パンチの独り言

(2007年2月12日〜2月18日)
(不慮、小言、注目、動揺、賛否、瓦石、空虚)



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2月18日(日)−空虚

 誰の周りにもいるのではないだろうか、知ったかぶりをする人々のことである。若い世代の動向を知り尽くしたかの如く話す上司、カタカナ言葉を並べて新しい技術の解説をする俄専門家、現場で見てきたようにニュースの解説をする人、誰もが俄仕立ての情報を知り顔でひけらかす。その実何もわかっていないのだが。
 本当の知識とは、知れば知るほどわからなくなるものらしく、専門家たちは軽率な解説を避ける。だから、解説を望む人々は他に助けを求め、解説を生業とする人のところに駆けつけるわけだ。彼らは、それぞれの事柄に関して責任を持つべき立場にないから、ずっと気楽に対応できるし、相手の望む回答を差し出すことも躊躇わない。結果的に、知りたい人々は自分の知りたい答えを手に入れることができるし、解説屋はその行為によって利益を得ることができる。八方丸くおさまるように見えるが、現実には誤った情報が流れるわけで、それによって専門家が被害を受けることもある。正確な解説を怠った報いと言えなくもないが、そうしたとて伝達者たちは理解し難い情報にはそっぽを向くだけで、別のわかりやすいものに飛びつくのだから、結果的には同じことにしかならない。こんなことが繰り返されている世の中では、注目を浴びるところだけでなく、日常生活の場にも同じようなことが起きるわけだ。巷に流れる情報には責任の所在などというものはなく、ただ単なる噂話に過ぎないものでも興味を引けばあっという間に伝搬する。そうなると根も葉もない噂に尾ひれがつき、誤りは正されることもなく堂々とその地位を確立する。いやはや何とも困ったものだが、こんなことはほんの少しのきっかけで起こるのだから、気をつけねばならない。しかし、気をつけると言われてもほとんどの人々は何をするべきかがわからない。そんな状況では、事態は改善されることもなく、いつまでも同じことが繰り返されるのではないか。一つだけ気になることは、鵜呑みにする行動の基となる心理のことだ。発信者が訳知り顔で発する情報の真偽を吟味するためには、それなりの判断が必要だが、そのためには問い質すことが不可欠となる。しかし、それをすることは場合によっては無知をさらすことになり、恥となるかもしれないのだ。それよりは、頷くばかりで何もせず、ただ他からの情報を伝達する方が無難に思える。そんな心理が働いた結果が、噂の拡大に繋がるのではないだろうか。もしそうならば、大切なことは一つだけで、知ったかぶりをする人に対して何でもいいから聞き返すことなのではないだろうか。当然だが、逆の立場になれば追求されることになる。これでは如何にも攻撃的で、人付き合いが成立しないように見えるが、意外に通じるもののようだ。それよりも、自ら発する情報にある程度の責任を負う気持ちを芽生えさせることの方が、様々な形で意味のあることに思える。

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2月17日(土)−瓦石

 インターネットの活用法を一つ挙げて、と問われたらどう答えるだろう。欲しい情報が得られるという意味では、検索を一番に挙げる人が多そうだが、現実にはそれ以外のことで友人などと情報交換をしており、そちらの方が有用に思う。ただ、最近の傾向を見ていると、電子メールも面倒な問題が増え、敬遠されつつあるようだ。
 折角の便利な道具も、ネットの特長である共有という状況の中では、使い勝手が悪くなることも多い。事情を理解する人々は、ある程度の被害ならば何とか対処できると思うようだが、ただ、便利な道具を楽しみたいと思う人々には、この状況は堪えられないものだろう。そんな状況は電子メールやいかがわしい内容を含むホームページの存在だけでなく、本来有用な情報を与えてくれるところにまで及んでいる。少々事情が異なるが、専門的な言葉の説明を求めた時に多くの人が訪問するサイトがある。公開辞書とでも言うべきところだが、出来合いのものと違い、何処かの有識者が依頼に応じて作るものではなく、一般の人々も交えて、情報を集積するところに特徴がある。基本理念としては、新しい情報を豊かにするためには一部の有識者に頼っていては制約が大きく、通常ならば接触不可能な人々からも情報を集めるのが重要であるということらしいが、かなり多くの言語で運営されていることからも、ネットの特長を活かしたものと言えるだろう。ただ、そういう運営形式では管理は取り立ててなされず、参加者が主体となるわけだから、含まれる内容の質も玉石混交となることも否めない。それでも、新たな情報が書き加えられることによって、より良いものが出来上がるはずという思惑が発端になっており、ある程度の成果を上げていると思われる。だからこそ、多くの人がアクセスし、その情報を拾い上げているのだ。しかし、そんな中で幾つか問題が生じていることも事実だ。専門的な言葉というのは、ほとんどの場合は用語と言われるものなのだが、要求があれば人物の説明も掲示される。過去の著名人を挙げているだけならば、大した問題も生じなかっただろうが、欲求はそういう留まり方をしないのが常で、存命の著名人にまで及ぶことがある。本人たちの知らないところで、あることないこと書かれているとしたら、どんなことになるか。そんな問題が出てくると、当の本人が記述に加わることもあるだろう。その途端に客観性は失われ、書かれたくない事柄については削除を求めることになる。情報を豊かにするという観点からすれば、このような行動は逆効果であり、かえって情報を限定することに繋がる。しかし、個人の権利は一方で必ず保護されなければならない。こういう不均衡をどう扱うかは、今後の課題としてしまっているようだが、今起きていることであり、放置するのはどうかと思う。更に、玉石混交の情報には当然ガセネタが含まれることもあり、それを見極めることが求められる。最近の便利にはどうもこんなものが多く、何でも信じる人を作り上げ、妥当な判断ができない人を増やしているように見えるが、これも単に一過性のものなのだろうか。

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2月16日(金)−賛否

 何事にも正反対の意見が必要だと思う。それがあることで、違う見方に触れることができ、場合によっては多面的な捉え方が可能となるからだ。そのためには反対意見を聴く耳が必要で、それを言う人が身近にいることが重要だ。現状で、問題が起きているところを眺めると、こういう体制ができていないところが多いのは偶然ではないだろう。
 組織を纏めるにあたって、どんな人材を登用するかは上に立つ者の役割の中でももっとも重要なものである。独裁者を標榜するにしても、裸の王様になるか、尊敬される施政者になるかは、ほんの小さな違いから決まる。反対意見を一切受け付けない体制を築けば、何事もすんなりと決まり、安定した運営が可能となるが、様々な歪みの蓄積を覆い隠すことになり、結果的に破綻を来す場合がほとんどだ。それに対して、決定が絶対的なものであっても、そこに至る過程で種々の事情を勘案し、その調整を図る体制をとれば、紆余曲折が常であっても、何とか無事に過ぎる時間が長くなる。そういう体制が破綻するのは、ほとんどの場合、反対意見を封じ込める仕組みができたり、その伝達経路が断たれることがきっかけになったからだ。また、別の破綻原因も考えられる。賛成反対の両意見の交換が十分であれば、互いに折り合いを付けることが可能だが、何処かで均衡が破れて、結果的に反対意見が封じ込まれたような印象を持つ場合がある。このときも、反応は様々なのだが、中にはそこを端緒として体制の批判に終始する人々が出てくることもある。本来は議論の場で行われるべきことが、外に出た途端に一人歩きを始め、結果的に批判だけが伝搬することになる。確かに、何処かしらに問題があるからこその結果なのだが、そこから導き出された崩れは体制全体に波及するから、油断大敵である。こんな流れは組織があれば、何処にでも起きうる話であり、他人事と放置するのは危険だろう。ただ、体制側がどれほどの注意を払ったとしても、反対する側がその気になってしまえば止めようが無くなる。これを反対する人々の問題と考える人もいるようだが、はじめに書いたようにその人を登用した人の責任なのである。綻びが見え始めた頃、責任の所在を明らかにしようとする動きを見せる場合があるが、はじめから決まっていることであって、今更論じるべきものでもないだろう。ここ一番での責任逃れが横行するのは、こういった下らない議論に意欲を見せる人々が増えたからなのではないだろうか。事件が起きてから論じるのではなく、事前からそんなことは自明であるはずなのだから。

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2月15日(木)−動揺

 ここで何度も取り上げているが、最近「常識」が揺らいでいるのではないだろうか。辞書によれば、「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」とある。健全とは何かが問題になるほど、常識のない人々が増えてしまったなどとふざけても仕方が無いが、この状況は様々な問題を提示している。
 常識とは違うことで、皆が持っているはずのものは何だろうか。その一つが本能だろう。生まれながらに身に付いたものであり、その意味ではヒトという種は全てが持っているはずのものである。それに比べて、常識は誰もが持っているものではない。わざわざ健全な一般人とことわっている理由もそこにあるのだろう。では、そういう人々しか常識を持たないと言われるのは何故だろうか。常識は本能とは違い、自分以外の人々との関わりの中で身に付くものである。普通に常識という場合には、その社会において大多数が共通に持つ知識であるから、それは次の世代にも自然と伝わるものとなる。しかし、最近の出来事を眺めていると、その欠如が原因と思える行動によるものが目立ち、首を傾げたくなることが多い。更に、この傾向が危機的と思えるのは、非常識としか思えない事柄に対して、その非常識をも支える体制を要求する声が大きくなっていることで、国民全体が幼児化してしまったような錯覚を覚える。つまり、常識として身に付いているはずというのは単なる思い込みであり、そうでない人々が世に溢れる状況では、思い込む方に瑕疵があるということだ。常識が先人から伝えられるものである限り、それを身に付けていない人が増えているという現象は、その常識が永遠に失われることを意味する。互いに情報交換をしながら、新しいことを身に付ける過程自体に変化が見られ、自分自身の中にある常識の倉庫の容量を最小限にしようとする人が増えているから、こんなことが起きているのかもしれないが、その一方で、何事も他人に頼ろうとする心理が多数を占めるようになったことも、こんな状況を産み出した原因なのかもしれない。いずれにしても、失われたものを取り戻すのは容易なことではなく、更にその欠如を重大なことと捉えない感覚が非常識でなくなったように見える状況では、先行きが心配になるのも致し方ない。しかし、現実には諦める段階にあるとは思えず、それを容認する世論やそれを先導する一部の人々に対して、厳しく対応するようにさえすれば、何とかなる状況なのではないかと思える。他人を尊重するということが違う意味で捉えられる時代には、少々面倒なことなのかもしれないが。

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2月14日(水)−注目

 最近捏造の話が色々なところで出てきて、世の中の歪みの大きさを実感する。無いことを有るようにする捏造だけでなく、他人のデータを盗用したり、自分に都合のいいようにデータの改竄をする話が、度々紹介されていて、単純にのし上がろうとする気分だけで行われていると考えるには、無理があるように思うこともある。
 動機はそれぞれに違っているのだろうが、ただ単に上に上がることよりも、今の地位を守るための嘘が増えているのは何故だろう。地位を上げるための嘘は場合によっては必要悪だと主張する人々が昔はいたように思うが、最近はそんな気持ちからではなく、現状を維持するための必死な思いから来ているように見えるのは、何とも辛い世の中になったものだ。ただ、これを追い込まれた人間の行状と見なすことには抵抗を覚えるし、ただ単に表に出てきたものが違うだけで、心の奥底にある道徳観の欠如にはほとんど変わりがないのだと思う。自分の都合の設定の仕方が上に置くか、目の前に置くか、下に置くか、その程度の違いによるだけで、やっている行為そのものには変わりがない。それを困った末のことと見なすことで、逃げ道を作ろうとしているだけなのではないだろうか。結局のところ、間違った行動をしたことには変わりがなく、その点に関しては厳しい処分を下すべきだと思う。ただ、その一方で、如何にもまともなことをやっているように見えて、表面に露骨に現れない行為を繰り返している人がいることには、もっと注意が払われるべきだと思う。別の掲示板で話題になっているように、データの一人歩きは多くの場合に問題とされる。データを集める段階で、様々な制約が課されていたことが、いつの間にか数字だけが抽出され、それに注目が集まることがある。ゴミの問題が現在取り上げられていることだが、そこに現れる数値もたまたま一つの調査に注目が集まっただけであり、全く違うデータには気づかぬ振りがなされる。ここには、それを利用する人々の思惑が強く打ち出されており、そのために必要な数値のみが取り上げられる。こういうものを伝える人々に重要な役割は、一つに集中するのではなく、その周辺の事柄にも注意を払い、それらのデータも取り上げることなのだが、忙しいと称する人々にはそんな気持ちは起こらないようだ。数字に表れないものでも、例えば子供の自殺に関しては注目が集まっているが、その数字を取り上げる人は少ない。それも、大人の自殺との比較となると、その必要無しとでも言われそうなほどだ。この辺りの事情はその業界の中に入らないと理解できないだろうが、それにしても、これほど極端な行動を放置することは捏造を見過ごすことと変わりがないのではないだろうか。声の大きさ、数字の捉え方、色々な作為が溢れる中で、見る側が考えるしか防ぐ手立てはないように思えてくる。

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2月13日(火)−小言

 ある時代、保護という言葉が流行していたように記憶している。上の立場にあるものが下の人々を護ることだと思っていたが、いつ頃からかとんと聞かなくなった。上下関係が明確な時代ならまだしも、平等とか民主と言われる時代に、如何にも傲慢な印象を与えたのだろう。各人の意思と責任で行うという気分があった。
 そんな中で、自由な行動が重視され、自由な意志が尊重されるようになった。しかし、自由とは勝手気侭なものではなく、それに伴って生じるものがある。個人主義が当然となった頃には、身勝手な自由は糾弾されるようになった。国家が国民を導く体制が崩れ、個々の人々が自分達の権利を自分達で守る必要性が強調されるようになると、そこに自己責任なる言葉が流行し始めたようだ。自分のことは自分で考え、自分で始末をつける。何事も、他人を信用したり、他人に依存してはいけない、と言われるようになった。わざわざこんなことを言い始めたのは何故か、当時は理解できなかったが、その後の変遷を見ると何となくわかってくる。つまり、旧体制に慣らされた人々が自分の判断で行動することをしなくなり、責任という言葉で問題を突く必要が出てきたのだ。当然のことを敢えて言わなければならないのは、それが当然でなくなったからであり、そこに大きな社会問題が生じるようになったからなのだろう。そんな状況下では、あらゆることに注意を促すことは必要不可欠であり、自らの責任を逃れるためには、相手に全てをあずける必要があったわけだ。事故を防ぐための注意書きはその最たるものであり、それによって読んだ人に全ての責任が委ねられるということだろう。そこまでしないと、責任の一端を負わせられる社会になったということだが、この状況を皆はどう考えているのだろうか。先日宿泊したホテルの一室には、可燃物を載せないようにとの注意書きが、白熱灯の笠に貼付けられており、件の笠は黒こげ状態にあった。寝たばこを禁止する注意書きもよく見かけるが、さて、この状況は何を意味するのだろうか。注意を喚起する必要性が感じられたから、という意見がごく一般的だろうが、その一方で何も知らない幼児への母親の言葉掛けのような注意には、何か異様なものが感じられる。責任逃れの一言が製品にくっ付いたのはある法律の影響だが、それ以前からこういった現象は見られていた。というより、そんな状況だからこその法律と言うべきなのかもしれないし、だからこその注意書きなのだろう。それにしても、常識という言葉が死語になりかねない状況に思えるのは、取り越し苦労だろうか。

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2月12日(月)−不慮

 事故の原因は色々ある。その多くは使っている人々の不注意によるものだが、どんなに注意を払っても防げないものもあるという。そういう流れの中で作られた法律があり、製造した企業の責任を明確にするものである。それ以前とそれ以降に大きな違いを感じた人は多いと思うが、責任を果たすための方策には不満を感じているのではないか。
 一番大きな違いといえば、その直後に現れた多くの警告やそれに伴う記号なのではないか。思いもよらない使い方を紹介し、その危険性を訴える警告文から、さてどんな感覚が産まれるのか、首を傾げた人も多いだろう。こんなことをする人がいるのか、と呆れたことも多々あるが、この法律によれば、どんな非常識な行動もそれによって引き起こされた事故の責任は製造者側にあることになる。どんなに非常識と言っても、恐らく程度の問題はあるのだろうが、それにしてもと思える話が説明書に掲載され、製品が入った箱にそれを示す記号が印刷された。なるほど、そこまでしないといけないのかと思ったのと同時に、一方でそういう警告以外にも、かなり多くの不注意による操作を妨げる機構が導入されていることに気付いた。こちらの方でかなりのことが防げる筈だが、それでも無理なことのために警告文が加えられたのだろう。しかし、不注意な人がそんな注意に気付くのかどうか、そちらの心配はどうなっているのだろうか。現実には、それを促す方法は考え出されていない。注意して下さいという訴えが届かなければ意味がないが、それが届かなくとも使うことが出来るのだから、完璧を目指すことを諦めたのかと思える。ここの部分は調整が難しく、すぐに簡単に使えることを使う側が要求するのに対して、注意を促す必要のある作る側はそのための仕掛けを導入し難い状況にあるのだろう。ここまで長々書いて来たが、製造側の責任を考えさせられる事故がこのところ多発というより、沢山知られるようになったことと関係があるように思えたのだ。確かに、様々な責任が製品を作る側には課せられる。不良品を作ることは当然避けられなければならないが、正しい使い方を伝える責任もある。この法律が導入された時、違和感を覚えた人の多くは、責任の所在を明らかにすると言っても、それは簡単なことではなく、常識的に考える以外にどんな方法があるのかと思ったのではないだろうか。このところの流れを見ると、その当時とはかなり違った雰囲気が漂い、一方的な意見が目立つように思える。あれ以来、更に酷い状況に陥っているように見えるのだ。そこに、何故とか、どうしてとか、疑問を挟むつもりはないらしく、全ての責任を一人に負わせるつもりらしい。

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