パンチの独り言

(2007年2月26日〜3月4日)
(理解、経営、発散、人目、延引、日本橋、卑近)



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3月4日(日)−卑近

 蕾の中から白い花弁が顔をのぞかせている。やはり暖かい冬のせいなのか、いつもより少し早い感じがする。木蓮の花は春の訪れを告げるものの一つだが、苛められていた去年と比べると、随分と元気がいいようだ。この陽気だと、週明けには一気に開花することになりそうだが、雨になりそうなのが気がかり。
 大袈裟に伝えられるから、このまま異常なことが起きるのではないかと錯覚させられるが、実際にはいつものように春がやってくる。例年との違いを幾つも並べ立て、温暖化の現れとする向きもあるが、どんなものだろう。信じないわけではないが、事件の報道で見られるような出鱈目さを思うと、何処まで正しく伝えているのか俄には信じ難い。確かに、学者たちの主張にもそういう傾向が見られるから、それなりに進行しているのだろうが、それにしてもデータはその扱いで如何様にも化粧できる。単純に信じてしまう人々には、どの話も真実を伝えているものであり、それがどんなにぶれても、その場その場で信じ込んでしまう。平均気温がどれだけ上がったかを論じていたが、報道の網にかかるのはその数字だけである。数字の算出方法には目もくれず、自分達の主張に合致したものだけを選び出したとしても、それを受け取る人間にはわからない。次々に流される話を一々検証していたのでは時間が幾らあっても足らないだろうし、自分の生活と余程密着したものでなければ、どうでもいいこととなる。それでも、伝えられた見出しだけは頭に残り、それが人々との話題に上る。こんな繰り返しが数回あれば、かなり多くの人々の考えを制御することも可能だろう。そこまで深く考えられたものかどうかは別にして、今の情報の流れにはこんな危険性が潜んでいるのではないだろうか。大震災や大災害の後に流れる噂話が悪影響を及ぼしたとしても、それは局所に限られていた。情報社会とはその危険も大きく広がる可能性を提供するものであり、それに対応できる人間が育つのはずっと後のことになる。このまま行けばどうなるのか、不安ばかりが膨らむが、現実には小さな事件の積み重ねによって、学習する人々が増えることで、何とか大崩壊は免れるのではないだろうか。その意味では、何処か遠くの話題にばかり目を向けるのではなく、身近な話題を自分の目で確かめることが重要になるだろう。他人の目や判断に頼るばかりでは、そこに潜む悪意を見抜くことはできず、被害を被るだけになる。自分の目と他人のそれを比較することが、第一歩になることを考えれば、たとえ小さなことだとしても、やはり身近な出来事を重視すべきだろう。

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3月3日(土)−日本橋

 落語を面白いものと感じたのは、随分前のことである。「目黒のさんま」をある噺家が演じていて、その内容の面白さだけでなく、所作、間合い、呼吸などといったものに、不思議な感覚を持ったものだ。だからと言って、寄席に足を運んだり、テープを買い込むなどということはない。たまにテレビやラジオで聴く程度だ。
 あの話をしていたのは当時今一つと言われた人だったが、その後、名人と呼ばれるようになった。落語家たちが集まって演じられる長寿番組の初代の司会が倒れた時、彼らの中から選ばれたのも何か他とは違うものを持っていたからなのかもしれない。若い頃は、どうも話の呼吸がゆったりしすぎていて、乗りが悪いと言われたこともあったようだが、それが彼の持ち味と言われるようになるから不思議なものである。ただ、その後の落語界も協会の問題で揺れたり、上方で爆発的な笑いを誘う噺家が登場したりで、ある意味不安定な時代が続いたようだ。真打ちという格の持つ意味を問い質すなど、確かに大きな問題だったのだろうが、その一方で器が人を作ることも否定できないから、試してみることも大事と考えられなくもない。その辺りに口うるさい人が出てくるのは、時代の流れであり、世間でもそんなことで揺れる話が沢山あった。笑わせることの難しさは、本人が一番良くわかっているのであり、そうでなければ、悩む人など出てきやしない。爆発的な笑いを取っていた人とて、その実、繊細な神経の持ち主であり、悩みに悩んだ挙げ句に、水からの命を断ってしまった。名人と呼ばれた親のことで悩んだ噺家も多く、芸と呼ばれるようになることの難しさを痛感させられる。古典落語でも、決まりきったことをするだけではなく、そこには自分なりの芸が注ぎ込まれる。ちょっとした間合いのとり方や体の動きで、大きな違いを産むこともあるわけだ。折角築き上げた芸も、一つの失敗で台無しになることもあり、それで高座を去った人も多いと聞く。まして、体に障害が起きた時、以前と同様にできるかどうかは、彼らにとってはまず第一のことなのだろう。客が皆褒めちぎって帰った後で、もう二度と上がらないと宣言した噺家の気持ちは、本人でなければわからないものなのかもしれない。あの「目黒のさんま」をもう一度聴きたいと思う気持ちは、こちらにはあるのだけれども。

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3月2日(金)−延引

 全人口に占める割合が特に大きいと言われる世代の退職が始まっている。能力や役割は人それぞれのはずだが、こういう時に限って一括りの問題として取り上げられるのには、少し抵抗を感じる。確かに、技術を身に付けた人が抜けることは大きな痛手なのだろうが、そればかりを気にしていたのでは、世代交代は望めない。
 本当はそういう事情とは異なる理由があるはずなのだが、どうもそちらに話を向ける人は少なく、ただ単に人材確保を大きな問題として捉えるばかりのようだ。こういう世代の交代はこれまでにも起きていたことであり、何もこの世代に始まったことではない。にも拘らず、これほど強調されるのには、おそらく人数の割合も関係しているのだろうが、それよりもそれらの人々の生活への影響の方が大きいのではないだろうか。現実には後者の問題も前者が影響しているのだが、制度改革と称して行ってきた悪政のツケと言えるだろう。本来ならば、その問題を厳しく追及するのが批評家の役割のはずが、まるで逆の立場からの解説を繰り返すのを見ていると呆れてしまう。おそらく、問題を探り出す努力をしてこなかった人々が、誰かから与えられたものに対する解説に活路を見出してきたためであり、そんな無能な人間が活躍する場があること自体に、現代社会の歪みが現れているのだ。更に、踊り狂った時代の組織のたるみとその後の転落による体力の低下が、人材確保と育成に大きな狂いを生じたことも、問題を大きくした原因と考えられる。これは悪政のツケではないかもしれないが、組織を動かす人間たちの場当たり的な決断と行動の結果と言えそうだ。そういう人々の一部が、更に組織の中で力を維持し続けようとするのに際して、今言われているような窮状を訴えているとしたら、とんでもないことが数年後に起きることになる。数の論理が罷り通れば、その後の成り行きは偏ったものにしかならない。ここでも民主主義の悪い面が表面化するわけだが、その言葉を切り札に使ってきた世代だけに、今更変えられるわけでもないだろう。確かに、人材確保に困り果ててからでは遅すぎるのだろうが、だからと言って、簡単に延長を導入したり、一時的な措置を熟慮なく取り入れることは危険すぎる。一律を基本とした考え方を根本から見直した上で、全く違う仕組みを導入し、必要な所だけを残す努力が必要となるに違いない。でなければ、世代交代が起きることもなく、今まで通りの人材の高齢化が進むだけになるだろう。数で押し切る人々をまず切ることから始めるのが得策なのだが。

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3月1日(木)−人目

 安定した時代には目立つことをしないのが賢く生きるための手段のようだ。目立つことを喜びとし、それを誇示した挙げ句に、足をすくわれた人々の裁きの場での行動は、如何にも奇異に思える。勢いがあった時にはそれが長所のように扱われたのに、今では身勝手な行動と受け取られる。何とも情けない。
 それにしても、目立たぬように振る舞うという心理は理解し難い。始めのうちは、思いつくことがあってもそれを表明することができず、何となく気まずい思いをしていたのが、いつの間にか何も考えず、ただ時間が流れるのを待つのみとなる。そんな生活の何処が楽しいのか理解できないし、仕事の上での行動はたとえ自分の気持ちが乗っていないとしても、活動時間の半分を費やすものとなる。それをただ流れに任せ、時間が過ぎるのを待つだけでは、何とも情けないではないか。苦しみにも似た行動は、慣れるに従って何の感情も抱かなくなると言われるが、それにしてもと思う。いくら金儲けのためと言っても、そこに何かの楽しみを見出せないのでは、精神的に不安定になるのはやむを得ない。それが自分の中から産み出されたものであるにも拘らず、周囲との軋轢を第一と扱い、環境の悪化を訴えるのは、どうにも筋違いのようにしか思えない。よく考えれば、安定した時代に育った人々は、大した冒険も苦労もなく、流れに乗せてもらうだけである到達点に達することができる。それが目立たぬ行動の原点となっているのではないだろうか。皆が同じように進んで行く中で、違うことをすれば遅れを取ることになりかねない。そんな危険を冒すより、同じようにすることで安定を手に入れる方が、十分に満足できると判断するのだろう。そんな流れができてしまうと、冒険も何も変わったことをする機会を自ら放棄するのが手っ取り早いやり方となる。しかし、無難な道を歩むという意味は、何もしないということではなく、時と場合に応じて適切な選択を行うことなのではないだろうか。大前提となることに対する認識の違いが、現状の目立たぬ行動のもととなっているとしたら、それは誤りでしかない。その割に目立つ人々を羨む心理は、更に理解し難いものとなり、今の世の中の安定の中に潜む歪みの現れのように見えてくる。

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2月28日(水)−発散

 ネット社会の恩恵について、人々はどの辺りに感じているのだろうか。情報を集めるための道具として活用している人は増え続けているが、ある時期からそれとは全く違う使い方が流行し始めた。情報交換の一種だった掲示板などの書き込みは、以前に比べて減り続けている。その理由は代用品の登場ではないか。
 掲示板への書き込みは、元々情報交換の意味が大きかったのだが、その中にただ単に書き散らすだけの人が増えてきた。こうなると正常な状態は保たれず、良識的な人間はそこを去ることになる。その結果、ゴミ箱と化した掲示板やその管理サイトが急増した。その代表格であった所も、最近は冴えない存在となりつつあり、一部には閉鎖の噂さえ流れている。これは、対面を基本としていた人との付き合いが、ネット社会という仮想空間に持ち込まれたとき、その性質を大きく変えたことが大きな原因なのではないだろうか。長い間問題視されてきたにも拘らず、その勢いが衰えなかった理由は、あくまでも代わりの存在が用意されていなかったためであり、それが登場するや否や、状況は一変したように思える。管理の功罪を表に出して、放置の意義を主張し続けた人々も、一部を除いて管理することを余儀なくされつつある。電子メールでの問題よりも遥かに大きな問題がこういう所で起きているのだろう。そんな中で登場した代用品は掲示板とは異なり、意見交換を主な目的としたものではない。掲示板の参加者の多くも、現実には情報交換よりも重視したのが、意見発表の場としての存在であり、そのために必要な要素を全て備えたものが登場した途端に、そちらに鞍替えしたのではないだろうか。自分自身の発表の場を簡単な操作で開設することができる仕組みは、あっという間に広がり、含蓄のある意見も、単なる身勝手な意見も、ごた混ぜ状態で他人の目に触れることになった。この状況は掲示板のときと変わらないが、訳の分からない闖入者を相手にせずにすみ、自分だけの世界を築けることは、意見発表の場を求めていた人々にとって歓迎すべきこととなった。ただ、一部を除けば、単なる人の意見の請け売りや、差別意識の塊のようなものが多く、情報交換という意味では何も成果を上げていないと思える。個人主義の典型のような仕組みも、全体としては共有できる部分が余りにも少なく、社会を形成するには至っていないようだ。このまま進んだとしても、参加者の意識に変化が訪れる可能性は少なく、おそらく一時の流行として終焉を迎えるのではないだろうか。もし、変化があるとしても、同じ仕組みを違う理念で運営するような場合に限られそうな状況である。仮想空間の性質と言ってしまえばそれまでだが、この問題を解決するのは容易ではない。

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2月27日(火)−経営

 この国は外圧に弱いと言われる。本当はそんなことはなく、表面的な部分で応じているだけなのだが、洞察力のない人には理解できないようだ。もう一つは、その表面だけでも相手になるのが特定の国であり、全てを同等に扱っていないことも問題とされる。無条件での平等を絶対視する人たちの誤認に過ぎない。
 企業の経営においては、様々な条件が関わってくる。その中には当然国民性と見なされるものもあるが、それを無視しようとする人は多いようだ。元々企業経営の基本となるべき資本主義は欧米で培われたものである。だから、その基本は全てに通用するはずという思い込みがあるのではないだろうか。この国が高度成長を続けていた時期、様々な横槍が入り、市場開放という言葉で身勝手な理屈を押し付けられた。その後、繁栄が崩れたあとには、援助を装った人々が火事場泥棒のような振る舞いを見せたこともある。これもまた、外圧をきっかけとした改革の現れであり、風土にそぐわぬ行動に批判が集中したこともある。しかし、これらの外国資本の流入は、その多くが当初歓迎され、賞賛されたことを忘れている人が多い。特に、その当事者たちが掌を返すように、正反対の意見を主張することは大いに批判されるべきだし、そういう人々を登用することは控えるべきだろう。ところが、現実には声の大きな人たちは前言の誤りをおくびにも出さず、平然と場当たり的な意見を展開する。外国資本が参画した企業の成り行きについては、面白いほどの乱高下があり、それ自体に問題の本質が現れていることに気づくべきなのではないだろうか。それを一時的な動向を捉えることに躍起になり、賞賛したり、批判したりとなることは、まさにその人の本性が現れたものと言える。話題性を集めるために行われていることを賞賛するのは、結局自分を注目させるための行為に過ぎず、そこには大した分析力も存在しない。多くの評論家がこういう行為に明け暮れていることに、もっと多くの人々が気づき、痛烈に非難すべきではないか。組織を維持するために必要なことは、一時的な効果を上げることではなく、維持に必要となる根本的な改革を進めることである。欧米の資本主義はその本来の形がどんなものかは問題とされず、特に当座の収益を追求する体制にある。多くの経営者がそれのみを追求してきた結果、破綻を来した企業も多く、成長が止まった時にすぐさま終焉が訪れた例もある。評価の仕組みが整っているからこその手法に対して、それとは正反対の感覚を持つ国民性では、同じことは通用しないのが当たり前だ。始めからこうなることは予想できたと主張する人々のどれほどが、本当にそう述べていたのか確かめたくもなる。

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2月26日(月)−理解

 物事を知るというのはどういうことなのだろうか。知れば知るほど難しくなると嘆息を漏らす専門家は多いが、その一方で言葉の羅列を武器とする評論家がいる。どちらが関連する物事に関してより多くを知っているかは明らかなのに、そこに漂う雰囲気は全く正反対に思える。知る怖さを知らぬ者の怖さだろうか。
 言葉を媒体とする情報交換では、共通の言葉を習得していないと無視されたり、排除されることが多い。確かに、ある概念を共有するためにはそれを示す言葉を知ることは大前提となる。しかし、その一方で、同じ言葉を発しているにも関わらず、何処かにすれ違いが目立ち、意思の疎通が成り立たない場合も多い。言葉とはそっくりそのまま全ての人に同じ概念を植え付けるものではなく、それぞれに微妙に違う解釈を含むものであるが故の相違なのだろう。そうは言っても、共通の言語を操らねば、何も始まらないと思う人は多く、始めから言葉の解釈を巡っての議論を沸騰させることは無駄と見られ勝ちだ。しかし、概念の表現方法が異なるとはいえ、言葉での表現は困難でも、互いの思いを理解できる場合の方が、意思の疎通は容易なのではないかと思うこともある。互いに同じ言葉を使いながら、議論を進めた挙げ句に、全く違った感覚に基づく話題の交換であったことに気づくと、そこまでの徒労に落胆するものだ。そこに至るまでに様々な機会があったはずだが、往々にしてそんな行き違いはないだろうと決めつけ、誤解を解く努力を怠る。結果的に無駄な時間が流れただけになるが、たとえそんなことが起きたとしても、便利な言葉を使うことを止めない理由は、そうしない場合にかかる手間の大きさに躊躇うからなのだろう。これが畑の違う人々との意見交換となると、勝手が違ってくる。かえって意思の疎通が図られ、理解が深まることも多いのだが、現実には共通理念の欠如が最終段階で大きく響いてくる。同じ立場に立っていない人、同じ問題に取り組んでいない人には、互いの悩みを共有することは難しく、どんなに理解が深まったとしてもそこまでとなる場合が多い。本来はこういったことについても、理解を深めるだけでなく、互いの抱える問題の解決に協力できるまで努力すべきなのだろうが、最近の忙しさはそれを妨げる方向に向いている。もう少し、互いに余裕を持ち、違う言語、違う文化に根ざしたものを理解するために時間を費やす必要があるのかもしれない。

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