パンチの独り言

(2007年1月22日〜1月28日)
(高潔、情意、水準、覗き、苦悩、目撃、極論)



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1月28日(日)−極論

 子供にとって一番身近な人間は誰だろう。家庭事情によることもあるだろうが、多くの場合は母親がそうなる。平等とか共同とか、様々な言葉が飛び交い、役割分担に対する考え方に変化が訪れたとき、この辺りの事情も変わり始めた。これはいかにも重要な考え方に基づくように思われているが、果たしてその通りなのだろうか。
 機会均等とか、共同参画とか、言葉の意味は兎も角、お題目が次々と登場する。それに乗っかるように変革推進への意見が出され、様々な方策が講じられてきた。その結果が現状に現れているわけで、これはある意味社会の流れの当然の帰結と言えるだろう。しかし、現状を見て、憂えている人が沢山いるのは何故だろうか。熟慮された仕組みが導入され、あらゆる意味で非の打ち所がないと思われた改革にこんな綻びが露になるのは、何処に問題があったのかと悩む人もいるだろう。実はそこに存在していなければならない大切な人に関する思慮が欠けていたのである。それは母親でも父親でもなく、子供自身に対する配慮である。そんなはずはない、子供の世話を誰がするのかをきちんと決めることで、その配慮は為されていたはずだ、という意見が返ってくるかもしれないが、この考え方は正しいのだろうか。世話をする人間を定めれば、それで子供の世話はできると思う人はどれほどいるのだろうか。最近の荒んだ社会に対する批判の多くは、愛情の欠如、信頼の喪失といったものに向けられている。この背景にあるものは何か、またその原点は何処にあるのか、そこまでの批判はほとんどなく、ただ結果を見つめての議論に終始しているのが歯がゆいが、実際には子育ての原点である家庭における問題が大きな影を落としているのである。そこまで来ると、世話の分担という冷静な判断が正しい選択だったのかという疑問が頭をもたげ始める。愛情の注ぎ方よりも、時間の分け方を重視し、それによって子供達にとって一番身近な存在を剥ぎ取ったのは、まさにこの仕組みの仕業なのである。その代わりに、世話をする人間たちにとって最良の環境を整えることに注力し、こんな歪みを蓄積したのではないだろうか。役割分担を性別で決定することは差別に繋がると主張する人がいるが、性別そのものを差別という人はいないだろう。子を産み育てる段階での母親の役割は、彼女たちにしかできないことであり、それを誰かと置き換えてしまったら、母親の存在は消し飛んでしまう。そういうことを考えた上での分担ならば大いに議論すべきと思うが、ただ親たちの事情のみを考えるだけでは的外れにならざるを得ない。その結果が今の社会に現れていると結論づけるのは、あながち間違いとは言えないのではないだろうか。

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1月27日(土)−目撃

 何だろうかと思った。交差点を左折する時、遠くからサイレンの音が聞こえ、緊急車両の接近を知らせていた。曲がった途端に目の前に現れたのは警察車両で、緊急事態で急行しているのかと思った。その時、目に入ったのはその車両だけだったからだが、路肩に寄せているともっと小さな何かが動いているのがわかった。
 警告灯をつけて追尾している車両の前、中央線付近を蛇行する原付の姿が見えたのだ。警察車両はいつもと違った雰囲気で、追いかけている。こちらが路肩に寄せているのを確認したのだろうか、一気に原付の横に出て、徐々に幅寄せを始めた。何とかすり抜けようと原付が加速したとき、その前に車の前部を突き出し、隙間を塞ぐ形になって止まった。原付はドンという音とともに車両に接触し、乗っていた二人は道路に投げ出される形になった。二人とも足を打ったのだろうか、一人は足を引きずりながら近くの銀行の駐車場の門をよじ登って逃げようとし、もう一人は諦めたように痛めた足を気にしていた。警官が降りてきて、更なる追跡が始まろうとしたとき、諦めていた小太りの若者は足を引きずりながら走り出し、門を登った若者も駐車場に走り去って行った。警官は門の通用口からするりと駐車場に抜け、追跡を続けたようだ。目の前で繰り広げられる捕り物劇、さて、こういう光景を見た時にどんなことを感じるのだろうか。最近の報道を見る限り、警察の追跡に対する批判が集中している。無理な追跡が事故を招いたとか、あんなことをせずに見過ごせば何も起きなかったのにとか、何とも馬鹿げた批判が山のように寄せられる。交通法規は破るためにあると思う人はいないだろうが、社会の秩序を保つために定められたものを破った場合に、何らかの処罰が下されるのは当然だ。しかし、逃がしてしまったのでは何にもならない。何とかして捕まえることが重要になることは当然だろう。その手段として追尾があり、場合によっては過激な手段に訴えることもある。それ自体が別の事故を未然に防ぐこともあり、今回の捕り物劇もまさにその一例だと言えるだろう。あのまま交差点に突っ込ませれば、別の事故が起きていた可能性が大きかったからだ。こういう事件の報道がなされるたびに思うことは、安全確保の手段には様々な形があり、それぞれに意味のあるものだということだ。それを結果だけを捉えて批判の雨を降らせる人間には、その辺りの理解力の欠如があるのではないか。過激に見える幅寄せも、目の前で展開するのを見る限り、適切な行動であったと思える。見ていない人間がどんな批判をするかわからないが、そういう見識の無さこそ批判されるべきだろう。

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1月26日(金)−苦悩

 ラジオを聴いていると、たまに面白い話に出くわす。面白いというと誤解を産むかもしれないが、相談室のようなものはその一つだろう。相談にも色々とあり、植物を育てる相談から、人間を育てる相談まで、人それぞれに多くの悩みを抱えているのだとわかる。それぞれに専門家が対応するわけで、多くの相談者は納得して終わる。
 相談の中身とそれに対する答えにも面白さがあるが、そこには新聞などの活字による相談とは違うものが感じられて、興味深いものがある。限られた紙面の上での活字では、人の感情を表現することは難しいのに対し、声を媒体にすると感情がそのまま表れるからだろう。何度も行きつ戻りつしながら、やっとのことで納得できる人もいれば、既にその程度のことなら知っていると突っぱねる人もいる。それぞれに心の動きが声の調子に現れていて、それはそれで面白いものだ。これが育児や人生相談となると、ただ楽しむと言いにくくなるのが残念だ。現実には、追い込まれた状況にある人々がそのとき抱えている悩みを打ち明け、何とか解決の糸口を見出そうともがいている姿がそこにある。しかし、その最中にあっても、感情の起伏が声の調子に反映され、流石に多くの人が聴いているという意識があるから無茶なことはしないけれども、声の抑揚に不満やら戸惑いやらが現れる。相談者にとってはすぐにでも解決したい悩みなのだろうが、渦中にある人が本人でない場合、糸口を見つけることは更に難しくなる。自分が抱える悩みを解消する手立てを授かろうとする人が、自分自身で何かをすることによってそのきっかけがつかめるのであれば、それほど難しくはないのだろうが、問題を抱えている人が別にあり、その対応についての悩みを相談する場合、ある行動が引き起こす結果について推し量ることは難しい。そのため、専門家が何らかの助言を与えたとしても、そこから予想される結果をすぐに飲み込めず、つい反発してしまう場合もあるようだ。面白いという表現は不謹慎かもしれないが、その辺りの葛藤が伝わってくるのがラジオの特徴に思える。これは同じように音声を媒体とするテレビでは、画像が加わることによってその効果が弱められてしまうから、多少事情が異なってくる。それにしても、相談者にとっては自らの悩みだけに、何とか最良の答えを導きたいと思うのは当然で、それに対して、ただ見守るだけという答えを得た場合の反応は何となく理解できる。心の中では、責任は誰が取るのかという思いがあっても、専門家にその言葉を浴びせることはできないからだろう。

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1月25日(木)−覗き

 問題の本質、何度もこの類いの話をしているが、世の中はそんなものには目もくれないらしい。兎に角、弱みを握り、とことん苛めるのが今のやり方なのだろう。あることないことを並べまくって攻撃の手を緩めない。しかし、そんなことをしていても問題は解決するはずもなく、暫くすると同じようなことが起きる。何ともはやである。
 人の集まるところで起きる火事は、火の危険も確かにあるが、群集心理が混じった問題も絡み、複雑な様相を呈する。特に、小さな建物に多くの人を無理矢理詰め込む状況のところは、その傾向が強くなる。そんなことはこれまでに起きた事件で重々承知しているはずの専門家たちが、新たな事件が起きるたびに危険性を声高に主張する。行政の縦割りを批判する人の多くが、自らの考え方の縦割りに気づいていないのは興味深く、所詮はその程度のことかと思える。現代社会では推測や類推といったものの欠如が露顕し、それによる弊害が議論されているが、こんな遣り取りを見ているとその病巣の深さを思い知る。事件が起こるたびに同じ業種に限った査察を実施したとして、一体全体どれだけ多くの事件が起こらねばならないのだろう。異業種でも類似の環境を作り出す例は幾らでもあり、それを思えば上辺だけの動きであることは明白だ。にも拘らず、それに対しては何の批判も起こらず、的外れの罵声ばかりが聞こえてくる。何とも落ちぶれたものだと思うしかない。同じことは期限切れで有名になった事件にも当てはまるだろう。同族経営が諸悪の根源とする馬鹿げた批判も凄まじいが、次々に明らかにされる期限切れは留まる所を知らない。しかし、そこに横たわっているはずの起因について語られることはない。殺人事件では動機を執拗に知ろうとする人々が、こういう事件ではそんなことに無頓着なのは何故か。敢えて言うならば、それは野次馬根性の塊だからであり、問題の解決も再発防止も何も頭の中にはないからだ。空っぽの頭が大きな目玉をつけてデバ亀よろしく這いずり回っている姿を歓声を上げながら見守る人々、そんなところに問題の本質は無用なのだろう。

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1月24日(水)−水準

 人は持って生まれた素質よりも、そのあとの教育によって形作られると主張する人がいる。教育の力を認めさせようとする動きは、ある時代から強くなってきた。その考え方の基礎となるのが平等主義なのではないか。人は皆同じ才能を持って生まれたはずで、それを引き出すのが教育の役目という論理なのだと思う。
 こういう話を聞くたびに思うのは、才能という点で言うならば、例えば、身体能力についてはどうだろう。小さい頃から走るのが速い子と遅い子がいて、ある程度の訓練によって能力は高まるが、そこにはどうしても越えられない壁がある事を認識させられた。ここには歴然とした差があり、それに関しては教育の力ではどうにもならないところがあると理解できる。では、別の能力はどうだろうか。音楽や絵画などの芸術と呼ばれる分野も、ある程度の水準までは達するものの特殊な感覚のようなものの存在を意識せざるを得なくなる時が来る。そこにもやはり壁の存在があるわけだ。では、教育がその威力を存分に発揮できるのは何に対してだろうか。多くの人々はこれら以外の教科には教育の効果が現れるはずで、そこに活躍の場があると思い込んでいる。しかし、現実には自分達が苦労しても大した成果が得られなかった経験は何処かに忘れ去り、逆の立場になった途端に上手く導けば十分な成果が得られると信じるようになる。ここに大きな誤りがあるような気がしてならない。運動にしても、芸術にしても、教えることによって効果がでるのはかなり基礎的な部分に限られる。それ以上の水準については、各人の持って生まれた才能の開花を待つしかなく、外的な作用では何ともならないものだ。他の分野のことについても、同様のことが言え、ある程度の基礎の構築は促せるとしても、その上に積み上げるものについては個人の能力と努力によるところが大きい。その境目を何処に設定するかという課題について、何処かで大きな誤解があったようで、全体への要求水準が無理なところに設けられたことが、現在の歪みの大きな要因になっているように思われる。自信を喪失させないようにと、今更のように訴える人がいるが、その原因となっているものが何かを考えずに、褒めたり持ち上げたりすることで回避できると思うと、また別の形の過ちを犯すだけだろう。ある水準が設定され、それを達成することが義務づけられた途端に、この問題が生じるのだとしたら、何がきっかけなのか明らかなのではないか。とんでもない幻想を抱いて歩んできたここ数十年の過ちを正すためには、教育そのものの力を見直す必要があるような気がする。

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1月23日(火)−情意

 愛玩動物を飼ったり、植物を育てる人は沢山いる。動機は色々あるのだろうけれども、癒されるという言葉をよく聞く。そういう気分になったことのない人には理解し難いものだが、同じ感覚を持つ人々には馴染み深いらしい。感覚の問題だから、わかるわからないで済ませばいいのだろうが、何を癒さねばならないのだろう。
 様々な抑圧にさらされると人の心は傷むらしい。その感じ方は人それぞれであり、同じ環境におかれても全く違った反応を示す人もいる。心の強さと簡単に片付けるわけにいかないのは、人によって感じる大きさが異なるだけでなく、対象によって感じ方が違ってくるからだ。あるものに対して非常に神経質になる人が、別のものに対しては無頓着といった具合に、人それぞれに受ける印象が大きく異なる。それが多様性なのだと言ってしまえばそれまでだが、そういう集団の中で誰が何にどんなことを感じるのかを考える必要が出てくると、結論を導き出すことさえ難しくなる。個を大切に考える時代には多数決という考え方は歓迎されず、たとえ一人でも感じる人がいれば問題として取り上げなければならない。その典型となるのが、いじめやハラスメントと呼ばれる現象で、加害者と被害者という分け方をしたとして、被害を受けた人間の感覚が最優先されることになる。そんなことはかなり前から言われていたのに、自殺の原因の分析では全く考慮されていなかったそうだが、この辺りの事情は数値だけで解釈すること自体に無理があるように思われる。白黒はっきりさせる数値は、分析するためには重要な要素であり、それによって主張の強弱が影響される。だから、基本的には数値を引用して話を進めるわけだが、今回の話でもわかるように、数値の導き出し方によって結論は正反対のものとなるわけだ。だから慎重にかからねばならないと言いたいわけではなく、ここでは正反対の結論が全てなのかという点を考えてみたい。つまり、原因を分析する上でどんな要素を考え、どう処理するかで、確かに両極端な結果が導き出せるわけだが、本当にそれぞれの事例は極端なのかということだ。どちらに属するのか明確でなく、はっきりと分類できないものの方が実は多くて、それでは話になりにくいからと、極端な例を引き合いに出しているのかもしれない。人はもっと自分自身のことを冷静に分析した方がよく、それによって複雑に入り組んだ感情が更に起伏をもって存在することを認識すれば、あっさり分類することの無意味さを実感できるだろう。こんなやり方は結果的に誤った結論を引き出す危険性が高く、あらぬ方向へ人々を誘い込むことになるだけなのだから。

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1月22日(月)−高潔

 俺が俺がと言う人と、皆さんがと言う人と、どちらが好まれるのだろう。以前ならば、迷うことなく後者と言えたのだが、最近はどうも怪しくなってきた。先導者を待ち望み、自分がとれない責任をとって欲しいと思う人が多く、彼らに対して一切文句を言わない人の数が急に増してきたような気がするからである。
 ところが、今度はそちらの様子に変化が現れてきた。絶対的な先導者が存在した組織ほど腐敗が進み、どうにもならない事態に陥っているからだ。その原因の多くは先導者の資質にあり、自らを絶対的存在として君臨し、思い通りに事を運んできたところにある。この場合でも、その原動力となるべき考え方に違いがあり、利己的か、利他的か、という点の違いが結果を大きく変えたようだ。ただ、直接の原因は確かに一部の人々にあるのだが、それを持ち上げ、応援してきた人々の責任も大きい。応援するにしても、批判的な眼を失うことなく、厳しい指摘の上での支援ならば、こんな事態には陥らない。現実には、好き嫌いの類いで、あばたもえくぼの心境だったのではないだろうか。誰かが批判したとしても、その人を総攻撃するばかりで、問題の本質を見極めようとする気持ちを失っていたわけだ。最近の情勢はまさにそんな雰囲気だったのだが、その仕組みが大きく傾いてきた感じがする。問題が組織内に留まらず、外にまで知られるようになり、社会全体が巻き込まれると、流石に無関係な人々の関与が大きくなる。そうなれば、私利私欲や損得勘定とはまったく違う次元での関わりが出てきて、批判の声の方が大きくなるわけだ。そうなって初めて、先導者として君臨していた人間の悪業が露となり、社会的制裁が加えられる。しかし、その温床となったことについて批判の手が及ぶことはなく、腐敗した組織の場合は再び同類の先導者を担ぎ上げることになる。何度繰り返せば気が済むのか、本人の気持ちはわからないが、精神構造としてそういう他力本願の心理が築かれているのであれば、どうしようもないだろう。ただ、違う種類の先導者が現れると、その違いに気づかぬままに、また同じような礼賛をする。違いはただ先導する人間の気質によるものだけで、結果が異なったとしてもただそれだけだ。本来持つべきものを失った人々の心の欠陥が修復されることは少ないのかもしれない。では、待つべきものは組織の意識改革より、高潔な先導者ということなのだろうか。

(since 2002/4/3)