パンチの独り言

(2006年12月18日〜12月24日)
(成意、窒息、標的、古客、挑む、交代、新旧)



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12月24日(日)−新旧

 新しく便利なものが次々に登場する。その度に、古く不便なものが消えているのだが、ほとんどの人がそんなことに気も留めない。次々に変化するのだから、古いものを捨てて、新しいものを受け入れなければどうにもならない。そんな意見が聞こえてきそうだが、実際にはそうならないことも多い。どんな違いがあるというのだろう。
 古いものの良さが新しいものの登場によって見直された、という考え方が一般的だが、実際にはそれだけとも限らないようだ。新しいものが便利なように思えて、実は様々な欠点があり、徐々にそれが露見するとか、古いものと新しいものは似て非なるものであり、実際には両立するものだったとか、そんな話もある。前者はそこら中に溢れているけれども、その存在時間があまりに短すぎて印象に残っていないものが多い。今すぐに思い出せと言われても、さて何があるのかと考え込んでしまう。また、欠陥だらけの製品だったものが、改良を加えることによって生き残ったものもあり、今巷に溢れているものの中にもそんなものがありそうだ。後者は更に難しいかもしれない。電化製品には多く見られる傾向だと思うが、登場直後には置き換わると思われたのに、現実にはそうならないものがあるのではないか。こちらも、深く考えていないので、どれという例が示せないのが残念だ。どちらにしても、古いものから新しいものへの代替わりにおいて、使う側の意識の変化はほとんどない。元々、そんな概念が無いところへ突然現れたようなもので、新しいものの便利さを享受できる域に達していないこともある。それに比べると、その地位が確立された頃に育つ世代には全く違った感覚が芽生えている。あるのが当たり前であり、既に前提として認識されているからだろう。ラジオからテレビへの変化はまさにそういうものであり、ただ単に見たり聞いたりする側だけでなく、送り手にも大きな変化を及ぼした。そんなことを考えながら周囲を見回してみると、現代の情報化社会はその典型例とも言えるのではないか。その中で、古い世代にも便利さを実感できる人とそうでない人がおり、両極端の意見の交換が行われる。立場が違うわけだから当たり前のことだが、それにしてもこの手の議論に意味はあるのだろうか。というのも、彼らの世代にとっての感覚であり、違う時代に育った人々には全く違った感覚があるからだ。そんな中での価値の有無や功罪などの議論にどれほどの意味があるか、かなり怪しいものに思える。

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12月23日(土)−交代

 時代が過ぎていくのを感じる場面は色々とある。悪い方向に向かうのがはっきりしているときには、何とかしなければという気持ちになり、発言だけでなく行動を伴うように気をつける。良い方向に向かっているときでも、浮かれた人々の悪乗りの行動に注意し、折角の上昇傾向を失わないように気を配ろうとする。
 上に立つ人の立場になれば、時代の変化を感じ取る能力だけでなく、それに巧く対応する能力も要求される。しかし、下の方にいるからといって、こういった感覚が必要ないかといえば、決してそうではない。全体として感覚を持った人が多い組織ほど、調子の波に応じた運営ができるからだ。ここ20年ほどはこんな変化が次々に起きた時期だった。この機に乗じて様々な改革を行ったと主張する人がいるが、現実には宴の後のごとく、単なる馬鹿騒ぎだったように見える。その他にも資産を増やした人や不況を逆手にとってでっぷり太った企業もいる。波に乗る能力が活かされるのは波があるときであり、この時期はまさにそんな時代だったのだろう。そんな中で、経済や政治の世界だけでなく、他の世界にも様々な変化が起きた。たとえば、研究開発の世界では資金調達が最大の課題となり、そのために様々な工作を行う人々が現れた。捏造問題が大きく取り上げられ、国内だけでなく世界的にその傾向が現れたことから、根底にある問題が大きいことを意識させられた。資金云々の問題は結局は価値判断の基準の問題であり、成果を測る指標が常に金銭的なものにおかれていることに、経済という感覚が人の心に及ぼす影響の大きさを実感する。これだけの変化が起きたからというわけではないが、ここまでやって来ると本当に大切なことは何かを真剣に考える時期に来ていることがわかる。そういう時期に本当に必要な改革は何かといえば、おそらく組織や制度の改革ではなく、意識の改革なのではないだろうか。しかし、生まれ育った環境に大きく影響される意識の問題は、組織や制度のように一朝一夕に変化させられるものではない。上から突然降ってくるような改革の効果の程度を知っている人には、それとは違う自分たちの中から湧いてくる何かの必要性が理解できるのではないか。10年前に始まったあるワークショップはまさにそういう形のものだったのだが、つい先日最終回を迎えた。これも時代の流れであり、更に次の形のものが生まれ出る時期であることは確かだ。長く続いたものを継続することも大切なのだろうが、同じことの繰り返しが必ずしも良い方向に動くわけではないのだから、こんな変化はあるべき姿なのかもしれない、次に期待して。

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12月22日(金)−挑む

 元気な老人が増えているという。何にでも挑戦して、自分の好奇心を満たすだけでなく、周囲に対して様々な働きかけをする。いい方向に向かえば歓迎されることだが、さて全てがそうなっているのかどうか、判断するのは容易ではない。ただ、挑戦し続ける気持ちは大切で、それが元気の源となっていることだけは確かなようだ。
 こういう人々はおそらく若い頃から挑戦の気持ちを持っていたのだろう。ただ、仕事の忙しさや日々の生活に追われて、その意欲を試す機会が得られず、ある程度自由な身になって始めたのではないだろうか。これに対して、若い頃からずっと壁に跳ね返され続けながら、挑戦し続けた人もいるかもしれない。どちらに属するのかは問題ではなく、何かに挑む姿勢を示せる社会はある意味健全と言えるのかもしれない。ただ、最近突然話題になり始めた、再挑戦という言葉とその使われ方には、普通の挑戦とは違った思惑があるように思える。だから、違和感が感じられるし、政策として論じられたとしても、一部の対象しか眼中に無いように見えて、いかにも思いつきとしか思えなくなる。確かに資金援助の仕組みを構築することが先に来ると、その使い道が問題となるわけで、一部の限られた人々を対象にせざるを得ない。しかし、ここには大きな誤解、間違いがあるように思えるのだ。つまり、支援という言葉にある多様な雰囲気が、こういう形で議論されることによって打ち消され、逆に厳しい制約が施された何の役にも立たない制度という姿に変わってしまうわけだ。本来は精神的なものや金銭では表現できないものが大多数であるにも関わらず、ほんの一部の金勘定が重視されるものだけが中心となる。そうなれば、不公平は明らかであり、全体的な配慮に欠けるものができてしまうのは当たり前のことだ。それに気づいている人もいるのだろうが、最近の政治にはそういった広い視野を持った人の関与はほとんどなく、ただ狭い視野による見通しだけが中心となる。何故こうなってしまったのかはわからないが、兎に角現状はそうであるわけだから、それに対しての横からの働きかけが今まで以上に重要になっているのではないか。再挑戦の基本は、世間的な流れとは違う形でも可能になることであり、例えば、高等教育を職を得てから始めることもその一つである。その際に必要な支援は様々だが、普通かどうかを重視する感覚には中々理解できないものだ。現実には支援はそこから始まるわけで、人とは違う道を歩んでも人生を楽しみ、社会に貢献できるのであれば、それでいいとすることが大切だろう。無責任な行動によって受けた社会的制裁を帳消しにして、再び挑戦する機会を与えるということになりかねない提案に対しては、もう少し厳しい意見が出されてもいいのではないだろうか。

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12月21日(木)−古客

 新規開拓、新しい顧客を獲得することを指すようだが、だからといって古くからの客を蔑ろにするわけではないだろう。ふた昔くらい前までは、常連客を大切にする店が堅実な商売をしていて、次々に新しい客を入れる店はどこか怪しげな雰囲気があった。いつの間にか、客寄せの手立てばかりが重視され、長居は無用となってしまった。
 商いの方法には当然のことながら色々あり、それぞれに長所、短所をもつ。だから商売をする人々は自分が良いと思った方法を選び出し、実行に移すわけだ。しかし、時代の変化とともに、それぞれの手法に対する考え方も変わり、人付き合いを優先する時があったかと思えば、新しいことが第一となる時が来る。そういう変化に対応して巧く舵取りをすることが経営者に必要な資質なのかもしれないが、もう一方で変化とは無関係に自分のやり方を貫く手もあるだろう。商売の秘訣が昔から大して変化していないと思えるのは、こんな話が最近始まった制度にも当てはまるからだ。携帯電話の番号を変えずに会社を換えることができる制度がついこの間始まった。当初の混乱はさておき、かなり多くの人々がこれを機に別の会社を選んだようだ。但し、当初の調査は増減だけを示したものであり、現実に変更した人の数は示されなかった。何故そうしたのかはわからないが、これもまた何かの思惑を抱いた数字の操作の一つなのかもしれない。この時期、携帯各社は当然のことながら自らの特徴と他社との違いを訴え、新たなサービスを導入した。一見魅力的に見えるものも、よく説明を読んだら制約だらけで大したものでなかったり、とても使いそうにも無い機能を満載した話に乗せられて購入し、使いこなせない現状に落胆したり、安易な期待が裏切られた話が多い。新機能の場合は経験がないわけだから、何が起きるかを予測することは難しい。だから、期待と現実の違いが大きくなるのは当たり前であり、その分を含めて考える必要があるわけだ。しかし、こういう流行に乗りたがる人々は巷に流れる広告に抵抗できず、つい手が出てしまうのではないだろうか。バブル期を経てから、そういう人々の数は急増し、はじけた後もその心理は消えていない。それが今回の騒動でも明確に現れ、新しいものに飛びつく人の数の多さに呆れてしまった。その一方で、顧客を繋ぎ止めようとする動きをする会社もある。例えば、2年以上同一機種を使用した人には電池交換を無料にするサービスは、これまでの機種変更を促す動きとは逆の発想のものであり、機械への愛着との関連から興味深い。バブルに乗った人々には信じ難いことかもしれないが、これもまた客への心配りの一つだと言える。これらの一つ一つを見てみると、実は商いの秘訣の根本は大して変化していないのがわかるのだ。

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12月20日(水)−標的

 効率の続きだが、少し視点が違ってくる話がある。効率はその場その場の成果との関連が強く、その積み重ねとして結果が問われることになる。それに対して、目標とか目的とかそんな言葉で括られるものは、もう少し遠くにあるもので、日々の成果はすぐに現れなくても、最終的に到達できる結果となる場所の設定のようなものだ。
 伝わる意味が少し違うとはいえ、そこに流れている感覚はほとんど同じであり、前を見てどこかに照準を合わせ、それに向かって邁進することが望まれる。買い物に出かけたり、旅行に行ったりすれば、そこには必ず目的地があり、そこに行き着くことが条件となる。ただ、若い頃に何の目的も無く闇雲に歩き続けた経験のある人たちもいるわけで、それを年齢の違いと片付ける場合が多いが、いかがなものだろうか。いつの間にか設定された目標を目指し、その正当性を吟味すること無く歩き続けることは、実際には闇雲に歩くことと大差ないのではなかろうか。それを目標設定が第一条件であり、それがあるから安心とばかりに思い込む姿勢に大きな問題がありそうだ。こういった考え方が世の中に蔓延し始めてから、物事を決める順序に大きな変化が起きた。つまり、目標がはじめに無いと何事も始まらず、まず試してから考えるといった流れが隅の方に追いやられ、打ち捨てられてきたのだ。はじめから結果の見えている事柄を相手にするときには、これでも何とかこなせるのだろうが、世の中にはそんなものはほとんどない。それよりも、様々な関わりが別の要因を引き寄せ、予想外の展開が起きることの方が多く、そこまで予想した目標設定は現実には不可能となる。その為、いかにも大掛かりな検討を経て決められた目標が、次々と修正を繰り返し、全く違ったものに変貌することの方が多くなるのだ。にもかかわらず、依然として目標を求められるのは何故なのか。無駄な努力を省く為とか、効率よく物事を進めるとか、そんな言い訳が戻ってくるが、実際には正反対の結果を産み出しているわけで、考え方そのものに間違いがあるとしか思えない。であるのに、まだ生き残っているのはおそらくそういうものに対する安心感が植え付けられ、それが無いことに対する不安を煽られてきたからなのではないだろうか。不安に苛まれつつ、目の前の難題に取り組むことを避ける為に、どうでもいい目標を設定し、それを原動力としている。目的至上主義もそういう中で生まれたものだろうが、人の考えを狭めることはあっても、広げることには繋がらないことから、現状の閉塞感が生じたように思える。子供の頃から年老いるまで、こんなことに縛られ続ける人々の不幸はかなりのもので、それを打破する気力の持ち主が少ないことを現状は語っていると思う。

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12月19日(火)−窒息

 色々な場面で息苦しさを感じたことがないだろうか。息苦しいというと大袈裟だが、何かに縛られていると感じたり、様々な制限を押し付けられている感覚を持った人はいるのではないか。のびのびと育つことが重要といわれている子供たちについても、そんな雰囲気があり、どこかに理想と現実の溝があるように見える。
 大人たちだけでなく子供たちにまで、こんな感覚が広がっているように見えるのはなぜだろう。様々な場面で圧力がかけられているからだという人がいるけれど、ではどんな圧力があるというのだろう。外からかけられた圧力に苦しむ人もいるが、自ら作り上げた圧力に苦しむ人も多い。ここで言うものはそのほとんどが精神的なものなだけに、実態は明らかでなく、人それぞれにかなりの違いがありそうだ。ただ、そのきっかけを与えるものには共通点があるように見える。最近の情勢から感じられるのは、息苦しさが色々な場面でのぎすぎすした雰囲気から始まっていることだ。職場でも学校でも社会全体で、効率を問題とすることが多くなっている。のびのびという言葉には、一人一人の人が自分の速度で何かを行うという意味が含まれていると思うが、効率という言葉で括られたとき、最適なものが示されることで各自の自由が奪われる。何が起きるかわからない不安定な状況から、安定的な状況に変化するにつれて、よりよい結果を産み出すための方策が考えられるようになる。それが最適化という言葉で表されるものになるわけだが、今の閉塞感はそれだけによるものには思えない。ここにさらに加えられたのは、効率化というすべてに通じる変化であり、絶対的な答えがないことから、いつまでも追いかけなければならない目標となっている。そうなると混乱に巻き込まれた人々にとっては、常にかけられる圧力から逃れる術はなく、精神と肉体の両方に対する圧力を常に感じつつ、さらに上を目指すことを強いられることになる。向上心は色々な面で大切な要素なのだろうが、それが外からの圧力と置き換えられてしまうと誰しも息苦しさを感じてしまうだろう。効率が前面に出されると、それに逆らうことは難しくなり、どうしても要求に応えようとする。それが結果的に圧力となり、さらに厳しい状況に追い込まれる。しかし、全体としては追い求めなければならないものとなるわけだから、逃げられないように思えてしまうのだ。こうなると効率化とは別の方向の何かが必要になるはずだが、今のところそんな余裕がなく、厳しさは増す一方のように見えている。

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12月18日(月)−成意

 情報化社会が始まるよりもずっと昔から、この国は外の国からの情報を手に入れ、人々に伝えていた。翻訳という仕事はその為に重要な役割を果たし、単に内容を正確に伝えるだけでなく、そこに漂う雰囲気のようなものまでも表現できるかどうかを重視する人もいた。それは、おそらく文字だけが媒体であったためだろうか。
 最近の情報化社会では多彩な媒体を用いて、言葉だけでは伝えられないものまでも表現できる手立てを獲得したように見える。絵画や写真など目に訴えるものを扱う場面ではまさにその効果が得られるが、それでも昔ながらの言葉による伝達は重要な手段として残されている。ここで問題になるのは、絵や写真であれば文化の違いがある程度反映されるとはいえ、言葉のように全く通じないということはない。これを通じる形にする為に翻訳を必要とするが、この作業における巧拙の違いが作品が本来持つ筈のものを失わせる程の影響を及ぼすことがある。翻訳本を読んでいる時に違和感を感じるのは、まさにこんなときであり、読み手に想像力を発揮させられない言葉の羅列ではどうにも戸惑ってしまう。こんなとき、本当ならば原著にあたり、自分なりの解釈を著者の言葉に対して施した方が良いのではないか。でも、それはそれで面倒だし、何処かにズレがあるように思える。翻訳の本来の役目からしたら、それを外してしまったことに大きな問題がある訳で、そういう事が起きる度に原著に戻るのなら、はじめから原著だけを相手にすれば良い。職業上のことで専門的なものについては、翻訳を期待する訳にも行かず、自分なりの解釈を施すことになる。仕方が無いといった感じでそうする人がいる訳だが、仕事でも専門でもないことなら、自国語で新しいことを知りたいと思う人も多い。そういう人たちの為に翻訳がある筈が、逆に混乱を招くことがあるというのは何とも皮肉な気がする。これまでに紹介した本の中でもそんな程度の低いものがいくつかあったが、最近読んだものはそれらと比べてもかなり見劣りする。専門知識を持つ人が訳したことになっているが、どう読んでも意味を成さない言葉の羅列になっている。こういうものを読むのは辛ささえ感じられ、翻訳という作業について考えさせられてしまう。確かに誰かの書いたものを元にするとはいえ、別の言語で意味の通じるものにする作業には一から何かを書くことと同じ能力が必要なのだろうか。

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