ある人の伝記によれば、子供の頃先生に質問ばかりして閉口されたとある。程度の違いこそあれ、小さな子供たちを持て余した経験を持つ人も多いだろう。人間は好奇心の塊であり、何でも知りたがると言われるが、最近はどうも事情が違うらしい。したり顔の人をよく見かけるし、第一キョロキョロする子が少なくなった。
人間と他の動物の違いを本能の占める割合とする人が多いが、好奇心は全ての人が持つ能力ということで本能の一部のように思える。それが目立たなくなったということは、好奇心までをも抑える新たな知能を身に付けたということなのだろうか。流石にそう考える人はいないと思うが、現象を解釈しようとするとそちらに向かってしまうのではないだろうか。何でも知りたがることが余計なことのように扱われるのは、伝記を読めばわかるように、昔も今も同じことである。予定通りに事を運びたがる人ほど、こういう形の回り道は邪魔に思うだろうし、それが主従がはっきりした関係の中ではより鮮明となる。なるべく思惑通りに進めたいわけで、特に目標が定まっているときにはその傾向は強くなる。最近問題視されていることにはそういう背景があるようで、輝きを無くした子供たちの量産は思い通りに事が運んでいる証拠なのかもしれない。しかし、中にはそういった括りに縛られること無く、強い好奇心を持ったまま大きくなる人もいる。その中の一部が研究と呼ばれる特殊なものに携わり、他の人から見たら取るに足らないことに精を出す。知りたいという欲を満たす為の行為であることが多く、世間的には認められないせいか、時々何の役に立つのかの説明を加える。しかし、本人にとっては好奇心だけが大切なのではないだろうか。そんな人々がいつの頃からかそういう行為を生業とするようになり、その成果が生活の向上に結びつく部分が明確になるにつれて、その数を増してきた。分母が大きくなるとそこにある多様性にも大きな影響があり、知りたいことにも大きな違いが生まれる。科学技術の発展を目指す現実路線を歩む人もいれば、そんなものには目もくれず自らの欲を満たすことだけを目指す人も出てくる。中でも異彩を放つのは脳の機能を探る人々で、特に哲学と科学の間を繋ぐような何とも不思議な世界を築く話は不思議だ。脳の何処が何をしているのかという話もある線を越えると怪しさが際立つが、それにも増して意識と無意識といった括りの話は異様さが感じられることが多い。技術に結びつくことは知る意味を理解しやすいが、自分がどう考えているのかを知る意味は堂々巡りのように答えに行き着けない。知りたいという欲を満たす為の行為に過ぎないのだろうが、それにしても何故知りたいかを知りたいなどとやったらそれこそ禅問答のようなものになり、西洋的な観点には馴染まないような気がする。
最近、他人の話をゆっくり聞いたことがあるだろうか。忙しいのを理由に相手の話の腰を折り、自分の言いたいことだけ伝えるようにしていないだろうか。表面的にはそんなことが理由のように見えているのだが、実際には違うことが起きている場合もある。互いに相手の話を聴くという態度が無いときのことだ。
忙しくても相手の話を聴くようにしている人もいるが、その数は少ないように感じる。年長かどうか、上位かどうか、そんなことを理由にしている場合もあるだろう。格の違いが話の内容の質の違いに結びつくとは思えないが、そんな態度をとる人が多いのは何故だろう。こんなことがあるのは、結局、相手の話の内容をつかみ取ろうとする気持ちがなく、その前にある印象だけで判断することが多いからではないか。確かに、理路整然と話してくれる人ばかりなら、内容を理解するのも難しくはない。しかし、次々に転じられる話題と通じない論理を駆使されると、途中で挫折してしまうものだ。聞き手の問題だけでなく、話し手の問題が大きくなるのはこういうときで、意思疎通が難しくなるわけだ。こんな現象はおそらくかなり広い年齢層で起きているように思える。しかし、その一方でそれより深刻とも思える現象が、ある年齢よりも下の世代に目立ち始めているのではないか。たとえば、相手の話の質に無関係にこちらの話だけして、相手の話を聴かないことがある。お互いに話し合っているように見えて、平行線をたどる場合もそんな背景があるように思える。考えてみれば、自分の話を組み立てるよりも相手の話を理解するほうが数段難しく、特に、整理されていないものとなればかなりの困難がつきまとう。そんな状況で、労力を使って相手の話を理解してから自分の話を始めても、焦点の外れた話になることが多いし、無駄な努力と思える場合も多い。そんな経緯があったのか定かではないが、ある年齢より若い世代ではどうにも勝手なお喋りが横行している。自分たちだけに通じる言葉や言い回しを使うからということがあり、他の世代とは意思疎通を図らないように見えているが、実際には同じ世代間でも上手く意見交換ができていない。こうなると、あらゆることに支障が出てくるはずで、今巷で問題視されているものの中には、こういう背景から出てきたものもありそうだ。実際には、話の組立てとその理解の間の関係を知らないのかもしれないが。
ふと思ったのだが、責任という言葉の使用頻度は時代の変遷とともに変化しているのだろうか。自分自身の年齢が違うわけだから、受け取り方も違い、単純に比較できないと思うのだが、どうも昔に比べて責任を問題にする機会が増えたような気がする。調査をしたわけでもないから、単に感覚の問題なだけなのだけれども。
特に、その傾向が際立っているのがこのところの時代の流れなのではないだろうか。任せたふりが流行し、いかにも自由にさせるように見せて、その実態は正反対というわけだ。上手く行くはずもない計画を提示させ、それを実行させることで任せた側は強く印象づけることができる。そして、予想通りの結果からいい加減な計画を実行した人間の責任を問えば、更に株を上げることができるというわけだ。これは流石に極端な例だろうが、全体的にはこんな感じのことが横行し、結果として無駄な仕事や無理な計画が進められて、本当の被害を受けるのは実行する側でもそれを支持する側でもなく、金銭的な支持を行う一般の人々となる。何の話かそろそろ見えてきただろうが、最近とみに騒がしくなっているのは地方自治体の懐具合である。既に一般企業体ならば倒産しているはずが、そうなっていないのだから不思議なのだが、公的組織に企業と同じ考えを適用すること自体、間違っていないのだろうか。その辺りの議論はもうどこかに吹っ飛んでしまい、兎に角町が潰れたら大変という話で持ち切りなのだが、どうも踊らされているようにも見える。確かに乱脈会計により大きな損失を出している自治体も多くあるのだろうが、住民への奉仕を基本とする組織が破産するとはどんな状況なのか、実感できない人もいるのではないだろうか。こういう話題自体がどこかで作り出された想像上の産物のように思うのだが、当事者たちは真剣である。一時の恐怖政治がぶり返したかのような情報の操作に疑いをもつよりも、明日の生活を心配する方が先ということなのだろうが、それこそが思うつぼなのではないだろうか。対話と圧力を外交方針として打ち出した話が随分昔にあったが、それを内政に適用したのが現状なのではないかと思えてくる。もう少し腰を落ち着けて、目の前の問題を分析し、解決策を講じることが重要であり、この時点で責任を持ち出しても時間の無駄である。更には、ここで逃げ出すことばかり考える人々の心理を推し量ると、まさに責任が問題視されるようになったのは、無責任な人間が増えてきたことと関係しているように思えてくるのだ。
いつだったか、高校生が教師たちを糾弾している場面が映し出されていた。責任追及する姿にどんな印象を持つのか、人それぞれだろう。しかし、そこにあるのは自らを被害者と断定する心であり、事件に関わった一人としての責任を果たす姿ではない。こんな姿を人前にさらすとは、いつの間にか人の心は変容してしまったのか。
確かに、制度を正しく運用しなかった人々の責任は大きい。しかし、起きてしまった事に対してそれに関わる自分自身の責任を全く考えないのはどうかと思う。こういう考え方が世の中に広まったのは何故なのか、たとえ分析したとしても、今の状況を変える事は難しいように思う。多分、そんな事に精を出すよりも、もっと根本のところを見直す事の方が重要なのではないか。この話を持ち出した理由は別のところにあるのだが、それはやらせ質問なる事件についてである。責任者が責任を取ると豪語して行った事は金での解決となったが、彼らの思いつきそうな事はそんなところだろう。本来なら、罰せられるべき人の数は膨大であり、それをそのまま実行すれば被害甚大となる。そんな事をするのは施政者として恥ずべきであり、ここで名前を上げるには盾となるのが一番だろう。本当ならば、原因を分析し、それを防ぐ手立てを考えるのが筋だろうが、まやかしと受け取られる事は必至であり、恥をさらす時間を長くするだけだ。そんな思惑からの決断だったのだろう。それにしても、これで責任問題が片付いたとするのはいかにも情けない。特に問題となるのは、芝居を演出した人たちではなく、それを利用した人々だろう。劇場などと呼ばれたのをいい事に、まさにそれを地でいった興行をうった人々の責任は重い。だから、その人々を糾弾するとなるとはじめの高校生と同程度の知恵しかない事になる。ここで問題となるのは、その芝居に踊らされて馬鹿げた行為をした有権者の責任なのではないだろうか。騙されたと被害者を装ったとしても、実際にはそれを見破れなかった無知の恥をさらす事になる。ここでの責任の果たし方は、高校生が履修すべき科目を短い時間でも真剣に勉強する事と同じように、次の選挙で騙した連中の組織を痛い目に遭わせる事にあるのではないか。被害者然として何もしないのは、ただの無責任なだけである。
性善説、性悪説、どちらを支持するだろうか。世の中の決まりを厳しくして、何とか悪事を抑え込もうとする最近の動きからすると、どうも性悪説の方が優勢なのではないかと思えてくる。世の人々はどうかすると悪事を働こうとするものなので、それに対する厳罰を設けることでその動きを封じ込めるといった形の動きだ。
これを性悪説と結びつけるのはかなり乱暴な論理なのだが、じっくり考えてみると最後にはそこに行き着くような気がしてくる。元々、人それぞれに持つ倫理観から抑制が働くと思われた時代には今のような考え方は珍しく、おそらく行き過ぎの感があった。しかし、度重なる身勝手な犯行、自分さえ良ければいいといった感覚、他人を陥れる犯罪の数々、そういうものを目の当たりにして、どこかに根本的な認識の違いがあると感じる人が増えてきた。その流れの中で、自分はどうなのかという問題は脇に置いて、どうも人間という動物は善として生まれるというより、悪を持って生まれると言った方がいいような気がしてきたのではないか。それが罰則の強化という流れを引き起こし、ほぼ全ての犯罪に対して厳しい対応を望む声が高まってきた。しかし、その一方で、その先を進んでいた海の向こうでは、遥かに厳しい罰則規定があるにもかかわらず、自分を中心とした組織の繁栄を目的とした犯罪に手を染める人が後を絶たない。この現象は真の意味の性悪説を裏付けるものであるとも考えられるし、逆に悪か善かに関わらず人の価値判断の奇妙さを裏付けているだけとも考えられる。性善説でも性悪説でもどちらでもいいのだが、このところの流れや海の向こうで現実に起きていることから推し量れるのは、単に結果のところで勘定を合わせることだけでは不十分であり、大きな何かが欠けているということだろう。叱られるからやめておこうという気持ちだけでは強い欲望を抑えることは難しく、どこかで禁を破ってしまう。その行為自体の善悪を見定める感覚を芽生えさせない限り、抑制を働かせ続けることは無理なのではないだろうか。そういったことを教え伝える努力をせず、賢く生き延びることの重要性が優先するような感覚の伝授だけでは現状の打開は期待できそうにもない。悪事というと大事になるが、それ以前の悪戯といった感覚のものへの対応が事の始まりになるのかもしれない。躾けと呼ばれる事には理屈などないものが多いが、そこから理屈を絡めた段階に至るまでの間の重要性がこれまで蔑ろにされてきた。家庭教育の重要性を再認識する動きにはそんな気持ちが含まれているようで、このあたりが理屈だけで説明できない本能に近い欲望に対して効果を示すのかもしれない。
教育の崩壊が問題となるにつれて、その原点は何処にあるのかという問題が取り上げられるようになっている。教育という言葉に対する認識は、多くの場合は学校と繋がっていたのだが、最近それが通用しない状況が目立つようになり、改めて何処で誰がするのかが問われている。ただ、問題の捉え方に違和感があり、気になるところだ。
教え育むという本来の意味がどこかに忘れられてしまってから、随分時が経つのではないだろうか。そんな状況の中で、教育の現場について改めて考えてみるというのは意味がありそうで、実は空虚なものになりそうな気がする。特に、教え育むという本来の形を再認識せずに、現状の目的主義を前面に出したままの考察には期待が持てない。にもかかわらず、問題を大きく取り上げなければならないのは、その結果として育ってきた人々の考え方に大きな歪みが存在するからだろう。それを仕組みの欠陥として取り上げ、その修正を施す為の新たな手法の導入を模索すると言えば、いかにも真剣な取り組み姿勢と受け取られるし、成果にも期待できそうな雰囲気はある。しかし、現実の討議から推測できることは、たとえ長年考え抜いてきたものであっても、根本的な論理に現実との大きな隔たりがあり、別の形の無理難題を現場に押し付ける結果にしかならないことが垣間見えることだ。小手先の施策の繰り返しと、朝令暮改的な度重なる変更の結果が、こんな状況を産んだことに気づいていないわけでもないだろうに、表向きは違っているように見えても、同じ座標に乗っかっているものを出している人々は、こんな制度や仕組みが産み出した産物である。その中で少々の修正を繰り返したとしても、根本解決は望めず、いつまでも同じことを繰り返すだけで、不幸な循環がそこに残るだけなのではないだろうか。教え育むことには幾つかの段階があり、それぞれにある程度の達成基準がある。但し、その幅には大きな違いが許容範囲として存在し、狭いところに落とすことは強いられていない。最近の動向を見る限り、個人の自由という名の下に、基準が不明確になる一方で、狭められた範囲に押し込める動きも強くなっている。その渦中にある子供たちにとって、こういう制限は精神的不安定を助長するばかりで、拠り所を失わせることに繋がっているのではないだろうか。そんな中でいかにも理解を示すように振る舞う人間こそ、害を及ぼす源のように見える。各段階で緩やかなものとは言うものの明確な基準を示し、その中でなるべく広い範囲に散らばらせることが、人間本来の機能を発揮できる人を教え育むことになるのではないだろうか。
財布をあけると色々なカードが飛び出してくる。二十年ほど前ならよほどの人じゃないとそういう具合にはなっていなかったのに、今や職を持たない学生たちでさえそんな様子なのだそうだ。確かに、交通機関のカードがやたらに増えているし、どこの店だか忘れてしまったところの会員券も多い。役に立つのか立たないのかさっぱりわからない。
こんな状況になったのは、電子化と呼ばれる改革のせいもあるが、もう一つ忘れてならないのはそれを手に入れることによる利点だろう。交通機関のカードは一部を除きそれなりの特典が含まれ、幾らかの割引が含まれる。最近ほとんど見かけなくなった電話用のカードも以前はそういうものが売られていたし、廃止された高速道路用のカードも同じ状況だった。しかし、それがかえって仇となり、損失を増大させることよりも一部の利用者に不便を強いることを選ぶことになった。その一方で、ほとんど特典は得られず、おそらく手間が省けることだけを売り物にするものもある。一部を除きと引き合いに出したものはまさにそれで、一切の割引は含まれず、ただ単に乗り換え自由を謳うだけである。同じような考えから導入されたタグの埋め込まれたカードの方は、通常の使用では特典は得られないが、例えば在来線のグリーン券の購入額に差を付けている。更なる戦略がそこには出てくるのだと思うが、果たしてそれほどの材料があるものかどうか、俄には信じ難い。といっても、これまでもそんな読みを外されてきたわけだから、今度もまたなのかもしれないが。これらとは少し違う観点で導入されたのが、クレジットカードだろう。現金を持ち歩く危険性を避けたり、信用を保つ為といったところだろうが、海の向こうと社会事情が異なるこの国ではそんな理由は成り立たなかった。それでも利用者が増えてきたのは、上を目指す気持ちを持つ若者が参入してきたからだろうか。結果的には破産する人が増えただけにも見えるが、兎に角利用者が急増したのは事実だ。それに拍車をかけたのが、会員相手の特典の導入であり、利用額に応じた賞品や割引制度がある。一つ一つに対象が違うわけだから、どうしても多数のカードを持つ必要が生じ、結果的にカードで膨らむ財布を持つことになる。最近は専門店も専用のカードを発行するようで、百貨店のカードもやたらに出回っている。割引が得られるのがその理由だが、クレジット会社に支払う手数料のことを考えれば、その割引率はごく当たり前のことであり、利用者にとっての利点だけに違いが出る。そうなるとさて、クレジット会社はどんな戦略を出すのか、こんなことが繰り返される世の中がいい方向に向かうように思えないのは、こちらの頭が固いせいかもしれないが。