意思の疎通、何かが欠けていると思ったことはないだろうか。年齢の違い、育ちの違い、学歴の違い、どんな違いがあろうとも、通じ合うところはあるはずだし、その必要が出てくる場面も多い。しかし、現実には相手の言っていることが理解できず、こちらの言いたいことが伝わらない。こういう時、どこに問題があるのだろうか。
意思疎通に必要な能力は何か、そんなことは考えたことがない、という人が大部分だと思う。うまく理解できない時も、うまく伝わらない時も、その場限りのことで何となく済ませてしまったり、何かが少しでも伝わったような気がしたらそれでよしとすることで、根底にある問題には触れないようにする。お互い大人同士であれば余計にその傾向が強く、そこまで育ってきた過程からくるものだからもう手遅れとするわけだ。ただ、その数が増して、ある線を越えたように思えたときには、それまでとは少し違う考え方が頭をもたげてくる。つまり、このまま放置して、その数を更に増やすことに意味があるのだろうかとか、このままいくと互いが理解できない時がやがてやってくるのではないだろうかといった心配が出てくるわけだ。そういう段階に達する時期は人それぞれに違い、今でもそんなことは全く意識していない人も多いだろう。また、こんな状況はいつの時代にもあることで今更言うほどのこともないと片付ける人もいるだろう。現実に切実な問題として感じているのはおそらく教育現場にある人々で、自分の時代との相違も十分に感じられるし、それにもまして強い疎外感を感じているはずだ。自分なりの理解があると思った先生という存在に自分がまわったとき、相手の理解の程度の低さに愕然とするわけだ。これもまた実際にはいつの時代も同じこと、なのかもしれないが、社会全体としてみても、どうも最近の動向は異様に見えてしまう。話す側にある時も、聞く側にある時も、どうも違和感を感じるのだ。話す時は一方的に思いをぶちまけ、聞く時は知らないことに耳を塞ぐ。一方的な流れの中では情報の交換が起きるはずもなく、疎通という言葉はただ虚しい存在となる。この問題の根源を学校に求める人も多いが、今の学校にそんな力があるのだろうか。入ったばかりの子供たちの行動からして既にその兆候が感じられるとしたら、その源はどこにあるのだろう。生き物である限り、生まれる前に源を求めるのは正しい考え方とは言い難い。確かに遺伝子にそれが書かれているかどうかだと主張する人も出てくるだろうが、それでは今と昔の比較は不可能だ。となれば、その間にある存在に焦点を絞るのが筋なのではないか。子供が初めて接する他は何か。他人とは言いにくいが存在としての他となるのは血の繋がった家族、特に親なのである。彼らとのやり取りがその後の運命を決めてしまうとするとあまりにも大袈裟だが、実際にその影響の大きさはかなりのものである。ただ、今の問題の源がそこにあると聞いても、多くの人は驚かないのではないか。にもかかわらず、問題視することが避けられているのは何故か。ここに社会の問題がありそうに思える。
人の話を聴くのは楽しいものだ。それまでに何かの形で接していた人から直接話を聴くとき、それまで抱いていた印象とは全く異なる雰囲気にあふれ、なるほどと思わされることもあるし、全く思っていたとおりの内容で納得させられることもある。でも、同じ線上にあるのに思っていたよりずっと先に立っている事を認識させられるのが一番面白い。
特に職業の異なる人の話は、全く違った環境での事だけに、それだけでも面白いし、さらにはそれを自分の身の回りに当てはめる楽しさがある。全く違った職業では全く違った事情があるはずで、類似点などは見つかりそうにも無いように思えるが、現実には正反対になることの方が多い。結局、どんなことをやるにしてもそこにいるのは人間であり、そこで働くのは人間の心理なのである。そうなれば、道具や目的が大きく違っていても、同じような心の動きが伴うことになる。手順を見ても全然違っているはずなのに、同じ考え方や同じ戦略がその根底にあるわけで、やはり人のやることには似た所があるものだ。その上、それぞれの場所で成功した人たちの秘訣にしても、現実にはその場所では他の人が思いつかなかったことなのだろうが、同じようなやり方を他で使ってみたら同じようにうまくいくことも多い。書いてしまうと簡単そうに思えるが、実際にはそのままという意味も色々とあり、全く同じというわけには行かない。それぞれの分野での事情に通じていれば、少しの工夫でよく似たやり方が実践できるのに、そうでなければうまくいかない。どこでも同じようなもののはずだが、似た事が乱立しないのはその辺りの事情があるのだろう。いずれにしても、他の人とは違った考え方、取り組み方を実践することによって成功した人の話には、色々な示唆が含まれているはずで、その共通点が多い人ほど運に頼るのではなく、実力でその立場を築いた人と言えるのではないだろうか。ある人の話も、表面に現れるものだけに囚われるのではなく、それを引き出すための素材の創造から始めたところに特徴があり、それが彼自身のよさを引き出すことに繋がったことがわかる。ただ、結局のところ、どうしてそういう考え方をしたのかを見つけ出すことはできなかった。これはおそらくその部分に関しては、自分自身の力で何かを見つけることが重要だということなのだろう。運だけで成功した人の話はほとんど参考にならないのに対して、こういう人々の話はその戦略からして面白い。特に、そこに何かの共通点を見つけたときが面白い。
色々なところで教育の問題が取り上げられている。しかし、技術的なことばかりに目が向けられ、本質的なものに注意が払われていないように感じられる。技術と本質は、本来、同じ根っ子にあるものなのだが、どうもいつの間にか技術ばかりが注目されるようになり、それを身につけることにほとんどの力が注がれるようになった。
その結果が最近話題になっている歪みとして表面に出てきたのではないだろうか。技術を身に付けても、そこに魂がこもっていなければ、とはもう少し高級なものに当てはめられる話だが、基本的なところにも十分に通用する話なのではないだろうか。本質というといかにも取っ付きにくいものに思えるのだが、実際にはごく単純な行動の集合であろう。単純だからこそ、あらゆるものの基礎となり、それを起点として様々なものが形作られる。人間だけでなく、全ての生き物が持っている能力であり、自らの身を守ることや生き延びるのに必要な情報を掻き集める為のものだ。それを欠いた人々が世の中に溢れているとしたら、そんなに恐ろしいことはないはずだが、現状はどうにもそう思わざるを得ない。それがどれほどの影響を及ぼすものかは、このまま放置して見守っていればある程度明らかになるだろうが、そこまで社会が耐えきれるものか、少々心配になる。一部の人間だけでなく、かなり多くの人々がそういう心配を抱えているようだが、その一方で、我関せずという人種がかなり目立っている。これこそが現代社会の病態であり、自らの問題を意識できない人々がいる証拠だろう。こういう状況が生まれるのも、結局は基礎の基礎である能力の欠落が原因であり、それを失った人々の迷走はそのうち暴走に変わってしまうのではないか。単純な能力は「観る」ことであり、単純に眺めたり、見過ごすことではなく、じっくり観察することである。何も難しくないはずのものなのに、最近はこの手の能力の欠如が特に目立つようになってきた。身を守る為の術もその現れだが、そんな必要不可欠なものでなく、日常生活での関連付けなどといった行為にも困難を見せる人が増えている。命令に従い、ただ闇雲に繰り返すといった行動に出る人々を見ていると、部品が幾つか欠落しているように思えてくる。肝心なことは、自らの目で見たものを自らの頭で分析することだが、どちらもできない人が増えているのではないだろうか。何気ない行動であり、基本的なことであるだけに、一度失ってしまうと取り戻すのはかなり難しい。さて、この先どんな展開があるのか、楽しみとは言えないが、じっくり観察してみたいものだ。
冬本番か、日に日に冷え込みが厳しくなる。体の慣れは遅れているようで、服で調節するしかないが、それくらいでは追いつけないようだ。人間は自然に任せるよりも、自分にとって快適な環境を作ることを選び、周囲に影響を及ぼしてきた。それが環境破壊に繋がることも多く、最近は手遅れにならない為と、色々やっているようだ。
環境を変えると言っても、色々なやり方があり、おそらく人間のやることは極端なものだろう。それに比べて、他の生き物たちはそれなりに快適な環境づくりをしているようだが、所詮はあっちのものをこっちに動かすとか、自分の周囲を少しだけ変える程度のことだ。個体の大きさがあり、その周囲となれば大した領域にもならないから、それが移動したとしても影響は少ない。それに比べたら、自分の大きさを無視して、大々的に変えてしまう人間の所業は自然破壊といわれてもしょうがない感じがする。全くこの生き物はこの星の上に君臨し、好き勝手に振る舞っているが、さて今後はどうなるのか、手遅れにならねばいいのだが。といっても、おそらく自分が生きている間に取り返しのつかないところまで行くとは思えず、結局のところ勝手な人々は一時の享楽に浸っているのかもしれない。それにしても、寒さが厳しくなるにつれ、動きが鈍くなるのは仕方のないところだろうか。意識の中では冬が来ると思っていても、肉体的にはほとんど準備ができていない。それに比べて、近くにある木蓮に既にその先の準備が整っているのを眺めると、流石に感心するしかない。葉が落ち始めたと気づいた時、既に次の春の為の花芽の準備は整っていた。それがこのところの冷え込みで、もう一つの変化が誘発されたようだ。花芽を覆っていた皮が剥がれたらしく、木の根元に小さな葉のようなものが沢山落ちていた。大きな木を見上げてみると、ついこの間まで堅い蕾のようだった花芽が、銀色の衣を纏っていたのである。これから冬本番を迎えるときに、こちらは寒さに震えるだけだが、あちらは既に春が来るのを待っている。こういった情緒的な表現が植物の感覚に当てはまるとは思わないが、自然の厳しさに応える為には先を見通した準備が必要だというのだろう。少しの気温の変化に一喜一憂している人間と違って、植物たちは日照時間の長さと気温の変化を感じとって、これらの準備を整えていく。自然と共存することを謳う人々が多くなったけれども、果たしてどれだけの人がこういう変化を体だけで感じることができるのだろう。手遅れの対象はこの星ではなく、この生き物にあるのかもしれない。
3秒ルールと聞いて、ピンとくるものがあるだろうか。スポーツのルールと思う人もいるだろうが、ここではもっと一般的な話である。といっても、おそらく、年齢による違いが大きくあり、自分自身は使ったことはない。もう少し若い世代の人々が、学校に通っていた頃に使ったルールのことだが、さて何に適用されていたのか。
では、逆にもっと若い世代についてはどうだろう。確かめたことはないが、どうも今でも通用するところがあるようで、その息の長さに驚かされる。さて、あまり長いこと引っ張るのも一部の読み手にとっては迷惑だろうから、さっさと種明かしをすることにしよう。3秒ルールとは、学校での給食や弁当の時間に使われた言葉である。これでも思い当たらない人には読んで理解してもらうしかないが、給食の時間に食べ物を床に落とした時、さっと拾いさえすれば食べても問題ない、というルールのことで、誰が言い出したのか広まったようだ。衛生面からすれば、何の根拠もない話で、気持ちの問題だけなのだが、面白がって使っている子供がいた。そこが肝心で、面白がるだけで、最近復活してきた勿体ないという感覚とは全く違っている。勿体ないという感覚だったら、落としたときについた汚れを払い落としたり、その部分だけを除いてから食べるわけで、さっと拾って口に放り込むというのはスリルを味わうような感覚と言うべきかもしれない。これも見方を変えれば、汚いという感覚が薄れていることから出てくるものであり、潔癖主義が蔓延るのと並行して正しい衛生感覚が失われたことと関係があるのかもしれない。それでも、ある程度流行したのは遊びという意味合いもあったのではないか。ところが、時代を下ってくるとその辺りの事情も大きく変化したようで、例えば地べたに座って食事する若者や、服を引きずって歩く学生の姿には、汚いものを見分ける力が失われたように感じられる。便所での行動も両極端なものが混在しており、排泄行為の汚さとそこで食事を摂ることとは容易には結びつかない。確かに、自分たちの感覚が基準となっており、そこにある異常さに気づくことができないのは当たり前かもしれない。もしそうならば、その根源はどこにあるのか。これらの行動が生まれた後に身につくことを考えれば、家庭にあることは明らかだ。最低限の規範を身につけさせずに、きちんと育ってくれればいいと考える親が何を思っているのかは推測不可能であり、そんな人々が増え続けている社会の抱える問題は大きい。そこには、自ら重要なことを考えようとしない、社会的な責任を果たせない人がいるのだ。
目的もなく彷徨うことは辛いものだろうか。特に最近は、手近な目的や目標を設定し、それを達成することでその場その時の満足を得、その先への心の糧とすることの重要性が説かれている。心の不安を膨らませず、安定した人生を送る為に大切だと言われるのだが、本当にそうなのだろうか。目的のない行為には意味がないのだろうか。
人生の目的、生活の目的、仕事の目的、そんなものを書き並べていくと、誰でもかなりの数のものが出てくるのではないだろうか。それぞれに重要であり、それらを達成するという目標の設定は、色々な意味でやる気を起こさせるものなのかもしれない。しかし、それだけを追い求めているといつの間にか大切なものを見失っていることに気がつかないのではないだろうか。大切なものと書いてはみたものの、現実にはこれという実体を示すことは難しい。人それぞれに心の中で大切に抱いているものは違うだろうし、同じ人でも齢を重ねるとともに変化するものかもしれないからだ。近視眼的というと言い過ぎに思えるが、人は近いものを細かく観察し、それを分析することはできる。しかし、遠くのうすぼんやりと見えるものを判別し、それらを分析することは簡単にはできない。だから、手近な所から手をつけ、卑近な目標を定めて、その達成に精を出す。このやり方はおそらく全ての人が実行可能で、目標の高低はあるものの、達成という段階を迎えることは難しくない。しかし、全体の方向性を定める為には、少し遠いところにも目を向ける必要があり、そのことの重要性を強調する人々がいる。言葉を変えれば、それが目的を定めることであり、自らの行為の究極の目的が決まれば良いというわけだ。これを合目的と呼ぶ人がいて、目的に適った行為が最も優れたものと判断するらしい。しかし、ほとんどの目的ははじめに設定するのが人間であるから、人間の都合で考え出されたものであり、実際の選択肢の中で最良のものであるとは限らない。人の考えには限界があり、全ての選択肢について検討されることはまずあり得ない。その上に、その時々の思惑が入り込む余地は十分にあり、必ずしも良い結果を産むとは限らないわけだ。そんな中で合目的性を強調する人々は、おそらく分析力には優れているかもしれないが、将来の可能性に対する決断力は劣っていることが多い。後付けの理由を考える能力のある人が、必ずしもその場の決定を正しく行えるとは言えないからだ。にもかかわらず、目的主義の人々はそれをあらゆる場面で強く推し進めようとする。その結果が、一部の企業や組織に現れている大きな歪みであることにそろそろ気づかなければならないのではないだろうか。道筋が決まっているときに、当たり前の判断を下すだけで済んでいたのは当然であり、その中で目的を重視する人々が力を持っていたのは理解しやすい。しかし、ある時点から方向性が定まらず、もっと遠くまでの見通しが必要とされるようになった時、目的主義は大きな欠陥をさらけ出すことになったわけだ。今、これを繰り返すのは愚の骨頂なのではないだろうか。
伝統的なものが失われつつあることを危惧する人々がいる。それは芸能だったり、工芸だったり、技術だったりするものだが、そういう括りでなくても、昔から伝えられているものが徐々に失われていると感じる人も多いのではないか。その一方で、新しいものだけが重要であり、古いものは無くなるのが当たり前と考える人もいる。
比較すべきものかどうかはわからないが、元々生き物は一代限り、遺伝子と括られるもの以外には継承されることがなかった。多くの昆虫は次の世代に託して、自分の命を終わるし、子育てをする動物でも、あるところで子離れをして、それ以降は関係を絶つ場合が多い。それに対して、霊長類の多くは集団で生活し、遺伝子以外の何かをその中で継承する。そこから更に人間が大きく異なっているのは、継承する為の媒体を使うことができるようになったことで、言語自体もその一つだろうが、文字のように後世に遺るものを発明したことが最も大きな違いだろう。そうなってくると、はじめに触れたように古いものを残すかどうかが問題になる。元々、そんなものが伝わらないような状況では、常に新しいものが編み出され、それが継承されることなく絶える。しかし、人間という生き物の場合、残す手立てを手に入れてしまった為に、残さない選択を迫られることになったわけだ。継承が可能となったことは非常に大きな意味を持ち、知識などの蓄積はその量だけからしても全く違う水準のものとなった。良いも悪いもなく、ただ伝えていくことが重要と考える人はほとんどおらず、役に立つとか為になるとかそういった観点が継承には重要な要素となる。しかし、ある範囲を超えてしまうと、伝えることのできる限界を超えることになるから、ついには捨てることの重要性が出始める。とは言っても、人それぞれにそういうものに対する考え方は違うので、結果的には多様性のおかげで種々雑多なものまでが生き延びることになる。こんな話をしていると、何も積極的に働きかけなくても、様々なことは自然に残されていくように思えてしまうかもしれないが、今問題になっていることは、それが必ずしも当てはまらないことを示している。つまり、伝えられるべきと設定しないと伝わらないことが増え、流れに任せているだけでは不十分と見えることが多くなったのだ。それまでならば誰かが伝える役を果たしたものが、その誰かがいなくなってしまった。そうなってくると、何かしらの方策を講じなければならないが、別の問題が加わり、それが以前のように簡単にはできないことがわかり始めた。つまり、何をどう伝えるか、どう伝えれば伝わるかという判断が必要となり、改めて考えるとこれという絶対的な手段がないことに気づくのだ。言葉や媒体の問題もあるが、それらを正確に選んだとしても、受け取り側がそれを理解できないという問題が立ちはだかる。話が通じないと一般に表現される問題が、こんなところにも顔を出してくるわけで、ここまで来てしまうとどうも簡単な解決策は見つかりそうにもない。