤解しているだけなのだ。こういうものの中で形となっているものの代表はおそらく資格と呼ばれるものだろう。必要に迫られて取得することもあるが、一部の人を除けば何かしらの利点を考慮して取得しようとする。資格も肩書きの一種と思えば思えないこともなく、そういう人々はそれが単にある知識の有無を示すだけのものという感覚はなく、名刺代わりのものと思ってしまうのではないか。資格とそれに関係する知識が常に一緒になっているのならば何も問題は起きないが、一時的な勉強によって獲得した資格はすぐに名ばかりのものに化してしまう。このような変化はまさに肩書きで問題とされるものとそっくりで、そこから大きな問題が生まれることが容易に想像できる。国家資格となればそれなりの知識の蓄積が必要となるはずだが、それとてもすぐに錆び付いてしまうものだ。常に努力を怠らないようにすることが大切だが、その為に重要なことは資格に対する認識にあるのではないだろうか。世の中がある意味で安定し、色々なことの道筋がはっきりしてきただけに、傾向と対策ばかりが重視されているようだが、こういうところにもそれとは違った考え方が大切なことを教えてくれるものがありそうだ。上辺だけのものに拘るよりも、本物の自分を作ることの方が人生を楽しむ為に重要なのだろう。

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11月30日(木)−釣合

 言葉は時代の変化とともに変わり続ける。いつだか、そんなことを書いたことがあった。新しい言葉が生まれるとともに、それまでにはない新しい意味が加わることもある。どちらにしても、何かしらの必要性から生まれたものであり、それが無くなればいつの間にか忘れ去られるが、使う人がいれば生き残るというわけだ。
 そんな変遷の中、いつ頃からか常に心の奥で気になり続けている言葉がある。新しい言葉として出てきたものは「ハラスメント」、古い言葉の使い方に変化が現れたのは「いじめ」である。どちらも同じ意味を持つのだが、従来の意味と大きく異なる点がある。この言葉には関わる人に二つの立場があり、それぞれに全く違った受け取り方がある。従来とここで言っているのは、多分学校でのいじめが社会問題として取り上げられる以前の時代くらいだろうか。いじめをする側の心情や思惑が重視され、その人の意図の有無が決定要因となるとされていた。思い出してみると、当時はいじめっ子という表現を聞いた覚えがあるが、いじめられっ子という言葉はなかったような気がする。いじめっ子の行動は常に相手を捜すことに基づいており、相手構わず弱い者をいじめるということだった。つまり、作用を及ぼす人間が一であるのに対し、及ぼされる方が多数であったのだ。それがいじめが社会問題になった頃から、数の対比が逆転した。いじめる方が多数となり、いじめられる方がごく少数となったわけだ。その変化とともにだったのか、それとも別の原因があるのか、「いじめ」の定義に変化が見られるようになった。決定要因はする側にあるのではなく、される側にあるという解釈が出てきたのだ。受ける側がどんな気持ちになったかが問題であり、する側の意図は無関係であるということだ。これはハラスメントにも当てはまることで、こちらは元々海の向こうからやってきたわけだから、事情はかなり違うだろう。ただ、社会的には同じような流れがあり、それを背景にこういう変化が現れたのかもしれない。この辺りから、被害者意識の問題を無視することができず、それまでと比べて遥かに多くの要因を分析する必要が出てきた。当然のことだが、心理的な印象を分析することは容易ではなく、決定的な手法は無いのかもしれない。そんな中で、問題は大きくなるばかりで、世の中の価値基準が決まらないままに勝手な方向に走り出してしまった感がある。現状はそんな流れの行き着いた先にあるわけで、いまだに解決の糸口は見えてこない。均衡が崩れてしまったがために、ぶれが大きくなり、人それぞれの感覚の違いは大きくなるばかりである。その中で弱者保護は強く主張され、反論が許されない社会が築かれているから、現実には解決を遠ざける力が働いていると見なした方がいいのではないか。今、応急措置の重要性を説く人がいるが、現実には均衡を取り戻す努力をせずに、そればかりに注力することは傷を大きくするだけに思える。

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11月29日(水)−躾け

 誰にも間違いはあるし、判断の誤りもあるだろう。一度の間違いで全てを失うのはあまりにも酷なこと、と言う人がいるが、どんな間違いかを吟味せずに出した意見だとしたら、受け入れられないだろう。ただ、その場の勢いで犯してしまったことには、じっくりと熟慮すれば誤りと気づくこともあるから、救済も必要かもしれない。
 もうかなり昔のことになったが、一時流行した言い回しに「反省くらい、猿でもできる」というものがあった。ここで言うところの反省には、反省のふりをするという意味が込められていて、そのくらいの芝居なら猿だってできるぞ、ということだったのだろう。間違いや誤りを犯したあとでの反省には、こういう芝居じみたものは必要なく、単純にどこが間違っていたかに気づけば良いだけのことだ。しかし、世の中には一時的にそんな気持ちになっても、また同じような状況におかれてしまうと、同じような行動に出てしまう人がいる。何度も繰り返し犯す間違いに自分でも気づいているが、その衝動を抑えることができない。そうなれば、二度あることは三度あるという方式に従って、自己反省だけでは不十分ということになり、別の形の反省を促すことになる。社会での行動については、様々な法律で禁止されていることがあり、それらをやってしまえば罰せられるわけだが、これらの基本形は多分家庭内であるべきものだろう。子供を叱る親の姿をあまり見かけなくなったのは寂しいことだが、悪戯をする子供を叱ることはその行動の間違いをしらせる為に重要な手段である。小さな頃から、そういった環境で育つことによって善悪を見分け、たとえ悪戯にしても程度を弁えるようになるはずが、忙しい大人たちに囲まれて関心を向けられることもなく育った子供は、一線となるべき線を見出す能力に欠けていることが多い。判断は自ずと産まれるものではなく、経験によって培われるものだけに、こんな欠陥人間が出来上がってしまうわけだ。その結果、悪戯にしては度の過ぎた行動に出て、人を傷つけたり、場合によっては命を奪ってしまう。映画で見たことがどんなものかを試してみたかったと、興味半分にやってみたら、実はその行為を特別に取り締まる為の法律まであったとなれば、罪の重さはかなりのものになるだろう。欲望とか興味といった感覚は元々身についたものであり、社会性を築く為にはそれらを制御する術を身につけねばならない。しかし、その機会を与えられなかった人間は、ある部分では長けたところがあったとしても、大きな欠陥を抱えたままになってしまうのだ。家庭の重要性が訴えられているようだが、今更どうするのか。既にそういう仕組みが崩壊してしまったところもあるだろうに。

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11月28日(火)−口伝

 目的を果たす為なら手段を選ばぬ、などと言われると、物騒な話のように聞こえるだろうか。声高に主張すればそんな反応が返ってくるだろうが、現実には日々巷で起きている話なのである。他人を蹴落としてでもと言ってしまうと、何とも身勝手な所業に見えてしまうが、大抵の競争は他を排除するものだから、当たり前なのである。
 そういう目的を持った人を手助けすることを生業としていると、手段を選ばないという言葉に対する感覚の変化がよくわかるらしい。他人を蹴落とし、自分の道を開くと表現すると大層な話のように聞こえるが、今や世の中の半分くらいの人々がある時期にそんなことをしているのだ。誰もが望みさえすれば門戸を開いてくれる時代が来るとも言われているが、まだ現実には大学への進学には大きな壁が立ちはだかっている。その壁をすんなりと乗り越えられる人もいれば、乗り越える為に数年を要する人もいる。少し回り道をしている人を助けるのが、予備校と呼ばれるところだ。世の中では受験術を授ける場所と思われているようだが、現場で働く人にその感覚があるかどうかは定かではない。確かに、人気の高い講師には教室に入りきれないほどの人が押し寄せ、その理由は伝授にあると思われている。しかし、今当たり前のように思われている光景が以前は違っていたと、予備校の関係者が書いていた。学問の基本を学んだけれども、不幸にして合格を勝ち取ることができなかった人々が通ってきていた頃は、そこに新しい風を吹き込むことで、高い水準に引き上げることが可能だった。学問をする為に大学に行くという雰囲気もあったのだそうだ。しかし、最近はこの辺りの事情が激変している。といっても、おそらく15年ほど前、つまりバブルがはじけた頃に遡る話だ。この頃から、合格そのものが目的となり、学問に対する関心は消し飛び始めた。そうなると、まさに受験術の伝授が最重要課題となり、それ以外の事柄は無意味と化す。それが延々と続いてきたところに現状があるわけで、急激な変化を望むのは難しいのかもしれない。更に大きな問題となっているのは、そういう気持ちで通ってくる学生のほとんどが高校時代にも同じような訓練を受けていたことにある。学問の香りを嗅ぐことより、社会に出る為の権利を得ることの方が重要であり、その為に必要なことを行わなければならないというわけだ。ここに最近問題視されるようになったことの元凶があると指摘する声に、反論できる高校関係者はどのくらいいるのだろうか。

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11月27日(月)−話術

 複数の言語を操れる人に対して、羨ましいと思う人がいる。それさえあれば、自分の思いをもっと多くの人に伝えられるのに、という理由を持つ人もいるだろう。しかし、伝えたいことに意味がなければ、どんなに素敵な言葉を並べても、思いは伝わらないだろう。この辺りの隔たりに気づかぬ人の多いことに驚かされる。
 他国の言葉を操る人がいても、その言葉を知らない人には上手下手はわからない。いかにも流暢に聞こえるのに、それを母国語とする人に全く通じないという話はよくあり、上辺だけの物真似に過ぎないことがわかる。これはいかにも極端な話だが、実際に自分たちが話している言語を外国人が話している時の感覚を思い出せば、何となくわかるのではないだろうか。外国語だと聞き取れないのに、母国語はその心配がない。また、それだけではなく、少しくらい癖のある発音でも何とか理解できるというのも不思議なことだ。しかし、一対一ではなく、多数の聴衆に聞かせようとすると、できる限り正確な発音をする必要がある。人それぞれに、違いに対する許容度が異なり、ある人には通じるのに、他には全く通じないということがあるからだ。そんな経験を持つ人々は、拙い言葉の操り方を卒業し、表面的には流暢な話し方に変化する。それでも、わずかな癖は残るもので、音声だけでも区別のできる人の方が遥かに多い。その更に先へ行くと、それはまあ、母国語とする人との区別がほとんどつかなくなるのだが、ここでもう一つの壁が出てくることがある。言い回しと表現されるものの一つかもしれないが、言葉の使い方に現れる独特の調子のようなものである。その言語で育った人はほとんど使わないのに、ある人の話にはしばしば登場する単語がある。ある程度、その人の話を聞いているうちに気がつくのだが、どうも母国語の言い回しが翻訳されて出ているようだ。そうなってしまう理由はおそらく、その人の頭の中で話を作る手順によるもので、母国語からこちらの言語への翻訳という手続きが行われているからだろう。これに対して、もう一歩進んだ人々は母国語とは違うもう一つの言語中枢を形成することで、考える時点から話す言語を使っていることになる。逆に言えば、ネイティブと呼ばれる人々の言い回しにだけ現れる言葉があり、それが使えるようになれば一人前、ということなのだろう。ただし、ここで注意しなければならないのは、俗語を操ることがそれだと思わないことだ。俗語はあくまでも俗に使われる言葉であり、それとは異なるきちんとした言葉を習得することが大切なのだから。これは、帰国子女によく見られる、発音は確かなのに、話の内容はさっぱりという人に当てはまる話なのかもしれない。基本に戻れば、結局のところ、どんなに丁寧な言葉を使っても、中味がなければ伝えられないということだ。

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