パンチの独り言

(2007年1月15日〜1月21日)
(優柔、声援、富国、良田、作為、転嫁、核心)



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1月21日(日)−核心

 他人の話を信じるか、信じないか、と聞かれて、すぐに返答する人はいないと思う。しかし、世の中には他人の話を鵜呑みにして、惑わされる人が沢山いる。こういう人たちの多くは、最初の質問をぶつけられた時、相手の話を聞いてから決めると答えるはずだ。にも拘らず、結果としては鵜呑みにすることになる。何処が違うのだろう。
 おそらく、誰でも相手を信用するかどうかは、その話の具合によると思っているだろう。もしそうならば、話の内容を吟味し、それによって判断を下すはずだ。しかし、現実にはそうなっていないことの方が多いようだ。つまり、内容を吟味しようと構えてみたものの、相手の話の調子に乗せられて、いつの間にか判断することさえ忘れてしまう人がいる。長い付き合いで信頼関係にある人が相手ならば、そんな成り行きも十分納得できるが、突然訪ねてきた人や突然かかってきた電話を相手に、そうなってしまう人がいるとしたら、どうかと思う人の方が多いのではないだろうか。しかし、そう思った人の何人かは同じ轍を踏むのである。そうでなければ、詐欺事件の被害者がこれほど多くなるはずもないし、これだけ多くの報道がなされているのに気がつかない人がいるはずもない。要するに、人を疑ってはいけないとか、人を助けねばならないとか、そういった教えに従っているだけで、そこに疑いを入れ込む気がないのである。この現象の面白さは、別のところにも現れている。何の学習にもならなかった報道に対して、実はその話を鵜呑みにしており、そんなことに引っかかるのはおかしいという話にも頷いているのだ。反対側から眺めると、報道それ自体にも信頼をおいているのである。信じるかどうかは、相手の話を聞いてから決めると言っているにも関わらず、電波や紙面に載ったものは鵜呑みにするわけだ。どうもその辺りに問題の元凶があるような気もしてくる。捏造番組のどの部分が捏造なのかを明確に伝えない報道に満足し、騙した人間を糾弾する。この現象から、問題点を捉えようとする気持ちのなさが伝わってくる気がする。同じような現象は老舗の食品会社についての報道にも現れている。事実を隠蔽したことを追求するばかりで、発端となった行為に対する話はまったく聞こえてこない。ここまで読んできて、気がつく人もいるだろうが、これらの話の元凶は伝える側にあるわけだ。内容を吟味することなく、ただ鵜呑みにして伝えるのみで、自分自身がやらねばならないことを忘れている。悪者を作ったら、とことんそれを攻撃するだけであり、最後には何が悪かったのかを忘れるほどなのではないか。どんどん本筋から外れた議論が高まり、馬鹿げた批判が噴出する。そんな話を鵜呑みにするのでは、騙す奴だけでなく、騙された奴も悪いと言いたくなる。

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1月20日(土)−転嫁

 動物には、集団生活を営むものとそうでないものがいる。蟻や蜜蜂は前者の代表として必ず取り上げられ、その他の昆虫の多くは後者である。蟻などのように堅固な階級社会を作れば、集団とならざるを得ないが、それをもう少し広げて共同生活を送るものとすると、多くの動物がその範疇に含まれるだろう。
 猿もその一つだろうが、彼らの持つ階級は蟻などのようにはじめから決まったものではなく、競争によって勝ち取ったものである。人間もそれとよく似た形をとるが、集団生活の大きさがそれぞれにかなり異なり、簡単にそう分類するのが躊躇われる。中には、自分は人と付き合うより一人だけで生きる方がいいと言い出す人もいて、それは一代限りのことで、長続きしないものという意識はない。ただ、集団に対する依存度が人によってかなり違うのは、どうもありそうなことのようだ。社会を考える時、どちらの順に話を始めるかで、それに対する意識の違いがわかるかもしれない。より大きな集団から始めて、それらを構成する個人に至るという考え方と、個人から始めて、徐々にその集まりを大きくするという考え方では、その基礎となるものに対する認識が違うのではないだろうか。依存という言葉は好まれないが、社会を大きく捉える人々は何かにつけてそちらを重視する。それを依存と表現すると曲解と言われそうだが、そういう人々の中に社会を重視するのではなく、社会に全ての責任を負わせようとする人がいるのだ。これは、個人であればその顔もはっきりし、特定できる存在となるのに対し、それらが沢山集まった社会を対象とすると、個々の顔は見えなくなり、何となくぼんやりとした存在になるからだろう。そうすることで、自分の立場を明確にせず、何処か遠くに向かって文句を叫ぶ構図を作っている。こういう考え方を否定するわけではないが、何事もなく平穏無事に進んでいる時にはどうということもない話が、いざ問題が出始めると特定できないものに対して注文をつけたとしても、埒があかないことが多くなる。いかにも、自分達の責任だけを回避し、何処か別のところに責任を押し付けているようにしか思えないのだ。確かに、今現実に起きている問題を解決するためには、社会全体による措置も必要となるが、そこに至る過程を考えた時、個人の問題として取り上げる必要は大いにあるように感じられる。何でも社会の責任とすれば、個人を攻撃することもなくなり、それは自分が攻撃される機会も無くす。そこまで考えて行動に出ている人がいるかどうかはわからないが、兎に角そういう形で進めれば波風が立たないわけだ。しかし、それはただ逃げているだけであり、自分の周囲に問題が起きなければいいという独り善がりの考え方に過ぎない。もっと、目の前に起こりつつある問題を真剣に捉えて、一つ一つに対処する気持ちを持つべきなのではないだろうか。見て見ぬ振りから、社会の責任へ移るのでは、あまりにも情けないではないか。

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1月19日(金)−作為

 言葉は人それぞれに用法を変え、意味を変えることがある。同じ言葉でも、話す人と聞く人で意味が違うことも多いわけだ。いいえ、という受け答えにしても、断る意味で使う人とそうでない人がいるという。そんなところから、これを言われた時の受け取り方が人によって違ってくるわけだ。当然、発した人の意図とは違うこともある。
 そんな言葉を操って、人を乗せるのが巧みな人がいる。言葉巧みに詐欺を働く人もいれば、言葉巧みに指導する人もいる。同じ巧みさでも、使いようによって褒められることもあれば、叱られることもあるわけだ。ただ、ここでも言葉の伝わり方が問題になる。発した人の意図と受け取った人の解釈が同じであればいいが、違ってくると大きな誤解を産むからだ。そういう意味で言葉というのは絶対的なものではなく、背景や心理によって意味が左右される。その点、数字ならば誤解されることは少ない。数字は大小が明確で、数えられるから間違えることも無い。しかし、この絶対性を利用して人を操る人がいる。会話においても書き物においても、数字が出てくるとそれだけ信頼性が増すと思う人が多い。多い少ないと表現するのは、何処に基準を置くかで誤解を招く場合があるが、数字で示せば少なくとも誤解はされない。しかし、ここでも多いか少ないかの判断をする場合、人それぞれに基準が異なるから受け取られ方は違ってくる。実は、ここに大きな問題があるはずだが、多くの人は数字を聞いた時点で安心してしまう。数字そのものでもこういう間違いが起きるが、それ以上に大きな問題は数字の選び方にある。例えば調査を実施したとしよう。それによって多種類の項目の数値が現れたとき、そのうちのどれを選ぶかは人によることになる。どんな目的で、どんな話をするかによって選び方は異なり、人によっては場に応じて選択肢を変えることさえあるわけだ。それは当たり前のことで、話題によって選ばれるべき数値は変わるはずと思うかもしれないが、それらの数値がたまたま正反対の意味を含んでいたとしたらどうだろうか。それぞれの話の都合に応じて、選ばれる数値が変わり、話の筋が通るわけだが、そこには明らかな作為が存在する。そう考えてくると、元々調査項目の選択の段階で既に作為はあり、対象の絞り込みでも同じことが行われる。所詮はそういったものの上に立つはずの数字が、数字そのものの性質から簡単に受け入れられるわけだ。ここに大きな矛盾があるように思うがどうだろう。そういえば、世論調査での対象の選び方に電話番号の抽出法が紹介されていたが、あれも何やら怪しげに思える。人口分布と番号割当の問題を解決しているように思えないからだ。地域性が際立つ問題では、これが大きく影響するはずなのだが。

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1月18日(木)−良田

 ここでは何度も書いてきたことだが、景気は確実に良くなっていると思う。しかし、ついこの間まで悪かったことを理由に、それを皆に分け与えようとしない人間が沢山いることは残念だ。確かに、備えあれば憂いなしなのだが、その備えをせずに浮かれた人々が、今は他の連中に備えを強いているのは明らかにおかしい。
 こういう状態になるのは、人間が反省するからだと説明する人がいるが、彼らの考え方には大きな誤りがある。同じ人間が反省する場合、時代の流れと共に立場に変化が現れ、同じ状態にあるとは言えないからだ。当たり前のことだから見過ごしてしまうが、企業で言えば管理職かどうかの違いと言えばわかりやすいかもしれない。管理される側としてお祭り騒ぎに参加していた人間が、管理する側に回ってそれを規制する。反省したからだと述べる人がいるが、どちらにしても自分達の立場が守られていることに気がつかないのだろうか。そういう形で自分の地位を守る人々に対して、こんなに軽率な形で擁護するのは明らかな間違いだと思う。そういう反省は現実には行われておらず、自分本位の考え方が貫かれているだけなのだ。その意味では、ここに過去の過ちに対する反省は存在しないと言うべきだろう。これとは別の形の反省ならばちゃんと存在する。例えば、ここ数年回復が急激な就職状況では、明らかに求人数が増え、お祭り騒ぎの時代に匹敵するほどになっている。しかし、そこには大きな差が歴然と設けられており、あの時代ならば踊りの輪に参加するだけでよかったものが、それでは済まない状況になっている。同じ青田買いでも、田んぼの状態を見極めようとする動きがあるからだ。狂乱の時代に入社した人々の惨憺たる状況が露見する中で、同じ誤りを繰り返そうとする人はおらず、曲がりなりにも人物評価を試みているわけだ。この現象は明らかな反省の下に行われており、遊び呆けた学生達に対する厳しい状況は相変わらず続いている。その状況を目の当たりにしているにも関わらず、学生を送り出す側にある所には、逆の立場の騒ぎが蔓延しているようだ。子供の数が減少するのに従って、学校間の奪い合いの状況は激しさを増し、あたかもバブル期の企業のような様相を呈している。募集定員を埋めるために、あの手この手を駆使し、様々な基準を設けることで数を確保することに躍起になっているのだ。そこにあるのは当時の青田買いとよく似た現象であり、その後の展開は容易に予測できる。にも拘らず、自分達だけは違うという幻想を頼りに、東奔西走、数の確保に必死なのだそうだ。これまでも学力低下が問題視されていたのに、それを無視するようなやり方は自分の首を絞める行為に思えてならない。社会全体としては必要悪のような扱いなのかもしれないが、これ以上の歪みを望む人はいないのではないだろうか。

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1月17日(水)−富国

 誰でも何も心配すること無く生活を送りたいと願うだろう。その上、何不自由無い生活ができれば、幸せな一生が送れると思うのではないだろうか。こういう豊かな生活を思い描く時、多くの人は物質的な豊かさを思い浮かべる。苦もなくモノが手に入る環境が重要であり、それさえあれば心配することも無いと言う。
 無い物ねだりと言ってしまえばそれまでだろうが、こんな夢を描いている人もいるのではないだろうか。そんな考え方が世の中に広がり始めていた頃、外国にそういうところがあるという紹介があり、夢の国のような扱いがされていた。現代社会を支えるものは人の力とともにエネルギーであると言われる。それに加えて、製品の原料として使うこともできる石油は、今の人の生活を支えるのに欠くことのできない存在である。その一方で、それを供給できる国は限られており、その不均衡が経済の動向を左右することも珍しくない。その特殊性を利用して優位に立った国の幾つかは、神から授かったものを売ることで得た利益の一部を国民に分け与える選択をした。一部の個人的なものを除いて、社会の中での活動のほとんどを国の予算で賄うことにし、個人負担を無くすだけでなく、本来国民の義務であるはずの納税も無くしてしまった。この知らせが届いた頃は、こちらでは増税に苦しみつつ、豊かな生活を切望している時であり、そんな国があるのかと羨ましく思った人もいただろう。こんな国で育った人々は、物質的な豊かさを基礎にして、精神的な豊かさも手に入れるに違いないと思った人がどれくらいいたのかわからないが、結果は正反対に向かってしまったようだ。人の欲望は常に上を目指すものであり、既に手に入れたものはそれが施されたものかどうかに関わらず、あって当然のものとなる。上を目指すための原動力がそこにあるはずだが、実際には欲望という心の問題だけが残り、力の源となるべき心の問題の方は、何処かに忘れ去られてしまうようだ。大した努力もせずに、より高い地位を手に入れようとか、より高い収入を得ようとする人が増えるだけでなく、本来叱咤激励をするべき周囲の人間までもが、その考えに同調する。豊かな生活がもたらしたものは、実際には貧しい心だけだったのかと思えるほどで、あろう事かまともな職に就いていない人の数が増加した。国の経済が逼迫しているわけではなく、このままの生活は送れるのだが、ここまで来ると先行きへの不安が増大する。職業訓練、教育に力を注ぎ、何とかまともな人間を形成しようと動き出した国に将来があるかどうかはわからないが、少し事情が違うとはいえ、これとよく似た現象がこの国にも起きていることに気づいている人はどれくらいいるのだろう。

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1月16日(火)−声援

 ある病気の人にかけてはいけない言葉があるという。世間では広く知られているようだが、その真偽のほどはわからない。関わる医者の立場からの言葉として紹介されているようだが、毎日接する人と診察時にしか接しない人が同じ立場にあるとは考えにくい。極端な言い方をすれば、中途半端なら関わるなという意味だろう。
 そんな言葉が広く使われている理由は何故だろう。人それぞれが持つ能力には自ずと限界があり、その範囲内でしか動けないと思われている。しかし、やるべき仕事はその範囲の内にあるか外にあるかはっきりせず、取り組んでいる最中は兎に角やるしかない状態になる。そんな時、限界を超えてでもやり遂げるべきという意味で使われる言葉なのではないか。英語にはこれと同じ表現はなく、範囲内での最善を尽くすという表現が精々であるようだ。冷静に自己診断をして、その中で仕事を選択し、こなすという習慣は、こんなところから来ているのかもしれない。それに対して、こちらでは少々事情が違ってくる。自己診断も、他人の評価も、中途半端にしかできず、その中で自らのやるべき業務を決めたり、割り当てたりするわけだから、無理となることも多い。しかし、そこにあるべき自己責任は存在せず、その代わりに限界を超えるほど粘ったことを評価する姿勢のみが表に現れる。そんな背景から、この言葉が頻繁に使われるようになり、声をかける方だけでなく、その業務に携わる本人でさえ口にするようになる。ある病気の人も、他人からその言葉をかけられた時に、自分は既にそうしているのにと思い、悩みが深くなるのだという。本来からすれば、目標は達成されてこそのものであり、そこに至る過程を評価するべきものではない。しかし、どうもそんな風潮が蔓延しているようで、どのくらい力を注いだかが評価の対象となる。そんな目標は本来設定されるべきではなく、順次達成可能なところに設定すべきものなのではないか。もし、他人がそういう目標を押し付けたのなら、そこに問題があるわけだし、自分自身で設定するのなら、自己評価が不十分ということになる。その辺りの評価こそが人物評価での重要点となるはずだが、現状はそうなっていないようだ。そうすることも様々な事情から難しく、そこから生まれたのがあの掛け声なのではないだろうか。更にその症状を悪くしているのが、自分の評価にそれを使うようになったことで、それは結果的にあの病気への道筋を作ることになったのかもしれない。

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1月15日(月)−優柔

 世の中が狂ってしまったと思う人がいるかもしれない。しかし、狂っているのはあくまでも人間であり、その数が増すことによって社会全体に歪みが出るだけのことだ。個人と社会の関係が曖昧になったのも、こういう考えが出てくる原因の一つかもしれないが、ではどうしてそんな曖昧さが目立つようになったのか、明らかではない。
 心の異常さを論じても、一つ一つの違いの大きさに驚かされるだけである。逆に見れば、元々人間にはそういう資質があり、集団で生きることによってそれらの特殊性が鎮められるのかもしれない。そう考えると、今の異常さを産み出す原因の一つに思い当たる。個人と社会の間の曖昧な関係が目立ち始めた頃から、人と人の間の関係に変化が現れた。はじめは小さく、一部に限られていた変化が、個人を尊重するという動きに後押しされ、いつの間にか大勢を占めるようになった。そうなると、人様の生活に立ち入ることは許されなくなり、互いの距離が一気に広がるようになる。まるで角をもっていた石ころが、川を下るに従い、他の石と擦れ合うことによって丸くなるように、人間関係が構築されるに従って、それぞれの持つ特殊性が影を潜めていたのが、擦れ合う機会が無くなって、それぞれの持つ異常さが放置されるようになってしまったのだ。こうなると距離を縮めることは難しくなり、結果的に極端なところに到達するまで口さえ出せなくなる。その代わり、社会性に反する事を起こしてしまえば罰せられるわけで、そこでの厳しさが普段のいい加減さとは反対に増すことになる。おそらく、その辺りに原因があるのだろうが、最近の若者達は外れた人々に対して厳しく対処するようだ。これを眺めて心配する大人達には、社会の歪みの結果として外れてしまった人々には優しくすべきと主張する人々がいるが、実際には的外れな主張にしか思えない。元々、距離をおいてしまったことに起因する話に、優しさを持ち出すこと自体、更に遠くに追いやることにしかならない。自分達がその原因を作ったことに気づかず、ただ闇雲に同じ間違いを繰り返すのは、本質を見失った世代の横暴さに過ぎないのではないだろうか。厳しさと優しさの取り違えを修正することなしには、この異常さを消し去ることは難しいだろう。

(since 2002/4/3)