何が起きても他人事のように感じる人がいる。自分の身に降ってこない限り、災難も所詮は他人事であり、気にする必要は無い。事故や事件の発生確率を考えると、まず自分のところに降ってくることは無く、他人事で押し通すことも十分に可能だ。ただ、本当に小さな率でもゼロでない限り、いつかは降ってくるという意味なのだが。
何でも他人事と感じること自体は大きな問題にはならないのかもしれない。たまに、助けを乞われても無視したために事件に巻き込まれる人はいるが、それとて常に起こることではない。個人主義が台頭するにつれて、こういう人が目立ち始めたと思うが、それでも社会全体としてみれば大した数ではないように思える。ただ、現実には目立たぬように言動に気を配り、行動にも配慮を怠らない人が多いだろうから、表向きの数字と潜在的な数字とにはかなりの開きがあるのではないだろうか。そんなことを感じさせるのは、最近頻発する事件に対する大衆の反応であり、以前なら事件の形態は社会情勢を反映させるものという解釈が通用したのに、それが通じなくなったことである。例えば、凶悪事件が起きたとしても、それらは全て他人事であり、何処か遠くの出来事と受け取られる。近くで発生した途端に、反応が変わるように思えるが、それとても一時的なものであり、すぐに忘却の彼方に飛んでいく。近所の人々の反応に現れているものが、実は当事者にも見られていて、加害者が事件そのものを他人事のように語る話は、まさにその典型なのではないだろうか。自分を中心とした物語において、何かしらの不都合が生じたとしても、自分はそれに関わってはいないと結論づける展開は、何処を発端として作り出されたものなのか、全く想像できないが、今社会で頻発する事件の多くは、そういう考え方をする人々が関与したもののように思える。悪事を働いたり、凶行に及ぶ自分を見つめているもう一人の自分がいて、いつの間にか、もう一人の自分の方に気持ちが移ってしまう。そうすることによって、自らが犯した罪は何処か別のところに葬られ、新しい自分は無垢な存在として生きながらえるわけだ。以前ならば人格分離の一種と扱われたはずの障害が、今や其処彼処でごく普通の生活を営んでいるとしたら、流石に恐ろしい気がしてくる。病気でないものが病気と扱われる一方で、明らかな異常性が別の何かによって覆い隠される。そういう集団の中で、社会を映す鏡とはまるで異次元の世界を覗くようなものなのかもしれない。
詐欺事件が頻発していると言われる。その手口も紹介され、巧みな話術を操るとの説明が入るが、大したことは無い。緊急を知ったときの心理を利用すると言われるから、その場に立たねばわからないのだろうが、それにしてもその時点から事を起こすまでの時間を考えれば、冷静さを取り戻す暇は十分にあるように思える。
いかにも高級な技術の紹介のように扱われるが、現実にはかなり程度の低い騙りであり、それに騙される方が悪いと言いたくもなる。絵画の貸し出しを謳った詐欺の被害者は、以前別の詐欺に引っかかった人ばかりだという報道には、呆れるばかりだった。そういう資質を持った人々が常に被害者となるとしたら、次々に現れる加害者を捕まえるだけでは何かが足りないと思えてくる。事件になった話は色々な意味から注目されるから、そこに騙し騙される関係があることは十分に理解されるようだが、それ以外にも現代人の抱える乗せられやすさという問題を表している話はいくらでもある。例えば、健康に良い食品と紹介されたものが数日後には店頭から姿を消す話や紹介された方法の説明が不十分で被害が続出する話などはそのいい例だろう。痩せたいとか健康でありたいとか、人の夢も際限のないものだが、兎に角口車に乗せられているという表現が当てはまらないわけでもない。そんな事を紹介する話はマスメディアでは日常的に流されているわけで、中には明らかに間違いと思えるものもあり、鵜呑みにすることの危険性を孕んでいる。にも拘らず、走り回る人の数が減ることはなく、その話が注目されるとその数は更に増すことになる。自分の考えがないだけでなく、他人の話を鵜呑みにする人の数が増えることは、大衆を操作することによって利益を上げる人々にとってはまさに好都合と言えるだろう。そんな世の中で、人を騙して何が悪いと開き直る人がいたとして、更に重い罰を与えることに意味があるだろうか。こんな事件は日常的に起きているわけで、それに触れる機会も多いはずだが、被害者の数は減らない。これは、そこにある傲慢な考えがあるからなのかもしれない。つまり、人を出し抜く手段を待ち望む一方で、自分だけは違うという思い込みだ。
国の支えが期待できないからという話で、老後の不安が大きくなるばかりだ。そこで話題になるのは、自分なりに築き上げてきた資産をどう活用するかということらしい。それに加えて、団塊の世代という何かにつけて問題とされる人々の動向が気になるらしく、彼らを対象とする資産運用広告が急増している。
これから定年を迎える世代を対象とすると、当然手持ちの資産をどう運用するかが問題となるから、そちらに向けての広報活動が盛んになるのは当たり前だが、その一方で、もっと長い目で見た市場開拓にも力が入れられているようだ。海の向こうでは、初等教育課程からお金を中心とした社会の仕組みの理解をすすめているという話があるが、こちら側でもそろそろその必要性が認識され、生活に密着した知識という形で学校教育に採り入れられているようだ。確かに、将来の社会を支える人々を育てるためには、そういう知識を身に付けさせることも重要なのだろう。ただ、そういう動きを観察していると、何処かに大きな偏りがあるような気がするのは何故だろうか。拝金主義というのは言い過ぎだろうが、この頃の社会の趨勢は金の有る無しが人の価値を決めるように思われているところもある。そんな中で、こういう動きが出ればどんなことになるのか、あまり想像したくない気もする。にも拘らず、そちらに向けて大きな動きがあるようで、社会勉強という意味も含まれることもあって、学校は歓迎しているように見える。しかし、本当にこれでいいのだろうか。必要な知識の一つであることは確かなのだろうが、それが積み上げられるべき基礎について、現状は整えられていると言えるのだろうか。気づいていない人もいるようだが、このところ問題視されている人格の歪みのようなものは、この辺りの事情にも関係しているように思える。つまり、道具の使い方ばかりを教え、それを使う場面やそれを決めるための判断材料を教えていない気がするのである。そのうち身に付いてくるはず、という期待が裏切られているのは現状を見れば明らかであり、そこに欠けているものが何かを考えないままで今に至っていることも明らかだ。それなのに、また新しい道具を与えるだけのことが行われるのは、先行きの見通しに不安を抱かせる。
何か特殊な集団の犯行だと思われていたものが、一般人によるものだとわかったとき、ちょっとびっくりする。それだけ社会が荒んできたのだという点もあるが、もう一つ肝心なのは限られた人にしか得られない知識を共有できる社会が形成されたということだ。多くの人にとっては便利な知恵の泉が、実は悪事の溜り場になっているとは。
そんな荒んだ世の中で信用できるのは自分しかいない、と思う人も多くなった。しかし、社会の中で生きるためには他人との関わりを避けることもできず、最低限の範囲に壁を築こうとする人もいる。以前ならばそのような行為に出る人は変わり者と扱われるだけだったのが、ごく一般の人だったり、社会的に地位のある人だったりするから、これまた驚かされる。来るものは拒まずというやり方が通用しなくなったのは、人に対する信用が低くなっただけでなく、現実にそんな事件が頻発するからなのだが、だからといってすぐに制限をかけるという考えに至るのもおかしなものだろう。個人の自由な生活を守る権利というものが強く主張されるようになってから、こんな考え方が当たり前のように扱われているが、自分の自由のために他人の権利を侵害するとしたら、明らかな間違いである。権利主張ばかりが罷り通る世の中になると、結局権利の優劣を決める作業ばかりが重視され、お互いに相手を気遣うという心は失われるばかりだ。そんな中で制限を増やす努力ばかりする人々にとっては、自らの生活を守ることが最優先なのだろうが、これが巡り巡って自分の所に戻ってきたとき、その息苦しさに恐怖を感じてしまうのではないだろうか。過剰防衛とは少し違った感覚がこれほど全体に浸透し始めると、歯止めをかける手立ては失われるばかりで、誰もが互いに敵を見るような目で見つめ合う。そんな世の中ができるという空想小説は今までに作られていないと思うが、現実は小説などよりも奇怪なものかもしれぬ。気づかぬうちに他人の権利を侵害するという結末を心配するよりも、権利の主張より尊重を優先するように気をつける方が、心安らぐ社会を作ることに繋がるのではないだろうか。
人を文系か理系かで分けようとする動きは昔から変わっていない。それとは別に、科学と芸術を分けようとする人も多い。分類は整理のために重要な手段とはいえ、二極化を前提としたものに抵抗感を抱く人も多いはずだ。人それぞれの能力を比べたとき、其処に明らかな溝ができるとしたら、変だと思わないのだろうか。
こういった動きは最近特に目立つようになっているように感じられる。というのも、好き嫌いという区別ではない、何か別の要因が文系理系の分類に使われるようになったからだろう。例えば、大学への進路を考える時、以前ならば得手不得手かあるいは好き嫌いが決定要因となったはずだが、この頃はそれに加えて、というより、それより大きな影響を持つ要素として、就職の有利不利や拘束時間の長短が挙げられる。本来の高等教育の場としての役割が薄れてきたからなのだろうが、兎に角次の段階への道としての選択が重要視されるわけだ。こういう具合になってくると、論理を重視する教科は不利にならざるを得ない。自分の考えを出す前に、正しい答えを知らねばならず、そういう拘束に抵抗を示す人々は、面倒なことを避け、自分なりの答えを容認する分野を選ぼうとする。その上、理系の学部に進学すれば、その分野に縛られた進路しか許されず、更には、入社後の昇進の道までもが狭まるように見える。どうにもならない制限を自ら受け入れるよりは、もっと自由な道を選びたくなるのも無理はない。こういう評判が立ち、努力の割には報われないとなれば、安易な道を選び、楽な人生の選択を心がける人々の進む道は決まってしまう。では、これが現実かどうかと問われた時、人は何と答えるのだろう。結局は人によると答えるのが精々であり、多くの人は大学への進路での選択が必ずしも人生を決定づけるわけではないと言うしかないだろう。そのはずなのだが、どうも世の中で罷り通っているのは、そういう一般解ではないようだ。こんな流れができてから、教科としての理科を嫌う人が増えているという。面倒だからということもあるが、上に書いたように論理の理解を前提とすることが難度を増しているのではないか。できない人々にとっては非常な困難を伴うものらしく、学校との繋がりが無くなった後でも、その後遺症は残るようだ。それが更に次の世代に、と受け継がれれば、今の状況は簡単にできてしまう。これが原因と断定はできないが、少しは関係があるのではないだろうか。といって、どういう解決策があるのかについては、何も答えはないのだが。
同姓同名の人に出会ったことがあるだろうか。以前ならば直接接する以外にはそんな機会は無かったのだが、最近は便利なものができてしまった。ちょっと検索するだけで、同じ名前の持ち主がいるかどうかはすぐに判る。ただ、誰でも彼でも掲載されているわけではないから、ある程度名が売れないといけないのだが。
同じ名前の人がいて困った経験は、自分自身のものとしては無いけれども、知り合いの話では一つある。同じ業界で、同じ土地に住んで、という具合に偶然なってしまったとき、大きな混乱が生じた。郵便物は国内のものは正確な住所が書いてあるから問題ないが、海外からのものは混同されたそうだ。その後、それぞれに転居を繰り返し、今は別の所に住んで、別の所属となっているが、多分混乱は続いているだろう。同じくらいの年齢で、同じ業界となれば、転職を繰り返すたびにどちらの話かと思われるからだ。人の名前は色々あり、それぞれに親や親族の思いが込められている。しかし、だからといって他の誰も同じ名を名乗るものは無いかといえば、そんなことはないわけだ。こういう混乱を避けるために、海の向こうではある方法が使われている。社会保険番号なるものが使われ、全ての成人にそれがあてがわれるわけだ。たとえ地球上の全ての人間を対象としても、精々10桁もあれば十分であり、それこそクレジットカードの番号は十分にその能力があるだろう。そんなやり方をこの国でも採用しようとする動きが随分昔だが起きたことがある。その時の国民の反応は冷淡なもので、親がつけてくれた名前があるのに番号で呼ばれるなんて、真っ平御免というものだった。議論の核心は記憶に無いが、そのような意見も出されていた。その後、かなりの変遷を経て、またそんな状況が生まれている。何処かに不都合があり、何処かに不利益があるのだろうが、こういう方式に異論を唱える人々がいて、仕組みの構築が侭ならない。合理性が全てではないことは明らかだが、混同されて迷惑を被った人々はそれから逃れられるのならばと思うだろう。本来の意図は其処に無いのだが、この話が議論されるたびに下らない感情論を展開する人々を見ていると、呆れてしまうのだ。そんなことをするまでもなく、貴方の情報は全て握られているというのに。
人々の感覚がずれ始めていると思ったのは、さていつのことだったか。こちらが外れてしまったのかと思いつつ、よくよく眺め直してみたら、相手が脇道に逸れているのがわかる、そんなことが何度か起きた。自分で考えたことを曲げないのならまだしも、単なる請け売りを恭しく掲げるのみで、自らの判断ミスを認めないから困る。
そんなことが頻繁に起きるようになってみて、何処にその源があるのかと探してみたら、なんと目の前にあったのだ。画面の向こうで平然と前言を翻す識者、その場限りの論で逃れようとする人々、そんな人が奉られていた。選ばれし者と信じて疑わない人々にとって、こういう行動はどう映るのか、違う考えを持つ者には想像がつかない。しかし、その後の経過を考えてみると、それらの行動が多くの人々に影響を与えたことがわかる。無責任な発言を繰り返すことは問題ではなく、その場で強がりを続けることが重要であり、兎に角自分を本物よりも大きく見せることに終始する。それなりの立場にある人でさえ、そんなことを平気で繰り返すのだから、社会的な地位のない自分なら全く問題なしと映ったらしい。これを映像を送る側の責任にするのが最近の風潮だが、実際にはその前にそんな馬鹿げた行為に対して違和感を覚えない心の持ち主を育て上げた方に責任がある。その循環がある期間続いてしまうと、さて何処から手をつけていいのか、さっぱりわからない状態になる。今の状況はまさにそんな所で、手のつけようがないことを言い訳にする人が出てくるくらいだ。しかし、言い訳は所詮方便であり、手の届く所から始めればいいだけのこと、そんなことも忘れるくらい惚けてしまったらしい。こんなことを久しぶりに思ったきっかけは、ある番組での議論にある。ある大臣の発言の真意が伝えられなかったことに、ご意見番が苦言を示し、それに対して、ついこの間まで文句を言われる側にいた識者があっさりと認めたからだ。当然ながら、司会者からは反論もなく、番組の過激さは影を潜めてしまった。この一連の流れに、現代の情報の送り手が抱える大きな問題がある。批判に耳を傾けることなく、他人事のように振る舞い続け、情報操作に精を出すばかりなのだ。情報の歪曲は見破りやすいが、取捨は判別しにくい。その場にいない限りわからないからだ。早晩、自分で自分の首を絞めることになるはずだが。