パンチの独り言

(2007年1月29日〜2月4日)
(条理、絆、資格、不可解、俚言、節気、制覇)



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2月4日(日)−制覇

 以前は中流と思っていたのが、最近では下流となるらしい。こんな表現が出てくるのは、そこに基準となる線が存在しているからであり、それを標準と呼んだりする。よく耳にするのは、夫婦と子供二人の標準的家庭という話だが、これとても最近は少数派に入ってしまったのではないかと思えるほどだ。
 標準とは平均という意味をもつ場合と、多数が占めるところという意味をもつ場合がある。統計においてはどちらの意味をもつかで表現が違うが、一般的には単純な表現しか用いられず、時々の意味の違いをあまり気にしていない。それほどいい加減な決め方をしているものが、極めて重要な役割を果たしているように扱われるのはどうかと思うが、話を進める上で欠くことができないものだけにこんな状況でも有意義とされるようだ。これとは別の使い方に、標準化というものがある。規格を統一するために用いられたり、互いの基準の違いを是正することを指す場合が多いようだ。これらについて考えると、如何にも盛んな議論の末に一定の答えが導き出されたと受け取られる場合が多いようだが、規格統一では複数あるものから一つに絞り込むだけだし、互いの基準の統一とても片方だけが採用される場合が多い。つまりは、標準化と言っても様々な事情が勘案された上での行為ではなく、ただ単純にその場の力の優劣によって決められたものに過ぎないわけだ。標準化とは違う言葉だが、最近よく使われる言葉にグローバリゼーションなるものがある。意味的には世界的なものになるということなのだろうが、ここでもある基準に則って様々なことが決められている。ただ、標準化の問題と同じように、世界の基準を決めたのは誰かという点が大きく影響し、誰が世界を牛耳っているのかを見るに過ぎないことがほとんどだ。それを言葉を言い換えることによって、まるで方向違いの行為のように扱っているのだから可笑しい。以前、何処かの国のようにするという意味で使われた言葉は影を潜め、その代わりにこの言葉が使われるようになった。しかし、現実に行われていることは基準を決める国があり、それを採り入れるだけのことなのである。標準化で先行しているのは欧州の何処からしく、海を挟んだ反対側では積極的な導入は図られていない。一方で、グローバルな基準に関しては、経済的な背景が色濃く出ているから、標準化の導入に賛成しない国が牛耳る形になる。工業製品の規格に関して強い影響をもつ国なのに、こういう基準に関しては受け身に回っているところでは、標準をよしとする国民性かどちらの基準も喜び勇んで導入している。半分脅された部分もあるようだが、それにしても何故にこういう結果になるのか。自分達は他の事情を無視するのに、他国に自らの基準を強いる国が世界化を図ると表現するのはあまりにも変だ。征服という言葉の代替品が登場したとしか思えない。

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2月3日(土)−節気

 これから季節が変わる時期、という意味での呼び名なのだろうか。それにしても、季節外れの便りが沢山届いているようだ。近所の神社の梅の木も、既に赤みが見え始めていて、もう花弁が見えている。梅どころか桜もという便りもあり、例年にない気温の変化に戸惑う人も沢山いる。当然、苦しむ人も目立ち始めた。
 木々の様子を見ていると、気温の変化に異常があるのがよくわかるが、人間でもそうであるように、樹木にも変化に敏感なものとそうでないものがあるような気がする。ほとんどの植物は気温の変化を指標として、次への準備を進めるが、それだけではないようだ。気温の変化についても、その高低を指標とするものがあるが、単純な高い低いではなく、一度かなり低い温度を経験することを条件とするものもある。その場合、こういう天候では判断が下せず、かえって遅れることもあるのではないだろうか。一方、気温の上下だけではなく、それに日照時間が加わる場合もあるようだ。こちらの場合は気温に対する感度は低くなるが、他の生き物の動きとの連動としては、理に適っていると言えるのかもしれない。梅と桜の間を埋める木蓮なども、この気温ならば騙されてもよさそうなものなのに、蕾が膨らむ程度で済ませている。それでもこんな暖かさが続いてしまえば堪えられそうにもない様子だが、まだまだ春が訪れかけたところだから、どちらに転ぶかはわからない。暫く様子を見守るしかないのだろう。太平洋の遥か彼方で遊んでいる男の子によって引き起こされた現象は、世界中に大きな影響を与え、今回も振り回されている人が沢山いるようだ。何でも経済効果で評価する時代には、驚くほどの被害が伝えられるけれども、普段の生活にはさほどの変化もない。様々な情報が手に入ることの便利さは、一方で余計な不安が煽られ、あらぬ心配をしなければならなくなる。いつもと違う季節の移り変わりを不安げな目で見つめるのではなく、それはそれとして楽しむことも大切なのではないだろうか。日々の生活の心掛けがきっかけになっているという主張もあるが、だからといって過度な心配を強いられることもあるまい。

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2月2日(金)−俚言

 方言、この言葉を耳にすることが少なくなった。政府の政策として共通化、標準化が図られ、百年以上経過したから、まあそんなものかもしれない。それとも、ここでも真面目で従順な国民性が現れ、素直に従ったということだろうか。意思の疎通は容易になり、誤解を産むことが少なくなったが、その一方で失ったものもありそうだ。
 中央と地方の関係が見直され始めてから、さて金銭的なものだけの問題としていいものか、もう少しきちんと議論した方がいいのではないか。都合の悪いものを弱い者たちに押し付け、自分達の権利を守ろうとする企てと書いてしまうと言い過ぎかもしれないが、現状ではその点だけが注目されている。本来の地方の活性化とは金で売り買いするものではなく、文化、意識といった類いのものに現れるものだろう。地方色と表現される特徴についても、今では売り物になる物産ばかりに話が行き、他の特色には目もくれない。伝統的な祭事についての情報はあるが、如何にも見せ物的であり、それが育まれた文化に話が及ぶことは少ない。伝統と称して数年前に復活した祭りが頻繁に取り上げられるのもここ数年の傾向で、何かが失われているように感じられることも多い。一度失われたものを回復するためには、様々な苦労があるのだろうが、もっとも難しいのはその祭りが存在した文化的な基盤の理解だろう。期間にもよるが、語り継ぐ人がいなくなってしまってはどうにもならないだろうし、そうでなくても地域の住民の感覚に変化が起きていたら、どこかしら違ったものに見えるのではないか。そういう意味で方言が失われて行くことに危機感を抱く人も多く、何とか保存しようという動きもある。しかし、使われること無く、何処かにしまっておくだけでは、言葉は死んでしまうだろう。ここに標準化の問題があると言えるのかもしれない。先日のラジオで面白いことを紹介していた。「一日正月」という言葉で、旧暦の2月1日を指すのだそうだ。さて、これはどう読むのか、わかる人がいるだろうか。ラジオで流れていたのは逆で、音声で伝えられるわけだから、読みが流され、どんな字が当てはまるのかが話題になっていた。「ひていしょうがつ」と読むのだそうだ。備後地方から出雲地方にかけての言葉らしく、「していしょうがつ」という地域もあるとのこと。50代半ばの人々でさえ、耳にしたことがあると言う程度で、文字となると浮かばないという話が始まりだったようだ。但し、府中町のホームページにはちゃんと掲載されている。こういう記録が大切なのかと思うが、それ以上にラジオの聴き手からの便りにあった、何故一日を「ひてい」というのか、という話の方が重要かもしれない。言葉が生まれた背景を知ることが方言を知ることに繋がるのだろうから。

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2月1日(木)−不可解

 何をしたらいいのかわからない若者が増えているという。彼らの呼称まで用意されたということは、それだけ多数の人がそう思われているということだろう。ただ漫然と目の前の与えられたことに取り組むうちに、与えられる課題が無くなり、呆然とする姿が目撃される。そこから先の道は決まっているというのだろう。
 与えられることに慣れてしまったら、自分で何かを探すことはできなくなると言われるが、何故全ての若者がそうならないのだろう。現状からすると、ほとんどの場面で準備されたものに従い動き回る人々が見られるから、全てがそうなっても良さそうな気がする。しかし、現実には一括りにされる人の数はそれほど多くない。そこにある違いは何か、考えてみたらいいと思うが、そんな話が出てきたことはない。それより、社会の問題、周囲の問題といった類いの意見ばかりが目につき、結果的に個人の問題として扱われることはほとんどないようだ。では、個人の違いが何処から出てくるのか、その問いに対する答えはあるのだろうか。それに関して気になることが一つある。目的とか目標という言葉が頻繁に使われているのに対して、その意味が理解できていない人が増えているように思えることだ。人生の目標とか、働く目的とか、そんな言葉が飛び交う中で、それに対する答えに窮する人が増えているのは、実はそういうものを持っていないというより、その言葉の意味が分からないのではないか、と思える。信じられないかもしれないが、働く目的を仕事をするためと表現する人がいる。これは極端な例だが、目的のための行為そのものを目的とする人がいるのだ。大学に入るのは大学に行くためとか、そんな表現を平気で使う人を見ると、彼らが抱える問題の大きさに驚かされる。ここに、全てが準備されている社会の問題があるのかもしれないが、その前にそういう社会でも十分に通用する人間がどうして出来上がるのかを考えるべきなのではないだろうか。言葉の意味という捉え方が正しいかどうかはわからないが、目的の設定に対する認識の無さに大きな問題がある。そんな中で、今問題視されている若者が出てきたとしても不思議ではないだろう。それより、そうさせないための働きかけについてもっと考えるべきなのではないか。ほとんどは周囲の人間との関係の稀薄さから出ていると思え、自分で考え、それを表明し、批判を受けるという過程の欠如が生まれていることを考えれば、大した努力も無しにこれらの難問が片付くように思える。あまりに安易な考え方かもしれないが、何が問題かを考えることも重要だということだ。

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1月31日(水)−資格

 「教育問題は無理ね、あの人には子供がいないから」といった主旨の発言は、ある有名人が画面の中で語っていたものである。こういう言葉が出てくる時に、何故発言者によって受け止められ方が違うのかと思う。ある人から発せられれば差別と糾弾され、別の人が言うと核心を突くと歓迎される。言葉とは所詮そんなものなのだろう。
 子育てをした経験を持つか持たないかで教育の資格があるかないかが決まるとしたら、学校制度を大きく転換しないといけない。親から教わったもの、先生から教わったものを次世代に伝えることができれば、現状ではそれで十分だと解釈されているからだ。その意味では、はじめの発言には大きな誤りがあると言うべきだろう。しかし、その一方で机上の理論ばかりに振り回されて、道を誤る人の多さを考えると、この発言はあながち間違いとも言えないのではないだろうか。じゃあどっちなのか、ということを議論しても実りは少ない。要するに、感覚として備えられているのならばよいが、そうでなければ大変な先導者を選んだことになるということだ。その現れと考えられるのは、法律などの整備を中心とした方針であろう。現場の状況がどうあれ、まずは基盤を整えることからという考えかもしれないが、現状との乖離は大きくなるばかりで、意識の違いが明確になっている。それが委員会の運営にも現れ、お飾りの人々、話題性を持つ人々を招集した挙げ句に、何処か裏の方で作り上げられた案を押し通そうとした。思わぬ反発から、前言撤回の様相を呈したが、この辺りの流れからはじめの発言が出されたのではないかと思う。末端の管理者が勝手なことをしたという言い逃れをしたとしても、それを許した責任は上の方にあるわけだから、いい加減な対応をして誤摩化すのはやめておいた方がいいだろう。そして、大いに批判された机上の空論の持つ意味を考え直した方がいい。但し、だからといって極端な考えを持つ委員を選んだことによって生じた歪みの責任も、やはり同じ人々がとらねばならない。結局は、どちらに転んでもろくでもない結果になったわけで、その流れを作った人物に見極めがないことを表しているに過ぎないのだろう。それがはじめの発言の意味だとしたら、差別などと簡単に言えないことかもしれない。

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1月30日(火)−絆

 世の中が狂っていると指摘する人もいる。拝金主義の台頭を例に挙げる人もいるし、多発する殺人事件を例とする人もいる。これらの傾向を見て狂気の沙汰と結論づけるのはさほど難しいことではないが、では何故その狂気が蔓延してしまったのかと問われたらどう答えるのだろう。結果の分析の割に、原因の分析は物足りない。
 この手の話が出てくると必ず出される指摘は、社会の退廃といった話だ。いかにも重い言葉に思えるが、その実あまりにも安直な表現である。個々の事例の原因を全体に求めるやり方には、一つ一つの責任の出所を有耶無耶にする作用がある。これによって個々の責任が問われることはなく、全体責任という重いものがのしかかることになる。一見連帯責任のように思われる表現だが、現実にはそんな意図はなく、ただ暈かしを入れているだけのことのようだ。それによって個人攻撃は避けられるが、解決の糸口を失うことになる。個々の例を分析して、そこにある問題を炙り出し、それに対して全体での対策を立てるという順序であるべきが、端緒のところで既に躓いてしまうからだ。社会全体での問題提起が重要なことは言うまでもないが、その前に行われるべき事が抜け落ちてしまうと、ただのはりぼてを作るだけの事にしかならない。その意識があるのかないのかわからないが、最近の傾向はそちらの方にばかり向いていて、解決の道は閉ざされている。そんな中で凶悪事件は更に度を増し、理解不能なところまで達してきているようだ。特に理解し難いのは、殺人事件でも身内を対象としたものが増加しているように思えることだ。親兄弟、子供、親類、そんな関係の中で起きる殺人には、どんな背景があるのか全く想像できない。夫婦は所詮は他人だからという意見もあり、この中には特に入れないけれども、それとても猟奇的な事件も起こり、奇怪としか表現のしようがない。家庭崩壊はかなり昔に指摘されたことだが、その傾向が増すに連れてこんな事件が多発するようになったのかもしれない。こんなところを見ていると、社会の問題として捉える場合にも、どの大きさの社会なのかを考えるべきなのではないかと思う。つまり、もっとも小さな自分を含めた複数個体の集団とは家族なのだ。これを社会と言うのには無理があると思うが、これほど身近なところから既にひび割れが生じていることに、現代社会の抱える問題の本質があるように思える。

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1月29日(月)−条理

 好景気と言われているのに、実感がないのは懐が寂しいからだろうか。しかし、そんな状況でも何とか暮らして行けるのは、やはり物価が安定しているからだろう。デフレという現象も経済の分野では警戒すべきものなのだろうが、庶民には有り難いものだ。ところで、物価の優等生と聞かれたら、何を思い浮かべるだろうか。
 物価が安定していると言っても、やはり値上がりしているものは多い。日常生活で必要とされるものは、特に値上がりすれば影響が大きく、家計に響くことになるから、場合によっては諦めることもある。中でも食料品は、毎日確実に必要なだけに、安定してくれないと困るわけだ。供給する側からすれば、生活を豊かにするためには値上がりこそが必要なはずだが、それとて巡り巡って逆の目が出ることもある。全体としてみれば安定させることが重要なはずだが、それぞれに値上がりしていることの方が多い。その中で優等生と目されていたのは、卵と砂糖だったのではないだろうか。そこに異常が見られるようになったことは、まさに世知辛い世の中の到来を告げているのかもしれない。卵が急激な値上がりを見せたのはついこの間のことだが、いつの間にか落ち着きを取り戻した。それはそれで歓迎すべきことだが、今度はもう一つの優等生に異変が起き始めたようだ。砂糖の値段は物心がついた頃からほとんど変わっていなかったように思う。普段の価格が高くなったとしても、安売りがあればそこそこの値で手に入れられた。ところが最近は安値といえども、安いという実感がないのである。それほど元値が上がったということだろうか、流通に身を置くわけではないからわからないが、兎に角厳しい状況にあるらしい。そして、ここでもまた、訳の分からない理由が指摘されている。原料の高騰が原因という点はいつものことだが、それが原料となるサトウキビが他の用途に使われるからというのだ。生物資源の醗酵から得られたアルコールを、燃料として利用する方策が世界的にとられ始めたからだという。アルコールならば別の原料でもと考えるのは時代遅れだそうで、植物が空気中から吸収した二酸化炭素がアルコールの原料となるわけだから、二酸化炭素の増加には繋がらないというこじつけが通用する。地球温暖化に関する環境問題の解決策として大いに注目されているのだそうだ。食料として利用するより、燃料として利用する方が高く売れることもあって、いつの間にやらそんな方向に流れ、食料に関しては不足することになり、そちらも高くなる。経済の法則なのだろうが、何とも馬鹿げた行状のように思える。そんなこじつけが環境を良くするとは思えず、いつもの金儲けと何も変わっていないからだ。

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