人混みに出掛けると、それだけで疲れる。他の人々はそんなことを感じないのか、何処に出掛けても沢山の人々が集まっている。昔からそうだったのだろうが、話題になればなる程多くの人が集まり、それが話題となり更に増える。そんなことの繰り返され、人いきれで苦しくなる程の場所が出来上がり、何ともはやと思う。
何故、人は人混みが好きなのか、それとも好きでもないのに、何かに乗せられて集まってしまうのか。よくわからないが、理由はともかく人を集められれば、そこに何かの商いが出来るから、別の意味が出てくる。今に始まったことではないが、人が集まり商いが成り立てば、そこには売る人と買う人の二つの立場が出来上がる。物々交換の時代ならば、両者が共に作る立場にあっただろうが、貨幣制度が導入されると様子が一変する。必ずしも作った物を持ち寄らなくても、そういう場に参加することが可能になったからだ。そのこととは関係ないが、産業の区分についても、こういう変遷に連れて、変化が起きたことがわかる。第一次、第二次とまで来て、実体のある物を集めたり、作り上げたりしていた所から、商いを生業にする仲介者のような存在が現れた。第三次は商業を主体としたものだが、対象は多彩となり、新たな商売が編み出され続けて、今の形態に至っている。それを享受する人々が、その拠点に集まり、気に入ったものを手に入れようとするから、人混みが出来るとも言える。商売をするためには人を呼び込む必要があり、そのために様々な手段を講じる訳だ。モノを作る人々が多い時代にはそんなこともなかったのだろうが、最近は作るよりも買う、消費社会が確立されているから、それに伴う様々な行為に力を注ぐ人々が急増している。確固たるものを持たなくても次々に新しいものを産み出せるから、それまでとは全く別の才能が開花する場にもなり得る。しかし、所詮は実体を伴わない世界であり、現れては消え、その後には何も残らないことも多い。そういうものに取り憑かれたように、動き回る人々の心に何があるのか見えないから、こういう人混みを見る度に不思議な感覚が甦るのは、こちらの気分がずれているからなのかもしれない。
言葉じりをとらえる、相手にやられると困ることだが、時に自分でやっていることもある。不用意な失言を指摘することで、抑制をかける意味もあるだろう。ただ、度が過ぎると本来の意味は失われ、結果的には虐めに近いものにしかならない。言葉狩りと表現されるのはこんな場合で、何を言っても攻撃対象になるのだ。
確かに過ぎたるは及ばざるが如しであり、発言の真意を確かめずに批判を続けるのは無駄なことが多い。しかし、だからといって何を言っても構わない訳ではなく、ある程度の制限をかける必要があるだろう。真意を確認すると言っても、次々に発せられる言葉が明確な意味を持たなかったり、一般の解釈とは異なることが多く、それが積み重なればその非常識さ加減は膨らむばかりとなり、これまた結果として窮地に追い込まれるのは致し方ないということになる。渦中の人の話のように受け取る人もいるだろうが、この手のことは誰にでも当てはまるのであり、首を傾げたくなる発言は何もあの人に限ったことではない。たまたま、反響の大きな発言だった訳だが、その後の対応の拙さも手伝って、小さくなるしか方法は残らなかったようだ。では、救おうとしている人々は問題発言は何もなかったのだろうか。教育の根本改革、再生を謳って組織された委員会の面々が、不満を露にしていたとき、その行く末を案じていた人や当然の成り行きと思った人がいただろう。その後、どういう変遷があったのかはよくわからないが、兎に角何かしらのまとめがなされ、答申が出された。その際の反応ぶりがどうにも異常に思えた人はいないだろうか。出された答申に対して、まるで彼らの教師のように採点した姿はどう映ったのだろう。評価を下すのは、答申に従った改革の結果を見てからと思うのだが、委員会を組織させた当事者は、答申そのものに即座に評価を下した。その態度を異様と捉えた人は余りいなかったようだが、次のように考えたらどうだろう。採点は正しい答えと出された答えを比較することによってなされる。だから、即座に満点などと発言するということは、あらかじめ決めておいた答えに合致するものを出させた結果と見なすことが出来るのではないだろうか。そんな穿った見方をしなくてもと思うかもしれないが、こういう発言にはやはり何かしらの思惑がつきものなのであり、そういう心理を探ることが人の価値を計る指標になる場合が多い。言葉狩り自体は馬鹿げた行為だが、発せられた言葉を吟味しないのは、もっと馬鹿げた態度ではないだろうか。
「ポッキリ教育」、こんな言葉はないと思うが、使いたくなるような時代ではないか。何円ポッキリとは、それだけで遊べるということを謳う歓楽街によく見られる広告で、いい印象は持たれていないと思う。それと同様に、今の教育現場は「これだけでよい」という言葉が飛び交っている。まるで、低俗な客商売のように。
最近の若者を心配する声に、目標を失っているように見えるというものがある。場当たり的、刹那的なものにばかり手を出し、少しも先のことを考えていないように見える若者たちが、これからの世の中を支えて行くとしたら、心配になるのも致し方ないところかもしれない。しかし、遠い昔、自分達がそういう年代だった頃のことを考えてみると、同じような目で大人達から見られていたのではないかと思う。程度の差こそあれ、兎に角その頼りなさに不安を抱かれるのが若者の特徴なのだろう。しかし、昔の大人達は批判はしても、目標を差し出してくれることはなかった。出来合いの目標を有り難く戴き、それに向かって邁進する子供達を見ると、流石に心配になってくる。それに拍車をかけているように見えるのは、教育現場の激変で、教えることに対する根本的な取り組み方が大きく変わった。あまり注目されていないようだが、個人的に一番気になるのは全員教育とでも呼ぶべきか、全ての子供に同じ課題を達成させようとすることだ。そのために、取り上げられる課題の数が激減するとともに、程度も急落した。全てと謳う限りは、達成目標を下げることが避けられないからだ。その結果、薄っぺらな教科書だけでなく、薄っぺらな教室風景が出来上がることになった。それでも、達成目標は重要であり、追いつかない子供達を主要な対象として流れが作られる。更には、その上に立つ学校にも同じ足枷がかけられ、全体的な学力低下が露呈することとなった。そういう中で競争に勝ち残るのは容易であり、これだけやっておけば良いと言われたことをこなすだけで十分となる。単純に目標が明確になるだけでなく、それがすぐに手の届くところにやってくることは、人々の慢心を導き出すことに繋がった。先の見えた生活においては、逆に刺激が欲しくなり、刹那的な享楽に興じるのも当たり前かもしれない。そんな中で、学力低下だけは問題視されているようで、また梃入れが始められようとしている。驚くべきは、今度も底上げを主目標としているようで、それが招く結果がまるで素晴らしいものに思われていることだ。この低下を招いた元凶は別にあり、それを除くにはこれを繰り返すしかないと信じているのではないだろうか。同じように全員達成目標を設定し、ただそれに費やす時間を増やしたとしても、これが元凶だとしたら何の解決も得られない。
仇討ちとか、敵討ちとか、自分に近い人の命を奪った人間に対して仕返しをする行為は、ある時代までは行われていたが、政府の布告によって禁止された。それ以前でも、敵討ちをした人間たちが罰せられていた時代もあり、一概に勧められていたわけではないだろう。ただ恨みを果たしたいという気持ちを尊重しただけだろうか。
恨みという感情は中々抑えることができないもので、何年経過しても仇敵に対した時に自分を失う人もいるという。そんな事情を考えると、全面的に禁止するかある状況に限り認めるか、いずれにしてもある程度の抑制が必要となる。また、禁止した場合でも別の仕組みを設けて、社会的に処罰する制度を確立する必要がある。公的な立場からの判断を尊重する意味で作られたのが裁判制度だと思うが、これをもって個人的な恨みを果たそうとする動きの代わりとするわけだ。しかし、陪審員制度を持つ国でも、子供を殺された父親が犯人を射殺する話の映画が作られるなど、恨みを持つ人の感情を満足させることは難しい。ただ、制度として成立している限り、それを尊重し、納得することが求められるわけで、それが受け入れられなければ、制度は意味をもたない。そういう理解が社会全体にあると思われてきたが、どうも事情に変化が見られるようになったようだ。元々、海外から移入された制度だけに、個人の感情の扱いやものの考え方に違いがある中で、万人に受け入れられてきたとは言えないわけだが、そこに裁判を進める人々の配慮に欠けると思われる行為が加わり、自分達の手でできるものはないのかという意見が膨らんでいる。被害者や彼らの家族が抱く感情を理解せずに、何もかも事務的に進めることは一見不条理に見えるが、感情に振り回された議論の不毛さに比べれば、遥かに重要なことと言わざるを得ない。ただ、いかにそれが重要といえども、事務的な議論が常識を逸脱するようなところに至るのでは、制度自体に欠陥があると指摘されることになる。そんな経緯があるとともに、近年の凶悪犯罪に対する処罰の軽重への疑問の増大が加わり、裁判制度自体の変更を求める声が大きくなってきた。陪審員とは少し違う裁判員という制度の導入が進められる中で、裁判そのものの仕組みを考える気運が高まったのだろうか、様々なことが検討されているようだ。しかし、最近の報道を見る限り、流石に大昔の直接的なものとは言えないまでも、それに近い行為に思えることが導入されようとしているように見える。被害者たちの声を聞くたびに思うのは、確かに痛手が大きく、それを癒す意味でも重要なことの一つに、こういったことの必要性が求められているのだろうが、それが何処まで求められるべきかということだ。取り上げ方によるものとはいえ、流れている情報からは究極が求められる可能性もあるように見える。もし、それが望まれるのなら、裁判制度そのものが揺らぐことにならないのだろうか。
犯罪を減らすための方策という話だったが、さてその効果はどれほどのものなのか。同じ箱の中に男女混合で入れるより、別に入れた方が安心という言い方は過ぎるかもしれないが、そんな説明もできそうな専用車両の導入は、もう随分と昔のことだった。様々な議論を経て、一時下火のように見えたが、ちゃんと続いている。
その後も議論の焦点は移り変わり、被害者だけの問題ではなく、加害者とされてしまった人々の問題にまで及び、互いの利益を考えると分けておくのが一つの方法と思われているようだ。ただ、片方だけを一つに詰め込む方式しか導入されていないから、意識する人にしか意味ないだろうし、加害者にされてしまった人には逃れる術はない。映画化されて関心を呼んだようだから、この辺りの議論が再び沸騰するのかもしれないが、単純な方策で簡単に片付く問題ではなさそうだ。一方で、専用が導入されたときその位置に疑問を持ったことがある。多くの路線では様々な事情があるにせよ、どちらかの端に位置している場合が多い。特別扱いに違和感を覚える人だけでなく、混雑時に無理な移動を強いる場合もあり、避ける人も多いのではないかと思えたからだ。これが一概に言えないのは、路線によって、駅によって出入り口の位置も異なり、簡単に解決する問題ではない。そんなことを思いつつも、たまに乗り合わせそうになった時に慌ててしまうことがあったが、先日もっと変わった例を見かけた。その路線では専用車両は終日実施されており、それも乗り降りに便利な中央付近に設置されていたからだ。車内放送の具合から察するに導入直後であり、戸惑いが見られていた。一つの試みであり、その反響によっては各所に飛び火する可能性はあるだろうが、さてどうだろうか。はじめの導入の意図からすると、混雑時でない時間にまで延長することは、別の意図があるとしか思えない。だとすると、別の説明をする必要があると思うのだが、そんな話はなかったように思える。この辺りの動向を見ていると、社会の趨勢が反映されているようにも見えるが、それ自体がかなりの偏りを見せていることを思うと、成り行きを見守るだけでいいようにも思えない。壁を築くことの問題が一部で取り上げられている一方で、こういうことが平然と行われるのを見ると、変に思えてならないのだが。
老後の生活を真剣に考え始めるのはいつ頃だろうか。こんなこと、全ての人が同じ時期に始めるはずもなく、また考えたとしてもその真剣さにはかなりの隔たりがあるに違いない。しかし、様々な情報が流れ、如何にも将来への見込みがないように思える昨今では、ある程度の策を講じておく必要はありそうに思える。
ただ、どんな策が適切なのかはわからない。兎に角何でもいいから資産を殖やしておけばいいと言われそうだが、先立つものが限られているからだ。そんな中で、金融商品と呼ばれるものが新聞紙上を賑わせており、その重要性が強調されているように見える。資産運用と一括りにされるものについても様々な業界が乗り出し、それに悩む市民を手助けしているように思える。流石に、その通りだと思う人もいないだろうし、彼らとても何処からか利益を捻出しなければならない事情がある。そういった背景をわかりやすく説明して欲しいと思う人もいれば、内容はどうあれ、老後の生活を保障する手立てを望む人もいる。元々、こういった流れに疎い国民性からすれば、今更少しくらい説明されたとしても理解するにはほど遠く、任せて安心ならばそれで十分と思う人が多いだろう。その一方で、人に対する信頼が揺らぎ始めているから、任せて安心という意味が通用しないのではないかと心配する向きもある。何とも不安定な行く末をただ波任せにしてよいものか、何とかまともな答えを見つけたいと願う人が多いのは当たり前のことだろう。それにしても、何故これほどまでに資産運用の話が取り上げられるようになったのか、ただ預貯金として持つだけでは何故いけないのか、その辺りの事情の説明も不足しているのではないだろうか。流石に金融商品を売りつけるためとか、国債を買ってもらおうとしているとか、そんなことを思う人はいないだろうが、では何故だろう。資産を運用することによって、更に殖やすことができるからと思う人もいるだろうが、もしそうだとしたら、こんなに不安を煽る必要はないのではないだろうか。つまり、興味のない人たちは蚊帳の外にいればいいだけのことなのである。ところが、現実にはもっと切迫した理由がありそうに思える。金融機関の破綻、予期せぬ詐欺事件、不安要素は数えきれないほどだが、それによって引き起こされる問題に何かあるのだろう。顧客を裏切らないはずのものが望まぬ方向に動いてしまった時保障があるのかどうか、そこに不安の源があるのだろうか。いずれにしても、動くべきかどうかは自分で決めるしかないことなのだろう。
そろそろ天井に近づいてきたとはいえ、人の寿命は伸び続けている。だんだんと遠ざかっているようにも見えるが、流石にそんなはずもなく、誰でもいつかは迎えねばならない瞬間がある。環境の変化なのか、はたまた意識の変化なのか、その瞬間にどう対処すべきかを真剣に論じる人も現れ、様子が変わってきたことだけは確かなようだ。
遺産相続などの面倒が起きると困るから、という心配をする人もいるようだが、それだけのものを遺せる人ばかりとは限らない。残る家族のことより、自分自身のことを第一に考える人が増えているようで、この問題もどちらかと言えば、周囲の人間に対するより自分に対するものということらしい。環境の変化と一概に言えないのは、この手の問題はこの国より欧米において大きく取り上げられているからだろう。いずれにしても、先進国と呼ばれる国以外には問題視されておらず、昔からの風習のままというところが多い。では、何故、経済的に豊かになった国だけでこんなことが考えられるようになったのだろうか。理由は人それぞれで、おそらく一つに絞ることはできないだろう。しかし、その多くが自分のことは自分で決めたい、という思いから出てきたものであることは確かなようだ。その点で、他人任せの風潮が残る国より、自主独立の意識の強い国ほど、最後の瞬間までも自らの意思で、と思うところが大きいのではないだろうか。それにしても、人生の中で選択できない唯一の事柄と言われた「死」に対して、これほどまでに執着を見せる人がいるのは何故だろうか。色々な方策が論じられている中で、こちらの問題を議論しようとする人はほとんどいない。それは、ごく当たり前のこととして捉えられているからなのか、それとも、そんな個人的な事情を論じても意味がないと思われているからなのだろうか。選択できないものと言われていたが、それだけではなくそこには予期できないといった感覚も含まれる。準備ができれば、何かしら様々なことに取り組めるのに、それがないからといった思いから、何とか自分の意思を反映させたいという気持ちが出てくるのかもしれない。昔の風習の姥捨山の話は、自分と周囲の間の関係から出てきた考え方の一つなのかもしれないが、そういう選択肢があったことを示している。そこまで極端でないにしろ、運命と受け止められていたものを、何か別の力でどうにかしようとする企てがそこにあるような気がするがどうだろう。選択に明け暮れた人生の終焉くらい、違った形で迎えるのも一つの方法に思えるが、そう言ってしまうこと自体が選択となるのだろうか。