パンチの独り言

(2006年12月25日〜12月31日)
(騒動、信教、復古、開心、内宇宙、変心、器)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月31日(日)−器

 身の丈という言葉を知っているだろうか。辞書によれば身長とあるのだが、そこから自分の大きさと転じて、技量とか器量といった類いの言葉のように使われる。身の丈に合うか合わないか、昔は重要なことと思われたようだが、自分の器の大きさを知ることなしに育ってきた人々には、何のことだか想像もつかないのではないか。
 そうは言っても、身の丈も成長と共に増してくるわけだから、いつまでも小さな服を着ているわけにはいかない。ここから生まれた言い回しが、器が人を作るということなのだろう。小さな器に入れておけば成長するはずもなく、期待を含めて大きな器に入れる、つまりは重要な役に就けることが、その人の能力を伸ばすという話だ。身の程知らずの人には当てはまるはずもない話だが、しかし、昔はそんなことに周囲が気を配り、本人の気づかぬところで画策していたのだろう。それに気づいたとき、本人の器はしっかり大きくなり、大地に根を張った大木となっているから、配慮の意味も理解できたわけだ。今の社会の状況は、こんな形を成してはいない。自分の大きさ、技量を知る機会を与えることもなく、ただ分けのわからない指標での評価ばかりが付きまとい、結果的に人間としての器を意識させることがない。社会の問題として捉えるのは簡単だが、それを構成する人間、それもそれぞれの人々の身近にいる人間の問題として捉えなければこの問題を解く手立ては見つかりそうにもない。若者達が何の根拠もなく、自分より周囲の人間の方が下であるという見方をするという分析が出ているが、そこで例として引かれている会話が興味深い。何かをやると宣言する友人に何をやるのかと問いかけると、返ってきた答えには何ら具体性がない。ごく当たり前の会話のようだが、この中途半端さが今の世の中の状況を如実に表している。昔なら、そこに追及の手が伸びるはずで、それによって自らの考えの甘さに気づかせられた。しかし、今はその手前で話は終わるのだ。これは何も友達同士の話だけでなく、親子、上下、あらゆる関係で、こんな状態が生まれている。どこか配慮の出し所が違ってしまったのではないだろうか。確かに厳しい指摘は互いを傷つける可能性を含むが、その手順を追わずに成長は望めない。その時その時の厳しさの基準は大きく異なるが、それぞれにある基準があるからこそ、器を作り上げることができるのではないか。実際には大した労力も要しないのに、こんなところで無駄な配慮、気遣いをする。そんな中で健全な人間関係も、精神力も築けるはずがない。

* * * * * * * *

12月30日(土)−変心

 人の気持ちというのは理解し難い。自分も人な訳だから、当然他人からは理解されないわけだが、それにしても不思議に思えることが多い。そう思って考えてみると、この不思議さを感じ始めたのはそれほど昔でないことに気づく。実は、頑な人に対する感覚より、心変わりの激しい人に対する感覚から来ているもののようだ。
 あの人だったらこう考えるだろうと予測のできる人と付き合うのはそれほど難しくはない。誰だってそんなに単純ではないから、こちらの予測通りにならないことも多いが、それでも何となく理解できる部分がある。それに対して、誰か他人の意見に振り回されてばかりいる人の考えを予測することは難しい。目の前にいる人の心の中を覗く代わりに、世間に流れている噂に気を配る方がよほど確かなのかもしれない。こういう人の考えはいとも簡単に変わってしまうが、しかし、その一方で面と向かって議論をすると、何ともいえない雰囲気に嫌気がさしてくる。頑な人は自分の意見を押し通そうとしたとき、異論に対して自分で考えた反論をぶつけてくる。こういうやり取りの場合には、それに対して更に迎え撃てばいいわけで、比較的単純な応酬となる。考えることに関しては当然かなり力を入れなければいけないが、それでもやり取りが直接的だから複雑にならずに済むわけだ。それに対して、他人の意見に振り回される人は、自分の意見を押し通すと言っても、自分の中から出てきたわけではないから、表面的な議論までは上手く立ち回れたとしても、そのもととなる考えに話が及んだ時に様子がおかしくなる。こういう人々は所詮代弁者であり、聞いた話にしか理解が及ばず、それが出てきた経緯にまで頭が回らないからだ。何故、という問いへの対応に特に焦りが見られ、表面的な賛否だけに話をとどめようとする。結局そこだけが判断基準となっていて、話の根拠となる事柄にまで考えが及ばないからなのだろうが、それにしてもこういう人が増えるとどうにも相手をするのが億劫になる。自分自身の言葉より、他人の言葉の方を尊重するが、目の前の議論の相手には適用されない。何とも不可思議な状況だが、本人はいたって当たり前の顔をする。これじゃあ、理解しようとすること自体が間違いとするしかない。こんな人が増えてきて、更にそれを増長させているものに情報操作があるように思える。人気の上昇、下降が急激に起こるのもこの辺りに原因があるのではないか。ただ、だから情報はよくないとするのはおかしな話で、その受け手である人間の問題をもっと考えるべきだと思う。まあ、国民が操作しやすいほど楽には違いないのだが、一部の人にとっては。

* * * * * * * *

12月29日(金)−内宇宙

 脳の働きを探っている研究者がいるという。探究とか研究といった時には、その目的を重視する人もいるけれど、その一方で単なる興味から進めている人も多いようだ。自然の事象を色々な方法で分析し、その本質を明らかにする。こんな感覚は興味本位でないと続かないし、何かを作り出そうとすると急に困難を伴うようになる。
 そういった興味の対象が自分の外にあるうちは大した問題にはならなかったのだが、それが自分の内なる世界に向けられると様子が大きく変わる。実感の湧かない人もいるだろうが、例えば、自分は何故こう考えるのかを自らに対して問い質す人はまずいないだろう。哲学という分野ではそんなことを論じることもあるが、それとて自らを対象とするより、もっと一般化した形での議論を好む傾向にある。それでも自分も含めた人間の心の動きや思考そのものに興味を持ち、それを解きほぐしていく人々はどんな気持ちになるのだろうか。自らを研究対象にするか、はたまた自分だけを除外して対象を定めるかによって、気分は大きく変わるように思えるが、その時その人にならない限り実感は湧かない。哲学は思い詰めるというか、ある事柄について考え続けることで、それまでにはない考え方を導入する学問なのだろうから、一般の人々にとっての理解の及ばない範囲にある。しかし、最近の科学では一般の人々にもわかる形で伝え広めることが重要視され、それがどんな対象にしてもその基本姿勢は変わらない。そうなると、自分たちの脳の中でどんなことが起きて、それがどんな形で言葉で表現できるものになるのかについても、何らかの解説を施そうとするに違いない。こんな研究が更に進み、それぞれの人間の頭の中で考えていることが順を追って説明されるようになったら、さてどんな気分になるのだろう。それを知りたいと思う人がいる一方で、そんなことはどうでもいいだけでなく、更に進めて知らされたくないと思う人もいるのではないか。それまでの周囲で起きていることの科学的な解明に比べると、内なる世界の探究は少々事情が異なるもののように思える。名画を観て美しいと思うのは何故かとか、名曲を聴いて素晴らしいと思うのは何故かとか、その解説に根拠となるものを提示することは今でも行われているが、それを更に進めて脳の中での活動からの解説を必要とするかは、自明なこととは思えない。最近の研究の進展から何か得体の知れない危うさが感じられるのは、そんなところからなのかもしれない。

* * * * * * * *

12月28日(木)−開心

 「見ざる言わざる聞かざる」、都合の悪いことはという意味に使う人も多いが、元々は子供にとっての大人の世界というところから来ているのだそうだ。見て見ぬ振りをするということが子供の世界でもしばしば起きているようだが、それはある意味子供達が大人達のやり方をそのまま真似していることなのではないだろうか。
 心の動きで入ってきたものを遮断するのが見て見ぬ振りなのだろうが、その一方で目の前で起きていることが全く見えないということもある。経験がないとわからないだろうが、景色を眺めている時にそこで起きた出来事に気づかないことがある。別の例として、人ごみで雑多な人の話し声が聞こえている時に、その中味がわからないことがある。でも、一人の話し声に集中すると不思議に内容が聞こえてくる。これもそんな一例なのだと思う。見ようと思ったものしか見えない、聴こうと思ったものしか聞こえない、そんな表現がなされるが、意識しないとどんなことなのか理解できないものだ。特に話し声がわかりやすいと思うが、同じような音が周囲から飛び込んでくるのに、ある人の声だけが明確に捉えられる。まるで篩いにかけているようなものだが、これと同じようなことが実は映像に関しても行われているようだ。音源からのある周波数の音だけの抽出は機械的にもある程度行えるのだが、映像の一部を抽出する作業は容易ではない。周波数と同じ手段としては色彩が使えそうだが、複雑な色彩が入り交じった背景では困難となる。その代わりに用いられるのは形で、あらかじめある形を記憶させ、それとの一致によって対象を抽出するという手法だ。現実に頭の中で行われているのはこれと似た作業であり、覚えていた形を当てはめて、その像のみに集中するわけである。音声についても、同じようなことが行われているようで、単純な周波数ではなくその組み合わせを使っているようだ。いずれにしても、これが見ようと思ったとか聴こうと思ったということに繋がるわけで、初めて見た、あるいは聞いたものについてはすぐには対応できない。それを記憶の中のものと照合させ、新たな組み合わせとして登録すると、途端に鮮明に見えたり、聞こえたりするわけだ。そういう意味で経験は重要であり、多彩なものに触れる機会を作ることは重要である。但し、これは何も特別な経験を積むことではなく、日々の生活において十分に満足できるものである。周囲を見渡せば、あらゆるものが変化し、一つとして固定されているものはない。にも拘らずこれが経験とならないのは、多分本人がそういう入力を断ち切っているからで、遮断が大きな要因になっているからだ。大人の世界の悪いものに触れない努力は重要かもしれないが、一方で自分だけの世界で満足する心は時に多くのものを失わせることに繋がるのではないだろうか。

* * * * * * * *

12月27日(水)−復古

 鉛筆がその勢いを盛り返しているらしい。昔は学校で使う筆記具といったら鉛筆と決まっていた。しかし、今やある特殊な入学試験での使用以外に使う場は無くなり、逆に専門店が登場して懐かしむ声が聞こえてくるなど、普段使いの筆記具といった感じは無くなった。そんな中で盛り返したのは意外な理由からだった。
 既にかなりの部数を売り上げているから知っている人が多いと思うが、鉛筆でなぞるという企画をもった本である。奥の細道から始まり、百人一首、徒然草と、懐かしい題名が連なる。二匹目を狙ったものが次々と登場するのは、企画そのものに価値があり、その対象となる作品には重きが置かれていないという意味だろうか。いずれにしても、かなりの部数を売り上げ、それと共に鉛筆の復権も図られているという。といっても、若い人々にとっては鉛筆よりもシャープペンとなるだろうから、彼らは太目の柔らかいシャープペンを使っているのではないだろうか。鉛筆のよさをいかに訴えたとしても、今後互いの地位が再び入れ替わるとは思えず、やはり便利さには勝てないのだと思う。ただ、中高年から老年に至る年齢層に対してはまた違った影響を及ぼしているという。単純に懐かしさから興味を持つ人もいるが、字を書くことから離れてしまった人がそこに戻ってきた時に、何か特別な感覚が蘇るらしい。そんなことに首を突っ込んだことがないので、そんなものかと思うのが精々だが、キーを叩くのとは全く違う感覚があることだけは確かだ。もっと、字を書く機会を増やせばいいと思うのだが、そのことより文字の上手下手が気になるらしく、そこに個性が表れない印刷文字を好む人が増えてしまった。そういう人たちにとって、なぞるだけで済む今回の企画はまさに急所を突いたようで、気楽に入るきっかけを与えることになった。次々に新しいものが導入され、最近は古いものだけでなく、少し新しいものへの関心を促すためか、島崎藤村の詩集などという企画も出てきた。そんなことを思いながら検索を繰り返していると、なぞるための原稿を印刷するためのサイトが登場していて、これまた驚かされた。これもただ単純にそういうソフトを作るだけでは不十分で、元となる作品が必要となる。それが青空文庫と呼ばれるもので、版権の切れた作品をネット上で誰でも使える状態にしている。誰かが鉛筆で実際に書いたものをもととするのか、それともある決まった字体のものをもととするのか、違いがあるかどうかはわからないが、そのうちそんな話が流れてくるのかもしれない。

* * * * * * * *

12月26日(火)−信教

 いじめの定義について書いたことがある。その中に落ちていたものがあるのかもしれないと思い始めた。それは数の論理とでも言おうか、多い少ないという関係のことだ。どんなに力が強い人間でも、多勢に無勢の状況にある時には相手をいじめているとは言わないのが最近の傾向ではないか。これが昔の弱い者いじめとの違いかもしれない。
 教室の中でのいじめはまさにこの範疇に当てはまる。ほとんどの場合、一人をその他大勢がからかうわけだからだ。それに対して、ハラスメントというあちらの方から入ってきたものは、少し事情が違うようだ。地位とか力を使ってする行為のことであり、精神的な圧力が重要な因子となる。ただ、社会的ないじめとなるとこういうハラスメントとは異なり、やはり数の論理が通用するだろう。ほとんど一つの人種で占められる国と違い、海の向こうは多人種国家である。その中でも数的な優位に立つ人種もあれば、社会的な役割分担においての優位を示す人種もある。そういう優位性が明確になっている社会では、それを打ち消すような作用を常に働かせる必要があるらしい。らしいと書いたのは、確かにそういう動きはあるのだが、果たしてどれだけの効果を狙ったものなのか、単なる見せかけがその中にどれくらい含まれるのかわからないからだ。兎に角そういう観点からの働きかけが重視され、人権問題と相俟って複雑な様相を呈している。この複雑さも、見かけはそうなのだが、現実には同じような動機に基づくわけで、その方向からすれば単純かもしれない。マイノリティと表される一連の考え方は、こういう事情から生まれたもののようで、それが歴然となる社会に暮らしたものにしか理解できない。となれば、まあ対岸の火事に過ぎないわけで、どうでもいいという考え方もある。ただ、今後の人口推移を考えると、いつまでも対岸と言っていられないという推測もあり、難しいところのようだ。最近、この手の話で飛び込んできたものに、この季節に使われる挨拶がある。Merry Christmas!というものだが、この考え方に基づくと、宗教性が強く差別的な要素があるらしい。そんな事情からか、最近はHappy Holidays!とするのが無難となっているのだそうだ。社会性を考えると、こういう配慮が人権侵害に繋がらないためには重要だというのだろう。その割には、海を渡って仏教やら神道やらが主体となる国では、何も考えずに祝っているものだ。それもこの国に限ったものでもなく、他の仏教国にも飛び火しており、西洋的な経済効果を狙うことからして、当然の結果と言えるのかもしれない。人の考えは何とも微妙なものだ。

* * * * * * * *

12月25日(月)−騒動

 一夜明けて、騒ぎは何処へやら、静かな朝を迎えた。何かにつけてのお祭り騒ぎが好きな人々は、こういう時も機会を逃さず、しっかり遊びまくるらしい。しかし、これも結局は誰かに乗せられているだけのことで、この日に大きな売り上げが保証される業界も多い。商売は所詮はそんなものと言ってしまえばそれまでだが。
 それにしても何故これほどに騒ぐのか、本来家族だけで静かに過ごす為のもののはずが、誤解がその辺りにまで進んでしまい、単なる馬鹿騒ぎと化しているところもある。自分さえよければという社会が世界的に築かれていると言われるようだが、まさにその典型ともいうべき現象がこういう時に起きるのだ。車社会となった中では少し大きな荷物を運ぶとなれば、当然の如く車で出かけねばならない。ついこの間始められた取り締まりが効果を示したかどうかはわからないが、元々その範囲外にある地方都市では、違法駐車の長蛇の列が作られていた。一時的なことだから目をつぶってくれ、という声が聞こえてきそうなハザードランプの列には、呆れるばかりだ。この時期必要なものといえば、元々はケーキだけだったはずが、ある時期からは海の向こうからやってきたサンタみたいな人形の飾られた店も大賑わいである。他の季節との違いがどれくらいなのか、想像することもできないが、兎に角車の数は尋常ではない。それほどまでして食べたいものなのか、この日でないと駄目なのか、問い質してみたくもなるが、無駄なことにも思える。ただ単にお祭り騒ぎに参加することに意義があるだけのことで、他とは違うことを好まない人々の狂想曲なのだ。もう一つこの季節に気になることといえば、庭に飾られた電飾だろうか。これまた競うようにその規模を増していくところもあり、それを見に来る人々の車が溢れている地域もあるという。飾る側も見る側も、自分たちの楽しみを果たしているだけなのだろうが、それにしてもこの騒がしさはどうだろう。これも異教徒たちのお祭りだからと言ってしまえばそれまでかもしれないが、海の向こうもにたような騒ぎで、信心の違いによるものとは言い難い。騒ぎが過ぎ去り、さて次の騒ぎはと思っているうちに、いつの間にか新しい年がやってくる。

(since 2002/4/3)