パンチの独り言

(2007年2月19日〜2月25日)
(嘲笑、猟奇、改変、無常、潜在、迷惑、無用)



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2月25日(日)−無用

 役に立つか立たないか、こんなことを問題にする場面が以前に比べて増えたような気がするのだが、どうだろうか。流石に、人間が役に立つかどうかを話題にするのは行き過ぎと思えるだろうが、それに近いことがしばしば起きているし、それより頻繁なのは今やろうとしていることが何の役に立つかと問うことだろう。
 情けは人の為ならず、という言葉の意味を考えるまでもなく、自分がやることは自分に跳ね返ってくるのが当たり前である。ところが、その戻り方を重視する考え方が最近流行しているように思えるのだ。つまり、今やろうとしていることは自分の将来にとって何の役に立つのか、それがはっきりしない時にはやらなくても良い、といった風潮が強くなっている。どんなことでも身になるもので、それをしたことはたとえ小さな形にせよ、自分の将来に何かしらの影響を与えるという考え方は少数派となり、兎に角目に見える形での回帰を期待させるものでなければ、力を注ぐ価値が無いとする考え方が主流となっている。何度も話題にしていることだが、ある程度の安定が望める社会では将来設計においても、特に確率の低い出来事に対する対処は必要とされない。そのため、確実に起きると予想されることへの対応に必要となること以外には、大した労力をつぎ込む必要がないと考えられるようになった。そうなると、何の役に立つのか、という言い回しが全ての鍵を握り、それに対して具体的な証拠を示せなかったものは、役立たずとなるわけだ。変化が激しかった時代には、先行きを明確に示すこと自体に無理があり、予想もしない変化への対応にも取り組む必要があった。それが安定社会となると、急激に選択肢の数は減り、自分の望むものへの道を歩むために必要な道具だけを手に入れれば良いという考えが通用するようになる。少数のものに力を集中させれば、当然時間も濃密度も高めることができ、以前よりも高い水準に達することができるようになる。その魅力はかなりのもので、あらゆる場面でこういったことが取り入れられるようになった。一見、効率の良い、効果絶大な手法は、多くの人々に歓迎され、それらの人々と古くからの手法に頼る人との差は広がるばかりとなった。こうなれば、流れる方向は自ずと決まってくる。少しぐらい抵抗したとしても大した勢力にはならず、結局現状のような雰囲気が出来上がってしまった。しかし、最近、このやり方に異論を唱える人々が増えているようだ。役に立つことばかりに手を付け、それ以外のものを排除した人々には、何か大切なものが欠けていることが明らかになったからで、実はこの方式があること以外には役に立たない人間を作り出したことがわかったからなのだ。広い人間、狭い人間という表現が当てはまるかどうかは知らないが、まさにそんな感覚がぴたりと当てはまる人間形成がなされ、本来ならば、少数でかまわない決まったことしかできない人間が世に溢れることになった。気がついても、遅すぎるのかもしれないが。

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2月24日(土)−迷惑

 仕事をもたない人でも電子メールのアドレスを尋ねられた経験のある人は多い。携帯電話を持つ人ならそちらのアドレスを使えるかもしれないが、そうでないと難しい状況になる。こういった場合に役立つ存在として無料電子メールを提供するところがある。自宅にパソコンを持たない人でも利用できる点は評価できると思う。
 しかし、何かの登録にこういったアドレスを使えなくしている場合がある。誰でも獲得できるものでは、保証にならないというのがその大きな理由のようだ。また、住所や本名が獲得に必要となるわけでもないから、誰かの名を騙る事もでき、犯罪の温床となる場合もある。便利さの反面、こんな問題が潜んでいることから、排除に回るところが多いのは仕方のないことかもしれない。それでも、友人関係やちょっとした連絡に使うだけであれば十分であり、手軽な道具と考えることができる。さらに、始めの頃に比べれば、機能もかなり充実し、容量も増大して使い勝手がかなり増してきた。特に重要となるのは、スパムメールと呼ばれる迷惑メールの処理で、さほど目立たぬ存在だったものが最近は急激にその数を増していて、利用者にとって削除だけでも大変な作業となる。同様のことが携帯アドレスで一時期問題になったが、電話会社の様々な工夫により、最近はかなり減ったようだ。それにくらべるとパソコンを使った電子メールでは特定のサーバーを利用するわけではないから、対策が中々整わなかった。確かに、迷惑メールかそうでないかを区別する絶対的な指標はなく、確実に排除することはできない。それでも経験値などを利用して分類する方法が考え出され、かなりの確率で適正な答えを引き出すことが可能となり始めた。おそらく多くの無料メールについてはこの方式を導入しているようで、自動的に迷惑メールを分類してくれる。それでもすべてのところが導入しているわけではなく、たとえばこのサイトを開設しているプロバイダが提供するアドレスでは、着信拒否アドレスを利用者が登録する仕組みしか用意していない。そのため、このところ毎日のように二桁のスパムメールが届けられる。ちょっと分析してみたところ、これらの大部分は中国を経由して送られているようで、非常によく似た経路を辿っている。内容も酷似しており、売春に関わるものが大部分である。誰が何のために行っているのかわからないが、全く下らない行為というしかないだろう。サイトのフロントページでこちらのアドレスを紹介しているのが原因なのだろうが、便利さを手に入れる事で何かを押し付けられた感じだ。ネット上を飛び回っている情報の大部分がこの類のものとすると、なんとも無駄な話ではないか。

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2月23日(金)−潜在

 苛めにも様々と言われる。体罰は度を過ごすと死に至るから最も厳しいものと思われてきたが、最近は違った種類のものに注目が集まっている。肉体的な作用より、長期的で甚大な被害を与えるものとして、精神的な作用を及ぼすやり方で、以前は言葉によるものが多かったが、最近は相手を無視することが主体となっている。
 無視するという表現では不十分と判断されるのか、ネグレクトと表現される行為は、意図的にその人物の存在を抹消させるものであり、心理的な効果を狙ったものと言われる。始めは聞こえないふりだけだから、被害者もおやと思う程度ですむ。しかし、それが繰り返されるとともに、徐々に視線までもが避けられるようになり、物理的な存在自体が否定されるらしい。その段階に至れば、多くの人々は異常に気づき、解決策を探すことになる。しかし、そこまで達したということは既にかなり状況が悪化しており、解決することは容易でなくなる。無関係な人から見れば何とも卑劣な行為なのだが、加害者にはそれほどの意識はない。意識的に行っていることさえ、大したことと思っていない節があるわけだ。肉体的な暴力の場合、加害者の側にもある程度の痛みを伴うことが多いが、精神的な暴力ではそういうことは少ない。逆の立場に追い込まれれば、激しい痛みを引き起こすことが、全く理解されないわけだ。それより、大きな加害者たちへの効果は、被害者たちの反応に対する感覚から引き起こされる。焦れば焦るほど深みにはまるわけで、その落ちていく様を見つめる喜びのような感覚があるらしい。快感に勝るものは多くなく、理性といえどもそれを抑えるだけの力は持てない。まして、精神的に未成熟な子供たちとなれば、そういった葛藤さえ生じないことが多いのだろう。相手の身になる感覚もなく、自らの快感のみを追い求めた結果、取り返しのつかない状況に陥ることもあるのではないか。そんな問題が、苛めの一つとして取り上げられるようになり、言葉も定着しつつある。逆に見れば、何らかの対策も講じられないままに、病いが進行し、広がっているということだろう。しかし、何故こんな手法がこうも簡単に広がるのだろうか。そこには、何らかの基盤ともいうべき、共通項が存在しているのではないだろうか。それぞれの子供の心に潜む残虐性と言うと極端だが、そんな感覚がこの現象の伝搬に深く関係しているような気がする。もしもそうなら、防ぐ手立てに対する考え方についても少し検討した方がよさそうに思う。

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2月22日(木)−無常

 丁度良い所に留まるのは難しいようだ。世の中の常と言うべきか、真理と言うべきか、あらゆるものが一所に留まらず、常に動き続ける。それも、多くの場合は新しい所へ移るのではなく、元あった場所に戻ることが多いので、振り子の喩えがよく使われる。ある方向に向かっていても、いつかは戻ってくるわけだ。
 全ての可能性が網羅されているわけではないから、振り子の喩えは必ずしも完全とは言えないだろう。しかし、多くの出来事を眺め直してみると、それがある共通項をもっていたり、そっくりそのままのことが繰り返し起きていることに気がつく。これは何も人間の営みに限られたことではなく、例えば巨大地震の発生についても当てはまるわけだ。また、網羅するのはあくまでも人間だから、それに気づかぬうちに次のことが起きれば、あたかも新しいことが起きたように思うことがあるが、それとてもそれを知った後に過去の事象を分析すると、類似したものが見つかることがある。結局は人知の及ばぬ所であることには変わりがないのだが、何かしらの法則に従って物事は繰り返されるのだろう。自然現象に比べると人間が関わる事件は更に単純に見えることがある。しかし、関わった人々の心理の動きにまで話が及ぶと、考えるべき要素が増えすぎて手に負えなくなることが多い。そのため、繰り返しについて言及するよりも、その時点で起きていることの分析に力が入れられるのではないだろうか。現実には、細かな要素についての違いがあったとしても、そこには基本的な流れが存在しており、それに着目すれば要素抽出はさほど難しくないのではないだろうか。一般化した話の流れに乗せているので、何の話か見えない人ばかりかもしれないが、最近の政治に関する一般市民の考え方に、こんな話が当てはまりそうな気がしたのだ。極端な行動を繰り返した時代のあと、平静を取り戻そうとする動きが起き、それに戸惑う人々が不満を募らせる。そんな図式が見え始めると、そこにある様々な不信感が実は余りにも単純なことから生じているように思えてくる。但し、それが見えたからと言って、解決の糸口が攫めるわけでもない。逆に、問題の根底にある事柄の異様さからは、元に戻すこと以外には解決が望めないことしか見えてこないように思える。そこでまた、昔に戻ることは何を意味するのか、少し考えればわかるはずだが、不信感を抱く人々にはその判断力は無さそうだ。そんな馬鹿げたことが起きるとは思えないが、さて、どちらに向かうのか、政治に関わる人々全体のお手並み拝見ということだろうか。

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2月21日(水)−改変

 新しいことを始めようとすると様々な困難に直面する。ごく当たり前のことだが、その度に何故そうなるのかを考えることがある。国民性と言ってしまえばそれまでだが、当たり前のことが当たり前に流れることを当たり前と考える人が多く、それを外れた途端に混乱を来す。そこから壁が高くなり、ついには囲まれるわけだ。
 しかし、何故、それまで行われてきたことは当たり前で、新しいことは異様に映るのだろう。それに対する答えを与えてくれるものはなく、ただ提案の度に異常なほどの抵抗が示されるだけだ。そんな中から徐々に気づかされるものが出てきて、何となくそんなことなのだろうかと思うことが多くなった。それは、新しいことそのものに対する抵抗ではなく、違うことに対する抵抗感とでもいったものだろうか。今までと違うことをしようとすれば、関係する人々は当然余分な仕事をさせられるわけで、それは負担の増加に繋がるように受け取られる。現実には、省力化を目指した新規事業でも同じような抵抗が起こることを考えると、同じか違うかの判断が優先され、全体の負担の大きさには目が向けられていないことに気づくわけだ。自分自身のことについて考えてみても、毎日同じことを繰り返せばいいのであれば、心理的には非常に安定するから、気楽に構えることができる。しかし、どんなことが起きるか判断つかない新たなことを始めるとなると、そこでかなりの負荷がかかることになるわけだ。どうもその辺りが判断の基準になっているようで、本質的な問題意識とか、改善意識といったものは入り込む余地がない。そういう相手を目の前にして、どう対処すればいいのか、これという答えは無いようで、根気よく説得する必要があるようだ。一気呵成に攻め立てて改革を実施したと自画自賛した人もいたが、その後に残ったしこりはいまだに解消されていない。これは、面倒なことを省いた結果であり、あとに続く人々に対する配慮に欠けた行動だったのだろう。長い期間関わる新規事業となれば、勢いだけではどうにもならず、やはり腰を落ち着けた根気よい働きかけが必要ということだろう。

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2月20日(火)−猟奇

 仕入れていた本を開いてみた。惨憺たる内容で、まともに字を追う気が失せた。「読んだ本」に載せたから、暫くすればどの本のことだかわかるだろう。ただ、内容が酷いと言っても、いつものように信用できないものだとか、言葉の使い方がおかしいとか、論理が破綻しているという類いのものではなく、読むべきものでないのだ。
 様々な取材をして、この本を記した記者の人には大変失礼な言い方になると思う。しかし、真実を伝えることの重要性とは別に、その内容を知るべき対象があると思うのだ。専門書の多くが専門家たちの目にしか触れないと同様に、この本はその事件に関与した人々の間でのみ読まれるべきであり、紹介されるとてつもない愚行と縁のない人たちにとっては、読むこと自体に意味がないと思うからだ。それよりも、本の主題である事件とその成り行きに関わった人々が犯した大いなる罪に関して、自戒の念をこめてある観点から吟味された情報を手に入れることの方が大切で、それが自分達の行動の結果かもしれないことを理解するきっかけになることが、本の成すべき意義だろうと思う。著者は、被害者と加害者が入れ替わり、そこで起こった様々な問題を指摘することが、社会全体の抱える問題を提起することに繋がると判断しただろう。しかし、現実には、そこにいる人々全てが、実は加害者であり、何らかの形でこの事件の発端から結末まで問題を生じさせたわけで、法的な意味での被害者がいたとしても、社会的には全てが害を及ぼしたことにしかならない。その軽重に関しては違いがあるのは明白だが、それにしてもあれがなければ、これがなければと考えると、関係者全員が悪い方向に後押ししたとしか言い様がない。内容が惨憺たる理由は、事実無根の話だからでなく、そこで演じられる人間模様が余りにも悪意に満ち満ちているのに、その一方で善人を演じたことに、甚だしい違和感を覚えたからである。異様な連中の異常な行動と言ってしまえばそのままだろうが、もしそうならば、それに触れることは正常な人間にとって何の意味があるのだろうか。その意味で、この本の価値は一部の異様な人々にしかなく、一般市民には縁のないものとしか言えない。まともと思われた人々が何気なく起こした行動が原因と著者は主張するかもしれないが、そこに異常さを見出せない人々はやはり何処かがずれているのである。内容の信用性は兎も角、それに対して嫌悪感を催さない人々には、何らかの異常が存在しているのではないだろうか。社会がそんな病を負ってしまったと考えることもできるが、それを治療する特効薬を探すより、そんな病を意識的に隔離する感覚の方が実は重要なのではないかと思う。差別という言葉により、こういう行動を表立ってすることは難しくなったが、毅然とした態度にはそんなことが含まれているような気がする。

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2月19日(月)−嘲笑

 ラジオに昔懐かしい漫談師が登場していた。旧きよき時代を振り返るという趣向が多いのだが、この日の内容は少し違っていた。そうは言っても、日頃から文句の言い足りない人たちが出てくる番組だから、昔の面白い話と一緒に、最近のつまらなさに言及する。ただ、この日は始めから今時の話が取り上げられたようだ。
 漫才が流行したのでもかなり昔のことになってしまったが、それ以前には落語とは少し違った趣向としての漫才があるとともに、一人でこなす漫談も流行っていた。物真似漫談を流行らせた人がいたが、こちらは楽器を手に世の中の出来事を風刺して面白可笑しく聴かせる形だった。馬鹿げた話から真面目な話まで、それを面白く仕立てるから客は大笑いをする。そんなやり取りが演芸場で繰り広げられていたらしい。放送を通じてしか接したことのない者にとっては、何処がどう面白いのかは話の内容からしかつかめないが、それでも何とか追いつこうとしていたように思う。その人がラジオで語った話は、昔の軽さとは全く違った興味深いものだった。彼らは客を笑わせるのが商売であるが、今巷で人気の出ているお笑い芸人と呼ばれる人々はどうもその当時とは違う状況にあると言う。「笑わせる」のではなく、「笑われる」のだそうだ。そういう観点からは、とても芸と呼べるものではなく、単にさらし者になっているだけに見えるらしい。そう言えば、自分をどん底まで落として、どん底芸人と呼ばれる人々が出てきたのも、そんな時代の流れに乗ったものかもしれない。この話だけなら、以前から思っていたことだから大して驚かなかったのだが、それに続いた話になるほどと思わされたのだ。それは、今、若者に昔風に時代を風刺して話をしても笑いが取れないのに、失敗したり、馬鹿なことをすると簡単に笑いが取れるという体験談にある。同席していた奇術師も同じ感想を漏らしていて、笑いの種類が大きく違っていることを指摘していた。つまり、客は自分より下の者の馬鹿げた行為を笑いたいということなのだ。笑いの質の変化は世の中の仕組みの変化によってもたらされたのかもしれないが、それにしても情けない話のように思えた。この行動が引き起こされる心理には、おそらく人に馬鹿にされるかされないか、ということがあるのではないだろうか。失敗した人間を笑う、自分より下手な人間を笑う、という行為は、裏返せば、自分が笑われることに繋がる。そんな不安定な心理で日常生活を送れば、多くの人々は不安に囲まれてしまうに違いない。自分の不安の発端がまさか自分自身の心の中にあるとは誰も思わないだろうが、笑いの現場での反応にはそんなことが現れているように思えた。自分を苛めの対象に置くことで笑いを取ろうとする人々が増えたのは、そういう考え方が定着したためなのだろうが、それを問題にすることなく、逆に生活の糧にするのは大きな間違いと気づくべきではないだろうか。

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